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イエスはきっと話下手

 キリスト教系の高校に入ってから、もう一年半は経っただろうか。私は毎日、否が応でも聖書を見つめる日々を送っている。

 学校に入って聖書を初めて開いた時、それが旅行記であることに驚いた。特に新約聖書の方では、イエスが弟子たちと共に各地を旅しながら布教を行う話は一見すると中々面白そうにも感じる。
 そういうわけで、巡礼の旅を始めたイエス一行と共に私の聖書を巡る旅も始まったわけだが、実際に礼拝や聖書の授業で聖書を開いてみると、まぁ面白くない。
 面白くないというか、「興味を持ってもらおうとしていない」というのが正直な感想だ。

 まず、旅の内容があんまりそそられない。
 無論、教えを説く旅である以上エンタメ性に特化しろとは言わないが、だとしてももう少し飽きられない工夫をすべきだ。
 聖書ときたらやれイエスが盲目人を癒やしただの、やれイエスが大勢の飢えを満たしただのと、ずっとイエスが活躍して終わりみたいな話しか載せてないのだ。
 要するにワンパターン、イエスはすごいんだよと聞かされ続けても、こちらがうんざりするだけだ。

 それだけならまだいい。それだけならまだ、ワンパターン活劇を眺めて退屈する程度で済んだだろう。
 だがこの聖書という書物、キリスト教の聖典とするには恐ろしく文章にまとまりがないのだ。
 聖書に出てくるイエスはよく決まったフレーズを使うのだが、その中の一つに「はっきり言っておく」というセリフがある。
 もしこのセリフを初見の人が見たら、
「あ、イエスが説教のまとめを言おうとしているぞ。これはいいことを言うに違いない」と思うだろう。事実、私もそうであった。
 だが実際は、うまく要領をつかんだようなつかんでいないような曖昧なことを言ったかと思ったら、事態はそれで一件落着となってしまうのだ。
 取り残された私達のモヤモヤ感と言ったら、筆舌に尽くしがたい。もうちょっとビシッと、冴えた事は言えないのか。
 また、イエスは例え話も苦手だ。すぐ何かに例えて話をしようとするのだが、さっぱり何を言っているのか分からない。
 結果、わかりやすく話をするために例え話を持ち出したが、より分からなくなるという本末転倒も甚だしい事態が発生するのだ。
 この「イエス話下手問題」のせいで、私がどれだけイラつかされたことか。全く度し難い。

 高校に入ってから、イエスの巡礼旅行は筋書き通り、順調に進んでいるのに対して、私の聖書を巡る旅は不平不満だらけのブルーな物になってしまった。
 私の旅は一体どこに向かっているのか、私自身も全く想像することができない。

*全て個人の感想です。
*聖書の解釈的に誤っている点がある可能性があります。

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