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月をうむ 10

第十話 どっぷり沼の大ナマズ


 闇の洞穴の近くに底なしともうわさされるどっぷり沼がありました。
 そこには今や伝説となった大ナマズが住んでいます。

 月の光も届かないこの辺り一体は深い海の底のようです。
 それに比べれば、まっくら森の住人たちのすむところは、月の光の照る海の浅瀬のようでした。

 大ナマズがそこにいると伝え聞いてはいるものの、確かめた者などいません。本当にそこにいるのかどうか、いたとしていつからいるのか、誰も何も知らないのです。

 モジャリは、ごわごわの毛があたると痛いだろうと思い、大樹の葉っぱでヒカリをすっぽりとくるんで抱えると、暗闇の中を走りだしました。



「着いたぞぉ」

 闇が霧のように薄まった場所で、モジャリはヒカリを下におろしました。

「これは一体……」

 ヒカリの目がとらえたのは、大きな光の沼でした。
 深緑色の濁った水が、ランプシェードのように明るさをやわらげています。

「この沼の水にはぁ、月の光がちぃっとばかし混じってるんだぁ。でも月の蜜より泥臭くってぇ、飲めたもんじゃねぇけどなぁ」

 モジャリは、いつかこっそり飲んだ沼の水の味を思い出しながら、顔をしかめて言いました。

 大地から湧き出す水にはほんの少し月の光の成分が溶け込んでいます。
 沼の表面の水は少しずつ蒸発して月の光は空に戻っていきますが、光がずっと沼底にとどまっているように見えるほど時間のかかるものでした。

「おぉーい、大ナマズぅ、出てきてくれよぅ、大ナマズよぅ」

 モジャリは沼の前で大きな声で叫びました。

「わしを呼ぶのは誰かな」

 水面が声で振動し、こぷこぷぐらぐら沸き立つように沼全体が激しく揺れ始めました。
 どどどどどーっと地鳴りがします。
 水面を大きくうねらせて、沼に島が浮上してきます。

 ヒカリは後ずさりしました。
 島だと思ったのは、巨大なナマズだったのです。

 大ナマズは、ヒカリを見て言います。

「ほう、これはめずらしい。月の子を見たのはどれぐらいぶりかな」

「月の子ってなんだぁ?」

 モジャリは大ナマズに聞きました。

「昼の光の世界から来る人間の子どものことだよ」

 大ナマズはヒカリをじっとみつめます。

「人間というのはこびとよりも大きな種族らしいな。大人はほとんどこの世界にはやってこないからわからないが、子どもの大きさから考えて、さらに大きなものなのだろう」

 ヒカリは大ナマズが人間を知っていることに驚きながら、こわごわと尋ねます。

「あなたは今までここに来た人間の子どもたちと会ったことがあるの?」

「ああ、もうずいぶんと前のことだがね。この沼の辺りにも月光花が咲いていたし、月の子が遊ぶ姿を見かけたこともある。月光花が月の子を呼ぶのか月の子が月光花を咲かすのかはよくわからなかったが、何にしても、月の子が月光花を見たいと思う気持ちがつぼみを開花させるようだった」

「なんだぁ、それ」

 モジャリは大ナマズの言うことがちっともわからないようでしたが、ヒカリはママが言っていた言葉をふと思い出しました。

「そういえば、月光花を想像する心が肥料になって花を咲かせるんだってママが言っていたことがある。きっと私みたいに月光花が見たいって思った子どもはこれまでにもたくさんいたんだわ。だから花は咲いたし、おとぎ話の世界にも自由にやってこれたのね」

「その月の子っていうのはぁ、ちゃぁんともとの世界に帰れたんだろう? どうしてヒカリは帰れないんだぁ?」

 モジャリが言うと、大ナマズはうなるように息を吐き、光の水面に細かなひだのような小波が立ちました。

「さあ。わしにはわからないが、帰れない理由を自分が作っているんじゃないのかい?」

「帰れない理由?」

 ヒカリはちっともわからないといった顔で大ナマズを見下ろしました。

「少なくともこれまでこの世界を訪れた月の子たちは、今のあんたのような不安な顔は少しもしていなかった。この世界に来たことを喜び、ここで遊ぶことを楽しみ、心からの純粋な願いがかなった幸福感で充ち足りていた」

「でもそれは、月光花が咲いているのが見られたからじゃないの。ほかに月の子もいて楽しかったからじゃないの。私みたいに帰れなくなるなんてことがなかったからじゃないの」

 ヒカリは口をとがらせてすねたように言いました。
 大ナマズは沼の水を吸い込むような勢いで、小波を立てて笑います。

「なるほど、だから月光花は咲かないのだな。月光花が咲くから月の子が来るんじゃない。月の子が来るから月光花が咲くのでもない。それは同時に起きていたというわけだ」

「どういうこと?」

 ヒカリはむずかしい顔をして大ナマズに聞き返しました。

「おまえさんは願いがかなわないからそんなにふてくされているというわけだ。だったら願いがかなったと思って喜んでみたらどうだ。そうすれば願いがかなうかもしれないぞ」

「そんなの無理よ。喜ぶ理由もないのにどうして喜べるというの?」

「少なくとも、ふてくされていて願いがかなうということだけはないと思うがね。願いがかなってふてくされている理由がどこにあるというんだい?」

 大ナマズはにやにやと笑ってヒカリに言いました。
 ヒカリは頭の中が混乱して、何をどう言い返していいのかもわからなくなってしまいました。

「むずかしい話なんてどうでもいいよぅ」

 モジャリはヒカリと大ナマズの間に割って入るようにして言いました。

「大ナマズよぉ。おいら、あんたなら、ヒカリをもとの世界に帰してくれると思って、ここまでやってきたんだよぉ。何しろあんた、フクロウよりも、色んなこと知ってっからなぁ。なぁ、どうしたらいいか教えてくれよぉ」

 大ナマズは必死な様子のモジャリをじっとみつめると、隣にいるヒカリに目を移しました。
 ヒカリはモジャリの言葉も耳に入らずに絶望したような顔つきでぼんやりとしています。

「あんたはもう少し、見えないものに目を向ける目をもった方がいいかもしれないな」

 大ナマズはヒカリに言いました。

「どういう意味?」

 ヒカリは首をかしげて大ナマズを見下ろしました。

「あんたにとってこの世界はありもしないおとぎ話の世界かもしれないが、この世界の住人にもあんたと同じ心はあるということさ。見ようとしなければありはしない。月光花のようにね」

「月光花なんてどうでもいいよぅ。ヒカリをもとの世界に帰してやってくれよぅ、お願いだよぅ、大ナマズぅ」

 モジャリはさっきよりも大声で地団太踏みながら叫びました。

 モジャリの必死な想いは今度はヒカリの心にもしっかりと届きました。

 モジャリの目から一粒の大きな月の石がこぼれ落ちます。もじゃりは目が痛くなって、しかめっ面でうめきました。

「モジャリ、私のために痛い思いをして泣かないで。ごめんね、モジャリ。私、自分のことしか考えていなかった……」

 ヒカリは拾い上げた月の石を抱きしめて、ぽろぽろと涙をこぼしました。

「ほう、きれいな石だね」

 大ナマズは目を大きく見開いて月の石をじっと見ました。

「その石を私にくれないか?」

 大ナマズはこぷこぷぐらぐら水面を揺らしてヒカリに石をねだりました。

「石をやったらヒカリをもとの世界に戻す方法を教えてくれるのかぁ?」

 モジャリは大ナマズに言いました。

 大ナマズは大きく息を吐き、水面に小波を立てると、急に思いついたように、にやりと笑ってヒカリに言います。

「もとの世界に戻りたいと願って沼に石を投げ込んでごらん」

 大ナマズに言われたとおり、ヒカリは月の石を両手で持って、帰りたいという願いを込めて光の沼に投げ込みました。

「これで願いはかなうのかぁ?」

 モジャリは大ナマズに聞きました。

「心から願うなら、月の石などなくても願いはかなうだろうさ」

 大ナマズはにやにやと笑いながら、ごぽごぽと沼に沈んでいきます。

「待てよぅ、まだ何も、どうしたらいいのかってことも聞いてねぇぞぉ」

 モジャリは叫び、引き留めようとしましたが、大ナマズは沼の底に完全に姿を消してしまいました。

 最後に言葉が浮上してきます。

「心からの願いはかなう」

 水面を振動させて響いた言葉は夜の闇に吸い込まれて消えました。

 沼はまたひっそりと深緑の光を放ちます。
 水際のアシが風で波立つように揺れていました。

つぎのおはなし

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