#2313 科学と宗教(キリスト教)の境界
科学とキリスト教の境界はどこでしょうか
科学が語りうるものまで神学、キリスト教が語り、あたかもそれが全人類にとっての事実だと思っているようなタイプの人を見ていると、無駄なことで愚かしいと分かっていながらも無性に腹が立ちます
私はある程度思いついてはいるので、多くの人からの見解を聞きたいです
#1
サピエンス全史という本を読んでみると、人間が発達した理由は、妄想を作り出す力だということが分かります。妄想を作り出すために、伝承として神話や宗教が生まれたことが分かりました。しかし、ある出来事でひっくり返ります。それはコロンブスがアメリカ大陸を見つけたことです。それまではヨーロッパとユーラシア大陸などの場所しか知られていないにも関わらず、新しい知識が生まれ、宗教に対する疑いが生まれ、それが科学となりました。科学、宗教は人間が生み出した武器の1つで、宗教は負けて科学が生まれたということです。
#2
なので、宗教が道徳など目の見えないもの。科学が目に見えるものの証明。
だと僕は思います。
目に見えるか、見えないかの違いだと考えます。
#3
確かに、キリスト教徒が聖書に書いてある事を、あたかも自分が見て、体験したかのように事実としているという事はあると思います。
例えば、ノアの方舟には全ての動物が載ったとされ、かつ、生物は全て種類ごとに創造されたと考えている人がいますが、実際には現存する全ての種類の動物(陸生動物に限定しても)をタンカー程度の大きさの方舟に載せる事はできません。
ここで、キリスト教徒はヘブライ語の種と、現在言われる種という言葉の定義は異なるとする場合がありますが、(実際にそういう解説動画がYouTubeにあります)その場合、プロトタイプの動物が環境に合わせて姿を変える事は認める事になります。こうした事が進化論の議論で言われる事です。他にもバリエーションとして、神の創造については科学の範疇ではないので認める立場の有神的進化論やインテリジェントデザイン論等があります。
聖書に書かれている事を実際に見た人は皆、死にました。ですから、それらを見てきたかのように語るのは不誠実であり、事実と解釈は分けねばなりません。キリスト教徒に腹が立つというのはこういう事ではないかと思いました。
しかし、科学にもやはり限界はあり、全ての事をあたかも、科学が説明し尽くしたという考えは科学主義とか科学信奉と呼ばれ、別の信念に過ぎないとして科学哲学では同様に批判されます。
あらゆる事を実験で確かめるのは不可能であり、様々な推論や批判を通して、できるだけ精度の高い史料を選定して、歴史の真実に「できるだけ近付こう」とするのが現在の科学者の在り様ではないでしょうか。
#5
>>2 電子も原子も見たことがある人はいません
それだと素粒子物理学や原子核物理は宗教のようになってしまいますね?
#6
>>5
原子というのは、物体の最小単位のため、物体を見ているということは、原子で構成された分子で構成されたものを見ているということになり、見える範囲になるのではないかと考えます。
また、走査型トンネル顕微鏡を使えば、原子を見ることも可能です。
電子も、原子をさらに小さくしたものになると思うので、今の技術では見えないけど、技術が進歩すれば、確実に視認できるものだと思います。
宗教の世界における神などは、技術が進歩しても存在があやぶれまるものです。視認できるようになるかも知れませんが、見えない可能性が高いでしょう。
よって、宗教は見えるか見えないか分からないものなので、見えないと定義させてもらい、科学は見える可能性が高いものなので、見えると定義させてもらいました。
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GIRON編集後記
こんにちは、GIRONの粟津です。
今日のGIRONは”科学と宗教(キリスト教)の境界”です。
宗教自体、科学を発展させた要素もあるんじゃないかという意見もあれば、科学を誤用して宗教の正当性を訴えている場合もあるというようなこと例としてあげられていました。
宗教もそうですが、科学も宗教を通して科学的に証明されていっているので、実はかなり因果関係があるのかもしれませんね。
みなさんは科学と宗教の関係性をどうみられていますか??
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