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区切られない時間を過ごす―開腹手術後自宅療養2週間目―

卵巣嚢腫摘出の開腹手術を受け、現在自宅療養期間2週目を過ごしている。
落ち着かない今の様子をありのままに綴ってみようと思う。

大学の授業を終えた!

なんとか無事に今学期の授業を終えることができた。
まだ立ってしゃべり続けるのは無理で、術後は座って授業を行った。
非常勤講師一年目をこんなにもギリギリ走り切る形で終えるとは思っていなかった。
一年目は大変だよと諸先輩方から伺ってはいたが、本当に大変だった。
販売の仕事との両立にかなり悩んだし、去年はほぼ研究ができていない。
休みがないまま、がむしゃらに駆け抜けた。
病気が発覚し、「頑張りすぎたんだよ、休めってことだよ」と言われた。
本当に、全くこのままの台詞を何人もの方に投げかけられた。
私もそう思う(笑)

大変だったけれども、これまでやってきたどんな仕事よりも楽しかった。
「先生のゼミがあったら入りたかったです」
「授業に行くのが楽しみでした」
こう感想を書いてくれた学生がいて、もうこの言葉だけで充分だと思った。
すごくすごくうれしい。

これから成績をつけて、来年度の準備をする。
来年度は有難いことにさらに2コマ授業が増える。
スケジュール、どうしようね…。

傷口が痛い問題

手術でできた傷は臍下から6、7センチほど。
退院まえに傷口に細いテープを横向きにつけてもらっていたのだが、取れてきている。
「テープはとれてきたらそのままにしてね」と言われているが、傷が布に触れると痛いため「マイクロポアテープ」という商品を自分で購入し、はがれた部分に貼っている。
次回の診察以降は病院ですすめられた「アトファイン」という商品を張ることになると思う。

「痛い!」というほどではないが、常に「傷があるなぁ」というぼんやりした痛みがある。
前回の記事でタイツが痛いということを書いたが、締め付けや縫い目が当たるのがやはり心地悪い。
今、妊婦さん用のタイツやショーツを買ってみて履いているが、通常のものより楽に過ごせる。
傷がきになるなぁという方にはおすすめ。


ヨガ再開!

ヨガを再開し、先日久しぶりにスタジオクラスに参加した。
自分の身体の様子を見ながらだけれど、立ちポーズも思いのほかできた。
信頼している先生のクラスだったのもあるだろう。
お腹の力を抜かないように、着物の帯を締めているような感覚で動くのが良いそうで、自宅でヨガやストレッチをするときも意識している。
スタジオクラスに参加した日は術後18日目だったが、術後考えていたよりも早い再開となった。うれしい。
縦に伸ばす動きや捩じる動きは、やりすぎないように注意しながら行っている。

この病気になってから、婦人科医の高尾美穂さんのコンテンツをたまに観ている。
とってもおすすめ。
彼女もヨガを日常に取り入れているそうで、なんだかうれしい。

開腹手術に関して不安のある方は以下の音声聞いてみてください。
私は「心配する意義のあることを心配しよう」という言葉が腑に落ちて、術後何度か思い出していた。

術後、パニック発作なのか低血圧なのか低血糖なのか、体調が突如変になることが増えているが、最近は呼吸を整えて、「大丈夫大丈夫」と言い聞かせている。
呼吸の重要性も、私が信頼するヨガの先生に教わったこと。
意識しながら過ごしたい。


「身体の声をきく」が難しい

療養期間が長くなり、頭で考えすぎてしまったり、情報収集ばかりしてしまう自分の元々の癖が顕著になってきた。
不安や焦りから、常に一時間先、一日先のことを気にしている。
そわそわし、緊張感が高まると先述の通り、パニックなのか低血圧なのか低血糖なのかわからない症状が出る。
そしてこの症状になるのは何故かをまたスマホで調べる。
どうしたらより良いのか。
頭に情報を詰め込み、頭で考える。
身体のことを考えているのに、身体がおざなりになっている。

「身体の声をきいてあげよう」とヨガの先生もよく言うが、
何年やっても私はこの真意が捉えきれない。

例えば、私は毎朝目覚めるたびに「何もしたくない。動きたくない。もう無理だ。」と思う。
30年以上生きているが、思わなかった日はないくらい、毎朝思う。
それでも、私はえいやっと時間がかかりながらも身体を起こし顔を洗う。
やっと少し気持ちが前を向く。
さて、このとき私の身体は何を望んでいるのだろう。
動かないでじっとベッドの中にいることか、身体を起こし立ち上がることか。
動かないで(動けないとも言う)ベッドに横たわり続ける選択をすると気分はどんどん下がり、
「なんてダメな人間なんだ」と自分を責め、自分がこの世界で最も醜い存在に思えてくる。
「これではいけない」と思い、身体を起こし、メールの返信や事務的な作業に取り掛かる。
やらねばいけないことをリストアップし、終わったものに横線を引いてゆく。

「休む」とは何だろう。
私はやはり自分がしたいことが分からない。
事務的な仕事はこなせるのに、本当にやりたいはずの自分の本の作業には取り掛かれない。
何がしたいんだろう。
療養期間なのだから、映画や動画を観たりすればいいのに、したいと思わない。しろと言われればできるが。
食べたいものも思い浮かばない。普段より動いていないのに食べたら太ってしまうのではないかということが気がかりだ。

自分は何が心地よくて、何がしたいのかわからない問題に事あるごとにぶつかる。
いつになったらわかるんだろう…。

「区切りのない時間」の過ごし方

労働というのは良い。
手っ取り早く「動いた」「誰かのためになった」と分かるし、対価として賃金が支払われる。
さらに労働は、生活に区切りをくれる。
この時間に出勤する
この時間に会議に出る
この時間からこの時間まではお昼休み
労働によって、私たちの区切りがなく間延びした時間は強制的に区切られる。
そこで自動的にメリハリのようなものが生まれる。

研究は、そうではない。
どこがゴールか自分で定め、自分で時間をコントロールしなければならない。対価はない。
こういう仕事に対してどのように向かってゆけばいいのか私はまだまだ分からない。
ゆえに自分の本の仕事に取り掛かれない。言い訳!

労働が忙しいときは、「あぁ長い休みがあれば、朝起きて白湯を飲んでヨガをして午前中は語学をやって…なんてできるのに」と区切られない時間を渇望する。
しかしいざ、区切られない時間を与えられると、時間はただただ間延びする。
私は今、間延びした時間を前に茫然と立ち尽くしている。
たぶん、私のようなタイプが労働を引退した後にボケるのだと思う。


家族のこと

退院祝いということで、母と妹とお寿司を食べに行った。
父からも「退院おめでとう!お寿司楽しんで。」とメッセージがあった。
私はこの日はあまり本調子ではなく、もう少しおいしく食べたかったぜというのが本音なのだが、なにより妹と母が嬉しそうで、楽しそうで、その姿が私は嬉しかった。
妹は、私の手術が決まってから、私が死んでしまうかもと思って毎晩泣いていたらしい。(かわいい)
父も母も、これ以上ないほどにサポートしてくれている。
家族って身近すぎてついつい感謝を忘れてしまいがちだけれど、改めてありがたいなぁと思った。
私は、このところ仕事仕事ばかりで家族に考えを巡らすことも少なくなっていた。
母に対しては同居しているからこそ、ぶっきらぼうな対応をしてしまうことが多い。
家族みんな仲が良いということは当たり前じゃない。
これから先ずっと仲が良いとも限らない。
だからこそ、今仲良く過ごせていることを実感しておきたいなと思った。


以上が自宅療養二週間目の雑感である。
毎日を過ごす中で、やっぱり私って根っからのネガティブだし暗いなと感じている。
もう少し笑う時間増やさないといけないねぇ。

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moeka
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