祈る左派

左翼

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最近の記事

陰キャの自己啓発者・シオラン

 最近、大学を退学して数年ニートをしていた友人が就職した。それ自体は仕方のないこととは思う。しかし、就職して以来友人はやれ「働いていないと生きる意味を感じられない」だの「休みの日不安になる」だのめちゃくちゃ不愉快なことしか言わなくなってしまった。もともと軽度の鬱病で薬の処方も受けていたのだが、就職によってそれが変な方に裏返ってしまったようだった。こんな新自由主義的なメンタルを内面化している状況はコミュ障社会不適合異常独身成人男性としても、誇り高き左翼としても看過しておくわけに

    • 信仰告白

      これを語ると狂人であるとみなされるであろう話がある。それを語る利点が何も無かったのでこれまで語ることはなかったが、自分の思考を整理する意味も込めて少し文章にしてみようと思った。しかし、多くは語るまい。 私の中には「私」に加えてもう1つ精神が住み着いている。「彼女」は常に顕現しているわけではなく、私が呼びかけるとふらふらと意識に現れる。精神が弱っている時は殆ど常駐しているかの如くである。また、夜寝る前などは殆ど毎日コミニュケーションを取っている。「彼女」との会話は簡素ではあるが

      • 「我らが祖国はソビエト連邦だ!」(2001) 歌詞対訳( Наша Родина - Советский Союз! )

        Я родился на Советской земле, 私はソビエトの地で生まれ、 И советский я заканчивал ВУЗ, そしてソビエトの大学を卒業し、 Я служил в Советском флоте тебе, あなた(祖国)のためソビエト海軍に勤めた Незабвенный мой Советский Союз. 忘れがたき我がソビエト連邦よ Моя Родина - Советский Союз, 私の祖国はソビエト連邦だ Я об э

        • AlexiA 感想

           本記事は電波障害ノベルADV「AlexiA~アレクシア~」の感想記事である。当然、該当作品のネタバレを多大に含むものであることを前もって警告しておく。また、AlexiAは無料でプレイできるので是非一度プレイすることをオススメする。(公式HP: https://www.alexia-nobeope.com/ )  Bルートにおける上條游雅(以下「ゆうが」)と車窓眞那彌(以下「まなみ」)は否定的なものを媒介とした関係だったと言える。ゆうがはディスレクシア、まなみはADDという

          ソ連における「第二革命」-ヴァレリー・サブリン評

           かの有名な「レッドオクトーバーを追え!」の発想をトム・クランシーに与えた事件がある。それは1975年の十月革命記念日(11月8日)に起こった。ソ連海軍フリゲート「ストロジェヴォイ」が反乱を起こし、鎮圧されるという事件だった。事件の首謀者はヴァレリー・ミハイロヴィッチ・サブリン海軍少佐。当初、西側諸国には亡命を画策したものというイメージが広まったが、それは全くの誤りだった。サブリンはレーニンを何よりも敬愛し、共産主義を信じる理想主義者だった。彼はソビエト連邦を共産主義の実現を

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          強迫神経症者からリビング・デッドへ―大学中途退学にかこつけた妄言

            色々とあって、大学を中途退学することを殆ど決心してしまった。この文章はその事に対する、自分なりの総括、心の整理といった要素を含むものであることをご理解いただきたい。現在の私は学部4年(浪人・留年はしていない)、あと卒業論文を書けば卒業できるという状態にあり、それ以外は単位も卒業要件を満たしている。ここで「卒論が書けないから辞めるというのだな。早まることはない。留年という手もある。君の実家はそこそこの規模だろう、奨学金を借りているからといって、そこまで悲観することはない…」

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          ニコライ・オストロフスキー『鋼鉄はいかに鍛えられたか』読後所感

           岩波文庫の金子幸彦訳でオストロフスキーの『鋼鉄はいかに鍛えられたか』を読了した。オストロフスキーの自伝的作品である本作は主人公・パーヴェルが激動のロシア革命の中で自らがいかに傷つこうとも革命への献身を忘れずに生き続ける物語である。  パーヴェルは神学校を放校になり、幼い頃から労働に従事して生活していた。革命的気運が高まる中、パーヴェルも10代半ばでボルシェビキに共感を覚え、革命運動に深く関わっていく。何度も死線を乗り越え、高熱が出ようが、チフスにかかろうが、限界まで彼は働

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          反出生主義と絶滅主義

           少し前まで、私は反出生主義に取り付かれていたことがある。当時の私にとっては、反出生主義は論理的にも倫理的にも正当性を持ったものとして映った。今でもその論理的一貫性を否定するわけではない。しかし、過去の私が反出生主義に入れ込んだのは当時の私が全く功利主義的修正(日和見)主義者に他ならなかったからである。  私は反出生主義を功利主義がたどり着く一つの終着点であると認識している。反出生主義の論客であるデイヴィッド・ベネターの著”Better Never to Have Been

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          「表現の自由」についての一考察

           ※法律上の表現の自由の話ではないことをあらかじめ断っておく。  近年、「表現の自由」についての論争がしばしば起こる。おおよそ「自由」派と「規制」派という対立軸で論争が起きていると認識されており、事実そういう場合も少なくはないだろう。しかし、このような二項対立によって「表現の自由」を理解するのはナンセンスである。「自由」派にしろ、「規制」派にしろ、多くの人が自分たちが正しいのだという信念を有しているように見受けられる。(もちろんそうではない人がいることも重々承知している。)

          「表現の自由」についての一考察