《銀竹ときたま文芸評論》銀竹ネットプリント第2号批評 日比谷虚俊
銀竹のディレクターを名乗っている(かもしれない)大橋弘典です。
先日は、多くの皆様に『銀竹ネットプリント第2号』を印刷・お読みいただきありがとうございました。メンバー一同、心よりお礼申し上げます。
さて、今回は《銀竹ときたま文芸評論》ということで、そのネットプリント第2号について、この銀竹というコミュニティの代表・日比谷虚俊による批評を掲載いたします。
骨太で中身の濃い批評になっていますので、実際にネットプリントを印刷された方も、そうでない方も、お楽しみください。
トップバッターの責任は重い。その一行で読者の期待感を削ぎかねない。しかし、この短歌は平生の世界から詩的世界へ、なめらかに私を誘ってくれた。「地球に住めばいいのにね」と、地球にいない人類(あるいは生物)を前提に始まり、「ハミング」「遠い三日月」が登場する。悩みを持つ作中主体と「動けなさ」に鈍感な相談相手の涼しい時間が見えてくる。
連作のトップバッターは作者自身が選べるが、ネットプリントのトップバッターは編集者が決めることだ。両者の選択が功を奏した言えよう。
作中主体を見せるのは上の句だが、作中主体を決定づけるのは下の句であるように思う。烈火のように怒っていれば「香水の瓶」は視界に入りづらいだろう。やはり「香水の瓶」は作中主体の心象として作用する。納得できないながらに、静かに絶望する作中主体。旧仮名は林原めぐみの「薄ら氷心中」を思わせる。
「愛」と聞くとそれは他者との関係を思わせるが、エーリッヒフロムの『愛するということ』(鈴木晶訳)には自己愛の重要性も書かれている。他者への愛も自身への愛も、どちらかが欠けてしまえば不健康だ。そして大橋の歌には「愛する」対象が書かれていない。「距離が近すぎ」とあるから他者のようにも思えるが「猫」は「自分の尾を追つてゐ」る。作者が大きい飛躍を多用することを考えて、「猫」は作中主体のメタファーではなく不完全さのメタファーと解釈するのが自然だろう。もっと深い踏み込みを期待してしまうが、短歌にするにはこれくらいの方がちょうどいいのかもしれない。
彼女の連作のなかで一番生活感が出ていた。シュールで、しかし家までの距離だからと開き直りにも近いものを感じる。葱というのは持ってみると意外と香りがするもので、切ったり加熱したりするから香るのではないと気づいたときは少し衝撃があった。
彼女の連作について言うなら全ての句が[上五]+[下五を修飾する中七]+[体言の下五]であった。読んでいくうちに単調に感じられるし、その単調さが佳句を霞ませてしまう(かく言う私も句末がすべて平仮名なのだが)。用言や破調なども使えるようになれば、連作としての面白さもぐっと増すだろう。
この句の前にある二句を読んで、彼の特徴は強烈な飛躍にあるものだと思っていたが、案外俳句らしい作品も作れるのだということに驚いた。正確かつ失礼のない言い方をするなら、突拍子もない二物をぶつけるのではなく切れによって生まれる句の広がりを生かす手法。「雪催い」の登場によって上五中七の湿度、空気感は変容する。切り取った箇所も俳句に適していると思うし書きぶりにも無理がない。らしい句、らしくない句、どちらも作れるのは間違いなく武器であるし、読者としても基礎がしっかりしている人の作品は安心して読める。
「しこたまに」というのがもう笑える。「日向ぼこ」の分解なのだろうが、「冬の陽」としないのがよかった。「冬の婆や」だから馬鹿馬鹿しくなれた。少し柄井川柳の気持ちがわかった気がする。
「初日」を「撮るひと」が「朴直に笑」ったとも、「初日」を前にしてはどんな「ひと」も「朴直に笑」うのだとも、どちらでも読める。連作ともなると作者はどこに感動する人で、どの方向性で書きたくて、というのが見えてくるが、彼の書きたいものがこの句に一番表れているのではないかと思った。
北村太希の「ライフ」は読後感はよかった。道中「この話はどこへ向かっているんだろう」と不安になったが、主人公の「誰かの人生の役に立っているかもしれない」瞬間を巡っていると気づいて腑に落ちた。もう少し各トピックに強めのオチが付いていればこんなに不安になることもなかっただろう。起承転結の起の部分だけで次の話に飛んでしまって、結局前の話はなんだったのか判然としないまま読んでいるのが苦痛だった。
俳句や短歌のように定型や歴史があれば、less is moreを達成するハードルは低い。A4一枚の小説はショートショートよりも短い掌編小説ということになるだろうか。彼の成長をじっくり追いかけてみたい。
綾驟雨晴の「波濤」は詩の書き出しのその最初という感じがする。私は大学の現代詩の授業を受けて、自由詩とは己の心の裡を書くものであるという認識でいる。悲しみであるとか渇望であるとか、当然それらは整理されたものではなく混沌としているから現実世界とは異なる世界が展開されるし、常識も通用しない部分がある。その混沌とした世界こそが作者の心の裡である。しかし綾驟雨の詩はまだ現実世界に近いものだった。踏み込みが浅いと言うべきか。もし彼が今後も自由詩を書き続けるというのなら、彼に期待をしてみたい。彼が書くべき悲しみを持っていることは確かで、これから持つべきものは悲しみを作品にして衆目に晒す勇気だ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?