見出し画像

南阿蘇で見つけた「人生のあり方」

47都道府県旅行した結果、九州が好きすぎて熊本に移住したRさんです。わたしが熊本で1番気に入っているエリアの1つに南阿蘇があります。ここにちょこちょこ通っているのですが、それにはワケがあります。
それは、「新しい世界線を肌で知ることができ、そこが個人的に思い描く生き方の理想に近しい」からというところです。今回は南阿蘇とライフスタイルについて3つのことをテーマにnoteしたいなと思います!

わたしはプライベートで1番多く訪れている熊本のエリアは南阿蘇です。特に何もやることがない日にはレンタカーを時々走らせています。そこで南阿蘇に住んでいる人と何人かお話して気づいたことがありました!

・週6日はインフラ系業務をして1日はマルシェでキッチンカーの出店をするライフスタイルをこなしている人
・週の4日はオフィス勤務で残りはカフェを出店するライフスタイルをこなしている人。
・週の数日は農業、さらに数日はカフェというライフスタイルをこなしている人。
・自営業を複数掛け持ちしているライフスタイルをこなしている人。
・IT企業社員を週5でして週1カレー屋さんを運営するライフスタイルをこなしている人。

などなどなど、多くの人が「仕事をライフスタイルにする」という生き方、それが当たり前の世界線があることを、私は今まで県庁所在地近辺に住んでいた身としては知る由がありませんでした。

3つのテーマ「在り方」「複業」「コミュニティ」

在り方

一般企業に勤めている人からすると、「週7で仕事とか無理だよ〜」って思っている人もいいかと思います。それは、資本主義優位だからやりたくないこともやりたいことも表裏一体全て受け入れないといけないからです。はっきり言って、金を多く稼ぐ必要なく食料も自分で育てて獲れるようになれれば、多額の金を稼いだり、上層部の操り人形みたいにヘコヘコしながら労働をするという必要がなくなります。なぜなら人間は稼がなくても生き残ることができます。多くの人は仕事は選択肢の中から自身で選んで入っているでしょう。なのに人間は疲弊してしまうのです。仕事の中で自分に相応しい相応しくないものがあって、その相応しくないものが全て除去されるような仕事があるのであれば、週7で仕事という概念でも許容しやすくなるのではないでしょうか。

和同開珎や富本銭などが流通する前までの日本は何千年との間、貨幣がなく物々交換などを中心に生活をしていたという歴史があります。現代人は現金貯金やデジタル上の数字と睨み合いをしながら、それに縛られストレスと責任を無駄に多く感じています。現代社会はすなわち、受け入れられる仕事だろうとそうでなかろうと関係なく、ただひたすらに生き残るために数字を追うということが目的になります。それを「楽しみ」や「ライフスタイル」として昇華できるならばいいですが、そうでなければ精神が削がれていくだけです。あくまでも貨幣は概念にしか過ぎないので、人間は本来お金を稼がなくても社会生活を営むことができるポテンシャルは少なからずあるのです。

また、大手企業の名前や、役職などの上下関係も概念にしか過ぎません。昔は米を作れる人やマンモスが狩れる人などがコミュニティの中で存在してみんなで分けて生活をしていたと言われています。マンモスが狩れるから偉いとかではなく、役割として分かれていました。しかし、外交が進めば進むほどヒエラルヒーという概念が生まれ、人間には上下というものが存在するようになり、年上の人は年下の人に命令していい、役職が上の人は下の人をこき使ってもいいなんている暗黙の社会的ルールがまかり通るようになってきました。あくまでも役職や大手企業の肩書きなんてものもの概念でしかなく、日本人は上下関係とかなくして社会生活を営むことができるのです。

南阿蘇の話からぐっと脱線してしまいましたが、南阿蘇エリアでは農業をやっているから偉いとか、新参者がカフェを開設したら下とか、そんなギクシャクした社会ではないでしょう。南阿蘇エリアにいる人のように人生の在り方、すなわち「ライフスタイル」に着目することでより本来の人間らしさ、追い求めるべき幸福を得られるのではないかと思っております。なんとなく就職して結婚して子供産んで歳を取る、その中で資本主義経済のしがらみに巻き込まれ洗脳され、自分自身を見失っていく、常日頃将来に対しての不安を背負っていきながら...私もそんなレールを着実に進めていた人生でしたが、その途中で「在り方に着目する」ことに気付けたことがまさに、南阿蘇エリアで得られた個人的な大きな収穫でした。

私も親戚をたどると小さな田舎の農家をやっているのですが、基本的には専業農家が多く、全部の田舎が同じようなライフスタイルを歩んでいるわけではないのかなと思っています。今までの人生になかった発見を南阿蘇に来て肌で感じることができたのが、熊本に引っ越していきて1番大きな収穫だったのではないかなと感じている次第です。

複業

複業に関する考え方も、都会と異なるポイントなのかなと思いました。

都会ではスキルを磨いて動画編集!プログラミング!写真加工!場数を稼いで、習って、高収入案件狙って!必要ない時は雇い主から切り捨てられ、自転車操業のようにまた次の案件を見つけて...。

私はそれで心身が疲れるな、というか複業って向いてないんだろうなと思いました。とにかく行動量とそれに応じた収入を得ることを目的とする、その道に本当に自分の幸福は存在するのかずっと疑問でした。

南阿蘇では自己実現と助け合いが最優先される複業の考え方なのかなと思いました。はっきり言いますが、お金稼ぎが目的であれば南阿蘇のエリアでビジネスをするというのは相応しい場所ではありません。なので資本主義ファースト!資本主義ファースト!って考え方の人はあまり適さないでしょう。あくまでも先ほどの在り方というものに沿って、自身の肉体があればお手伝いできるようなことを率先して行い、助け合い、カフェを開くことや美味しい野菜を毎日食べるなどといった自己実現を求め、コミュニティで生涯を遂げることができる環境にあるのかなと思いました。

コミュニティ

SNS等の発達によって、今は四次の隔たりと呼ばれる、知り合いを4人経由すれば誰でも繋がれるとも言われています。なのでドウェインジョンソンやジャスティンビーバーなども4人知り合いを辿れば繋がれるらしいですよ。ただ現代社会においてこれは繋がりを持ちすぎだという考え方もあります。

都会で仕事をしていると多くの人との関わりを持ちます。一極集中で満員電車に揉まれて、狭い世帯の中に何十人という人が同じ建物に住み、プライベートではSNSで人と繋がり、何百人何千人、人によっては万単位の人もいるでしょう。そこで誹謗中傷や人間関係に疲弊していって、心を閉ざし鬱になり、性格が攻撃的になったり、最終的には自○や○人とかもこのご時世では表沙汰になったりしますよね。

人間は何千年もの間、通信手段や移動手段が限られていたため数十人程度の狭いコミュニティで生きることに適応していたのですが、産業革命をきっかけとしたここ最近の技術の発達によって、急速に人との心理的距離が縮まり繋がりが増えてきました。それに適応できないから先ほどの表沙汰になっているようなことや心が拒否反応を示したりしてしまうのです。なので現代の人間の進化過程においては、この心理的な問題は障害ではなく人間が古来持っている「ダメージを受けていますよ!」という反応とも言えるのです。ここに教育が云々とか道徳が云々とか生理学的問題が云々とかそれ以前の社会の仕組みの問題でもありますよね。

あんまり南阿蘇に限ったテーマではありませんが、IT化や資本主義などで閉ざされたコミュニティを毛嫌いする前に、自分の在り方に少しでも疑いやストレスを感じているのであれば、コミュニティを絞るという選択肢も加えると心が豊かになるかもしれませんね。

おわりに

私は熊本に来て気づいた理想な死に方がありました。常に在り方を追求し、ピンピンコロリで静粛に仲良い人数人以内で見送られて生涯を終えられればそれでいいなと。わざわざ、世界的アーティストに弔辞を読んでもらってとか何千人も葬式に呼ぶとか、頭の中が資本主義で洗脳されてた頃は欲に塗れましたが、無欲こそが幸福ということに最近は自覚しました。他人に求めるハードルは低く、期待することは小さく、お日様が出ていることや花が咲いている日々に幸福を感じて、感謝できればそれでいいのかなって思いました。熊本で生活できたことに感謝です。(ちなみにRさんは無宗教です)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?