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現代において、神・仏とはなんだろうか

今回は私が「歎異抄入門 自己愛からの解放」という本を読んで、仏や人間といったものについて考察した記事である。宗教とのかかわりは少なく、これが初めての本なので、憶測や誤読が多分に含まれていることをご容赦いただきたい。そもそも、どんな精通した賢者だとしても、主観からは逃れられない。私はまったく賢者ではないが、それでも書かずにはいられなった。
以下では、神と仏という言葉をほとんど同じ意味で用いる。




仏教においての仏

仏教では仏はいろいろな場面で現れてくる。それはお金儲けの為に、お金を払うものは仏によって救われるとか、厳しい修行を乗り越えたものが救われるといったそういう類の話だ。

法然や、その弟子である親鸞、また親鸞の弟子であり「歎異抄」の著者である唯円はまた違った文脈で仏というものをとらえている。

仏というものは、人間を完全な平等のもとにおいて、扱うのである。善い行いをしようが、悪い行いをしようが、彼らを認めるのである。悪行をしたものも、懺悔をすれば救われる(浄土に行ける?)ようだ。

一般的に言えば、殺人者が浄土に行くというのは許しがたいことであろう。しかし、懺悔をした者を許すということと、その行為自体を容認するということは全く違うのだ。仏は人間の行為や、人間の思想など関係なく、人間の全体性そのものを許している。
そもそも、仏が懺悔によって、悪人ーたとえば、性犯罪者や殺人犯をーを許したとて、世間がそれを許すことはないだろう。殺された人やその家族、友人などが彼らがその殺人犯を許すだろうか?

このように人間と神というものは全く別物なのであるだか、人間による許しというものと、神の施す許しというものを混同してしまうことがあると思う。


信仰について

この本では、修行ではなく、仏への信仰ーつまり念仏ーによってのみ、人は浄土に行けると書いてある。
もし厳しい修行が、浄土に行ける道であるならば、貧困者や障害によって修行ができない、難易度が高いという場合、彼らは救われないのだろうか?足が不自由な障害者がもし厳しい修行を達成したならば、相対的に健常な修行の達成者はその修行を乗り越えてないともいえるのではないか。健常の範囲にも特性というものは偏りがあるため、これは全員に当てはまるのである。

だからこそ、信仰によってのみ義となされるのである。

しかし、本当にそうだろうか。信仰によってのみ救われるのならば、脳死や植物状態で念仏を頭の中ですら唱えられない人はどうなるのであろうか。彼らは、むしろ困難に立ち向かっている英雄といえるのではないか。
だからこそ私は人は信仰によって救われるのではないと思う。そのような人間の営みに神は左右されず、無条件に人を救うのだと思う。

人間というものはいかなる振る舞いもするのである。親鸞や法然でさえ、食事において命を奪うということも、人との対立というものは避けられず、ある人や生き物、モノにとっては悪人なのである。
悪人と善人は、現在では法によって強く規定されていると思うが、それは人間の作った法というものがそれを善や悪と認めているだけである。神のもとで、本当に生き物を殺して食べることが善といえるだろうか?それは妥協点を探して、人間が善として認めているだけなのではないだろうか。
このような点において、善人と悪人という二項対立は崩れる。質的な差ではなく、量的な差でしかないからだ。仏は善も悪も判断しない。それをするのは人間である。

ところで、人間の行いは神(仏)によって決められているのだろうか?カルヴァンの予定説などはその最たるものであるが、どうだろうか。この著者はそうではないと主張する。なぜなら、何をしてもそれは運命のせいにできるからだ。殺人を犯しても、それは運命のせいであり個人のせいではないという結果論に陥るからだ。
ここから導き出されるのは、すべて自分が自分の生き方を決め、責任をもつという「自業自得」の考え方だ。信仰も、学問も、善悪も、お金も神は関与しない。それは自分で決めるだけであるのだ。

しかし、私はそれは一般的な自己責任とは違うと思う。それは「自業自得」ではあるが、その人個人だけのせいではないということだ。
noteでは何度も書いているが、人間というものは、その1人だけ(自分だけ)によって構成されるものではない。個人というもののなかに、あの人が構成する部分があって、あのモノが構成する部分があって、社会のイデオロギーが構成する部分があって、遺伝子が構成する部分があって、そうやってできている。
「人間」という漢字は人と人の間と書くが、それは人間一人は、ほかの人によって構成されているということを表している。「自分」という言葉も、「自己の分」と「他者の分」が存在し、自分一人で存在するわけではないということを表している。これは私が考えたものであるから語源的に間違っているかもしれないが、「person」という言葉も、per(「~を通って」という接頭語)がついているように、個人というものは何かが通り過ぎていくものの過程にあるものなのだと思う。
すなわち、個人というもの、「私」というものは他者やモノと存在を分かち合って生きているのではないかと思う。
だから自業自得というのはその個人のせいであると同時に、この世界全体のせいであるともいえるのだと思う。


現代の神は?



現代の日本においては神や仏といったものはほとんど失われていると思うし、私自身もよく分からない。神を持つというのはどのような感覚なのかこれから勉強していかなければならない。
現代はお金が神を超えているとか、「神は死んだ」とか言われることがしばしばある。

しかし、私自身において神とはこの世界そのものである。この世界は、私がなにをしても許してくれると思っている。それは、私が悪いことをして、人間にそれが裁かれることはあるとしても、世界には裁かれないと思っているからだ。
先ほど述べたように、私というものは他者によって構成されているのであり、私自身というものは世界と存在を分かち合っている。だからこそ、私は世界と一体なのであるのかもしれない。そこに私という主体は確実に存在しているのであり、責任を負わないということではない。私が責任をおい、世界も責任を負うのである。そこには、裁く側も裁かれる側も存在しないのではないか。

これは周りの環境に恵まれ、世界を信頼しているという、私のナイーブな要素が影響しているのだろう。だから人に勧めるつもりはない。なぜなら、その考えを作り出しているのも、私の中の世界だからだ。

また神とは人間がなるものではない。即身仏も人間が作り出したものだ。人間は神にはなれない。だからこそ、私が世界(神)と存在を分かち合っているというのは、仏教をはじめとする宗教においては間違っているのかもしれない。しかし、個人的にはここに神とつながるキーが存在していると思うのだ。

「このように暮らし、生活を味わっていくと、人生を味わい、考えていくと、人は必ず仏と出会うようになっている。いわば人生そのものが、念仏せずにはいられないようにできている」

金子大栄という念仏者の言葉らしいが、私もその道の上に立っているのだと思う。


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