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明らかになり始めた感動の皮を被った暴力

新R25というウェブメディアがある。
youtubeチャンネルもあるのだが、そこで先日公開された動画内で、非常に的を射た批判に目からウロコが落ちた。実体験を元に「感謝と感動ポルノの違い」を話している写真家・幡野広志さんへのインタビュー記事も素晴らしく、noteに書きまとめたいと思ったのでここに記す。

「感動ポルノは反撃を許さない暴力」

シビれた。長年の違和感がスッキリまとめられている。
感動ポルノの定義としては
【困難な状況にある人を「感動の材料」として消費してしまうこと】【本人としては良いことをしているつもりでも、結局、相手を一方的に追い詰めいている状態】を指す。

◆ポルノの定義◆

そもそもポルノの定義は以下の通りだ。

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元来は性的要素が強いが、ここでは対象を利用して感動や興奮を呼び起こす行為と言っていいだろう。それは実は「暴力」になりうるという話なのだ。命とか、感情とか、思い出とか、否定しようのないものを楯にして、自分の日常をドラマティックに彩るために、対象を消費する(食い物にする)自己満足行為。直接的ではなくとも、間違いなく一種の暴力だ。

◆志村けんと石田純一の対比◆

動画内ではコロナにかかった二人を、消費された例としてあげている。志村さんは死をもって崇められ、石田さんは生をもって責められた。ベクトルは違うがどちらも視聴者の感情を動かすためにメディア利用されている。この場合、感動ポルノに当たるのは志村さんの方だろう。本当の悲しみは親族や関わりの強い友人たちのものだろうに、不特定多数の人の感動の材料にされてしまった

↑こう書くと「いや私は幼い頃から志村さんのテレビを見続けていて心底悲しんでいる」みたいな人が湧くが、悲しみの正当性を主張する時点で材料扱いしている。順序が逆だろう。悲しいならば黙って追悼すれば良い。

↓死後四ヶ月が経った今でも、ドラマとして消費されようとしている。

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◆医療従事者への感謝は“言葉”だけ?◆

記事の中では医療従事者のコロナ禍における苦労を、「ありがとう」の言葉だけで賄おうとする姿勢にも苦言が呈されている。言う方は気持ちいいかも知れないが、それだけで生活や命を賭けろと言われた方は辛い。「ありがとう」は直接、実感のこもった言葉を吐ける人に許される行為だろう。外野から届く形ばかりの「ありがとう」は、むしろ呪縛になる確率が高い。

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◆終わりを食い物にする人々◆

別のnote記事に書いたが、スマップ解散騒動の折に感じた違和感が、感動ポルノだったのだと、改めて確信した。花摘み、と称された「世界に一つだけの花」の購買促進運動は、そうしたい人たちが、自分の感動のためにそうしただけだった。対象を自分のために消耗して気持ちよくなっている限り、それは感動ポルノにあたる

◆悪意の有無は関係ない、暴力を止めよう◆

この動画の締めくくりのメッセージとして重要なのは、フレーズ最後の「暴力」という言葉だろう。死を悼むのも、終わりを悲しむのも、やり方を間違えれば暴力になりうる。

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勝手に想像したり語ったり動いたりせず、まずは黙って、苦境に立っている人の話を聞く事が大事なのだそうだ。マスメディアやインターネットは数字という自己利益のために必然、典型的な感動ポルノ加害者になりがちだが、善意からくる自分自身の言動が、それに加担してしまっていないかよ〜く考える必要があるだろう。

とはいえ、幡野さんも「やられてみないとわからない」つまり自分が感動ポルノに晒されて初めて、知覚する事ができる、という事だ。

WINーWINを意識する事・まずは黙って聞く事

このアドバイスを時々でいいから思い出して生きていきたい。いつでも、無自覚に被害者・加害者にもなりうる自分を忘れないでいたい。

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