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今日はちょっと現代の映画にも触れてみることにする。
イタリア映画はどうしても日本で認知度が低いからか、おかしな邦題にされることが多い。イタリアをすぐに連想できるタイトルにしようとしているんだと思う。「明日のパスタはアルデンテ」はその際たるものだと思う。良い映画なのに邦題がダサくて、そういうイメージのまま見始める人は勿体ないと思う。原題の”Mine Vaganti”(浮遊機雷)は転じて、「何をするか分からない危険人物」という意味でイタリアでは使われている。これは主人公の祖母がそのように呼ばれていたことに起因する。
フェルザン・オズペテク監督作品。2010年だからなんだかんだ10年前の映画である。彼はトルコ人ではあるが現在イタリアを代表する映画監督である。またゲイであることを公表しており、LGBTをテーマとした作品が多い。軽快なテンポで展開するストーリーなので割とのめり込みやすい。いつも彼の映画はエンターテイメント性の高い、見やすいものが多いように思う。LGBTに向き合う映画というのは特にイタリア社会においては重要だと思う。なぜならイタリアは、女性の方が一見強いイメージがある一方で、結局保守的な男性社会の国だからだ。(私自身もイタリアでウェディングドレスを着て歩いていたら「男の子が生まれますように!」と知らない人から祝福の言葉をかけられたことがある)
舞台はLecce(レッチェ)というプーリア州の都市でちょうどイタリアのブーツのかかとのあたりに位置しているところ。青空に、透明度の高い海、そして真っ白いバロック建築に囲まれた街である。ローマの大学を卒業して故郷のレッチェに帰ってきたトンマーゾは、家族にある告白をしたいと意気込んでいた。①ゲイであること。②大学では経営学部ではなく、文学部を卒業したこと(もともと家業のパスタ工場を継ぐという名目で大学に通っていた)③小説家を目指していること。それを兄が新社長となることが正式発表されるパーティーでアナウンスするつもりでいた。しかし、そのパーティーで自分がゲイだと告白したのは、兄だった。
この物語には様々なMine Vagantiが登場する。ここでは割とコミカルに描かれているが、本当の自分を誰に対しても曝け出す困難さは、多かれ少なかれ誰もが常に抱えている問題である。
祖母が出てくるシーン、もしくは若き頃の回想シーンだけセリフ回しが戯曲のようである。おそらくあの部分はトンマーゾの小説に書かれているという設定なのではないか。私は祖母が最後お化粧をして身支度を整え、ドレッサーの鏡の前で宝石のようなケーキをたくさん食べるシーンが好きだ。オズペテクの映画は食べ物に非常にこだわっていて、特にDolciを美味しそうに輝いているように撮ることを心がけていると思う。(オズペテクの映画にいつも出てくるPastecceriaがローマにあるのだが、そこのDolciをいつも食べたいと思っている)
映画をコミカルに進行させるためだろうか、いわゆる”オカマ”の典型的なイメージ、マッチョなのになよなよして女言葉を話す主人公のゲイ友達がたくさん出てきて、そこはなんだか引っかかる。しかし主人公の医学部出身の彼氏が、抑制のきいた声で、主人公のお母さんに「ゲイは病気では無いです」と言ったりするのが、LGBTへの偏見をもつ層の人々に説得力を持たせてるのだろうか。
この映画で驚いたのは”オカマ”という意味のイタリアーノスラングがたくさん使われていることだ。frocio, finocchio(フェンネル)Orecchini(ピアスという意味だが、耳に髪をかける仕草がオカマっぽいので、そう呼ぶらしい。髪の意味でCappelloneと呼ぶ地域もあるようだ)やはり隠語で話さなければならない、そういう社会環境であるということだろう。
LGBTの課題には触れてほしいと思いつつも、私はこの映画の主題としては、主人公の祖母の話にフォーカスをあてて作っていくほうが、静なる自己実現力の強さがきれいに表されてよかったのではないかと、勝手に想像してしまう。実際祖母の若い時の回想シーンの美しさをみると、本当はここを描きたかったんじゃないの?オズペテク?と勘ぐってしまう。きっと監督はバランス良い映画を作る人なので、それは単に私好みなだけかもしれない。
しかしなんだろうな、現代がやはり映画の時代から外れている感じがするのは。自分の心の奥深くが震えるような映画がなかなかない。こういうストレートなメッセージ性のある映画がやはり多くて、(もちろん受け入れられやすいということは良いことだ)メッセージを伝えること自体は悪くないのだが、やはり見ていて受け身になってしまう映画が多い。昔の映画は、完成されているもののはずなのに、もっともっと対話があるような気がする。余白があって、巻き込まれる。なんでだろうな。スポンサーとか予算的な問題とかは今も昔も同じだったと思うのだが。憶測だが、技術が発達し過ぎたということも影響しているんだろうか。前にイタリア人の友人ともそういう話をしてたのだが、私もうまく伝えられなかったし、結局答えらしい答えは出なかった。実は今回一番言いたいことは、この映画のことよりもそういうこと。
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