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今日も今日とて、犬の道をゆく
筆者の憂鬱
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今日は真面目に仕事をしてきた。真面目に仕事をした日の夜は心配事が少ない。逆に仕事中にサボることが多かった日には、心配事が多い。その日の進捗報告で進捗が芳しくないことが、知られてしまうからだ。隠そうと思ったとて、ちゃんと仕事をしたとき以上に、饒舌に報告できることなど無い。サボった事実が有るということは、負債を抱えることに等しく、将来何かしらの形で埋め合わせる必要がある。きっとそういうふうにできているのだ。
進捗が芳しくないというのは、サボったか、単純に事前の工数算定がうまくいかなかったかのどちらかである。過去に、下手に進捗を盛ったせいで、プチ炎上させたこともある。僕にとって、進捗に対してどう向き合えばよいのか、というのは今の所ホットな課題だ。
独り行くは犬の道
「イシューからはじめよ」にて、脳神経科学の研究者であった安宅は、横軸に「イシュー度」、縦軸に「解の質」とした場合のマトリクスを用いて知的生産性について論じている。彼は、議論の中で、一心不乱に大量の仕事をするという根性論的な方法論を「犬の道」と読んだ。なぜ犬の道とよんだのかは不明だが、標のない獣道を自分の鼻のみを頼りに闇雲に進むような映像が僕には思い浮かぶ。これは生物の本能的な習性であり、犬にとってみればそうすることに何ら不自然はない。しかしながら人間の視点から語られた「犬の道」という言葉は、動物の「本能」に対するアンチテーゼとなっている。
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犬が歩く道の先から漂うかぐわしい香りはなんとも抗いがたい香りがする。そこに本能が刺激されては仕方がないではないか、歩みをすすめるしかない。たどり着いたそこに腐肉を貪る狼の群れが待っていようとも、歩みを止めることはできない。「犬の道」とは、そんな動物的な本能に対して皮肉を言っているのであり、人間の「理性」によって真っ向から対立している。
人間の進む「犬の道」とは、ゴールの存在しない道をゆくようなものだ。常にゴールを求めるものの、あてもなく手がかりを探しているような状況であるから、本質的なところは何一つとして形として存在していない。かくいう僕もそこにスタックしてしまっている。何かしらの展望を持って何かしらに着手したものの、そうこうしないうちに何かに絡め取られるかのように身動きが取れなくなってしまい、一心不乱に彷徨うも、最後にはこんなはずじゃなかったと当初の想定とは全く異なる着地をするのだ。そして諦めとともに、「旅の失敗」という現実と向き合うことになる。そこでようやく、受け入れがたい驚愕の事実を知るのである。彷徨い求めたゴールとは、実は「仮説」段階ですでに"「前提」として存在しなければならないものであったもの"であったと知るのである。
恐ろしい人間の理性
ビジネスというはこういうものなのかもしれないが、理性的であることが望ましいとされている。大人になるまでに、僕らは明らかに本能だけで生きてきたタームが存在し、その後のどこかしらで理性を獲得したのであろう。つまり僕らの中には、本能と理性が幾ばくかの割合で存在しているといえ、僕らは理性の側にも、本能の側にも徹しきれず、中途半端な状態で日々を過ごしている。僕にとって、理性を働かせる場所は自分の職場だけで、それ以外は自分の探究心に従って行動している。独りで生きているという実感もあって友人関係は希薄だから、取り繕ったり、関係を維持するといった営為が発生しにくい。そうしたときに何が起こるかと言うと、相対的に理性の未熟さが際立ってしまうのだ。
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特にコンプラやセキュリティに厳しい上司に相対したときに、僕は無力だ。彼らのスキルや計画性には脱帽するしか無いし、どうしてそんなに仕事ができるのかと、不思議に思う。彼らは当たり前のように理論的で理路整然としていて、理解する力もずば抜けている。僕がサボったサボらなかったで一喜一憂している間に、彼らは、犬の道を無視してイシューから初めて解の質をぐんぐん上げているのだ。僕にはそんな事はできない。僕は、目の前に提示されたものに食いついて一日一日を生きていくのだ。美しいものを見たら美しいと言って、辛いときに辛いといって生きていくのだ。そして理性をもった人間によって僕は淘汰されていくのだ。