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僧帽筋の僧帽(Monk's Hood)について

ヒトの体の中に「僧帽」と名のつくところが三つある.一つは,心臓にある僧帽弁である.僧帽弁は,ローマ法王や枢機卿がかぶる司教冠ミトラ(mitre)と呼ばれる帽子あるいは冠に似ていることからmitral valve=僧帽弁と言う[1].ここで言うミトラは,西方教会のミトラである.もう一つは,あまり一般的ではないが,嗅覚に関係する嗅球の中に僧帽細胞という細胞がある.これもミトラに似ているので mitral cell=僧帽細胞と言う.三つ目は,背中にある僧帽筋(添付の下図参照)で,肩こりの湿布薬のコマーシャルなどでお馴染みの筋肉である.医学生だけでなく医療関係の学生さんが必ず学ぶのが僧帽筋と僧帽弁である.僧帽筋の「僧帽」と僧帽弁の「僧帽」の異同,さらには「僧帽」の由来についてよく質問を受ける.そこで,ギターと散歩の「より道編」として,拙著[2]のギターと散歩の一節「僧帽筋の僧帽とは?」に加筆・修正を加えて,紹介します.
 
僧帽筋の「僧帽」:trapeziusとcucullaris
 僧帽筋という筋肉の名称は,この筋肉の下半分が僧帽(Monk's Hood)に似ていることに由来している[3].しかし,この筋肉の下半分という説明が専門書とされる本でも抜け落ちて紹介されていることが多いように思われる.それはさておき,解剖学名はラテン語が基本になっており,僧帽筋は M. trapeziusである.M. は,musculus 筋肉(単数)の略語,trapezius は台形ないしは不等四辺形の形をしたという形容詞で,どこにも僧帽を意味するようなものは見当たらない.筋肉に名称をつけた先駆者と言われるシルビウスは,trapeziusと呼んでいたということが,ボアン(独語読みではバウヒン)の「解剖学劇場」という著作(1605,1611年)に記載されている[4].ボアン自身は,trapeziusではなく僧帽という意味を持つcucullarisを用いているが,このcucullarisはあまり定着せず trapezius の方が一般的となっている.解剖学用語として,ラテン語が基本であると述べたが,現在ではラテン語だけでなく英語が加えられ,ラテン語名=M. trapezius,英語名=Trapezius が国際的に採用されている用語である.わが国では,日本語名=僧帽筋,ラテン語名=M. trapezius,英語名=Trapeziusとなっている.僧帽筋は,解体新書では僧衣筋,重訂解体新書では僧帽様筋,明治初年以後は医科七科問答に不正四角筋などと呼ばれたこともある[5].僧帽筋はオランダ語の de munnikskaps-wyze (spier) の訳ではないかと言われ[5],重訂解体新書の僧帽様筋という訳が最も当てはまるように思われる.解体新書が,ドイツ語で書かれた医学書のオランダ語訳を基にしていることはよく知られている.ドイツ語では,Trapezmuskel(muskelは筋肉の意)の別名に,Kappenmuskel あるいは Mönchskappenmuskelがある.「解剖実習の手びき」では,僧帽筋はKappenmuskelの訳であるとされている[6]が,Mönchskappenmuskel,これこそまさに僧帽筋を意味する用語である.なお,Kappeは,頭巾,フード付き外套(マント)を意味しラテン語 cappa に由来する.ポルトガル語を通じて日本に入ってきたのが,雨具の「合羽」である.ドイツ語では,台形の形をした筋を意味する Trapezmuskel と,僧帽の形をした筋を意味する Kappenmuskel の両者が存在している.わが国では,台形の形をした筋と言う意味のM. trapezius=僧帽筋となり,それぞれの意味から考えるとおかしなことになっている.M. trapezius を台形筋などとしないで,僧帽筋としたのは,解体新書以来の伝統によるのか,わが国ではドイツ系の医学書が主流で,僧帽筋という訳語の方がすでに定着した用語となっていたためではないだろうか.
 人体解剖学の分野では,僧帽という意味を持つcucullarisは消えてしまったが,家禽解剖学用語では,頭巾(ずきん)状筋 M. cucullarisとして使われている[7].M. cucullarisは,調べてみると非常に興味深い筋肉である.顎を持つ脊椎動物である顎口類(サメなどの軟骨魚類をはじめ,ほとんどの脊椎動物が属している)の頸部には,M. cucullarisがあり,これは哺乳類における胸鎖乳突筋と僧帽筋の相同筋である.この二つの筋を共通に支配する運動神経が,第11番目の脳神経である副神経である.これらは顎を持たない脊椎動物であるヤツメウナギなどの円口類には存在しない.頸部は頭部と体幹の境界となり,双方の性質が混在した複雑な領域である.形態学的には,脊椎動物は顎を持つまで頸らしい頸を持たなかった.M. cucullarisと副神経の起源の解明が,脊椎動物の初期進化を理解する上で極めて重要と言われている[8].
 ドイツ語では僧帽筋をKapuzenmuskelとも言うように,カプチン修道会と関係があるように思われる.カプチン修道会の名称は,修道服の独特な形の頭巾,フード(cappuccio,カツプチオ)からきている[9].ちなみに,森鴎外は,アンゼルセンの『即興詩人』「わが最初の境界」1において(cappuccio)を(尖帽)と訳している[10].僧帽筋の「僧帽」は,カプチン修道会のもの1)と言うが,フランシスコ修道会のものとも言われる[6].カプチン修道会はフランシスコ修道会の分派なのでカプチン・フランシスコ修道会と呼ばれており,はたして「僧帽」の由来はどちらの修道会なのか? なお,修道士の属している修道会によって着衣の色が異なっている.カプチン修道会の着衣の色は茶色であり,コーヒーのカプチーノと関係があると言う説がある.色ではなく,茶色のエスプレッソを囲む盛り上がったミルクが茶色の尖った頭巾を連想するからとも言われる[1].「僧帽」の由来を,茶色を纏(まと)うカプチン修道会由来とするのは筋肉にとって都合がいいと思われるが,頭巾,フードは修道服としてごく一般的なものである.広く一般的に修道士が身につけていたものが由来で,特定の修道会を意味しないのではないか?と筆者は考えている.                   
 下図左は,茶色に彩色された僧帽筋(拙著,日本人体解剖学[11]を改変)で,僧帽筋の下半分が,下図右の僧帽(Monk’s Hood)に似ている.なお,下図右の図は,筆者のイメージを基にして作成したもので特定の修道士の僧帽を意味しない. 

僧帽筋と僧帽

 僧帽(Monk's Hood)には,トリカブトという意味もある
フードの形が,猛毒で有名なトリカブト(鳥兜,属の学名:Aconitum)の花に似ているからである[1].冒頭の,トリカブトの絵は,筆者の奉職していた医科大学の故平光先生から頂いた年賀状に添えられていた版画である.平光先生は,解剖学者であるが植物にも造詣が深く,Aconitum sp.とあるように種または種名の特定できない1種の意味で,トリカブト属の1種のことを,Aconitum sp. と表現する.トリカブトは,ミステリー小説にも登場する.12世紀前半のイングランドを時代背景として,16歳で第1回十字軍に参加するという一風変わった経歴を持つベネディクト修道会の修道士カドフェルが,様々な事件を解決していくミステリー小説がある(Ellis Peters作).そのシリーズの3作目が Monk's Hood(邦題は,修道士の頭巾)で,料理に仕込まれたのが猛毒のトリカブトである.ヒースクリフ・レノックス少佐が活躍するミステリー小説も人気がある.レノックス少佐が活躍するミステリー,そのシリーズの5作目が「The Monks Hood Murders (Karen Menuhin作)」である.作者は,イギリスではアガサ・クリスティの再来と言われているKaren Menuhin(カレン・メニューヒン)である.トリカブトを使ったミステリー小説まがいの保険金殺人事件など興味深い話がたくさんあるが,これらについては[12]を参照ください.

参考文献
[1]川田志明,耳寄りな心臓の話(第38話)『僧帽弁は法王の冠』日本心臓財団,はあと文庫,https://www.jhf.or.jp/publish/bunko/38.html
[2]穐田真澄(2020)ギターと散歩 -よこ道,より道,まわり道- 前編 解剖学者の卵が見た「ベルリンの壁」,聴いた「ベルリンフィル」後編 ベルリンとナチズム,ベルリンを離れてちょっと散歩.ブイツーソリューション(名古屋),pp. 171-172.
[3]RAUBER-KOPSCH (1958)人体解剖学,小川鼎三訳,医学書院(東京),p. 182.  
[4]澤井直,坂井建雄(2006)ガスパール・ボアンにおける筋の名称について, 日本医史学雑誌第52巻第4号,pp.601-630.
[5]森於菟,大内弘(2015)解剖学 第1巻 筋学,改訂第10版,金原出版(東京),p. 251. 
[6]寺田春水,藤田恒夫(2004)解剖実習の手びき,改訂11版,南山堂(東京),p. 24.
[7]家禽解剖学用語(1998),日本獣医解剖学会編(東京)p.1004. https://www.jpn-ava.com/NewHP/Glossary_PDF/005.pdf
[8]脊椎動物の進化 - ボディプランの起源と変化を発生学的に読み解く - 理化学研究所 形態進化研究室 http://www.cdb.riken.jp/emo/resj.html
[9]カプチン・フランシスコ修道会 https://ja.wikipedia.org/wiki/カプチン・フランシスコ修道会
[10]廖育卿(2008)森鴎外訳『即興詩人』における文体表現:ドイツ三部作との比較及び再検討,熊本大学社会文化研究,6: 365-379. 
[11]金子丑之助原著,金子勝治監修,穐田真澄編著(2020)日本人体解剖学,改訂20版,南山堂(東京),p. 237.
[12]植物界最強の毒花・トリカブト。秋の散策では美しい花にご注意を!https://tenki.jp/suppl/kous4/2016/10/12/16361.html

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