【創作/小説】Be come,(ビィ カム)
でもあたしは決然と産むつもりだった。
それは、絶対に。
1.
冬の鬱陶しい寒さが薄れたと思ったら、すっかり、春と呼べる季節になっていた。
寝ぼけ眼で窓を開けると、風に吹かれて散ったらしい、しろい花片が、窓の枠に引っかかっていたのを見つけた。
それをつまんでしばらく眺め、そうか、桜ね、と確認する。
そういえば、職場の近くの河川敷も、白い花が重たげに樹上にさがっていた。ということは、やっぱり春だ。春なのだろう。
もっとも私自身は、いつからか、季節の巡りをその度に確認する作業に、ちっとも意味を持てなくなって、ずいぶん月日が経っている。
葉っぱよりも薄い花びらは今にも風に吹かれていきそうなほどにぺらぺらで、くしゃくしゃにすることがあまりに容易そうにはかなかった。
こんなうすっぺらいものが五枚も集まってたくさん咲けば、人の群がる季節の風物詩にもなるのだ。なんだか、ちょっと癪な気がして、ふん、と意味もなく鼻をならす。
だいたいが、私は儚いものが嫌いだった。
こわれそうなものなんて、もうまっぴらだ。
ちぎることすらためらうほどの薄さを掌中に収めているのが空恐ろしく、ぽいと再び外に放った。
ひらひらと、頼りなく曖昧に、桜の花びらは落ちていく。はかないものだ。どうしたってやっぱり。
窓は開けたままにして、昔よりいくぶんもうすくなった髪に手櫛を入れながら流しで水を飲む。いくつになっても私は、世に言うだらしない女のままだ。
あの子はとうに起きたらしく、自分の分だけ朝食を作って、そして食べて、後片付けまでしていったものとみえた。
猫の額のような手狭な流しに、陶器の小さな花瓶があって、ぼんやりとまたそれを眺める。そう、この花瓶だけがこの部屋にふさわしくないちょっと健全な感じで、異彩を放っている。
娘はあれから毎日、花を買ってきた。
花には詳しくなかったから、それなんていう花、って聞いたら、娘は知らないとそっぽを向いて、しかし手つきだけはやたら繊細に、花瓶に花を生けた。
花なんて、一日やそこらでだめになるものでもない。だからうちには毎日、新しい花瓶と花が増えている計算になる。
『だってうちには庭がないんだもんしょうがないじゃない』
本当に久々に帰ってきたとき、ただいますらろくにいわなかったあの子は、ぶっきらぼうにそう吐き捨てて、文句があるのか、というような挑戦的な目をした。
ああいうところが、私に似ていてちっともかわいくない。
しかしあの軽蔑しきった冷めた目が、ときどき震えるほどのデジャブを感じさせて、私を戦慄させたものだった。
もしかしたら、と考えた。私が四季の巡りに興味をもてなくなったのは、ずっとずっと昔からだったかもしれない。あの子が生まれるより、前からだったのではないか。
とすれば、あの子はこんな健全さを、一体どこで身につけたというのだろう。
だって生真面目に唇をきゅっと引き結んで固い顔をしているときの娘は、怖いほどあのひとに似ていたのだ。
惰性で飲み込んだ、蛇口の水は不味い。
しかしそうでない時もあった。あの子が私の手元にいた間は、きちんと浄水器を買ってた頃が、確かにあった。
あの子は「自慢のつもりなの」って私を責めるだろう。
そんなつもりはない。私はこれでも、男親の代わりだって努めてきたつもりだ。
だから、あの人のこだわりの一つくらいは、ちゃんとかなえてあげたかったというだけ。
短大を卒業して以来、はじめて帰ってきた娘は、アルバイトでいいとかなんとかいって、職探しのようなものをしているらしかった。
大きな企業の一般職、いわゆるOLとして就職して、もう六年の月日が流れたはずだったのに、そこは辞めてしまったのだろう。
(まあ、そりゃあ、そうよね)
娘は何も語らなかったし、私は駄目な母親であったから、問う言葉を持たなかったが、それでも、変化に気づかないわけではない。
歴史は繰り返されるだなんて思いたくないし、あの子はきっと失礼だといって怒るのだ。
———お母さんはなんにもわかってない。
よく噛み付かれた言葉に、私は黙りこくったまま、内心うなずいてみせる。
そう、結局私は、何にもわかっていない。
何一つだって、確かなものを得られたことなんかなかったのだから。
開け放した窓をぼんやりみあげながらライターをつけて煙草をふかす。
煙の方向に、隣の家の上に水色をした青空が見えた。季節は確かに春なのだった。
ということは、予定日はきっと、冬なのだろう。
———かわいそうな子。何もそんな季節に、こんな寂しい世の中に、出てくることもないのにね。
すうっと肺腑の奥まで煙を吸い込み、吐き出す。
娘は短大のときにそうしていたように、煙草をふかす私をみると、今でも目を眇めて軽蔑を表する。
しかし今では、あの頃のように喧嘩に発展することはなかった。
あの子は何も言わない。
言わないことに決めているのだろう。
私には似なかった小さな口元が、煙草をふかす私をみて、きゅっと引き結ばれるたびに、そう思う。
私は身勝手で駄目な母親ではあったが、今ではその象徴としてということではなく、「あんたのことには何も気付いていない」というスタンスを貫くためだけに手放せなくなっているのだから不思議だ。
何も親子そろって、道ならぬ恋なんてしなくてもよいものを。
「因果だねえ、奈緒子」
しかし私は今日もおそらくあの子を前にこの言葉を言わないだろうし、いつ煙草をやめたらいいのかも、今のところわからない。
深くついたため息は地面を這うぐらい重いのに、煙はすんなりと青空に消えていく。
テーブルの上の灰皿を指で寄せて消してから、墓参り日和、とつぶやいた。
だから私は今日、墓参りにいくことに決めた。
今、このとき。
2.
うちは普通の家より貧しかったから、あたしはそういうものの全部がほんとうに好きじゃなかった。
だから中学のときだって、自分の夢を語るちょっと頭のできのいいクラスメイト(女子)が、一生ばりばりキャリアウーマンとして働いていたいなんて発表を聞いたときには、本気かこの女、と目を剥いたし、それをさもすばらしいことのように表する女教師の言うことには耳を疑ったものだ。
女が一生仕事をしていっぱしに生きていくためには捨てなきゃいけないものの方が多い。
あんたは誰に守られてそれを成し遂げるつもりなのだ。
もしくは、守られることが前提になることを理解できていないのか。
あたしは違った。仕事人間になりたいとか、そんなのまっぴらだったし、ちゃんとお嫁にもらってくれる人探すつもりだったし、庭付きの一戸建てこそが人生の必須事項で、こどもは一人で(だって教育費とかかるじゃない、それに、痛いのはもちろん、子供なんてそんなにすきじゃないし)、老後は安泰で———とにかく、ほんとうにとにかく、それが欲しかった。
だってあたしの家には守ってくれる父や祖父母なんてものは存在しなかった。
あたしの家とよべるのはいつだって母のいるあの狭苦しい安アパートで、あたしのルーツにあるのはいつだって母だけだった。
だらしなくて、気まぐれで猫みたいで、器量は多少よかったものの美容師とは思えないほど自分を飾ることに頓着しない、しかしどんな男たちでもできっこないことをひとりきりで成し遂げ続けている、母だけなのだった。
だからあたしは。
母のようにはなるまいと思っていた。
あたしは守られたい、あたしは愛されたい、あたしはきちんとしたレールの上で凡庸でも大事にされる人生をいきたい、あたしはまっとうに生きたい、———あたしは。
しかし、あたしはいつかの母とおそらく同じように、たったひとりで産婦人科に通い詰める羽目になっている。
———母子手帳に父親の名前がない、というのは、今どきそんな珍しいことじゃないから。
前に住んでいた町から駅で三ついったところにある産婦人科の医者はそう言った。初老の、一見物腰柔らかい男だった。全体的に清潔なかんじがして、知性も高そうで、人気の先生だと友達が言っていたのもうなずけた。きっとこの男も、ひとの親なのだろう。それもとてもまっとうな。
あたしはその一言をきいて、「紹介状を書いていただきたいです。母の近くで産む予定なので」ときっぱり要望した。
やわらかい声だったけど、裏側にある含みは隠しきれなかった。そして、それを隠しているところが、すごくあたしのカンにさわった。
だって、赤の他人に非難されるようなことを、あたしがしている?
あたしはそうして生まれたこどものひとりで、他人からみればあたしはきっとかわいそうな子供で、そしてだらしない母をひとは責めた。あたしも勿論、母を責めた。
だから自分もそうなるのだ、母のように、ということは、昔を思い出すほどに、簡単に思い描けることだった。楽観視なんてしていない。なんとかなるだろうなんて、思っていない。
でもあたしは決然と産むつもりだった。それは、絶対に。
++++
最悪といって差し支えない家庭環境だったせいにするつもりはないけど、今日もわたしは客を待ち、指定のオンボロアパートで、知らない男に母の言うところの“ご奉仕”とやらをしてさしあげたところだった。
雨が降りそうな重い曇天で、ラジオの天気予報も雨だ雨だと煩かったから、傘を引きずるようにしていったのに、結局帰りも降らなかった。今にも降りそうだったけど。
さっきいったオンボロにくらべれば比較的まだましな我が家に帰ると、先客がいた。
ましといってもちいさなアパート住まいなのには変わりがなく、玄関をあがると流しのスペースのすぐ向こうがメインの生活スペースだったから、自分の家のように寛いだ格好でテレビの前に座っている人間がいることはすぐに知れた。
唇を噛むようにしてさっと自分の全身を見下ろし、チェックする。着衣の乱れはない。きっと、ばれない。
心なしか痩せた従兄弟は、振り返ることもなかった。
その背中が何を伝えたいのか、わたしにはわからない。いつでも。
「おかえり」
「……ただいま」
引きずってきた安物の傘を乱暴に立てかけ、靴をばらばらと脱ぐと、見てもいないのに声がかけられた。
「揃えろ」
「いや」
顔を見たくないときに限って、くるのだ。母さんから何をきいたわけでもないだろうに。
そっちの方を向くのも嫌で、流しでこそげ落とすように手を洗う。安い石けんでは泡が立ちにくい。
すごく汚いものを触っていたのに、こんな石けんで何が洗えるというのだろう。必死になって、馬鹿みたいだ、と思うのに、もはや涙はでてこないのだった。
わたしは男の喘ぎ声が嫌いだ。しかも、おじさんのそれ。
おそろしい粘度があって、夢の中にまでよみがえってきそうなくらいだからだ。鈍くても鋭くても、不快なものは不快だった。耳の中まで洗う石けんあれば、きっとわたしは血が出るくらい力を入れてそこを綺麗にするに違いなかった。それでも、そんな魔法がない以上、責任はいつだって自分がとらなければいけない。
医大生はこちらを見ていない。背中ばかりで助かった。
「お風呂はいるから」
猫の額のような狭い脱衣所に入り、服をどんどん脱ぎながら短く断ったが、返答はない。返事をしないのもまた珍しいので、脱衣所から少し顔を出して居間をのぞくと、従兄弟はテレビをつけっぱなしにして、ぺらり、ぺらり、と新聞をめくっている。ひょいとのぞくと、そんな静かな様子が見えた。怒っているような様子ではなかった。
その、日常の続きみたいな動作がことさら毒をあおるようにしんどいものだから、たまらず目を伏せて逃げ込むように風呂場にはいる。黴臭くて狭くて冷たくて、雨漏りがするひどい風呂場なのだった。
ぴしゃっと音を立てて扉を閉める。
にいさんは多分、もうわかっているのじゃないか、という予感を、打ち消すのに必死だった。
最後にあったのが半年前くらい、もともと、訪ねてくる理由もないのだ———しかも、仲の悪い姉妹の、娘と息子と言う間柄上、交流のあることの方が不思議なくらいだったのだから。
そして、異常なのはうちばっかり。わたしばっかりなのだ。
壊れかけたようにぐらぐらと危ういシャワーの管からお湯をひねりだして、小さな湯舟で体育座りをして丸くなる。
きめ細やかな肌だといつかのつまらない男は言ったが、どうせそのうち、母のようにしわしわに黄色く変色していくだけのものなのに、ただ、いまこのときに若いというだけで、わたしのこれは、お金になるほどの価値を持つのだ。
最後の一線をこえない、という条件が、男たちや母にとってはどうやらいくらかの免罪符になっているらしかった。もしかすると法律を破っていないことに安心感があるのかもしれない。未成年の売春は犯罪だったから。
けれども———少なくとも、ぼろぼろになる点でそれは、越えようが越えまいがわたしにとっては同じことだ。いつもうずくまって身をひそめて、とにかくすべてをこの狭い湯船でやりすごす、という点で。
ひとつだけその約束でよかったことは、にいさんがはじめての時、わたしのことを単に綺麗だと信じて抱いたのだろうという、ただそのひとつのことだけだった。
母親の代わりを、わたしはしている。わたしを生かすためにそうしたのだからと母は言うけれども、だったら、だとしたら、なんで産んだのだ、なんて言葉を、決してわたしはぶつけられないのだ。
胎児のように丸くなれば何もなかったようにやりすごせる気がしてそうする。
(こんなにお湯をつかったら、母さん、怒るだろうな)
———でもこの水道代やガス代を払うために、わたしはこの仕事をしているのでしょう?
(母さん、わたしだってこんなうちの子供に最初からなりたかったわけじゃ、ないんだもの)
暖かい飛沫はどんどん身体を濡らして、雨のように滑り落ちていったが、わたしを何者からも守るほど綺麗には、もはや流れさってはくれないのだった。
新しい下着を出してバスタオルを巻いたまま、服に着替えずに居間にあがったのは、テレビの音も消えていたし、夕暮れの気配がしているのにあかりもついていなかったから、てっきりもういないと思っていたためだ。
しかし予想に反して、暗い目をした医大生は壁に背を付けたままの状態で、すうっと此方をみていた。軽蔑しているような沈黙。ぎゅっと引き絞った唇が吐く言葉はなんだろう。なんにしたって、きっと苦しいのだ。ちょうど今のように。
引き返すことはせず、バスタオルを巻いたまま、放り出されていた煙草に火をつける。
「まだいたの? 何か用、にいさん」
煙を肺腑に吸い込む寸前で、従兄弟の手がすっとそれを奪った。
たたくように灰皿に落とされてそちらを見ると、軽蔑だなんてとんでもない———こどものときよくそうしていたように、感情を抑えようと努めている、にいさんの顔は今にも崩れて綻び、泣きそうだった。
そのことに、自分が驚くほど、動揺してしまった。
「なあ、おまえさ、」
目を瞬く隙に、煙草の箱においていたわたしの手、その手首をがっしりしたにいさんの手が掴む。
「もうこんなのやめるって約束しろ」
何をとも何がとも言わずに、小さなテーブルでわたしを掴む握力は強かった。肌の色が変わるくらい。そして惨めな気持ちに、なってしまうくらい。
くだらないオヤジに抱かれたわたしを軽蔑しきった目で見下ろしているかと、思ったのに。
にいさんの立つ場所はあまりに健全だ。そして、最も近しいはずのにいさんからそうされることは、わたしにとって、とても耐えられないことだった。
(母さんがやれというのに、わたしに何て言えっていうの)
(暮らしていけないなんて言われたら、わたしはどうしたらいいの)
(産まなきゃよかったじゃない、なんて、そんなこと言ったって、今更)
にいさんはそのまま腕をひいた。
肩口のシャツの布地が清潔でやわらかく、いいにおいがする。
もう何も言わなかった。言うことなんて何もなかった。
すれ違う従兄弟なんてたくさんいただろうけど、わたしたちはどちらも、自分が孤独であることをそれぞれの立場からよくよく知っていて、だから、人と人がつながるのはどういうことなのか、一番近い相手で実験してきただけだ。
それは愛とかそういうものとはちがうのだと知っている。
にいさんの手はいつも熱くもなくて冷たくもなくてわたしの温度にぴたりとしている。ような気がする。
そう思いたいだけかもしれない。わかり合えたと思ってもすぐに離れていくし、実はどこにいっても、誰とも、わからないことだらけで悲しい。他人はもちろん、肉親でも。
そんなことばっかりで———そんなことばっかりだから、にいさんとはそうではないと思いたかったのだ。
でも結局、にいさんの心中などわたしにははかることさえできない。
一方的に慕った結果だったのか、にいさんにとってもそうだったのか、それだってわからない。ただ、手を重ねられていても、にいさんの身体の重さを感じていても、さみしいことには違いなかった。
どこにもいけないことなんてわかっていたし、この人は医大生で、母さんの話では権力ある誰それに気に入られ、ぜひ娘と婚約を、と薦められた相手がいて、相手のお嬢さんは偉い医者の娘で、才女なのだそうだ。
そう、きっとにいさんはそのひとと結婚をする。
『おれたちは、この狭い場所を出て、外の世界に出ていく必要がある』
理屈の好きなにいさんは、最後にあったときこういった。
だからもうこないかと思った。にいさんの世界の中で、わたしこそが、その狭い場所の象徴のようなものだと知っていたから。
世界の人口は50万人以上いるという。孤独を埋めてくれるだれかはきっといる、そう夢をもつことも、悪いことではない、とわたしはそのとき、確かに思った。
———だけどにいさん。わたしは、例えずっとずっとさみしいのだとしても、にいさんだから意味があると思っているのよ。
重ねられた手は大きい。
滑るように涙が畳に落ちて、にいさんはそれを指ですくうようにする。
あたりはすっかり暗くて、畳は固かった。世界は終わることはなく、わたしたちの孤独は続く。にいさんは残酷だ、と呟くと、わかってる、と言われた。
わかってる? 何を?
おかしくてのど奥を使うようにして笑うと、ちょっと変な顔をにいさんはする。
理屈の好きなにいさんには、わたしの考えていることなどきっとわからないだろう。でも、たぶんそれでいいのだ。
寂しいときにそばにいてくれたから、わたしはとにかくやってこれた。なんとか、壊れずに。それはとても、意味のあることなんじゃないかと思ったから。
少なくとも、わたしにとっては。
3.
実家の近くの産婦人科の女医は、紹介状をみると「ああ」という顔をしてみせ、何度か聞いたことのある説明をゆっくりと再度あたしにした。妊娠三ヶ月目の諸注意というやつ。運動は適度にとって、だとか、栄養はバランスよく、とか。その他に、つわりの調子などを聞かれ、現状まだ食欲はあるし、逆に旺盛な方で、食べ物を見て吐き気を感じたことはない旨を話す。
「順調と言って差し支えないですね」
さばけた様子でコメントをした今後あたしの主治医となるこの女医は、バリバリのキャリアを積んだという風でもなく、化粧もあるかなしかのっているぐらいのナチュラルな皺をたたえ、どこにでもいそうな普通のおばさんだった。
傑物感はなかったので、少し物足りなかったような、父親のいない子を産む産婆役としてはちょうどいいような、そんな風だった。
「でもまあ、とにかく、おめでたいわ」
さらっと最後にそう言って、いくつかの注意事項を短く伝えると、微笑みもせずにしっかりとした調子で「また来なさい」と言う。
あたしがついてるんだからしっかり産め、とでも言いそうな風。いつだって強いのは女だ。あたしは「またきます」とそこだけは力強く答えた。とにかく、この女医は味方に付けておかなければならない。この子を産むにはどうしたって必要だもの。
ふくれていないおなかを春物のワンピースの上から撫でる。
呼応する声は今のところ、ない。テレパシーとか、つかえるようにならないのですか、と、聞こうと思ったものの、まあ今度でいいやとあっさり産婦人科を辞する。受付の柔らかい雰囲気のおねえさんに、「次回もお待ちしています」と微笑まれた。
病院を出ると、眠たくなるような陽気に包まれた。町を行くひとの装いも、春らしい色に満ちている。平日の昼間にも、ひとは多い。おばさんやおじさん、若い男、若い女、子供連れ。
———さて、どこへいこうかな。
実はこの町のことはほとんど何も知らないに等しいので、家からこの町の行き方ぐらいしか、そらで覚えているものはない。あとはスマホやバスの路線図に頼るばかりというのだから、単なる旅行者とおんなじなのだ。
ここは、あたしの生まれた町ではない。あたしは母とともに、もっと北の、海沿いの町で暮らしていた。就職を機にあたしが外に出て、実家にはもう戻らないだろう、くらいに思っていると、母から不意にそっけない転居届が届いて、この町の存在を知った。何かゆかりがあったようには思えなかったのだが、母の転居には揺るぎないものが感じられた。もしかしたら、昔住んでいたところなのかも。あたしは母のルーツを驚く程よく知らない。手先が器用な美容師で、多少器量もよいのだが、あまり自分を飾ることに頓着しない、ということとか、牛乳が嫌いとか、そういうことしか。
坂の多い町だ。妊娠後期の妊婦には、ちょっと移動がきつそうだな、というのが、現在までの感想。
もっともあたしのような妊娠前期の妊婦には、まだ、何も不便なことはなかった。
少し見晴らしのいいところに行ってみたくて、展望台のあるお城に向かう、市営のバスに乗った。
窓際の後ろの席に腰掛けて、閉められていたカーテンをすうとあけてひかりを吸い込むように目を閉じる。
微睡みにふさわしい、あたたかいお昼だ。
(今日の花は何にしようか、ベイビー)
まだまだちいさな我が子にむかって呼びかける。名前は決めていないから、とりあえずはベイビー。
母の住むあまりにもそっけないマンションになんとか色彩を呼び込みたくて、毎日花を買って久しいが、そろそろ定番のお花は飽きてきた。
そうだ、そろそろ、チョコレートコスモスが見たい。
職場の近くの花屋には、春になるとチョコレートコスモスを入荷して綺麗にラッピングし、10本500円で売り出していた。
———森野は本当に、花が好きだな。それ、なんて花。
———教えてあげません。興味ないって顔してますよ。
———興味がなかったら聞かねえよ。べったり花屋の窓に張り付いといて、よく言う。
退職するとき、それを知っていたあのひとが、密かに花束の中にチョコレートコスモスを混ぜてくれたと言うことをあたしは知っている。
いくつかの痛みがまだ、しこりのように残っていたが、きっとそれすらも、いつかは遠のくのだ。あの頃すべてだった感情が、鋭さをどんどんなくしていくように。
バスががたがたと振動をさせながら止まる。既にいくつかバス停を過ぎて、幾度めかにまた、ゆるやかにひとの流れがあった。
そのとき、不意に、隣にひとがいたことに気がついた。
いつの間に座っていたのだろう。
清潔感のあるぱりっとしたシャツに灰色のジャケットを羽織った、少し大きな黒ぶちの眼鏡をしている男性だった。もちろん、まだ年若い。年齢がいっているとしても、精々があたしと同程度、というところだろう。散髪にいって間もないらしい、後頭部のそり跡がさわやかさを感じさせる。
ふつう、若い女のとなりに、同い年くらいの男の人が座るものだろうか。
しかも、まだバスの中には空席が目立つ。わざわざあたしの隣を狙って座ったのだとすると———絡んでくるつもりだろうか。もめ事はさけたかった。とにかく、あたしは静かに暮らしたかったので。
けれどもそっと盗み見た隣の男性からは、下卑た視線はおろか、どんな気配も感じられなかった。
なんだか、そう、とても……いても気づかないようなさりげなさ、この、空気のような感じ。もちろん、決して悪い意味ではなかったのだけど。
バスが発進する。がたがたと揺れたとき、隣の男性の膝に、あたしの持つバッグが触れた。マタニティマークのピンク色がふわりと揺れる。母子手帳と一緒にもらったものだった。『おなかに赤ちゃんがいます』。家ではつけていないけれど、外出してから鞄から取り出してつけるようにしている。もちろん、危険をさけるため、なんとしてでもこの子を無事に世の中にだしてあげるためだった。
あたったことを謝ろうとしたとき、ふっと、眼鏡奥の黒い目と、ばちりと目が合った。
はたりと、彼はひかりに誘われるようにゆっくりと瞬いた。
「花が好き?」
「え?」
「花が、好きなのか?」
はな、とおうむ返しに呟く。
なんだろう、あたし、独り言でも漏らしていたのか?
確かにさっき、花のことについて考えたけど、今このあたしの外見には、花を好きだと主張するものは何もないはずだった。
硬直していると、答えてすらいないのに、納得したように男性は一つうなずく。
「悠美には似なかったな」
歓迎すべきことだ、と含みをもたせるように目を細めて笑っている。
ゆうみ。
その響き。あたしの名ではない。
なぜ、と口の中で問うと、彼はこともなげにゆっくりといった。
「悠美のいいかげんさを受け継いでしまうと、例えれば、人生は三原色なんだ。すごく大雑把。せっかくひととして産まれたんだから、多彩に生きるべきだろう。美しいものとか、おいしいものとか。贅沢じゃなくてもいいんだ、喜びを感じる気持ちのこと」
そう思わないか、というように見てくるので、あたしはうなずく。
うなずくが、それは同意を示した訳ではなく、彼の言うことがよくわからなかったからで、そして、何が起こっているのかわからなかったからだった。
バスは再び、信号かなにかで停車して、大きくぶるぶると身体を震わせている。男性は、ちっとも揺れずにこちらをただ見ている。瞳が黒い、と思った。そんなのは当たり前だ。でも、なんだか、印象が———ぼんやりしてしまう。
「母を」
知っているんですか、と言う前に、一度こくりと喉を鳴らす。
彼はひどく自然な仕草で、あたしの鞄のマタニティマークに触れた。握手をするように指でゆらす。まるであやしているようだ、と思った。
———そういえばあの人が、自分の子供ではない、他人の子供をあやすのを、みたことがある。
口が悪くて横柄なのに、子供に触れる指先がひどくやさしく、あたしはあのとき、本気で
いいなあ、と思った。
そのときのことを思い出した。なんだかすごく、近いものがあったのだ。
「子供がいるんだって?」
マタニティマークに触れた指は、一瞬中空で止まり、それからおずおずとあたしの腹部に触れてくる。
まだ真っ平らで、生き物のいる気配のないあたしの身体。
でもその躊躇う指先は、やっぱりあやすようなやわらかさをしている。指が長いせいかもしれない。あのひとに感じた感想と同じ言葉を漏らし、春のひかりの中だというのに、急にぐうっと心臓を掴まれたように苦しくなった。
終わった物事を思い出すのは、いつだってそうだ。
「おれは医者だよ。産婦人科医ではないけど」
それは、はたして言い訳になるんだろうか。
あたしがくすっと笑うと、男性は微笑んだ。
「産むのか?」
頷く。
あたためるように、彼の掌はあたしのお腹の上にある。なんだか変な感じだ。
あたしが聞きたいことはひとつだ。「母とは、どういう関係ですか?」
なのに声が出ない。魔法のように、誰何が禁じられている。バスはゆるやかにあたしたちを運んでいる。くっと角度が変わって、ひかりがざっと眩しく入ってきた。男性の顔が、急に朧になった。
「奈緒子」
そう。それはあたしの名だ。
「実は、きみがこれくらいの頃に、おれは会ったことがある」
「……あたしのこどもと同じぐらいのサイズだったときってことですか」
「多分。……それとももっと大きかったのかな。医者だけどわからない」
それって、会ったっていうのか?
疑いのまなざしを向けたが、やっぱり顔がよく見えない。
「どうして、今?」
「何故だろう。……それでも、悠美にはきっと、見えなかっただろうと思うよ。奈緒子だからなんだろう。たぶん」
「あたしがもっと小さい頃に、会いたかった」
それは本当だった。
こんな島国のはしっこではなく、もっと北の、もっと寒いところで、あたしが暮らしていたあのときに。母と二人だけで生きた、あの寂しい日々の中に。
せめて、存在があったことだけは。
彼の声のトーンは、すうと密やかに落ちる。
「悠美も片親だったから、だいぶつらい思いをした。奈緒子も、そうだったろうか」
彼はずいぶん、母のことを親しそうに語る。
なんだか泣きそうになった。超然とした母の隣にいるこのひとを、あたしは見たことがない。終始しかめっつらだったろうか、それとも、こんな風にやわらかいひとだったのだろうか。
同時に、この人と過ごす母を、あたしは見たことがなかった。
愛はあったのだろうか。母は、この人とさえいれば、すべての寂しさや孤独を受け入れてもいいと思ったのだろうか。
あたしはもっと平凡な家庭に生きたかったし、そうするつもりだった。女が一人で生きていくのはとても大変なことで、子供を抱えて生きるのはもっと難しいことだった。だから。そんな母みたいな生き方はできないから、あたしは、守ってくれるひとを、愛してくれるひとを求めたはずなのに、結局のところはそんなことすらもおぼつかない。
(ねえベイビー、どうする、こんな不確かなママで?)
ちょっと迷って、会ったことのあるという男性をおとうさん、と呼んでみる。
こちらを見ているらしい彼の顔は、やっぱりよく見えなかった。確かなのは、お腹の上にある掌だけだ。ぜった幽霊なのに、ふしぎと、あたたかな温度すら感じる。あたしもこんな風にこのひとに慈しまれて産まれたのだろうか。だとしたらちょっと救われる———だけど。
「あたしは、あなたに守って欲しかったよ」
恋人みたいに、その肩に頭をのせる。
中肉中背。礼儀正しく、やさしくて、しかも医者。なんて優良物件なんだ。でもきっと母が惹かれたのは、そういうところではないんだろう。将来有望で若くして部長。そんな肩書きなんかに、一切の意味がなかったように。
一定のリズムであやすように、お腹をぽん、ぽん、と叩かれる。
肩口のジャケットからはお線香のにおいがする。
やっぱりね、って、なんだかすごく可笑しかった。
ふと気がつくと、あたしの頭はまるで反対側のバスの窓に乗っていて、そのひやりとした冷たさを頬に感じてばちりと目が覚めた。バスはがたがたと停車して、またひとを吐き出している。慌てて下車することにした。お城のことは、もうどうでもよくなっていた。
++++
無責任なことをいわないにいさんは、何がしかのことをして、母にそれをやめさせたようだった。
わたしは叔母の援助を得て、とにかく高校を卒業し、住み込みで入れる美容師さんを紹介してもらい、そこで弟子として働きながら衣食住の安心と言うものを得た。すべては従兄弟の差し金だったのだろうと思う。
結婚式の前に、一度会った。
「にいさん、知らないと思うから言っておきたいんだけど」
「なに。あらたまって、どうした」
「わたし、にいさんの幸せは邪魔しないし、にいさんの家庭不和の原因には、なるつもりないの」
「知ってる。けっこう謙虚だもんな」
「そうでしょ。だから、一個お願いしてもいい?」
運転席で反応を待つように見返したにいさんの黒い目が、夜にとけ込むようにしみじみと静かだった。
「わたしににいさんを頂戴」
伸ばした手は避けられない。撫でた頬は少し冷たかった。
ふっと一息ついてから、なんてことない風に彼は笑う。
「おれがお前の一番欲しいものなのか。……無欲だな、悠美」
狭い車の中が、二人の世界のすべてだった。拡張しない現実と狭まっていくだけの過去は、この車以上のスペースを残さず、そしてどんどん消えていく。
それを覚悟していたものの、まさか結婚式の後、半年経つかたたないかくらいのうちに、存在自体、いなくなってしまうとは、思っても見なかった。
痛ましい若夫婦の死は、新聞の片隅に掲載されたが、ひとの記憶からは次第に薄れ、そして、わたしは胸に軋み続けるものと、同時に娘を抱えて生きることになった。
こどもが産まれることを、結婚式のときどさくさにまぎれて伝えると、お前ってすごい、とひとしきり感心したにいさんは、「産むのか」とやっぱり深刻そうにきいていた。そんなことをしばらく思い出したが、奈緒子が産まれてからは夢にも見なくなった。
さみしさは健在で、こどもがいても、孤独は抱えて生きなければならない。
それでも、贈り物には違いなかった。
わたしは、奈緒子のために生きていたし、奈緒子のおかげで、生きることをまんざらでもないと思えたのだ。
『男ならなんでもいい。女の子なら奈緒子』
そんなにいさんの冗談まじりのかつての一言で、奈緒子と決めた。別に相談もしてはいないけど、なんとなく、名付けてもらった体だ。ひとつくらいは、男親にもらうものがあってもいい。
奈緒子。
すっと目を細め、唇を引き結ぶときのあの感じが、にいさんそっくり。つまり、口元と目元。ほかはほとんど全部わたしに似てしまったのだけれど。
墓石も磨き直したし、花は供えた、線香を燃した新しい煙も、すっかり風に乗っている。
よ、っと、水桶をつかみあげる。バランスがとれずに少しよろけた。
痩せぎすのせいで、昔と体型が変わらないため、衣服代がかからないのがいい。このジーンズも10年前のもので型が古いが、別にただ身につける分には何だってかまわなかった。
ふと、顔を上げると、まるで近所を散歩しているような風のわたしの娘が、こちらを目指してまっすぐ歩いてくるのが見えた。
「あんた、何をしてんの、こんなとこで」
声を掛けると、娘は肩をすくめる。
そのまま立ち止まると、娘はなおも歩いてきて、物珍しそうに墓地を見渡した。墓石や卒塔婆の乱立する空間に、娘はひとり異質だった。去る者や見送るもの特有の哀愁ではなく、新たな命を吹き込む、まさに春にふさわしい若さを身にまとっている。
「ここ、だれのお墓」
そう尋ねながらも、答えは既に知っているような静かな様子だった。いつもわたしと話すときにいらいらと睨め付けるその様子ではなく、やっぱりどこかその目はにいさんに似ている。
「あんたの父親とその嫁の墓よ」
ふうん、そう、と、奈緒子は世間話への相づちのような答えをして、丘の一辺につくられたこの墓地を見るともなしに見やったままだ。
春の日差しはやわらかくそそぎ、若木の梢の緑が青々と目に優しい。
なんだか、時が止まったみたいだ、と思う。
わたしは誰と話しているのだろう。若いときのわたしだろうか。
ただひとりときめたにいさんとの間だって解消されない孤独を、どうやって噛み砕いて生きていくべきなのか、あの子をお腹に入れたまま、一人歩いていたあのころのわたし。
しかし、明るい栗色のボブカットをした娘には、不安そうな様子はなかった。
この子は、あのころのわたしよりずっとずっと強いのだと思う。
ふと、娘の身につけた鞄で、ピンクのキーホルダーが揺れているのが見えた。
『おなかにあかちゃんがいます』。
涙が出そうだったから、いけないとは思いつつ、水桶を地面におろして煙草を吸った。
その煙が薄らとした青空に漂うのをだまって見送っていた娘が、ふいに決然と、言った。
「お母さん、あたし産むよ」
そういって、わたしを見ている。
いいよね、と小さく、娘は言った。
またも涙が出そうになったが、年甲斐もない、と己を叱りつけて最後にふうっと煙を吐き出す。携帯灰皿に煙草を押し付けた。
「じゃあお母さん禁煙するね」
「うん」
ひとつだけ聞いてもいい、というので、なにさ急に、と返すと、奈緒子はひそやかに尋ねた。
「あたしの父親ってどんな男?」
「理屈が好きで、義理堅いけど、寂しがり屋」
そう、と奈緒子は風に乗せるように呟いて、パンプスのつま先で小石を蹴る。
わたしはもう一度水桶を手に取る。娘はそれを察したのか、歩き出すわたしのとなりに黙ってつけた。
「あんたの好きだった男、そういうのに似てる?」
「全然似てなかった」
見てきたように言うので、おかしなこと言うわね、というと、娘は鼻歌をうたう。
ずいぶんご機嫌なようだ。変な子。
「奈緒子」
「うん?」
「ありがとうね」
急に変なこと言うのやめてよお母さん、と、明るく奈緒子が笑った。
そうだね、とうなずき返しながら、これもまた真理の一つなのだと、にいさんの言った言葉を思い出している。
『悠美、ひとはいつでも孤独だし、ずっとそれはかわらない。けど』
『けど?』
『ひとりではない』
そうね、にいさん。
きっと、それでいいんだと思うわ。
墓の群れを進む2.5人にとっては、とりあえず、そのことだけで十分にも思えるのだった。
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数年前に書いた春の日の習作。