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性別の選択

皆何をもって性別を自認するのだろうか。私は性別に属することそのものが、加害者であることを自称するようで恐ろしい。

男だからという理由で他人の感情を蔑ろにしたりすることは許せないし、女だからといって感情をぶん回して人を搾取することは許せない。

どうしようもないことだからと皆受け入れているが、自分の加害を「どうしようもない」と受け入れていいのだろうか?私は自分がそうなることが絶対に許せない。私は自分の女性らしさが嫌で嫌でしょうがなかった。私にとっての女性像とは、感情の化け物なのだ。あんな感情の化け物にはなりたくないと思うのは、自分が感情の化け物であるから。それを否定するには、女でいることを否定するのが最もよい。

この話を進めるにあたって、説明すべき概念がある。「ステレオタイプ(偏見)の自己実現」というものだ。ある実験で、女子生徒に「女性は男性よりも数学の成績が低い」と伝える。すると、伝えられていないグループの生徒は男女同じ成績であったにもかかわらず、「女性は男性よりも数学の成績が低い」と伝えられた女子生徒は男子生徒よりも有意に数学の成績が落ちた、というものだ。

この実験は、数学の能力に男女差があるというのは偏見や求められる社会的な像によるものにすぎないのでは?という説を強く押すものだ。そしてこの実験が証明した何より恐ろしいポイントは、偏見が現実になるという点だ。できないというレッテルは本当にその人から能力を奪う力があるのだ。

これに基づき、単純に人種や性別など何かしらグループの差を統計として出しても、それは生物学的な要因の説明にはならないだろう。それは偏見によって能力が奪われているだけかも知れない。

この「偏見の自己実現」はあらゆる話につながる。先ほど何かしらのグループの統計差は、生物学的な要因の説明にはならないといったが、女は感情的、男は論理的の話もそういった可能性を持つのではないだろうか。それのみならず、男女の生物学的な差と思われていたことが、実はそうではない可能性を孕んでくる。

私にとって、性別を自称するということは、偏見を受け入れることだと感じる。それは加害者像であったり、被害者像であったりするのだが、私はそれが恐ろしくてしょうがない。皆がいとも簡単に性別を受け入れられることが、私には理解できない。

本当に男だから感情を考えられないのか?それはただ逃げてきた結果ではないだろうか?本当に女性だから論理的に考えられないのか?それはただ逃げてきた結果ではないだろうか?わたしにはそう思わざるおえない。

まあ、自分の場合必死に屁理屈こねて何かから逃げているようにもみえるが。


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