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備忘録的サブカル近現代史考 016:昭和歌謡

一概に昭和歌謡と言っても、典型的なものすら思い浮かばない程度に縁の薄いジャンルです。そして如何せん昭和は64年までありました。戦前と戦後でもまるで違うでしょうし、最近流行りのシティポップだのJ-POPと言われるものもおそらく別物なのでしょう。当然演歌とは別物ですよね。1989年が昭和64年ですから、1980年代が昭和の末期ですが、松田聖子さんや中森明菜さんをはじめとしたその時期のアイドルものもおそらく違うんでしょうね。ピンクレディやキャンディーズは昭和歌謡といったときに出てくる気がするんですけど、そういう認識でいいのやら。70年代のアイドル、山口百恵さんや南沙織さんあたりは中心的存在でしょうか。一般に昭和歌謡と言ったときは、もう少し古いものが中心なのかもしれません。昭和の大歌手、美空ひばりさんや江利チエミさんあたりは、また別の意味で研究しておりまして、今回は触れません。

いしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」は1968年(昭和43年)12月25日リリースで、翌1969年を代表する大ヒット曲です。私の中で昭和歌謡といえばこの曲が出てきます。以前に何度か書いたことなのですが、国鉄職員だった父親の転勤で東京に出てきた頃、まだ頻繁にテレビから流れていた曲でして、東京の小学校が体質的に合わず、しんどかった頃に聴いたもので、いまだに聴くとお腹が痛くなるようなところがあります。遠くを走る列車の音とセットになって記憶野の奥深くに刷り込まれてしまったようです。

いしだあゆみさん、1948年生まれですから、「ブルー・ライト・ヨコハマ」の時で20歳過ぎです。もっともっと大人の女性のイメージでしたけどね。1964年に日本ビクターからアイドル歌手としてデビューしており、当初は歌手と女優(と言ってもティーンの子役に近い年齢ですが)の二刀流だったわけです。1968年6月にコロムビアに移籍して、一旦歌手に専念するわけですが、その年の暮れにいきなり大ヒットが出たわけですね。「ブルー・ライト・ヨコハマ」が26曲目のシングルなんですと。まあ、そのことにビックリしていろいろ調べたりしたので得られた知識です。1960年生まれの自分はリアルタイムで知っていたとしても、憶えているかどうか、微妙な時期の話題です。

そうやって調べていて、トラウマになりそうな思いをしまして、昭和歌謡は軽々しく語るものではないなという印象を与えられました。その辺の事情を語るわけで、軽々しい話ではありません。以下、重たい話を読みたくない方は読まない方がいいかもしれません。

1964年4月に「ネエ、聞いてよママ」でレコード・デビューします。2か月後、1964年6月に2枚目のシングル「サチオ君」がリリースされます。東京オリンピックの年、戦後の混乱期は過ぎ、高度経済成長期です。この「サチオ君」が5万枚程度のヒットとなります。日本ビクター期最大のヒットがこれで、以降もなかなかヒットが出ません。このヒット曲「サチオ君」の歌詞がどうにも昭和なんです。以下に引用します。

ふるさとの想い出 それはサチオ君
いつも二人で落書したわ
ふるさとのにおい それはサチオ君
お寺のかべに 二人の名前
傘を真中に サチオと良子
それからまもなく サチオが死んだ
 ふるさとの想い出 それはサチオ君
 雨に落書 濡れて泣いてた

ふるさとの想い出 それはサチオ君
いつもみんなを 泣かしてばかり
ふるさとのにおい それはサチオ君
淋しがりやで あばれんぼうよ
だけど私には やさしかったのよ
とんぼやちょうちょを とってくれたわ
 夕暮になると 小さな手を取って
 いつも家まで 送ってくれた

だけどサチオにはもう逢えないの
サチオは死んだの 雪の降る日に
ふるさとの想い出 それはサチオ君
あたしだけには やさしかったの
 ふるさとの想い出 それはサチオ君

7インチ・シングルのスリーヴより

岡田教和作詞、いずみたく作曲、曲中の「良子」はいしだあゆみさんの本名石田良子からきていると思われます。いかがですか?これが16歳でデビューしたアイドル歌手の2曲目のシングルで、5万枚売れた曲だというんですよ。売り出し中のアイドル歌手が歌う歌詞が少年の死による寂寥感を歌っているわけですよ。それが何とも昭和っぽいと思うのは間違ってますかね?

自分は身近な人間の死に接したのは20歳頃が最初で、子どもの時分にあまり辛い経験はありません。同じ小学校で死んだ子はいましたけど、顔も分からない程度でしたから、「ふーん」で終わってしまいました。小学校2年と3年は広島市におりましたから、同級生のお母さんの顔半分がケロイド状だったり、脚のない傷痍軍人が街角で物乞いをしていたのを見て、いろいろ考えさせられました。戦争は経験していない世代ですが、当然ながら戦争の傷跡はいっぱい残っている時代でした。

その当時、今よりも「死」というものが、小学生にとっても身近にあったんです。平成、令和となって、人が死ななくなったわけでもありませんが、戦後昭和のある程度の時期までのこと、「死」がその辺にゴロゴロ転がっているような感覚が、当時の自分にはあったように思います。

医療がどんどん高度化して子どもの死亡率は下がったと思います。人口動態や各種統計を見ると、子どもやティーンの死因の上位に「不慮の事故」と「悪性新生物」があるのは想定内、やはり「自殺」も上位にくるんですね。20代30代は「自殺」がトップだったりします。自分の意思で強制終了してしまうのはもったいない気もします。そう、確かに不慮の事故も多かったように思います。今でもよく憶えていますが、小学校の時に朝礼で知らされた同じ学校の子とそのご家族がみんな亡くなった原因は「一酸化炭素中毒」という初めて耳にする言葉でした。あれは不慮の事故だったのでしょうか…!?

「青春デンデケデケデケ」で直木賞を受賞した芦原すなおさんが2000年に書いた「オカメインコに雨坊主」という小説があります。この本の中にも死んだ男の子の話が出てきます。自分の中にある昭和のイメージが見事なまでに描出された、大好きな小説です。

いしだあゆみさん、「ブルー・ライト・ヨコハマ」の大ヒットのあとも、「あなたならどうする」や「砂漠のような東京で」など、ヒット曲はいくつもあります。…でも時の流れとともに、「ブルー・ライト・ヨコハマ」以外は耳にしなくなりましたね…。そう思うのは私だけですかね?

彼女は「祭ばやしが聞こえる」や「北の国から」といったテレビドラマにも出演しておりますし、映画「駅 STATION」で高倉健さんの奥さん役だったのが印象に残っています。イメージ的には女優さんです。フィギュアスケートもやっていらしたとかいろいろありますが、この人、記憶の中では、いつも笑顔ではありません。にこやかなアイドル歌手とは正反対の、常に何か悩みを抱えていて、それを顔に出さないようにしているような、複雑な表情がイメージとして固定しております。自分にとって昭和歌謡は「ブルー・ライト・ヨコハマ」であり、いしだあゆみさんの真顔、笑ってない何か辛さを内包したような表情が昭和のイメージなんです。

そんなイメージでも、昭和が好きなんですから、しょうがないですね。



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