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詩)平田さん

平田さんは僕が生まれる四年前 横浜で
住み込みの左官職人になった
昭和三十一年 戦争が終わって十一年目
中学を卒業してすぐ 親から離れて

重たいセメントをふらふらして運ぶ
親方や職人はコテに載せて壁を塗る技術を
こうやってやるんだ 見て覚えろと言う
図面はほらこうだ そう言って板切に唾で書いたもので

細い身体で 腕も細い平田さん 優しいので仏のようだ 
見習の頃は おいボウズ ちょっと煙草買ってこい 
手が離せないからこれやっておけ 
おまけにエロ話しやら年増をどう仕込んだかなんて 毎日同じ話しを聞かされ

道具も買い揃えないと職人になれない 
いい道具は職人のいのちだ 
ある時 買ったばかりのコテを 
現場で少し目を離した隙に盗まれた 
誰が盗ったか わかっていても言えなかった あれはおれのコテだと

世の中はどこもかしこも家を作りビルを作り
平田さんは昭和四七年三三歳で平田左官店を開業した 
親方の住込み小僧からともかく自分の店を開いた
言われた仕事はどんな仕事も断らなかった
ほこりまみれで夢中に働いた 大変さより楽しくて仕事が大好きだった 

床のタイルの磨きだし 和室の壁 
新しい工法も言われるままに覚えて 
建材メーカーの材料もどんどん試して使った 
壁に塗ってすぐ乾く建材は重宝だと思った 
アスベストが入っているから使いやすいんだ  一生懸命働いた

平成十七年 なんだかあなた痩せて少し体調悪そうよと妻から言われた 
そうかなあ 
そういいながら病院にいくと肺に影があるので再検査だと言われた 
なんだか大袈裟だなあ そう思った

検査の結果 石綿肺だと言われた 
これだけ重い石綿肺だとさぞ呼吸辛かったでしょう 
酸素吸入が必要な寸前です 
それから合併症 続発性気管支炎 気管支拡張症を罹患

人生が一気に変わる瞬間
ああ俺の生き方の何が間違っていたんだろう 
何がいけなかったんだろう 
そう問いかけても 答えはなかった 
毎日ほこりまみれで一生懸命働いたことの何がいけなかったのか 
どうしてこういう身体になったのか

平田さんは組合に相談して労災申請して 
さらに平成二十年建設アスベスト訴訟第一陣に加わる 
俺はどうしてこうなったのか 
俺の生き方が間違っていなかったことをちゃんと証明したい 
国と企業に謝ってもらいたい 
平田さんは原告団長も務める

運命は残酷だ 
平成二四年五月 神奈川地裁は原告の訴えを退け裁判は敗訴した 
声を出すことも出来ない原告団 
悔しくて震える弁護士たち 
平田さんのもう一つの人生はそこから始まった 
人生を取り戻すたたかいが始まる

一日一日 期日ごと ビラを配る 訴える 
いつ結論が出るかわからない裁判 説得する 
その間にも仲間が一人また一人と亡くなっていく
街中で訴えていると普通の夫婦が幸せそうに横切る
何をしてるの? 不思議そうにみられる
大変だねえと同情される
全部昨日までの自分たちと同じだ
何も変わらない
時々叫びそうになって妻に八つ当たりしてしまった

高裁は逆軽勝利した
それなのに自分は敗訴した
全体が勝ったんだ 裁判は勝ったんだと説得されたし 自分でもそう思った
それでもああ俺の生き方は間違っていなかったという証明はまた出来なかった
それは勝ち負けではなく 生き方なのだ
原告団総会で団長辞任を申し出た

令和三年(二〇二一)年五月十七日 最高裁で建設アスベスト訴訟の勝利判決
ついに国と建材企業に勝利した
菅総理は深々と頭を下げ原告団に謝罪した
それでも建材企業側は責任を拒否
平田さんの裁判は高裁に差し戻された
企業責任を問う裁判は令和四年(二〇二二)年十一月二二日結審した
平田さんはビデオで最終弁論に立った
裁判所がビデオで弁論を認めるのは異例中の異例だ
渡部裁判長は解決を引き伸ばす企業側に対し和解の提案を行った
それでも和解協議を拒否し続けるアスベスト製造企業 
決着は拒まれ続けた

二〇二三年五月十九日
左官の原告四人と被告企業ノザワの和解が成立した
ノザワは原告に深くお詫びし解決金を支払う
平田さんに 初めて企業側が頭を下げた

六月十二日 裁判の判決説明会 平田さんの顔を見て
うれし泣きする仲間 「自分のことのようにうれしい」とみんなが声をかけた
平田さんは座ったままで原稿を見ながらはっきりとした言葉で
「全面解決に向けて全員が勝利するよう最後までよろしくお願いします」と述べた
仏のような細い眼でにっこりと笑う
平田さんの「人生の証明」は
まだ 続いている




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げん(高細玄一)文学フリマ東京39 な-20
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