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未熟

自分の好きなことが、自分の未熟さを表していることがわかった。

好きで聞いていた曲が爆売れし、作曲者も歌手の方もこれからの飛躍が楽しみだった。ところが、世間はその曲を「恥ずかしい」といって消費していった。

私は基本的にほとんどの曲が楽しめない、それどころか聴くに耐えなくなってしまう。数少ない「好きな曲」を人々は未熟と評価していった。

歌詞に共感していたわけではない、私はなにを楽しんでいたんだろうか、しかし多くの曲を拒絶する自分が「聴ける」ということは実は共感していたのでは?と考えてしまった。多くの人間が曲を未熟と評価したことで、まるで自分のことを未熟と評価されている気になった。

実際成熟しているとは思っていないし、未熟な部分ばかりだと思う。それでも自分の自分なりに考えた思想のようなものには自信をもっていた。

しかしそれももうダメらしい。モラトリアムが終わろうとしている今、皆自己分析をすすめて、私が一生懸命考えてきたことをさらりさらりと思いついていく。もはや自分のアイデンティティすら失ってしまった。

勉強もろくにできず、絵も音楽も運動もなんの才能もなかった私にはなにもなかった。何もない空っぽで未熟な人間でしかなかった。本当に何もないのだ。

好きだったファッションも、考えてそれを選択したのに、「典型的な行動パターン」と評価されて無力さを感じた。

芸術は露骨に人の未熟さを表すことに気付いてしまった。信念も実力もない「好き」は恐ろしく空っぽだ。

生き物が大好きだが、彼らだけは本当に尊いと思う。私は彼らの尊さにしがみつくだけの、空っぽで未熟な存在でしかないが。

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