じっと抱きしめて 与謝野晶子と月光荘 銀座花伝MAGAZINE Vol.51
#与謝野晶子 #月光荘 #じっと抱きしめて愛す #はかなさの美学
立春から春分の間に吹く、暖かい南からの強風、いわゆる「春一番」。今年は暦よりはるかに早く銀座の街路樹の葉を揺らしている。
この街では街路樹以上に街路灯のフラッグが大きくはためいている景色の方が印象に残る。「2024.3.3 TOKYO マラソン」の文字が、人々を鼓舞するように上下左右に大きくたなびいている。WAKOの半円形のウインドウには、マラソンスタートまでの時が刻々と刻まれていて、いやがうえにも緊張とワクワク感を高鳴らせている。
街角から様々なワクワクを生み出す街。その情熱の先には、いつも老舗創業者たちの生き方が見えてくるのもこの街ならではである。
銀座は、日本人が古来から持ち続ける「美意識」が土地の記憶として息づく街。このページでは、銀座の街角に棲息する「美のかけら」を発見していく。
1. じっと抱きしめて愛す 神様に届く歌
ー与謝野晶子と月光荘ー
モノローグ
音楽好きな方ならご存知の音楽の世界的な祭典といえば、「グラミー賞」である。グラミー賞とは (Grammy Awards) を指し、全米レコード芸術科学アカデミー(略称NARAS)が、毎年最もすぐれたレコードアーティストを部門別に表彰するために設けた賞だ。1959年に始まり、今年で66回目、58部門の賞がある。
受賞候補者のノミネートを見て驚いたのは、候補者のほとんどが女性であり、シンガーソングライターであり、ジャンルをクロスしているという事だった。音楽にはジャンルが大きく分けて6つあり、ポップ、ジャズ、R&B、ロック、アメリカンルーツ、オルタナティブ、クラッシックとあるが、そのジャンルを跨いだクロスオーバーな曲が主流というのだ。
今年、2月に行われたグラミー賞で、最高賞・最優秀アルバム賞を受賞したのは、テイラー・スウィフトだった。米国を中心に世界中の幅広い世代から人気の彼女だが、特にZ世代からの絶大な支持には定評がある。米国大統領選挙も彼女の支持表明によって大きく形勢が変わると言われるほどの影響力だ。前回の大統領選挙では、バイデン氏を支持して辛勝させた事も記憶に新しい。
これまでの受賞者にはスティービー・ワンダー、ポール・サイモン、フランク・シナトラらレジェンドがずらりと並ぶが、彼らでさえそれぞれ3回、今回のテイラーの4回目の大賞受賞は、新記録の樹立としてネットを賑わせた。これ以外のことで特徴的なことは、そのほかの部門受賞者も、ジャンルをクロスさせて創作する女性たちばかりだったことだ。
この音楽界の現象を見ながら、女性の時代到来という陳腐な言い方を通り越して、女性が本来持っている力が女性たち自身によって当たり前に表出され、それを明らかに世の中が受け入れているという意味で、女性と男性を殊更に分ける意味がなくなった時代が来たことを象徴しているのではないか、と実感する。
翻って、日本の女性の歴史を振り返った時、男尊女卑の社会通念が通底にあり、女性が自分の意見の表明や経済的な自立が難しかった明治時代に、新しい短歌をもって「心をそのまま詠む」「女性の自立と自由を詠う」ことで古い通念を打ち破っていこうとした女性がいた。革命歌人との異名を持つ与謝野晶子である。同時代の「女性の政治参加」を訴えた平塚らいちょうよりさらに高み、即ち「女性の経済的自立」を自分の人生で実践した晶子の先進性には尊敬を禁じ得ない。
グラミー賞の「歌」と短歌の「歌」との違いはあれど、女性たちが世の中に発信している心の叫びとして胸に響いてくると感じるのは、筆者だけだろうか。
「歌」の語源は、「神様に訴える声」「祈る声」であるというのだから、その共鳴はさほど見当違いではないように思える。
偉人たちが育む 文化が膨張する街
銀座という街は、時代の偉人たちがパレードしているような街である。まさに偉人列伝を地で行くような明治時代のパレードの最前列に並ぶのは、服部金太郎(和光創業者)、御木本幸吉(ミキモト創業者)、渋沢栄一(実業家)、夏目漱石(文学者)、与謝野晶子(歌人)、白洲正子(随筆家)、北大路魯山人(陶芸家)、柳宗悦(思想家)、、、
その顔ぶれを眺めるだけでも、商業、事業、文学、短歌、芸能、陶芸、哲学とこの街がいかに激動の近代文化を育む場所であったかが分かる。偉人達が紡いだ文化とともにこの街は膨張してきているのだ。
時代の価値観を劇的に変革した与謝野晶子が愛し、育てた老舗が銀座にある。国産絵の具を発明、製造し、近代黎明期の画家達を大いに励ましその創造を支えてきた画材店が、創業113年の「月光荘」である。創業の精神には、与謝野晶子の反骨精神、文化を愛する情熱が込められている。
与謝野晶子が生み出した新しい文化と、その意を継いで今に「色」の文化を伝える、老舗「月光荘」の情熱を追った。
◆与謝野晶子の美意識
生涯に5万首もの歌を詠んだ歌人としての才能、女性の地位向上への深い貢献、多岐にわたる文化活動、そして社会的な制約を超えた勇敢な生き方は、今日の私たちに多大な影響を与えている。ことに『みだれ髪』や『青鞜』を通じて示された女性の自立の精神、そして文化学院(日本初の男女共学の実現)の創設による教育をはじめとした社会への貢献は、現代においても色褪せることがない。
与謝野晶子という歌人には、あらゆる方面に文化の革命を起こした「革命歌人」という異名もつく。その多面的な顔を持つ与謝野晶子の根底にははいかなる美意識があったのだろうか。
革命歌人の誕生
平安時代以降、日本文学の一翼を担ってきた短歌は,明治期になっても伝統的な「花鳥風月」の風雅を重んじる形式を踏襲していた。そのような伝統的歌壇に挑むかのように,女性の側からの赤裸々な恋情の吐露や、妖艶な肉体美や性的隠喩を織り交ぜて歓びを高らかに謳い上げる女流歌人が彗星の如く登場したのだった。少女のように直裁な恋愛至上主義、さらには女性の自我の確立という信念を胸に、それまで歌壇を支配してきた伝統的道徳観念に対して勇猛果敢に挑戦を試みて行ったのである。そして、古い慣習を完膚無きまで打ち破り、閉塞感に不満を持っていた若き大衆たちから拍手喝采を浴びることで、一躍、人気抒情歌人としてスポットライトを浴びることになる。
このようなまるでジャンヌダルクのような登場劇が革命歌人と形容される理由となっている。
千年前の「はなかさの美」の発見
近代になって真の意味で『はかなさの美』を発見したのは、歌人・与謝野晶子だったと言われる。12歳からの恩師は「源氏物語」だった、と語る晶子。「はかなさ」にある無常なる風情をその言葉を以て詠った近代における最初の人だったのである。晶子の美意識の根底を探るために、古からの「はかなさ」という美意識の変遷を辿ってみよう。
和泉式部の美意識が原点
今を遡ること遥か千余年、「はかなさ」に美の方向を示したのは平安時代中期の歌人・和泉式部だった。この天性の歌人の心になぜ「はかなさ」が深く宿ることとなったのか、それを探るためには式部の生の背景を少し知る必要がある。
和泉式部の歌才はかねてより世間に聞こえていたが、一方では「浮かれ女」と不品行の風評がまことしやかに流れていた人物だった。実際そこには、彼女の才能やモテぶりへのやっかみがあったことは否めない。「文(ふみ)」が男女の仲をとりもった時代、稀代の才女の当意即妙にして色香漂う送り文が、相手の関心を強烈なまでに惹きつけたことは推して知ることができる。しかも文によって火の点いた恋がそのまま男女の仲となっていっそう燃えたことを見ても、式部は人柄や容貌もまた男心を捕らえる女性であったのだろう。
ところが、彼女は死別を運命づけられた悲劇の人でもあった。女童として仕えた内親王の死、恋人であったふたりの皇子の死──式部はそれら大きな悲劇にわずかな月日の間に見舞われた。
夢よりもはかなき世の中を、嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下暗がりもてゆく。
(和泉式部『和泉式部日記』1004年)
『和泉式部日記』は、和泉式部がときの天皇・冷泉帝の第四皇子・敦道親王(帥宮)との恋の日々を描いた日記文学である。帥宮は式部の恋人であった為尊親王の同母弟。ふたりの恋は、帥宮が兄の死後、式部の近況を気遣って文を送ったことから始まる。その恋の日々は3年にも満たず、帥宮の死によって終わる。帥宮の死後、深い悲嘆のなかでふたりの相聞歌を織り込み、恋を偲んだ鎮魂の物語が「和泉式部日記」だった。
王朝文化を継ぐ人々
王朝文化が花開き雅やかな歌詠みが盛んであったその時代に、清少納言が『枕草子』(1008年)で、
「九月二十日あまりのほど、初瀬に詣でて、いとはかなき家にとまりたりしに」
と綴っている。
当時はまだ「はかない」は「小さい」「粗末な」「弱々しい」「ちっぽけな」「心許ない」といった形容詞的使用に留まっていた。
その「はかなさ」に、恋と歌に命を燃やしながら、後年の“わび・さび”の美意識へとつづく日本的な情緒を見出していったのが和泉式部だった。
詩を書くにも歌を詠むにも、また物語を書くにも、文学を志すすべての者は、彼女のつけた道筋と柔軟で鋭敏な感性が示す教えを、その後踏襲していくことになる。
そして清少納言の時代から時を経ずして、「はかなさ」がひとつの美であるという意識が生まれ、いつしか歌のみならず文学全般において底流となっていったのである。
平安から100余年の後、出家した吉田兼好は、ものごとは常ならず移り変わるからこそ美しいのだ、とその悟りの境地を『徒然草』にしたためた。そして江戸時代後期には、本居宣長が「はかなさ」の美意識を包括する「もののあはれ」の思想を提唱するに至るのである。
新しい言葉の意味が未来を開く
新たな意味をまとった「はかなさ」
色の失せた葉がはらりと落ちる様子、命短い蝶がひらひらと舞う姿に「ああ、はかないな……」と詩的な感慨を持ってほんのひととき別世界を揺蕩(たゆた)う心地を味わう日本人の感性。
明治・大正期から、「はかなさ」が美しさを伴うものだという意識が鮮明になっていた。美しさには常に「はかなさ」がつきまとうのではないか、という見方さえ生まれてきた。
近代にそれを受け継いだ晶子による「はかなさ」の中の美の発見は、文学的、人間情緒的に計り知れない価値をもたらす快挙であったといえそうだ。
木の間なる染井吉野(そめゐよしの)の白ほどのはかなき命抱く春かな
(与謝野晶子「白櫻集」/1942年)
はかなきは恋することのつたなさの昔も今もことならぬこと
(与謝野晶子『夏より秋へ』1914年)
因みに美を説く「文学の世界」に留まらず、現代人が蝉の抜け殻を無下に踏み潰したりせずそっと掌に載せ、そのいたいけな7日間の命に涙する感性をもちあわせたのも、王朝文学のこうした意識変革のおかげとも言えるのだとか。
言葉に魂をのせる ー芸術家を支え続ける晶子の人生
明治の日本では、ヨーロッパの詩の影響で短歌革新運動が起こり始めていた。革新運動の主唱者の一人である与謝野寛(号鉄幹)は1899年(明治32) 文学結社「東京新詩社」を結成し、翌年に機関誌『明星』を創刊。『明星』に作品を投稿するようになっていた晶子が鉄幹と出会ったのも必然で、強く芸術的な共鳴をし合う中となり二人は結婚することになる。
もとより晶子が1901年(明治34)に出した第一歌集『みだれ髪』は当時の多くの青年たちの心を捉え、晶子は明星派を牽引する存在になり、当時の文学界に大きな影響を与えることとなる。
日露戦争中の1904(明治37年)に発表した長詩「君死にたまふこと勿れ」は従軍中の弟籌三郎の身を案じて詠んだ詩だが、内容が国賊的であると批判を受けながらも、晶子はまことの心を詠んだだけであると主張し、一歩も退くことはなかった。そして彼女の名声は次第に夫の鉄幹を凌ぐようになっていく。
新時代の歌人として一世を風靡し、明治歌壇の風雲児として栄華を誇った鉄幹であったが、1905年(明治38)「鉄幹」の号を廃して、本名の「寛」に改めている。歌才を失い、色褪せた歌人に成り果てていく寛は、絶頂期があまりにも短かっただけに,その急激な周落によって強烈な失望感 や喪失感をもたらし,歌人としての生命が絶たれたかのような鬱屈した心理状態に陥ってしまう 。北原白秋、吉井勇、木下杢太郎等が新詩社を脱退し、1907年(明治40)、時代を動かした「明星」が廃刊となる。
極貧生活の始まる中、その危機を救おうとしたのが、晶子だった。当時7人(その後11人の子供を育てる)の子供と夫を支えるために全力を挙げて作歌に励み、生活費とともに養育費を稼ぎ出し続けた。それを実現してみせるところに、浪速 の商家生まれ特有の逞しさや粘り強さ、そして生活力が備わっていた。さらに驚くことに夫の再生を願って、パリへの留学を勧め、その資金作りに奔走したのである。1911年(明治44)パリに旅立つ寛のために、送別会が開催されるが、そこには森鴎外、高村光太郎、永井荷風、佐藤春夫、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎 など、錚々たるメンバーが顔を揃えた。そして、寛の心機一転の門出には、晶子は横浜港から神戸港まで同船して送り出したという。なりふり構わず夫を精神的にも経済的にも支え続けたことを象徴する逸話が残っている。
その後、晶子が渡仏するために、晶子の才能を応援していた森鴎外が新聞社や出版社、歌壇の仲間たちに声をかけ支援金を作り出している。
激動のこの時期に詠まれた短歌『夏より秋へ』には、ヨーロッパ逍遥による新たな感性が溢れ出ている。
<私の心は今日、少しの曇りもなく広々と輝いて流れている川のようです、と 弾んだ気持ちであなたに手紙を書いていますよ。>
<美しい言葉を断たないならば、耳を貸しましょう。オウムではないでしょう?傍らにいる男の人よ>
<ひっそりと物悲しげな、思案に暮れたような息づかいをして、柳の木の
奥から月が上ってくる。>
<過去の生活を思い返せば嘆きがあった。未来の生活を考えると不安がよぎる。過去の嘆きと未来の怖れと両方を抱きながら、自分は唯、今を楽しんでいる。>
「歌はどうして作る」
与謝野晶子の詩のタイトルだ。
社会を鋭く見つめ、その不条理さえ抱きしめて愛した彼女ならではの生きる情熱にあふれている。近年になり多くの合唱曲に編成され歌われることが多くなったことで、楽曲として知る人も多いことだろう。この精神が、与謝野晶子の愛の根源であり、全てだったのだろう。
◆「月光荘」創業者の夢を愛した 与謝野晶子
1913年(大正2年)の話である。
その頃、寛・晶子夫妻は、仏から帰国したばかりの時期で、翌年晶子は詩歌集『夏より秋へ』を刊行し、同年には寛との共著・紀行文『巴里より』、童話集『八つの夜』を矢継ぎ早に刊行していた。一時廃刊していた『明星』も再刊の兆しが生まれ、夫妻は文化活動に精力的な日々を送っていた。
その頃の夫妻の住いは九段にあった。YMCA主事・フィッシャー氏の向かいが夫妻の住居だったようだ。そのフィッシャー氏の家に住み込みの書生として働いていたのが、その後「月光荘」を創業する18歳の青年、兵蔵であった。
かねてより晶子のファンだった兵蔵は、晶子の歌集を抱いて、その門前に立ちドアベルを勇気を振り絞って押した。田舎風情丸出しだった青年を寛・晶子夫妻は快く招き入れ、当時主催していたサロンに出入りする芸術家たちに紹介し仲間に入れてくれたのだという。
そのサロンは、雑誌「明星」に集う、北原白秋、石川啄木、高村光太郎、などの詩人や、藤島武二、梅原柳三郎、有島生馬、岡田三郎助などの画家たち、また建築家や歌舞伎役者などジャンルを超えた人々の熱い溜まり場だった。
『月光荘』とは、日本初、国産絵の具を誕生させた画材店の屋号である。その店名を晶子が命名、サロンに集った芸術家によって、育てられていったという歴史をこの老舗は持つ。晶子の言霊や人脈がその後店を成長させ、日本になくてはならない名店となっていく。
「月光荘」創業者・兵蔵の人生と開業の詳しい経緯については後述するが、まずは、兵蔵が店を開業する際に、晶子と交わした約束について話そう。
「月光荘」の店の名を付ける
最初に与謝野家のドアベルを鳴らしてから2年後のこと。兵蔵23歳、いよいよ店をオープンさせる直前のことである。晶子は、兵蔵を自宅に呼び出した。
兵蔵を座敷に座らせ、開業のはなむけにと、歌を一首詠んだのである。
「大空の 月の中より君来しや ひるも光ぬ 夜も光ぬ」
〈あなたは大空にある、月からの使者。昼のあいだも夜と同じように優しく光っています。〉
芸術家の作品が太陽だとすれば、絵の具屋はそれを支える月の光。良い時も悪い時も、変わらず照らし続けなさい。
そんな思いを与謝野晶子は歌に込めた。
そして、フランスの詩人ヴェルレーヌの『月光と人』という作品から引用し、「月光荘」という店名を命名したのである。晶子直筆の「月光荘」の名を刻んだ篆刻が、現在も店の入り口に掲げられている。
ホルンの音の元にあつまれ!
店のトレードマークは「友を呼ぶホルン」になった。与謝野夫妻を中心とした当時の文化グループ(小山内薫、芥川龍之介、島崎藤村、有島武郎、初代猿之助、森律子、藤島武二、岡田三郎助など30数名)が集まり共に皆で考え、「一人でも多くの仲間が集いますように」の願いが込められたという。
店の設計は、藤田嗣治の監修によるもので、パリの街角をそのまま移したような当時としては斬新な作りの店構えだった。その珍しさがウケて、さまざまな映画のロケーションとしても使われたのである。店員も背の高いフランス人女性を起用し、当時としてはハイカラな絵具屋「月光荘」は1927年(大正6年)に開業したのである。
経営の指南
開店後の金銭面を心配した晶子は、自分の名刺に「私の友人」と書き記したものを兵蔵に持たせて、経営指南を学ばせるために、成功していている経営者を訪ね歩かせた。相談に乗ってくれたのは、新宿中村屋の主人・相馬愛蔵、富山出身で富士銀行創始者・安田善次郎、生活協同組合初代会長・賀川豊彦らでその人々から、経営のイロハを教わることができたのである。
「売れるものを考えるのではなくて、人が喜ぶものを売ること」
「自分で売るものは自分で作り、自信のあるものだけを売りなさい」
「売りたいがための値下げで、安売りなんかをしてはいけない。そんな絵の具に飛びつく画家はきっと大成しないはずだから。どんな時でもお金の奴隷になってはいけないよ」
これら経営者たちの言葉を胸に刻んで、日本の芸術家たちのために、それまで輸入一辺倒だった絵の具より品質の優れるものを、国内で製作し販売に乗り出す決意をするのである。
日本、そして世界の芸術家たちを喜ばせる
そして、兵蔵は誠実で夢を失わないその生き方から「月光荘おじさん」と親しみを持って呼ばれることになる。
筆者が開催している銀座散歩ライブで「月光荘」3代目・日比康造氏に祖父である創業者のお話を伺ったことがある。そのお話には多くの人々から感謝され、親しまれていた兵蔵の功績と人柄が浮かび上がってくる。老舗の歴史と人々との交流を語り継ぐ、月光荘おじさんの手による「月光荘しんぶん」から、そのエピソードのいくつかをご紹介しよう。
リンゴ畑のフジタさん ーレオナール・フジタ
「第二次世界大戦の時は、パリでも食糧難になりました。藤田嗣治先生と猪熊弦一郎先生が、パリ郊外へ連れ立って写生に出かけ、偶然りんご畑を見つけました。身体の大きい藤田先生が猪熊先生を肩車してりんごを失敬していると、そこへお百姓さんがまわってきました。 おっと、こりゃまずい、猪熊先生は慌てて肩からずり落ちる。ところが、このフランス人のお百姓さんは、「もっと取りなさい。ポケットいっぱいに詰めて、お腹いっぱいにしなさい」と言ってくれたというのです。異国の、しかも敵国の画家にこのご親切とはと、お二人の口からよくお話を伺ったものです。」
(中略)
平和な時、波風のない時、人の本心は中々見えません。非常時になって初めて分かる。人の親切も真心も。人間に国境はありません。人の足元を見るような商売だけはしたくないのです。
与謝野晶子先生が、
「あなたは学問はないけれど、良心と勇気があるからきっと良い仕事ができるよ」
と言ってくださいました。そんな取り柄があるのなら、それを死ぬまで無くさずに仕事をしてゆきたいと思うのです。
マッカーサーと契約する
第二次世界大戦の記録絵は、すべて月光荘軍納エノグで描かれています。スターリンの肖像画を佐藤忠良先生は抑留中のソ連で、ノルマで何千枚も描かれたそうです。あげくの果て目をつぶっても描けると。そのエノグは満州で没収した月光荘軍納エノグであったそうです。
戦争絵画はアメリカへ移送されることになりました。そこでGHQ修理用エノグが必要になったのです。
「絵の具ならお国にありましょうに」
と申し上げると、マッカーサー元帥が、
「この大戦下でエノグを作っていたのは世界中で一人だけだった。君はヒーローだ」
と手を差しのべられ、契約しました。GHQのケーティス大佐が直々に店へ小糸二世日本人軍人を伴ってこられました。オヤジが、
「支払いは店へお持ちください」とこちらの習慣を言うと、従者たちの目に一瞬殺気が走りました。敗者が何を生意気言うかと。
けれど大佐は、
「そんな店も一軒ぐらいあっていいだろう」
と私の主張を通してくださった。
「郷にいれば郷に従え」
国は占領できても、伝統の職人魂までは占領できないことを大佐はわかってくださったのでした。そして大佐は職人との取引の仕方をその日のうちにアメリカ軍全部の民生部長へ伝えられたと、横須賀海軍基地の民生部長マット氏から伺いました。
後日、エノグを取りに来られた二世の軍人が、
「日本のことわざを知らんので通訳できず、今撃たれるか、今かとおどおどするだけだった。このショート劇を二世のみんなにするのだ」と言われた。
ケーディス大佐は帰国の際に、
「日本でできたたった一人の友達が君だよ」
とお別れにおいでになりました。再開を約し固くその手を握りしめました。
第二次世界大戦前は英仏エノグの独走でしたが、戦争で炉の火は落ちました。月光荘が火を落とさなかったのは、情熱の炎があったからです。ひたすら純度を求めて駆け続けた。
工業用顔料は油エノグ用のような純度や、油との馴染みに関係なく、大量の用途があります。油エノグは雀の涙ほどで自家炉を持つしかありませんでしたからなお大変でした。
海を渡った筆洗い器 ー猪熊先生からピカソまで
猪熊弦一郎先生のアトリエいっぱいに広げられた新聞の上に、汚れた筆洗油の入った器と、洗ったばかりの筆が並べられていました。私が、
「こんなに汚れた脂ではきれいにならんでしょ?」
と聞くと、油がもったいないからとの返事。先生は、
「器の底にこびりついた絵の具を剥がすのに半日かかるし、使いかけの筆をそばに置くと互いにくっつき会うのが悩みのタネだ」とも言いました。
オヤジはその日、筆洗い油の汚れない方法と、筆同士がキッスしない方法とを宿題にして帰りました。
筆洗い器を二重底にすれば、絵の具カスだけが下に落ちて、油は汚れづらいことに気がつきました。
さらに一年ほどして映画を観ていたとき、それは手術シーンだったのですが、湯気の立っている筒にラセンが張ってあって、そこにメスを次々に差し込んでいるのをみてピンときた。これを筆に置き換えれば一石二鳥と、ブリキ屋に見本を注文。3年間何度となく試作品を作らせたが、これもダメ、あれも不満、とうとうブリキ屋から、
「勘弁してくれ。もう金銭じゃない。私の脳ミソはこれ以上カラクならんので」(原文のまま)と断られる始末。
画箱職人とともにやっと満足のいく物を手にできたのは5年目。猪熊先生のところに走ったら、
「こんなのがほしかった。絵になる」と一言。いっぺんに苦労が吹っ飛びました。やがて特許がおりました。
これを洋画家の国沢和衛さんが、パリにいた藤田嗣治先生に持っていったら、
「見ているだけで楽しいよ。オヤジは今でも考え続けているのかい」と。
そしてパリの洋画家・関口俊吾さんがピカソを訪ねたら、ピカソが言いましたと。
「日本の画家はいいな。便利なものがあって」
ふたに刻まれたホルンが何とも懐かしかったよ、と関口さんが言いました。
私の好きな色ーいわさきちひろさん
「もも色をいつ頃から好きだったか、覚えていない。私の持っていたクレヨンはみんな、もも色が一番小さくなっていた。もも色の次は藤色、そして淡い水色・・。少女雑誌の口絵なんかでローランサンの絵を見たときは本当に驚いた。どうしてこの人は私の好きな色ばかりで、こんなに優しい絵が描けるのだろうか」
そうオヤジに話してくれた。
ローランサンに胸をときめかせた少女は、のちに自分がもっともっと沢山の少女の心を揺さぶる絵を描くようになるとは思っても見なかったのです。
少女の名前はーいわさきちひろ。
我が尊敬する バーナード・リーチ先生
バーナード・リーチさんとの(いや、正しくはその作品との)出会いは、今を遡る60年(1980年当時)も前のことです。つい先頃、懐かしさにこらえきれずに、イギリスはセント・アイヴスのリーチさん宛、次のようなお便りを出しました。
「わが尊敬するB・リーチ先生へ
先生の“日本の心”を毎日新聞で読んだら、懐かしさが込み上げてきて、とうとうこのお便りを差し上げることになりました。濱田庄司さんが英国からリーチ先生の水指、計13個を持って帰られたのはもう60年も前のことです。それ等の作品は銀座の鳩居堂の2階に並べられ、買い手のつくのを待っていました。
当時、私は小さな画材屋のオヤジでした。リーチ先生の作品に触れたこともありませんでした。その私が先生の壺の前に立った時、何かわからない震えで心を強く揺すぶられたのです。
どの位、突っ立っていたか知れない。
値段は、とみればとうてい私には手が出ない。何しろその頃の大学出の月給に等しい45円もの大金なのです。
一旦店を出たものの、どうしても諦めきれず、私の足はまた鳩居堂の階段を上がっていました。清水の舞台から飛び降りるとはまさにこのことでした。
家内にどうだい、と自慢げに差し出したら、カミナリが落ちました。
「明日から何を食べていくの?」と。
後悔はしたけれど、それでもこの名品を手に入れたことを悔いはしませんでした。
丸一年経ちました。何気なしに鳩居堂の2階に上がると、去年と同じあの場所に、なんと残り全部がまだ並べられているではないですか。ついふらふらと1個買ってしまったのです。
3年目がやってきました。残りの仲間が寂しそうに私を待っていました。また1個。私のツボは4個になりました。
4年目、計10個が・・・
(中略)
結局、鳩居堂の番頭の申し入れを受ける形で、13個全てのツボが私のものになりました。
(中略)
濱田さんの益子のアトリエをお尋ねした時に、このお話をしたら、
「リーチ先生が聞いたら懐かしがるでしょう。日本へいらしたらきっと見せてあげてください。私も見せて欲しいものです」
と言われました。」
そして、ある日、月光荘に1通のエアメールが届きました。差出人はLEACHと名前が読めました。リーチさんは90歳で目が見えないので、この手紙はリーチさんの日本語を耳で捉えた人(奥さんでしょうか)がローマ字で書いてくれたものです。
「・・・日本人(自分の心は日本人だからの意味)だから、あなたの気持ちが分かりました。泣きそうな気持ちです・・・」
点ポチブックのアメリカ記
ニューヨークから来たという、その青年の差し出したメモには、“私の友人の店・月光荘の隣に帝国ホテルがある”と書かれていました。確かにホテルはとなりにあるに違いないけれど、とそのユーモアに二人で笑ってしまいました。
ことの起こりは、ロックフェラー夫人が持っていた月光荘点ポチ便箋にあるらしい。あれを見た建築家が、これぞ設計図にうってつけと、東京に来た折に、銀座で買い出しをするため立ち寄ってくれたのでした。
10年ほどたったある日、建築家の吉村順三先生が店に見えました。トレーシングペーパーの点ポチブックを40冊持って、
「こりゃ重いな!」
一度にお持ちにならなくても、と申し上げたら、
「いやニューヨークからの頼まれものなんだよ。ロックフェラー家の茶室を作りに行ったら、建築家がこの点ポチブックを見てぜひにと言うので」と。
お庭の広さを先生にお聞きしたら、
「世田谷区より少し広いかな」というお返事をいただきました。
◆虹を渡りたかった、少年 ー創業者の夢ー
世界の人々と絵の具作りを通じて交流した、月光荘 創業者・橋本兵蔵という人物の背景(プロフィール)を少し語ってみよう。
1894年(明治27)、「月光荘」創業者の橋本兵蔵は、富山県中新川郡に生まれる。北アルプスの雪解け水が日本海に注ぐ、自然豊かな街で幼少期を過ごす。好奇心旺盛な兵蔵は、山野を駆け巡っては草花の素朴な色合いに心ときめかせ、鳥や虫たちと暮らす毎日だった。
そして、空にかかる虹を見ることが何より大好きで、
「俺、あの虹の橋を渡ってみたいんだ!」
と先生の制止を振り切って駆け出していくほど、自然の美しさに惹きつけられている少年だった。
貧しい暮らしの中で、兵蔵は小学校を出ると中学には進学せずに、すぐに農家の仕事を手伝うことになる。学校に行かせる余裕はないが、学問の大切さを痛感していた兵蔵の父親は、せめて本だけは読ませたい、と本を購入しては蔵に積み上げたという。その甲斐もあり、兵蔵は読書大好きな少年に育ち、蔵に積まれた本を片っ端から読んでは、広い世界への憧れを膨らませていった。
日が経つにつれ、どうしても外の世界を自分の目で見たくなった兵蔵は、その思いを抑えきれず、18歳のある日、一人列車に飛び乗り一路東京を目指すことになる。
運命的な出会い
幼少期から農作業で鍛えた自慢の体力で、郵便配達から運転手まであらゆる仕事をやりこなした兵蔵は、上京してから数年後、書生として住み込みで働き始めた家の前が与謝野晶子の自宅だったという偶然の出会いに遭遇する。もともと本を読むのが好きで、与謝野晶子の歌集を愛読していた兵蔵の感激は想像に難くない。
意を決して平蔵は、憧れの晶子の自宅のドアベルを押す。この後の出来事は先に記した。
サロンにおける心情を兵蔵は次のように遺している。
「晶子夫妻に紹介されても、気の効いた話などできるわけでもなく、皆が話すのをただ黙って聞くだけでした。ただ見たことも聞いたこともない世界に驚くばかりでしたが、目の前にいる大人たちが間違いなくこれからの日本を引っ張っていく人たちなのだ、ということだけは私にも分かったのです。」
当時兵蔵22歳。一言一句を聞き逃すまいと食い入るような眼差しで聞き入る青年を見て、与謝野家に集う人々は面白がり、段々と皆に可愛がられる存在になったという。
芽生えた、兵蔵の夢
夢に向かって邁進している与謝野サロンに集う芸術家たちと語り合う内、子供の頃、自然の美しさに魅せられたあの時と同様に、芸術家たちが語る「ものを見る目」「表現を追い求める姿勢」に心を奪われていった。
兵蔵は大正初めの当時、上質な絵の具がまだ国内では手に入らず画家たちが不便を感じていることに着目した。そこで、画家たちのために、質の良い絵の具の輸入をができないか、この魅力的な人たちの仲間に加わって自分がお役に立てることはないか、を真剣に考え始める。
時は、第一次大戦の真っ只中、国内では大衆文化が花開き、大正モダンと呼ばれる華やかな時代を迎えた。舶来の新しい文化や情報が日本に次々に入ってくるが、皆本物を見たことがなかった。何をするにも自分たちで工夫して作るか、本物を見たければ高いお金を出して海外から取り寄せるしかない。
当時の絵描きたちは「抜けるような青の絵の具が欲しい」と思っても、国内には上質な絵の具はまだなかった。輝くような色彩の絵の具を手に入れるには、注文してから2ヶ月もの間、船便で届くのを気長に待つしかなかったのである。
そこに芸術家にとっての大きな不便と不満があるのを知った兵蔵に、与謝野家に集まる人々が助言をしてくれるようになる。
「君には色に対しての憧れがあるし、いい感覚と感性があるから、ひとつ色彩に関係する仕事をしてみてはどうだろう」
兵蔵の心に、未来への一筋の光が差すようだった。
後に「私の一生をかけて、芸術というこの大きなものに心血を注いでいる先生方の、少しでもお役に立つようになろう」とこの時に固い決心をしたと述懐している。
月光荘の誕生
兵蔵はまず、外国から絵の具の輸入を始める。荷が港に着くと、台風で雨風のひどい日でも、自転車でアトリエまで直接絵の具を届けて回った。絵描きたちがどれほど絵の具の到着を心待ちにしているか、それを考えれば、天気のことなどで休むことなど考えもしなかった。
そして、絵の具を届けに行った先で、絵描きから画材についての不満や改善点を聞くと、次に訪れる時には試作品を持っていって試してもらった。その繰り返しをひたすら続けることで、徐々に絵描きたちからの信頼を得ていった。不眠不休で働いた結果、少しずつ資金が貯まり、1917年(大正6)、東京都新宿の角筈に店を出す事を決める。
この時、兵蔵23歳、前述したように店の命名から、経営の指南まで晶子に大いに助けられての出帆だった。
職人魂が生み出した 世界初の絵の具作り
絵の具の独自開発
自宅を抵当に入れ、借金を上積みしながらの絵の具製造研究の日々。1940年、ようやく世界の標準色ルリの青、コバルトブルーの製造技法を発見し、顔料からはじまる原料すべての自社製造に成功。純国産第一号の絵具を誕生させたのである。
誕生の経緯について兵蔵はこんなふうに記録している。
「・・その頃の輸入顔料はすでに純粋ではなく、英仏品と肩を並べるにはどうしても自家製の顔料から作らねばならぬと言われました。絵の具の顔料は工業用顔料と違い、英仏は油に適した作り方で虎の巻、門外不出だった。
(中略)
・・愚直の一年、矢も盾もたまらず、誰の手も借りずに自分で選んだ道だもの倒れるまでやろうと、明けても暮れても、警戒警報中(戦時中)も離れず火を見つめていた。そして、非常な高熱でじっくり焼かれた鉱石が根限りの土壇場で、ついに夢にまでみた青がきらめいた。独自の技法を開発したのです」
瑠璃色の青、コバルトブルー純国産油絵の具第一号が誕生した瞬間、猪熊弦一郎ら芸術仲間は大いに沸き上がり喜びを共にしたのだった。しかし、世評は厳しく、猪熊氏が新聞各社にニュースを知らせたものの、たかが町工場ごときに成せるはずがないと、一行も誌面に載ることはなかったという。
また、資源がないのに技法が発見されても、と小さな炉での何十回も繰り返しというコスパの悪さを指摘する有様だった。当時、舶来崇拝の日本の中では、「国産」の価値の高さを分かるものは少数だったのである。
そんな折、東京工業大学の後に教授となる稲村耕雄(いなむらやすお)(無機化学者)が月光荘を訪ねてきて、
「秘密は絶対守ります。コバルト鉱を焼いてエノグになる工程を見学させてください」と告げた。
実際に夕方出来上がった油絵の具を見て、稲村は唸ったという。大学の標本より輝いていたことに驚き、その場で月光荘研究部に入り、大学の帰りに毎日月光荘に通い兵蔵と共に研究すること3年が過ぎた。稲村について兵蔵は資材等のやりくりの苦しい時代に励まし合った唯一無二の情熱漢だったと振り返る。
その結果、コバルトブルーに続く、色が次々に誕生する事になった。
セルリアン・ブルー、コバルト・バイオレット、カドミウム・イエロー、バーミリオン、ビリディアン、オキサイド・グリーン、コバルトグリーンは、稲村研究の専門であるプリズムを用いた分析で世界標準色票との一致を確かめ、英仏と肩を並べたのである。
その後、新色コバルト・バイオレット・ピンク(月光荘ピンク)の発明にたどり着く。この色は1971年の世界油絵具コンクールにおいて一位という栄誉を受け、フランスのルモンド紙では「フランス以外の国で生まれた奇跡」という評価を得た。
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エピローグ
筆者は、月光荘創業100年のパーティに招待され伺ったことがある。銀座8丁目の見番通り沿いのギャラリーを開放して、老若男女の芸術家たちが大勢集い、お互いの近況を交歓し合っていた。
その日は2代目のななせ元ご主人(兵蔵さんの長女)と、3代目の現役主人・康造さん(ななせさんの長男)が揃って挨拶に回られていた。
100周年を記念して、与謝野晶子の贈ってくれた短歌に、曲をつけて披露するといったイベントも催されていた。
「大空の 月の中より君来しや ひるも光ぬ 夜も光ぬ」
店に出入りしているミュージシャンが曲をつけてくれた、と康造さんは目を細めた。晶子が兵蔵を月の光になぞらえて、
「芸術家の作品が太陽だとすれば、絵の具屋はそれを支える月の光。良い時も悪い時も、変わらず照らし続けなさい。」
情熱を傾けて詠んでくれた歌の心が染み渡るような澄んだメロディーが会場に響き渡った。
「良い時も悪い時も」
まさにこの言葉通り、月光荘も一連の絵画詐欺事件に巻き込まれ、不名誉ながら借金を負い窮地に立たされ、かろうじて雑居ビルの4階の一室片隅から再生しなければならない時代があった。
「祖父が95歳の時でした。一番月光荘が苦しかった時代、母はなんとかこの月光荘だけは守りたいと頑張ってくれた。だから、私はバトンを受け取ることができました。その時、人生の苦楽を分かち合ってきた仲間が全て他界し、相談する相手が誰一人いなくなった状況は、祖父にとってあまりに残酷でした。晩年に祖父に辛い思いをさせてしまったことに、今でも胸が痛むのです」と康造さんは話す。
当時の雑居ビルは、在庫も置けないくらい狭くて、「こんな場所で本当にやっていけるのかな」とななせさんは、父親にこぼしたという。
その時の兵蔵さんの答えはこうだった。
「大丈夫。お店は場所が作るんじゃない。人が作っていくものだから」
「逆風の時にこそ人は試される」
そんな祖父の言葉に、気持ちを奮い立たせて新しい月光荘を盛り上げています!
そう語る3代目の笑顔は、実に清々しく、芸術を支えていこうとする気概に満ちている。
↓物語に出てくる月光荘の絵の具 伝説のアートグッズはこちらから
↓銀座見番通り 月光荘鉛筆ビルの屋上に広がるアート&音楽の世界
↓ クリエーターのオープンキッチンハウスを開館
2.編集後記(editor profile)
日本初のバトラーサービスを導入し、文化の香り漂うホテルとして多くの人々から愛されていた「ホテル西洋」が閉館してから早12年余りになる。銀座一丁目と京橋の間のその跡地に、スポーツブランド・コナミによるeスポーツの施設が開業した。2024年2月26日には、飲食を楽しみながらeスポーツ観戦もできるCAFe&BAR“STROPSe”も開店した。
時代は、2次元ゲームの波が大きくうねり、若い世代の感性を大いに沸かせているようだ。世界の競技人口は約1億3000万人、アメリカでは1000万人、日本でも約390万人とも言われている。
eスポーツとは、「エレクトロニック・スポーツ」(Electronic Sports)の略で、「e-Sports」とも表記される。広義には、電子機器を用いて行う娯楽や競技全般を指す言葉で、コンピューターゲームやビデオゲーム、スマホゲームを使って競技をするスポーツのことである。スポーツは体を動かしてこそ、と思われる向きもあろうかと思うが、今や、絵を描くのもPC上で絵画ソフトを使って描くことが主流になる中、本来のスポーツや芸術の定義そのものが変わってきていることを実感する。
「eスポーツって知ってる?」
と体を鍛えることを日課にしている知人に聞いてみた。
「それ、easy Sportsのことでしょ?」
なるほど、真髄をついている、と笑ってしまった。気楽で安易にできる、なんだか合点がいくような気がするから不思議だ。
今号で特集した画材店「月光荘」。100年を超えて、絵の具作りに邁進している老舗画材店が支え続けたのは、生きた人間が自らの情熱を傾けて自らの手を使って描き切る、その芸術家自身の存在証明である「絵画」だった。
そこに「気楽」「安易」という言葉は微塵もない。
コンピュータで描いたデジタルアート(Digital art)の対局にある、「人間の魂」が描き、歌い上げる作品の存在感こそがそこにはある。職人が少しづつ手作りで絵の具を製造する姿の先に、五感をくすぐる「人間の温かみ」を感じるのは私だけだろうか。
本日も最後までお読みくださりありがとうございます。
責任編集:【銀座花伝】プロジェクト 岩田理栄子