クラブ行ったらよかったなと思った。対人魅力がないので、もはや性欲を動機に関わってもらうことでしか私には他人と関わっていくことで蓄積されていく経験値を養う術はないのかもしれない。 色々な面でやはり他人は重要で、顔がいいことは人生のスタートラインに立つ条件のような気がする。
ずっと受けたかった知能検査を受けてきた。選んだのはWAIS-Ⅳだ。理由はWAISは認知能力の詳細を測る検査で、自分のことをより客観的に知るためである。 結果は、言語能力>ワーキングメモリ・処理水準・知覚推理であった。どこまで書いていいのかわからないが、読んで理解はできても要約は苦手ということらしい。 全く本を読まない、というか読めないのに言語能力が平均より高いことには驚いた。というか全て平均より下なのではと思っていたのに、平均値よりは下なものの平均の枠に収まっていたのが驚
世の中は経験によって誰しもが着色された世界を見ている。それを他人に推し量ることは難しい、似たような環境の人間なら同系色程度には物事が見えているだろう。 知らず知らずにかけていた色眼鏡を外すことはそう簡単ではない、今まで見て生きてきた世界を否定するというのは、世界はそうであると信じて生きてきた自分を捨てなくてはならないと同義であるから。 なぜ色眼鏡を捨てないのかと言われて疲れてしまった。この人は本当に私と違って楽しい人生を過ごしてきたのだなと感じて、嫌になった。
画像は生きているだけで偉い生物のカピバラさんである。 優勢学を論じれるほどあたまがよくないので、これは優勢学がどうのこうのという話ではない。ただただ私はなんの取り柄もないので死ぬことが正しいんだろうと考えている。 Twitterに憂鬱さを吐き捨てるのも、多分同情を誘って生きることを許してもらおうとしているせいだ。親しい人間に生きている罪悪感を吐露するのも、生きることを許してもらおうとしているせいだ。 こういう行動がより自分の価値のなさを引き立てている、こういうことをする
感情の未熟な人間たちと周りを見下していたのかもしれない。 幼少期、自分の感情があまりにもうまくコントロールできなかった事実を、周りは「感受性が豊か」と褒めてくれた。実際は感受性が豊かなわけではなく、単純に情動制御が極端に下手くそなだけなのだ。1しかないことを100に感じてしまうだけで、1が詳しく見えているわけではない。 わかっていたけど、何もない自分が情けなくて、自分の苦痛を理解してくれない周りの存在が憎たらしくて、自分の情動制御の欠陥を感受性が豊かであると間違ったラベリ
自分の好きなことが、自分の未熟さを表していることがわかった。 好きで聞いていた曲が爆売れし、作曲者も歌手の方もこれからの飛躍が楽しみだった。ところが、世間はその曲を「恥ずかしい」といって消費していった。 私は基本的にほとんどの曲が楽しめない、それどころか聴くに耐えなくなってしまう。数少ない「好きな曲」を人々は未熟と評価していった。 歌詞に共感していたわけではない、私はなにを楽しんでいたんだろうか、しかし多くの曲を拒絶する自分が「聴ける」ということは実は共感していたのでは
異性親からも同性親からも性的被害を受けたことはない。しかし、私は昔から悪夢を見る。異性親に触られる悪夢だ、気持ち悪くて仕方がない。 分析心理学では、子供は父と母から男女を学ぶらしい。私が性別に悩む理由は父親からの愛情不足だろうか、それとも母親の度を超えた父親に対する不信感だろうか。どちらも考え尽くしたが、結局私は自分の性別を受け入れられていない。自認することに恐怖を感じる。 生き物の雌としての機能が気分の変化を招いていた可能性が濃厚になり、少し憂鬱になった。コントロールで
皆何をもって性別を自認するのだろうか。私は性別に属することそのものが、加害者であることを自称するようで恐ろしい。 男だからという理由で他人の感情を蔑ろにしたりすることは許せないし、女だからといって感情をぶん回して人を搾取することは許せない。 どうしようもないことだからと皆受け入れているが、自分の加害を「どうしようもない」と受け入れていいのだろうか?私は自分がそうなることが絶対に許せない。私は自分の女性らしさが嫌で嫌でしょうがなかった。私にとっての女性像とは、感情の化け物な
「人と何かが違う」問題を解決するのに、何が原因だと模索してその途中で見つけたのが発達障害だった。 大学生になって、友達が鬱や発達障害で治療を受けていく中、なんの障害もない自分はただヒステリックなだけで、本当に、ただそれだけ。 今まで感じてた不安が全て妄想に過ぎないと言われてるみたいだし、それが論理的だと分かっていても私の生きにくさは拭えなくて、結局私はなんだったのかわからなくなる。 私の生きにくさとは、罪悪感とは、罪滅ぼしとは、全部無意味でただ無価値で悩んでいることが無駄だっ
生理現象であっても他人に迷惑をかけることは許されないと思っていたのだが、どうも世間は少し違うらしい。私はPMDDでかなり精神を病んで世間に当たり散らしてしまうのだが、それは生理現象だから済まされるらしい。 いやそんなわけあるか それは私のような無能な人間がやったら傲慢なのだ。おまえら価値のある人間たちと一緒にするな。あれは私を労った嘘の言葉なんだろうか?正直、自分がどんな絶世の美女であっても「言葉がきつくてもPMDDだから許してほしい」などとは思えない。周りに落ち込んでい
Twitterの一部界隈で騒がれている事件がある。重い病を患った猫を自然にかえしたという話である。 逃した側の主張は、「余命少ないこの子は人に酷く怯え、餌も食べない。そうならば元の自然にかえして人の恐怖から遠ざけたい。」 それを批判する人の主張は「ただ見たくないだけでは?」「生きていけるわけがない。」「愛護法違反では?」 その猫にとって何が幸せなのか、それを一概に人が決めつけることは罪深いと感じる。だから私は猫にとって何が良かったかは論じることは控えたい。 法律に抵触
自分ができない故に承認欲求が満たされないだけなのに、その承認欲求を歪めて他人への羨望や嫉妬に置き換えその原因を自分の過去の悲しみとしてしまう。過去の自分の悲しみと、彼らの悲しみにはなんの因果もない。 誰かを恨むくらいなら自分を憎んで恨んでいたいので、自傷で自分が悪いことを刻み付けている。 ただ私は、楽しく努力して、そしたらある程度できるようになって、それが自信になって、それでよかった。いや、人間は欲深い生き物だし一番を求めたかもしれない。器用貧乏は器用貧乏で辛い面はあると
憂鬱感が酷すぎるが、しっかり眠れて食欲も旺盛なので鬱ではない。日光に当たらないのはよくないので、明日はカナヘビを探しに行こう。それがいい。 どうせ行かないが。そうやって毎日毎日誤魔化して生きてしまう。しかしもう誤魔化しでしか幸せを理解できないのだ。 新しく趣味とした「生き物界隈」も、浮世離れした人間が多く見ていて苦しい。世間の生き物に対する軽視など、捨て犬や捨て猫の現場を見れば火を見るより明らかであるのに。愛玩動物である犬猫ですら苦渋の決断で殺処分せざるおえない状況で、昆
自分が幸せになることを否定したらそりゃ人生虚しくなるよ、当たり前だよ
自分の悪意に怯えるなんて、わからない人からしたら本当に素っ頓狂な発言なんだろうね
母と自分は本当に親子なのか疑問に思うことが多々ある。愛情は実の子の証明には有り余るほどあり過保護と言っても過言ではないのだが、性格と容姿は全く一致していない。母は未だ人の邪悪な心を悲しんでいて、自分の善良さを疑わずその豊かな感受性の行き場がなかったのだと思う。 対して私はどうなのだろう。人には邪悪な心があるとわかりはじめたとき、反発することなくそれはするすると心の中に収まっていった。全てただの過去と言ってしまえば楽なのかもしれないが、虚言癖、虐めてしまった罪悪感、被害者ぶり