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藤田嗣治の生涯を辿って


只今絶賛だるだる夏バテ中、やる気~スイッチ僕のはどこにあるんだろ~♪状態の私であるが、なぜなのだろう、突然軽井沢に行くことになってしまった。

8月は夏休みだぜい!
noteも書かずにだらけちゃえ!

と思っていたのに、note公式から
「8月31日までに投稿すれば○○か月連続投稿だよ?書かないの?」
とせかされ、軽井沢にも行っちゃったしで、
「夏休みの宿題の自由研究、早くやりなさいよ」
と言われた気分になってしぶしぶ書いている。だるいぞ。


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私が働く商業施設は、年に数回、全館休みの日がある。
全員が一斉に休める貴重な一日のイベントは

「みんなで軽井沢に行きましょう!

           美術館に行って勉強よ🧡」


というアントワネット様の鶴の一声で

『軽井沢美術館巡り日帰りプチ旅行🧡』


に決定。


参加者は我が部署の

 木村さん(アントワネット様)
 青山さん(ムードメーカー・アンガールズ田中似)
 花子さん(我が部署のエース&花)
 ハヤト (二年目・ドジ男子)
 え   (ゴリラ好き)

さらにいつもお世話になっている取引先のOさん(陽気なゴリラ系おじさん)がゲスト参加。
ご両親と先乗りするハヤト以外の4名は元々新幹線で行く予定だったのだが、Oさんの運転する車に同乗させていただけることになった。

待ち合わせ場所はOさんの地元・埼玉県某駅。都内在住の4人は、
「新幹線なら某駅に行ってる間に軽井沢に着いちゃうんぢゃ……」
などとは口が裂けても言えず、10:00に笑顔で全員集合。
ゴールド免許Oさんの軽快なドライビングで、一路軽井沢へ向かう。


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車は高速を疾走。

アントワネット様のマシンガントークをBGMに、途中群馬県のどこかのサービスエリア(櫓があった)で休憩をはさんで楽しいドライブである。

やがて周りの景色がしだいに切り立った山になってくる。
途中、雨女え の影響であやしげな雲が出てきたりして天候が心配されたが、アントワネット様が晴れ女だったのでセーフ。

青山さんが用意してくれたコンビニ菓子をいただきつつ、花子さんと私は体力温存のためウトウト。アントワネット様はしゃべり続けている。
山道に入っても安定した走りをみせるゴールド免許Oさんのテクニックが素晴らしい。

12:00過ぎ、つつがなく軽井沢到着。
私、初軽井沢なのだが、明らかに東京とは空気が違うのである。
涼し気な緑の木立あふれる上品な高原リゾートの街。
思い描いていたとおりのザ・軽井沢でちょっとうれしい。


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さて、ここから向かったのがこちら。



軽井沢安東美術館は2022年10月にオープン。
実業家の安東泰志・恵夫妻がコレクションした藤田嗣治作品約200点を収蔵する、日本ではじめての藤田嗣治だけの美術館である。

駐車場から美術館に向かうと、Tシャツ短パン姿、夏休みの地元の高校生みたいな風貌で待っているハヤト発見。
全員揃ったところで美術館をバックに記念撮影して、いよいよ入館である。


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渡仏を夢見て


まずは入ってすぐの休憩スペース、サロン ル  ダミエにてフリードリンクをいただきながら、 藤田嗣治の生涯や美術館を解説した動画を視聴。

ガラス越しに見える赤煉瓦の建物と中庭。
通路の市松模様がおしゃれ。


藤田嗣治つぐはる(レオナール・フジタ )は1886(明治19)年、現在の東京都新宿新小川町に陸軍軍医の次男として生まれる。
父の嗣章つぐあきらは嗣治を医者にと望んでいたが、画家になりたかった嗣治は父の上司であった森鴎外の勧めで、東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学する。

1909年に描かれた『父の像』という藤田作品がある。
そこには藤田によく似た、勲章をたくさんつけた軍服姿の男性が描かれているのだが、藤田の父に対する敬愛の念を強く感じる絵のように思う。
父に画家への道を許された藤田は、晴れて東京美術学校に入学し、パリへの留学を夢見て「西洋画家」を目指していく。


パリでの成功

当時主流であった印象派や光にあふれた写実主義にあきたらず、藤田は1913(大正2)年、26歳の時にフランスに渡る。
パリのモンパルナスに住んだフジタは、ピカソやヴァン・ドンゲン、モディリアーニらエコール・ド・パリの画家たちと交流し、独自のスタイルを追求していく。


いつの時代も権力者のお気に召さないものは認められない、というのがお約束だが、絵画の世界も多分にそれがあるようだ。
フランス留学経験のある学科主任・黒田清輝らのグループに藤田の作風は不評で、展覧会などでは落選することが多かった。

それならパリで成功してやろうじゃないか。

渡仏して、パリでキュビズムやシュールレアリズムといった新しい絵画に触れた若き藤田の作品をみると、そんな心意気が伝わってくるようだ。

藤田の画家としての生涯には多くの女性がかかわっている。
最初の妻・鴇田登美子とは大恋愛の末結婚したが、1916(大正5)年、別居のまま離婚。
翌1917(大正6)年にフランス人モデルで画家のフェルナンド・バレエと2回目の結婚をした藤田は、フェルナンドというパートナーを得て、フランス人社会や美術界に人脈を広げていくこととなる。



細い輪郭線と藤田の絵の代名詞ともいえる「素晴らしき乳白色の下地」
繊細な陰影を施した裸婦像は絶賛され、1919(大正8)年にはサロン・ドートンヌ(パリの展覧会)に出品した6点の油絵がすべて入選。
藤田の作品はパリで大人気となる。




1929(昭和4)年の初秋、藤田は3人目の妻ユキ(リュシー・バドゥー)を伴い、16年ぶりに日本に帰国。家族と再会し、展覧会、講演、出版と、画家として充実した時を過ごす。



パリで成功するという夢を実現し、意気揚々と凱旋帰国を果たした藤田。

このとき42歳。
画家として最高の時を迎えていた藤田は、どんな気持ちで日本における日々を過ごしたのだろうか。



太平洋戦争

1930(昭和5)年にパリに戻った藤田だったが、ニューヨークに端を発した経済恐慌がパリの美術界にも広がっていた。
そんな中、ユキと別れた藤田は、新しい妻マドレーヌ・ルクーと中南米を訪れ、個展を開催する。
1933(昭和8)年に日本に戻り定住。
長い異国暮らしで心を病んでしまったマドレーヌは、1936(昭和11)年に急逝。その後、藤田は堀内君代と暮らし始める。



一時パリへ戻った藤田であったが、第二次世界大戦が勃発すると日本に帰国して陸軍美術協会理事長に就任。「哈爾哈河畔之戦闘」「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」などの戦争画の制作を手掛けた。


藤田が戦争中に描いた絵をみると、これが藤田の絵だろうかと思うほど、それまでの画風と違うのに驚く。

藤田の自画像といえば、前髪ぱっつん、猫や少女といっしょに描かれたおしゃれな絵を思い浮かべるが、1943(昭和18)年の自画像は額を出し、とっくりセーターを着て顔に影がかかったような陰鬱な印象を受ける油彩画である。
「アッツ島玉砕」などの戦争画をみても、私は言われなければこれが藤田の絵だとは思わないだろう。
それにしても、長年パリに住み世界中を見て回った藤田が、軍の宣伝ともいえる戦争画に邁進したのは意外な感じを受けてしまう。父が陸軍軍医総監であった環境もあるのだろうか、祖国のために、という気持ちは大きかったようだ。

使命感をもって戦争画の制作を手掛けた藤田であったが、終戦直後から大きな非難が集まることとなる。

一日にして変わってしまう世の中の価値観。
藤田の日本画壇への失望は大きかった。
この時代に翻弄された芸術家や文化人はきっと多かったのではないか。

藤田は1949(昭和29)年に日本を離れ、アメリカ滞在を経て翌年パリに定住。
日本に戻ることは二度となかった。
「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」
そう語っていたという。



フランス帰化と洗礼

軽井沢安藤美術館は「自宅のような美術館」のコンセプト通り、展示室は座り心地最高なソファーやシャンデリアが置かれたハイソかつアットホームな空間。
創設者の安東夫妻の別荘にお邪魔してコレクションを拝見しているような、そんな雰囲気漂う美術館なのである。





ニューヨークで君代と再会した藤田は、翌年パリに帰還。
その後もいくつもの作品を残している。
1955(昭和30)年にフランス国籍を取得。その後日本国籍を抹消。
1959(昭和34)年、72歳の時に北フランス・ランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受け、レオナールという洗礼名を与えられる。
最晩年には、ランスに礼拝堂「シャぺル・ノートル=ダム・ドゥ・ラ・ペ(通称シャペル・フジタ)」を建設し、完成から2年後にスイス・チューリッヒにて没した。遺体はシャペル・フジタに埋葬された。



藤田の5番目にして最後の妻である君代は、藤田の死後の著作権を管理し、またパリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館することに尽力した。
晩年の藤田は、自分の死後も君代が生活に困らないようにと、売却のしやすい小さな絵をたくさん制作していた。それらの絵は現在「君代コレクション」と呼ばれ、愛好家に親しまれている。
君代の遺言で、藤田作品の著作権はフランス孤児協会に寄付された。

日本国籍を捨て、二度と日本には戻らなかった藤田。
彼の心には日本や日本画壇に対する複雑な愛憎があったように思う。

藤田は晩年の手紙の中で、戦争画を描いたことについてこう記している。

日本人として祖国を思う日本人がした丈のことです。
した事に後悔もしてません。


現在、自身が日本において最も人気のある画家となっていることを、天の藤田嗣治はどう思っているのだろうか。




ああ軽井沢。素敵な美術館でした。


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藤田嗣治の生涯を辿った後は、みんなで軽井沢のおいしいピザをいただいて帰路へ。

(軽井沢千住博美術館にも行ったけど、文字数が長くなったので割愛。
ウォーターフォールでマイナスイオンを浴びてきたことだけご報告したい)

ご両親と合流するハヤトと軽井沢駅で別れ、再びOさんの車で埼玉県某駅へと向かう。
アントワネット様のマシンガントークをBGMに、途中群馬県のどこかのサービスエリア(ミニ観覧車があった)で休憩をはさんで楽しいドライブ……(以下、行きと同文)

20:00すぎ、つつがなく埼玉県某駅に到着。
都内在住の4人は、
「池袋まで行ってくれたらうれしかったんだけどなぁ……」
などとは口が裂けても言えず、笑顔でOさんとお別れ。

Oさん、本当にお世話になりました!
楽しく有意義な軽井沢日帰りプチ旅行でした!




その後……
都内へ向かう電車の中でもアントワネット様はしゃべりっぱなしであった。

元気だよなぁ……





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