相田ケンスケ考
これまでも相田ケンスケというキャラクターについて深めに掘った見方を記してきたが、ともすればマニアにありがちな、エッジの立ったサブキャラクター贔屓と取られてもおかしくない。物議を醸した土壇場でのフィーチャーぶりに過剰な感情を抱くのは珍しいことではないからだ。TVシリーズの渚カヲルにもその要素はあったし、実際にシン・エヴァンゲリオン劇場版での扱いによってケンスケへの好感度が急上昇したファンもいるだろう。
そこで改めて、一度遡ったところから相田ケンスケというキャラクターを見返し、その役割について振り返ってみることにした。
序・破での描写
まずは新劇場版前半での主要な登場シーンを列挙する。
▼怒るトウジ
第4の使徒撃破後、出会いの場面。殴り飛ばすという状況だが、大したことでもないという様子で詫びを入れ、鈴原サクラの負傷が理由と教える。
▼第5の使徒戦
シェルター脱出といういきなりヤバイ人物像を見せる。ピンポイントで巻き込まれるというアニメ的ご都合展開だが新劇場版では終始悲壮な雰囲気を保つ。なおこの時のケンスケは「ボク」と自称する。
嗚咽するシンジの姿に心境が変化した二人は、その後シンジが放浪し欠席する教室で複雑な表情を浮かべる。トウジ気持ちの遷移が割としっかり描かれている一方、ケンスケとシンジのキャンプでの対話、駅でのやりとりはカットされている。代わりに学校内で自分を殴らせるトウジをビデオカメラに記録するケンスケの場面がある。
諜報部に連れ戻されたシンジに投げられた、ミサトからの怒りの言葉に対する駅での和解がないため、トウジを殴って表情が和らぐ描写のみでNERV残留に至っている。
▼ヤシマ作戦
序1作の中で立て続けにシェルターを脱獄するのはさすがにまずいからか、録音メッセージを広報部に送り付けるという中学生らしからぬ周到な応援を行い、実際に作戦前に本人まで届いている。実際の登場尺が減った代わりに、第6の使徒への一射目を外して折れかかったシンジを鼓舞するという、ファインプレーにつながった。
▼アスカ登場
TVシリーズでのオタクケンスケの大騒ぎ、トウジとアスカのドタバタは大幅カット。ここでのケンスケはアスカが飛び級で大卒という設定の説明、加持の「ミサトの寝相」発言に一人だけ顔を赤らめる、という賑やかし(TVシリーズではトウジ、アスカと共に大げさにリアクションする)。
▼登校風景
無表情でイヤホンをつけたシンジがトウジ、ケンスケを見つけてイヤホンを外し笑顔になる、教室では明るい表情で談笑する、という様子がセリフなしで描かれる。
▼海洋研究所
港でカットされたハイテンションケンスケがここで登場する。ヒカリこそいないが、レイ、アスカを含めた5人がワチャワチャと動くのは、コメディパートの削られた新劇場版において貴重な場面となる。
ケンスケは海洋研究所の概要、9割人造肉というこの世界の食糧事情の説明役。
▼エヴァ3号機
新劇場版における最大の分岐点となったトウジのバスケットボールのシーン。TVシリーズでは別行動となったトウジと、破では一緒に下校している。ここで3号機の来日をシンジに教え、自分が乗りたいという気持ちを語る。そんな二人の会話を背にしたトウジがゴールを外す場面が破のハイライトの一つとなる。
▼最後の第壱中学校
3号機パイロットがアスカと明かされて視聴者に混乱が走った直後、トウジの不在に気付いたシンジに対し、退院するサクラを迎えに行ったことを明かすケンスケ。分岐が確定的となる場面。トウジの伝言を伝え、晴れやかな表情を浮かべるシンジに対し、綾波の食事会を冷やかし、勢い余って二人でひっくり返る。明るい雰囲気を盛り上げに盛り上げることでこの後の落差が際立つ。
ここでこの時代の役割をほぼ終えることとなる。
▼その後の出番
3号機戦後のシンジを気遣い留守電を何度も入れていることがミサトから語られる場面と、第10の使徒への誘導弾攻撃の爆発をトウジ、ヒカリ、ペンペンとともに見上げる場面があり、ここで出番を終える。
▼序・破まとめ
セリフ分量、画面登場数共に削減されてはいるものの、ヒカリに比べると重要なポイントの出演は残っており、ここまででは脇役というほど活躍がなくなっているわけでもなかった。
カットのされ方はおおむねエピソード通りで、いたシーンでいなくなるといった切られ方ではないが、大きな立ち回りは海洋研究所までで一区切りという印象となる。中盤のエピソードが続けてカットされているため、そこから一気に分岐点である3号機パイロットの下りまで出番がない。
3号機事件、フォースチルドレンという役割を失ったトウジと共に、主だった役目としてはシンジのバイオリズムのプラス側の描写を支える点が目立ち、NERV外の世界観説明のサポートも若干という匙加減。
TVシリーズでの描写
シンに行く前に、他の媒体での描写を振り返る。
TVシリーズでの登場シーン自体は新劇場版に比べ非常に多く些細な場面も多数あるため、ある程度整理する。
▼雨、逃げ出した後
ここは序盤ながら重要な場面である。14にしてソロキャンプをしつつ、5歳児並みのテンションで一人ごっこ遊びをするエキセントリックさを見せるが、そこで出会ったシンジにトウジの状況を教え歩み寄りに導こうとする。序では大きくカットされ、勝手にトウジが反省して和解していたが、TVシリーズではなかなか謝れずにいるトウジの背中を押す様子も見られ、シンジ、トウジ双方の仲裁、ひいてはクラスへ溶け込む手助けをしている。
また、ケガをしたサクラが命を救ってくれたとシンジを庇っていることも伝えるあたりすでにこの時から計算高さが伺える。これはシンでミサトの代弁をした行動とも重なる。
その後、エヴァに乗りたがるケンスケに対し「お母さんが心配する」というシンジの言葉を受け、一瞬何かを察する表情を挟んで「俺、そういうのいないから」そして「碇と一緒だよ」。
おそらくこの時、シンジの言葉に自分には心配する母親がいない、ということ、ミサトの保護下で二人暮らししているところなどから事情を察している。そしてわざわざ碇と一緒と付け加えることでぐっと距離を詰めている。この時の岩永氏の声はちょっとイケメンボイス。この場面以外にも、そういう場面がある。
この後諜報部によって連れ戻されるが、この時点ではシンジのミサトへの壁は解消されない。それどころかミサトが怒るポイントを間違えて、NERV離脱へと進んでしまう。初めてミサトの家に行った日からミサトが「見透かされてるのはこちらか」と言ったりするように、シンジはミサトが仕事のために仮面家族を演じているのではないかという不安を抱えている。ゆえに家出について叱られなかったことに深い失望を覚える。乗って欲しいと求められようと自ら「初号機はどうなるんですか」と聞いてもそれすら流され、離れるしかなくなった。
ここでシンジを引き留めたのは結局本心から友人となったトウジとケンスケであった。ケンスケに促されトウジが腹を割って話してくれたことで、シンジも自分がずるくて弱かったのだと吐露する。この時の感情の吐き出しはシンジにとって劇中通して珍しい行動で、他人との接触を極端に恐れるシンジと彼らの間のATフィールドが中和された瞬間だったかもしれない。相補性のある世界を望む希望を持ち続けられた要因となる経験の一つであっただろう。
結果逃げるための電車に乗ることができずホームに立ち尽くす。そこにミサトが自らの意思で駆け付けたことで、一つ壁をクリアすることができた。しかしこの時そのまま電車に乗っていたらミサトは完全にアウトであった。NERVは彼らに感謝すべきだ。
▼それって家族じゃないか
名セリフの一つに数えられることもあるこの有名なセリフは第七話。冒頭、朝食中のミサトがずぼらな姿で出てくる。次にこれに重ねる演出で、ビシッと決めたいで立ちで出てくるジェット・アローンエピソード本編を経て、最後に翌朝またずぼらに出てきて「やっぱりだらしない」となるオチ。しかしギャグにしてちゃんちゃん、ではなくここでケンスケの「他人の俺達には見せない本当の姿だろ。それって家族じゃないか」というセリフ、そして少し嬉しそうなシンジ、という前進を見せて話は終わる。
前述の通り、ミサトに対し偽物の家族であることを恐れているシンジである。一度目の朝、進路相談にミサトが来るという会話があるが、ここでミサトは「これも仕事よ」と言ってしまっている。当然シンジもしっかり反応し、ミサトも遅れて失言に気づく。
その後、実際の仕事ONモードのミサトを間近に見、また元のずぼらに戻る姿を見て、その在り方が家族だといわれたことで、また一つ壁が取り払われた、といったところか。
なお、このセリフの時もケンスケはイケメンボイスになっていた。
このケンスケがシンでは父の墓の前で(おそらく両親を失ったことになるだろう)「しかし親子だ。縁は残る」と語るのだ。
▼いやーんな感じ
次回予告の定型句「サービスサービス」と並び新世紀エヴァンゲリオンを代表するキャッチーなフレーズもケンスケの口から飛び出したものだった。
TVシリーズではヒカリとの絡みと共に、アスカ(とシンジ)の等身大のキャラクター像を描くためにケンスケ・トウジの存在は大きな貢献を果たした。これによってレイとアスカの対照的な存在感が強調されることとなる。
これはそのまま新劇場版の日常・コメディ要素の大幅なオミットに直結しており、良くも悪くも作風の引き締めに繋がっている。
▼舞台装置としてのケンスケ
ややバカっぽい描かれ方が多い一方、NERV外部の人間として、TVシリーズにおいてもシン同様に一種の舞台装置として便利な存在として使われる一面があった。これは序破ではやや数を減らした役柄である。
シャムシエル戦もある意味ではそうであったが、シンジの電話番号を早々に入手している、ヤシマ作戦決行の情報をつかみシェルターを抜け出して見守る、NERV北米第2支部消失事件、3号機来日情報(破同様に)などをシンジが外から知る情報源となる、ミサトの昇進祝いを企画する、など。父ハジメの口の軽さやセキュリティの甘さが目に余る部分はあるが、学園パートとNERVパートの繋ぎとしてよく機能している。特にトウジにフォーカスされる3号機戦では、ミサトが伝えあぐねている中丁寧に絶望への前振り役を担っている。
NERV側の準メイン格、日向、青葉、マヤらはさほどチルドレンとの絡みがなく、特にシンジ・アスカの他者との関係性を通じたキャラクター像の描き出しは学園パートの比重が高い。新劇場版でその部分が大きく削られたのは、ある程度キャラクター像については認知があるという理由もあったかもしれない。
純粋に新劇場版のみを見ると、ユニゾンや潜水のエピソードがないために、アスカがシンで「あの頃はシンジのことが好きだった」に至るほどのコミュニケーションが劇中十分に描かれているとは言いにくく(第8の使徒戦後添い寝名前呼びイベントを挟んで急に夫婦いじりを受けるようになり、ここでようやくアスカはヒカリと打ち解け、その後まもなく第9の使徒戦でシンジと離別)、旧作や他媒体によって補完されている面も多分にあると思われる。
もっともアスカのキャラクター深掘りにおいてはケンスケよりもトウジとの言い合いの方が大きいかもしれない。ケンスケはもっぱら場づくりやシナリオ展開のための装置としての機能が大きかった。
TVシリーズ最終話、いわゆる学園エヴァにおける「平和だねぇ」ここに彼のポジションが集約されているだろう。
▼エヴァに乗りたい男
ケンスケの最大の特徴の一つに、積極的にエヴァで戦いたいという思いを持っているということがある。これは第壱中学の生徒の中でも、他のパイロットと比べてもおそらく特異な存在である。この姿勢は「エヴァに乗ってて嬉しい人」ことアスカとケンスケだけだろう。
特に第拾九話でのシンジへの電話はエヴァを拒むシンジとのコントラストを強調して見せている。飄々としたケンスケが劇中でも特に強いシリアスな感情を表出させたシーン(その後の弐拾弐話では落ち着いた様子でチルドレンが出てこないことを気に掛けている)だが、それでも意思を変えないことでシンジの第四話以上の絶望感を描き、物語のテンションのシフトチェンジを露わにした。
余談だが、ケンスケが情報をキャッチした経緯について、父情報にしてはリレーションが良すぎるので、もしかしたらミサトが伝えたのかもしれない。彼はTVシリーズからずっと、そういう役割を持っていた。この時は失敗に終わったが、第三村での接し方はケンスケの成長を描いた場面でもあったのだろうか。
ケンスケ+トウジによるシンジ復活作戦は2勝1敗で勝ち越しだ。
▼TVシリーズまとめ
控えめな立ち位置ではあるが、勘のいい子供、芯を食ったものの見方をするキャラクター性は当時から存在していたと思われる。
前述の、母親に関する察しの良さや「それって家族じゃないか」もそうだが、顕著なのが第拾四話で、「相田ケンスケの個人資料」が紹介される。このくだりは総集編を登場人物の言葉で切り取って見せるものだが、サキエル戦についてのトウジ、シャムシエル戦でのヒカリが等身大の目線で見た事件を語っているのに比べ、ラミエル戦について記すケンスケは、会話も満足にできていない綾波の人物像に対し、確信をもって核心に触れている。
またシンジを心配しているトウジの内心を見透かしていたり、シンジが綾波を気にしていることを察したりといった場面も見られ、随所で観察眼の良さが描かれている。
なおこれは話の流れでしかないかもしれないが、第四話で駅に来るシンジを待ち構えていたのも、多くの級友たちを見送った勘だという。外したら大変なことになっていた。
TVシリーズ外ではあるが、庵野監督の脚本によるボイスドラマ『「終局の続き」(課題)』では大人たちを差し置いて口火を切り、マヤから「すっごーい、近頃の子供はしっかりしてますね」などと言われている。但しこのドラマ自体は楽屋ネタであり、ゲンドウなどキャラ崩壊を起こしている作品ではある。
漫画版での描写
基本的にはTVシリーズに即しているが、細かな描写に違いがみられる。
▼怒るトウジ
TVシリーズ、序ともに飄々とした態度を見せていたが、漫画版では強くトウジを止めている。より執拗に絡むトウジに対し辟易とした様子もある。
▼駅の見送り
TVシリーズとは少し異なり、直接駅へ向かわずミサトを訪ねる。漫画版ではシンジではなくミサトの気持ちを動かすことで、電車に乗り込むシンジをミサトが引き留める形になっている。ここでケンスケはシャムシエル戦でのシンジの様子を考察し、それがミサトを突き動かすことにつながる。そのため漫画版ではよりシンジとミサトが強く和解する展開になっている。
▼アスカ来日
漫画版でのアスカとの出会いは街中で偶然という形になっている。この場にはトウジとケンスケも居合わせるが、ケンスケは終始アスカに対し目をハートにしている。アスカにカツアゲされてなお喜ぶあたりはTV、新劇場版とやや性格の差が出ている。
▼それって家族じゃないか
当該エピソードはカットされている。
▼ユニゾン
TVシリーズと異なり特訓はNERV本部で行われ、様子を見に来るシーンがない。
▼葛城三佐昇進祝い
アスカの引っ越し祝いを兼ねる。ここでもアスカとシンジの同居を羨んでいる。TVシリーズ以上にテンションが高く、ミサトがひいている描写がある。
ケンスケ自体の変化はないが、TVシリーズよりパーティの扱いが大きくなっており、アスカとトウジを中心としたドタバタに幸福感とこの先の不安を感じるシンジのモノローグが足されている。
▼フォースチルドレン
3号機事件の前振りが足されている。サクラの心配をするシンジに対し、トウジは同情されるのを嫌うから責任を感じるのはやめたほうが良いと語り、ケンスケのトウジへの理解をシンジが感心する。シンジ自身はトウジをどれだけわかっているだろうと自問するついでに、ケンスケのことはこの先も理解できないだろう、とオチ要員も兼ねる。
全体的に漫画版のケンスケはエキセントリックなコメディリリーフの色が濃い。
3号機暴走前のシンジとの誰が乗るのだろうかというやり取りでは、内容自体はTVシリーズと大差がないものの、シンジがすでにトウジ自身から事情を聞いているため、何も知らないケンスケはより能天気に描かれ、温度差が強調されている。
▼3号機事件後のシンジへの電話
漫画版では描かれていない。
▼カヲルとの遭遇
TVシリーズ弐拾弐話での登校してこないシンジたちを思うシーンでは、トウジが亡くなっていることもありヒカリとは会話せず内心のセリフとなっている。
学校の手前まで来て去ったシンジを見て、元の友達ではいられない気がすると語るヒカリに対し、ケンスケは平常な態度であった。他媒体に比べ漫画版のケンスケはエヴァに乗れないコンプレックスはさほどでもない様子がある。
またこの際、TVシリーズよりも早期の登場となったカヲルを窓の外に見つけるが、「人間かな、あれ…」とただならぬものを察する描写がある。
▼離別
零号機自爆により第三新東京市が壊滅、水没し疎開を余儀なくされたケンスケはTV版ではシンジのモノローグでその事実のみが語られたが、漫画版では別れの留守電メッセージが追加されている。
もう一生会うことないかもしれない、笑って会うなんてこともう絶対に無理だもんな、ともはやあらゆるものが失われ、取り返しのつかない状況にあることを際立たせるセリフで一旦の役目を終える。
▼冬の駅と再会
漫画版のエピローグを締めたのはこの男だった。
笑って会うなんてこと絶対に無理、といって別れた二人は新たな世界で再会した。同じ受験生とみて声をかけてきたケンスケは漫画版ならではの押しの強さでお互いがんばろう、と背中を叩く。さっさと先に行くケンスケの背中にシンジは微笑を浮かべがんばろう、とつぶやき、歩き出すところで物語は完結する。
このエピローグはシンのそれとも通じるところがあるが、漫画版でその大トリを担うのがケンスケだったことは、刊行当時若干のざわめきがあったように思う。まさか数年後もう一度ケンスケがファンをざわめかせることになるとはこの時は誰も想像しなかっただろうが、これら一連の各物語を追い続けたファンの中にはシンでの立ち回りに納得感を覚えた人も少なからずいるだろう。
シン・エヴァンゲリオンでのポジション
そして、シンエヴァ劇中で果たした役割を振り返る。
①設定上の役割として
▼第3村市民の(ヴィレ・クレーディトに対する)代表者
ヴィレの協力者として通信係、調査・記録係を担っていた他、外部スタッフとしての実務も行っていた様子がある。
パイロット(放浪のアスカ達)のピックアップもそうであるし、浄化試験にも(気安く入っていける程度には)関与していた。ヴィレ関連活動においては葛城艦長と直接連携し、加持(父)に関しても一連の経緯を核心まで把握、エヴァパイロットである式波アスカラングレーの保護を担うといったところから、事実上幹部級、あるいはそうでなくとも中枢に顔が利く立場である。
▼第3村運営・維持の中心人物
多くのヴィレ関連活動を行いながらも、インフラ・自然管理、技術者、教師をはじめとした便利屋をして忙しい日々を送っている。
農業こそ免除されているが、ライフラインの維持管理を全面的に見ている描写があり、若くしてかなりの重責を担っている。シンエヴァ前半の舞台である第3村存続の要の一人である。
②物語上の役割として
▼満を持しての助っ人登場
多くのファンを騒然とさせたQから続くディストピア描写からの転換点が、スーツで顔の見えないケンスケの登場であった。Qの舞台は宇宙空間→ヴンダー→NERV本部→セントラルドグマと終始閉ざされた戦場のみで、一般市民はただの一人も登場せずじまいであった。誰もいないパリでの戦闘を経て、初めて外の生存者として登場し、表現が一変するターニングポイントとなる。
▼縁によって導く者
単体としては極めてビターであったQの最終盤にわずかに希望を残すセリフとして、カヲルは碇シンジに「縁が君を導くだろう」と言い残した。
そのセリフを受けるかたちでケンスケが「ここであったのも何かの縁だ」と発言する。シチュエーション的にはよくよく考えると「奇遇だねえ」というような状況ではなく、意図的につなげている可能性がある。
それが明確になるのが、ゲンドウについて触れた「しかし親子だ。縁は残る」のセリフである。ここまでくると意図をもって「縁」という単語を使っていることが明らかだ。これは経緯上、また立場上も、ヴィレの人間には担うことができない役割であった。
この親子の縁については、ミサトとリョウジ(子)の親子関係に対しても気に掛けていた。彼が贈ったシンジとリョウジの写真はミサトの心を大きく揺らすこととなる。
それ以外のヴィレクルーへ届ける家族の記録もそうだし、アスカとリリン(第3村)との間にも立つ。シン作中でのケンスケは、縁をつなげる人物という面を持っていた。
▼導き手・ポスト加持
破においては加持リョウジ(父)が要所でシンジの背中を押した。もちろんその最たるものはTVシリーズでもあった、畑のシーンであるが、破で追加された場面としては海洋研究所のシーンもある。
ケンスケが風貌的に加持を思わせるということもあるが、役割として大きいのは、どこかコミュニケーションに欠陥があり距離感のコントロールが下手な大人たちの中で、大人としてシンジに向き合い、良き先輩としてシンジの自立心を尊重しながら助言する点だ。
エヴァシリーズ通して、劇中、加持、カヲル、ケンスケを除く主要な年長者は誰一人そういった接し方ができていない。最もそうあるべきミサトは、表向き大人としての立場で喋ろうとするが、すぐに上官としての命令というかたちに頼ってしまう。あまつさえ気の乗らないシンジの態度まで命令違反の追及にかこつけて責めてしまう。
話を戻し、ポスト加持という観点から二人を重ねてみる。具体的に関連性のある描写を挙げると、まず加持は海洋研究所でミサトの過去を語って聞かせた。ケンスケもミサト、加持に何があったかを語り、ミサトの胸中を代弁する役割を負った。加持が言った「つらいのは君だけじゃない」のセリフがケンスケからも復唱されている点から、意図的に被せているのだろう。
次に、キーワードにもなる「土のにおい」。一度目は加持のスイカ畑で。二度目はケンスケにミサトの苦悩を聞いた後に、シンジは土のにおいを感じている。これが最終局面でミサトの背負っているものを半分引き受ける、という発言につながる。
これと関連し、加持がスイカ畑で野良仕事をさせたのに対し、ケンスケは釣りをさせる。この辺りの接し方にも類似性が見られる(釣りは義務でもあるが、描写として)。
▼アスカの救済
14歳のままのシンジと、見た目は変わらないものの実年齢は28歳の立派な大人になってしまったアスカは、対等な友人、まして恋人としては成立が難しい状況になった。ラブコメディではないので必ずしもその要素が必要なわけではないが、作品におけるヒロインの一翼であり、また惣流・式波通じて家族、愛情への渇望に悩み続けたアスカが放り出されたまま、「物語完結後にきっといい人と出会っているでしょう」では収まるわけもなく。
エヴァンゲリオンのコクピットに居場所を求め続けたアスカに、エヴァンゲリオンのない世界での居場所を与えることは、物語の幕引きに不可欠な要素であったし、それが彼女の補完であることはずっと明らかなことだった。
第3村は「私のいる場所じゃない」と言い切るように、アスカは14年間でそれを得られた実感を持っていない。
経緯は明らかでないが、ケンスケはそんなアスカに対し適切な距離感で受け入れ、協力者として長らく頼りになる存在であったのだろう。アスカは市井の人々をリリンと括るようになっているが、ケンスケに対してはそれともヴィレクルーに対してとも違った態度を見せている。ラストのシーンはすでにあった居場所に気づく、ということを示していた。
漫画版を除き、アスカと特段フラグめいたもののなかったケンスケがそこに当てはまったことへの意外性が物議を醸すわけだが、シン1作の中でもそれなりに収まるよう描写を積み重ねていたとも思う(少なくともシン・エヴァンゲリオン劇場版という1本の映画の登場人物としては)。
とはいえここに至るまで26年という現実時間での比重の問題は否定できないし、シンジとマリの最終的な関係性においても同様の物議は散見された。
ただ個人的には同じく登場の少ないサクラがシンジとくっついてもそれはそれで成立できそうにも思えたし、ケンスケもこの大役の器としては、描かれていない14年間でそのような道もあっておかしくない程度の人物である…ということが、ここまでの記述から言えるのではないか。いかがだろうか。
さいごに
人々のシン・エヴァンゲリオン劇場版上映から、様々な感想を見ていて、ひょっとしたらエヴァンゲリオンとの出会いの時期などによっても、相田ケンスケというキャラクターへの認知に幅があるのかもしれない、「モブに近い脇役」という先入観のフィルターがかかっていることもあるかもしれない、と思うことがしばしばあった。
トウジやヒカリにも言えることだが、特にケンスケについては冒頭に記したような思いもあって、こうして改めてTVシリーズから見返してそのキャラクター像を追ってみた。
この記事の大半は5月の連休に書いたものだが、どうも消化しきれないまま時が経ってしまった。映画の終映を機に、ひそやかに公開することにする。
別の記事でも書いたことだが、漫画版のエピローグを筆頭に、随所で印象的な仕事をするイメージがあった。
実際に振り返ってみると、と思ったほどセリフ量が多くはなかったが、そういえばこんなこともしていたな、と印象的な場面も再発見できたように思う。
決して贔屓されたキャラクターではないが、非常に機能させやすいキャラクターでもあったのだろう。「便利屋」の肩書は伊達じゃない、生まれついてのものだったのだ。