陰キャの自己啓発者・シオラン
最近、大学を退学して数年ニートをしていた友人が就職した。それ自体は仕方のないこととは思う。しかし、就職して以来友人はやれ「働いていないと生きる意味を感じられない」だの「休みの日不安になる」だのめちゃくちゃ不愉快なことしか言わなくなってしまった。もともと軽度の鬱病で薬の処方も受けていたのだが、就職によってそれが変な方に裏返ってしまったようだった。こんな新自由主義的なメンタルを内面化している状況はコミュ障社会不適合異常独身成人男性としても、誇り高き左翼としても看過しておくわけにはいかない。そこで私は大谷崇氏のシオランの新書を押し付けることで解毒を試みることにした。
正直に言うと私はシオランがそんなに好きではない。それはシオランが陰キャにとっての自己啓発本作家だと思うからだ。左翼として、既存の構造をほったらかしにして自己の内面の変化を求める自己啓発本というのはしょうもないものだと思っている。(ただ世に蔓延る自己啓発本に比べればシオランの方が数千倍マシであることは間違いない)そもそもシオランは私みたいな左翼を冷笑するタイプの人間で、社会主義とか共産主義とかめちゃくちゃ嫌いに違いない。
そうは言っても、自分の陰キャの部分はシオランの言うことに結構共感してしまうのである。例えば、
このアフォリズムに無職の時は慰められたものだ。というか実際こういう心持ちになっていたのでものすごく共感した。今は不承不承、賃労働に従事している身になってしまったが、休みの日何もしなかったりするとこの言葉を思い出して、気を落ち着けている。実際、もう死んでいるようなものだと考えることの効用は中々有能で、この考えがなければ私は今生きていないかもしれないといっても過言ではないほどである。「もう死んだ」と考えることでこれからの人生全てを余生とすることで、将来の不安等々がかなり軽減されるのだ。しかし、シオランはそれに水を差すようなことも言っている。
これは中々クリティカルな指摘だ。死を受け入れた余生を安穏と過ごすためには、余生が詰んでしまったときに確実に命を投げ捨てることができるという担保がなければならない。余生ことて自らの人生を解放したのも束の間、今度は自分は本当に自殺することができるのかという問いに絡めとられることになってしまう。この相互に参照すると矛盾を孕んだ緊張感を見せるのがシオランの魅力のひとつと言えるのではないだろうか。(ただその場の思い付きで放言している可能性も否定できないのではあるが。)
自殺の話をしたので、関連する私のお気に入りのシオランのアフォリズムを何個か紹介しよう。
シオランの中で一番好きなアフォリズムだ。シオランの場合、一冊の本を「書くこと」について言及しているように思われるが、私は「読むこと」についても適用して読んでいる。死ぬにしてもあの本を読んでからでいいかという気持ちで自死を延期させる。積み本は人生を延期させる。ただ、それを言い訳にして延々と積み本を増やすことを正当化することになるのだが……
これなんかは陰キャとしての本領発揮と言うべきだろう。このひねくれ具合は胸のすく思いさえする。この反抗心こそ陰キャに必要とされているのではないかと思う。
陰キャここに極まれり、だ。この昇華されたルサンチマンには心底共感してしまう。
少しばかりシオランを見てきたわけだが、やはり陰険な者のための自己啓発という印象を免れない。ただ、それでも社畜とかネオリベイデオロギーに毒された現代人にとってはいい薬になるだろう。しかし、自己啓発は自己啓発なので、入れ込みすぎてはいけない。やっぱり社会とか構造に目を向けるべきだ。さて、私の友人はシオランをどう読んでくれるだろうか。願わくば、ほどほどに解毒されて、その後左翼になってくれると嬉しいのだが!何となく影響されすぎるような気がしている。
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