「汚い女」と太宰治の自意識

以下の文章はわたしが18歳の頃、大学の基礎ゼミでレポートの練習として書いたものです。拙いながらも、当時のまだ希望に溢れている感じが青臭くてなんだか人に読んでもらいたくなりnoteに載せました。2020.5.6.追記


 太宰の特徴的な作風に「女性独白体」というのが挙げられることは周知の事実であるが、『皮膚と心』もまた女性の一人語りの形式で書かれている。
 主人公の「私」は二十八歳の主婦である。つい三ヶ月前に結婚したのだが、自分を「売れ残りのおたふく」「お婆ちゃん」などと自嘲する大変自信のない女で、それ故に夫にも甘えることが出来ず、同じくこれまた自信のない夫との関係にぎくしゃくしたものを感じている。自身は初婚であるが夫には六年も連れ添った内縁の妻がいた。ついぞ気にしたことなどなかったが、原因不明の吹き出物のため、訪れた病院が「皮膚科と、もうひとつ、とても平気で言えないような、いやな名前の病気と、そのふたつの専門医だったこと」をきっかけに自身の性病を疑った「私」は初めて「あの人にとっては、私が最初で無かったのだ、ということに実感を以て思い当り、いても立っても居られなく」なる。
 その一方で「私」は待合室を「ここにいるのが、一ばん楽なの。」と言う。これについては李(2000:p133)が

主人公は女性性は『きたない』という観念を抱いているからである。すなわち『きたない』女性が『きたない』病にかかっているひとたちと一緒にいるのが最も・自然で、安心できるという思い込みから起因しているのではないか。

と述べているように「私」の女性性の観念から来るものであろう。そして「私」は自分は「夫」によって汚された「プロステチウト」なのではないかと考え出す。
同じ太宰の作品で、同じく女性独白身体である『女生徒』にも女性性への嫌悪感を主人公が語る一節がある。

「ああ、汚い、汚い。女は、いやだ。自分が女だけに、女の中にある不潔さが、よくわかって、歯ぎしりするほど、厭だ。金魚をいじったあとの、あのたまらない生臭さが、自分のからだ一ぱいにしみついているようで、洗っても、洗っても、落ちないようで、こうして一日一日、自分も雌の体臭を発散させるようになって行くのかと思えば、また、思い当ることもあるので、いっそこのまま、少女のままで死にたくなる。」

これについても李(2000:p135f.)が

思春期の少女が自分の肉体の成熟に嫌悪感や反感を抱く現象が思春期の少年には克られないことから考えると、女性牲は不潔だと決めつけているジェンダー意識が思春期の少女の意識を強くとらえていることが感じられる

と述べているように少女が第二次性徴の過程において自分の身体が「産むことができる」ひいては「産むために作られ」ていると否が応でも実感させられ、自らの女性性から目を背けたくなるからではないだろうか。
 太宰は男性であるが、『皮膚と心』の「私」は極めて筆者に近いのではないか。筆者自身の自己肯定感の低さが「私」と重なり、「女性性」への嫌悪感を皮膚病を通して浮き彫りにされる「私」は、小説を書くことで自らの自意識と対峙しようとする太宰に重なる。もちろん「私」には自らの性差への概念と対峙しようという意思は無いのだが。
 「私」自身も与り知らぬところにあった鬱積したフラストレーションは皮膚に現れることによって対峙せねばならなくなる、対峙することが出来るようになるように、太宰は自意識によって自我が崩壊せしめられぬように、自らの内面を掘り下げ、恐怖や嫌悪、痛みを書くことで優れた小説を生み出せたのではないだろうか。ただ、男性である太宰がこのような自意識をなぜ女性の語り手に託したのかという点はまた稿を改めて考える必要があるだろう。

参考文献

太宰治『皮膚と心』青空文庫(2014年1月21日閲覧)
(http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/267_34632.html)
太宰治『女生徒』青空文庫(2014年1月21日閲覧)
(http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/275_13903.html)
李顯周『太宰治の「女生徒」と「皮膚と心」論――「女生徒」と「皮膚と心」におけるジェンダーの世界――』(平成十二年三月『筑波大学比較・理論文学会 文学研究論集十七号』)
(http://hdl.handle.net/2241/10260)


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