欲望の翼 (阿飛正傳)
ウォン・カーワイの世界。大きく広げたシルクの布に裸で寝転がっているような。芳醇な赤ワインを舌の上で長い間転がしているような。手が勝手に動いてピアノを奏でるような。そんな心地にさせるのが彼の映画であったと、久しぶりに再認識した。今日はちょっと、イタリア映画の紹介はおやすみ。
1年半ぶりだった。夫に子供を預けて、無理やり引き離されて泣くわが子に罪悪感を感じながらも、近所の地下にある映画館に降り立った。けれどもうそんな自分の生活が音から匂いまで全部吹き飛ぶような感覚になり、観終わった後はもう何もかも忘れてしまっていた。あぁこんなにもウォン・カーワイの映画に浸れたのはいつぶりだろうか。「浸る」という言葉が彼の映画には適していると思う。彼の作ったカクテルに溺れるような感覚が間違いなくある。
ウォン・カーワイの作品はいくつかDVDでも持っているのだけれども、久しぶりと感じたのはやはり映画館で鑑賞したからかもしれない。彼の映画は、音楽の良さはもちろん周知の如くだけれど、(マンボの合わせ方の妙と言ったらない)映画館でみるとその音楽はレコードであったりして、その針の音とかが彼の映像の雰囲気とあいまって本当に惚れ惚れする。それにおそらく香港人をノスタルジックにさせる生活音。計算された色彩も。どこからか覗いているみたいな、あるいは夢みたいな不自然にマスクがついたシーンとかも。(彼は映画音楽を作らせない。自分が若い時に聞いていた好きな曲をかけながらカメラをまわす。編集でつけたりしない)
そう、すべて夢みたいなのである。もしくは時間が過ぎると解ける魔術のよう。
「1分だけ僕と友達になろう」
主人公のヨディ(レスリー・チャン)は呪うように女たちを惑わす。彼自身、自分が夢遊病者みたいにふわふわと生きていることに自覚があるから、女とステディな関係にもなろうとしない。彼がそれでも生きている理由は実母と再会するためである。
小説みたいだ、と思うのはセリフに連動する俳優の動き。おそらくウォン・カーワイは小津のような緻密派監督だ。一挙一動指示していると思う。例えばアンディ・ラウ扮する警官が、スーというマギー・チャン演ずるチケットもぎりに心を開いて幼少期の頃のことなどを話しているときは帽子を脱ぎ、また現在の自分のことや職務のことなどを話す時は帽子をかぶる。これは映画によくある手法だとは思うのだが、既視感を感じていてどうも私の中でひっかかっていた。帰宅してから、あれは三島由紀夫監督・主演の「憂国」だったと、すーっと喉のつかえが降りた。(あれはほとんどのシーンで主人公の顔は帽子で隠されている)そしてどうやら私の中では勝手に、三島由紀夫とウォン・カーワイは共鳴している。おそらく2人とも、生々しさにある汚さを排除し、美しく見せることに長けていると私は思う。彼らにかかれば、グロテスクな血も鮮やかに見せることができるというような。
そしてナレーションのような心の声は4人の登場人物各々すべてから発せられる。なので構成がまるでオムニバスみたいで、私小説が4つ縦並んでいるようで面白い。一人一人の夢が入り混じっているみたいな、「私もその夢みたわ」とでも言いたげな構成である。
あとはすれ違いの恋を撮らせたらウォン・カーワイの右に出るものはいない。家の前でかつての恋人を待ち続けるチケットもぎり、電話BOXが鳴るのを待つ警官、フィリピンへ向かう踊り子、電話BOXを何年後かに鳴らす競技場のもぎり、そしてチケットもぎりと過ごした運命の1分を覚えていた道楽息子。そして彼らを包む、香港らしい土砂降りの雨、雨、雨。それぞれを包むようであり、それぞれを隠すようでもある。
実はラストシーン、トニーレオンが唐突にでてくる。全体的にセピア色っぽいシーン。高級そうな腕時計をつけ、札束を内ポケットに、きれいに折りたたんだハンカチを胸ポケットに、タバコをほぐしてまたポケットに。カビ臭そうな西洋風の壁紙(私はウォン・カーワイに出てくる部屋のこういう壁が大好き。「ブエノスアイレス」とかも)あの天井のやたら低い、地下なのか屋根裏なのかわからない、アンティーク揃いの家具の部屋で、そのうっとりするような身支度をする姿は、それだけで美術品だと思うのだが、シーンが唐突過ぎてなんの脈絡もなく斧を振り切られたように映画は幕を閉じる。どんな物語が続いていたのか、その幻の作品をいつかは見てみたいものなのに。
あの髪の毛を櫛で整えるトニーレオンの姿は、まさにイギリス紳士のようであった。私は香港に行くといつも探しているのだが、ウォン・カーワイのような世界を実際にはまだ目にしたことがない。私が広東語がわからないために(映画を見るたびにくやしいと思う)ローカルなディープな域に降りついていないから「まだ」見れていないのか、(日本のトトロの原風景みたいにあるところにはあるの?)それとも「もはや」見れないものなのか。イギリス統治下にあった香港の独特な雰囲気を、彼の映画では残していてくれていること、それだけでも素晴らしい功績だと私は思う。
アーティスティックな映画であると同時に、ちゃんと当時の流行りを抑えている、(つまりジャッキーチェンに代表されるアクションシーンをちゃんととりいれている)ところなどは、彼のバランス感覚なのかもしれないし、単にスポンサーの問題だったのかもしれない。しかしそこもさらっと取り入れているところにやはりウォン・カーワイのセンスが光る。香港の映画業界も、中国という黒幕にこの頃からだんだんと覆われつつあったのだろうと容易に想像できる。
私は実際に香港に住んでいる人たちの自国愛には足下にも及ばないけれども、香港の独特の文化、国民性がすごく好きだ。今このような状況になって香港が変わっていってしまうことを考えると本当に悲しいし、それが当たり前となる今後の世の中を想像すると怖い。本当に香港住民の人たちの苦しみには、想像を絶するものがあると思う。中国化される現地、そしてある人たちはどんどん海外へ流出し分裂していく、そうなると香港のかけがえのない文化はどのような歴史をこれから辿っていくのだろうか。
足の無い鳥の話にちなんで「欲望の翼」というタイトル。また原題とはちがうし、英語タイトル(「DAYS oF BEING WILD」)とも違うのだけれども、これはこれで詩的さが残って好き、翻訳:寺尾次郎の粋な心遣いを感じる。(彼はフランス映画も数多く訳しているけれど、実にすごい人だ)この邦題は、飛び降り自殺をしてしまった、かつての麗しいレスリー・チャンをカメラにおさめた映画という印象を強くしている。とにかくこれは香港の古き良き時代をおさめた香港史上に残る傑作、そして世界の不朽の名作である。
「欲望の翼」ウォン・カーワイ監督 香港 1990年製作