よろめき(ベニスに死す)
ちょっと美によろめいてしまった。身も心もどこかに置き忘れたような。
この心地のまま、リゾットを焦がしてしまった。焼き飯として美味しいよ、なんてフォローはいらない。私は真のリゾットを食べたかったのだ。もうこんなもの、なんにでもなれ。あの焦げ目が忌々しくて、私はフライパンごとゴミ箱に捨てて、ジューーと言わせた。腕の筋肉は重だるかった。
母から急に、彼女の40年前のフィルム写真が送られてきた。私は彼女の人となりが好きでは無いのだが、あの写真に映る彼女は綺麗だと、不覚にも思ってしまった。自分の中に矛盾を感じ、抗えないものの存在に不甲斐なさを感じたから、美というものを確かめたかった。そういう気持ちのとき、私の脳内にはマーラー交響曲第五番アダージェットが流れる。
ヴィスコンティで一番好きな映画は「ヴェニスに死す」だなんて、とてもじゃないけど言えない。何回も見て、いつも涙を流して大好きだけど、おこがましすぎると思ってしまうし、そんなわたしの感情も、もはやまがいもののように感じてしまう。
「美」がテーマのこの映画はそれと相反する、まがいものが数多、それも偽善的に出てくる。(この差し挟み方がなんとも絶妙だと思う)海岸で売られる「Le fragole fresche(新鮮な苺)」(あんなに暑いところで絶対新鮮ではない)、売り子が売る何の石でできているのかわからないネックレス、髪の毛を染める墨、きらびやかな戦前のホテル、礼儀正しいだけのホテルの館長、変な高笑いをするジプシーの楽隊。妻との関係も、もしかしたら主人公グスタフの言い訳がましい回想さえも、まがいものかもしれない。
一方で美の象徴的存在となったタッジオ。ヴィスコンティ伯爵監督下のカメラワークで、彼の美はふわっと溢れかえる。抗えない。虜となる。自分の存在を忘れ、世の中のあらゆる境界線を乗り越えて、虜になる。努力では為し得ない天性の美に。
しかし美には一方でどこかこう、したたかさが表裏一体にあるということをこの映画は教えてくれているような気がする。タッジオははっきり言ってずるい。きっと確信犯なのに、あたかも無自覚のうちのふるまいかのようにして、グスタフを苦しませる。そして母親の前では従順な子犬みたいな表情をみせるところがまた姑息である。美の魔術の掛け方を彼は知っている。(そのヴィスコンティの描かせ方に私は震えてしまう)
グスタフは友人と口論する。「美は努力で到達できる」と主張するグスタフと、「美は天性のものしか存在しない」「芸術は悪魔に身を売ってこそ出来上がる」と彼のポリシーを全否定する友人。しかしタッジオの存在は天性の美であり、またどこか悪魔的でもあるのだ。相反する言葉かと思いきや、タッジオの中で両者共存に違和感がなく、彼の存在はその矛盾の無さを証明しているかのようだ。重層的に双方を実現させている、または別々の層による相乗効果で美を際立たせているのかなんなのか。
話はそれるが、ヴィスコンティはやはりプロと素人を混在させて撮る。それはネオレアリズモ映画の血がそのまま流れているからだと思う。彼はそれが自然な演技を引き出すコツだと考えていた。極端に個人にフォーカスをあてているにしても、たとえセットで撮影していたとしても、リアリズムを常に追求しているという姿勢はずっと変わっていない。
そして美しさへの感度がきっと高すぎる人なんだと思う。(もはやバスタオル1つとっても美しい。)そのため美とリアリズムのバランス、調和が素晴らしい。
デ・シーカなども素人を役者に仕立て上げることは長けていたが、ヴィスコンティのそれは少し違う。素人の中に「美」をすぐさま拾い上げるその何とも非凡な才が、あの彼しか為し得ない美しい映像を作り出しているともいえよう。タッジオ役のビョルン・アンドレセンにしても、ヘルムート・バーガーにしても、「揺れる大地」の漁村の民にしても。
この映像は私を浄化してくれるわけではないのだけれど、私自身をもはや海岸の白砂のようにして風化させてくれる。今日はそんな心地のまま眠りにつくとしよう。