客観的に見る自分の愚かさ
ギランバレー症候群になる前の芳子の生活
なんだったんだろうと、今なら分かる。その最中は何が良くて何が悪いかの分別もつかなった自分がいた。
生き急ぐとはこういうことをいうのだろうか。何をそんなに急いで何処へいく。とその当時の自分に言ってやりたいと芳子は想う。自分を大切にしていなかった。
慢性腰痛の身体に鞭を打っていたのは自分で周りの人にも迷惑をかけて、結局は仕事を辞めるという決断になる。
それでもいいから、
「周囲の役に立ちたかった」というのが本音だが、もう、自分は行けるところまでは行った。もうこの考えをおしまいにしたい。ゆっくり身体を休めたい。そう思っていた。
身体を治したいと、今年の1月から思っていた。
芳子は体(特に疲れやすさと慢性腰痛)と身体(メンタル)を今年こそは治したいと思っていた。
今年の1月に入ってからだと思う。天のお告げではないが、ふっと
「からだを治したいんだ」という
言葉が出てきた。それは月日を追うごとに強くなっていって、どうやれば身体が治るんだと思って、あちこちの病院を回ってみた。でも治った試しがない。腰は痛くなる一方だ。
姿勢も悪くなり、整形外科やペインクリニックに行ってブロッグ注射や高周波パルスなどもやった。でも治らなかった。逆に頭が「痛い」という感覚を強くしてしまったのだろうか、腰をつねられたような、ぐいっとねじり回したようなそんな痛みが出て来てかえって悪くなる一方だった。
メンタルもそうだ。躁はそのとき、自分が躁だとは気づかない。鬱になったときに「あの時は躁だったんだ」と気づく。芳子の場合、双極性障害らしく、気分があがったり下がったりが激しくて、それにも疲れていたこともある。
忘れもしない7月29日、筋力低下、ギランバレー症候群になってしまった。
その日は就活で面接が入っていた日だったが、前日から容体が思わしくなく早めに面接は断っておいた。そして救急車で病院へ、2か月半の入院となったわけだが、私のギランバレー症候群の原因は不明だ。
今考えれば、とんでもない毎日を送っていて疲れているのに、就活はするわ、あちこち出掛けるわで自分でもなんであんなに突き動かされて書類を作ったり検索したり、面接に出かけたりしていたんだろうと思う。そして、入院になり、動けなくなり思考も止まった。
ギランバレー症候群になってとても良かったのは「考え方」が変わったことと、体が変わったこと。
今年の1月ぐらいから「身体を治したい」というのはこれだったのかと思うほど、ドンピシャだった。
痛みから注射してその場かぎりの痛みを消すのか
生活のなかで痛みを治していくということが本当に出来るのかと思ったのがリハビリだった。
一度、死の淵に立たされ、痛みとは生きているということだと思えたのもメンタルに多大な影響をもたらした。
人は大病すると学びたくなるのは本当らしい。
noteで書くというのもギランバレー症候群になってまもなく、「この体験を通して、この病気になった人が路頭に迷わないように記録として残しておく」というのが本音だ。
noteのことは以前から知っていてその時はなんだか書けなくて辞めてしまったのだけれど、今回は心を整理することもnoteを書き続ける理由である。なので毎日書かないと、気持ちが安定しない。
芳子の精神安定薬みたいなものだ。
そしてこれから学びたいことはパソコンスキルだ。テキストは書けても、それにつながるいろんな勉強をしたいと考え、すでに行動し始めている。体験には6日に行く予定だ。
もう急がない。休む。迷惑をかけない。先の事を考えず、今のことを考えろ。
未来なんかわからない。先の事を考えてもどうしようもない。と言ってくれたのはリハビリ病院で入院してたとき、同室の患者さんだ。
その人は芳子の部屋をトントン♪と叩いてきて、「おいしいクッキーあるから食べない?」と言ってきた。
部屋に勝手に入ってきて「あなたは福顔だからあなたに悪いことが降り注ぐなんてありえない。大丈夫、安心して。それから、あなたは気を遣う人だから、疲れるでしょう?悪いことには寄り添わない。近づかない。と言ってくれた。
人生はなるようにしかならない。
先の事なんて考えないで、今を生きましょうと話してくれた。
あとで聞いた話だが、この方は80代のおばあさまで認知症で一度寝てしまうと全部忘れてしまうそうだ。でもこのおばあさまのおかげで入院生活を楽しめた。遊びに来てねと住所を教えてくれたが、きっと今頃は忘れているかも。
でも芳子の顔を見るたび、芳子ちゃんと声をかけてくれるようになり、その言葉だけは忘れていなかったのだと嬉しくなった。