文責ギマユニコ
自分のエッセイを読んだひとから傷ついた、と言われて、色んなことを考えた。自分の好きなことを一生懸命やって、それが結果的に罪のないひとを傷つけてしまうのなら、どうするのが正解なのかはとても難しい。やさしいひとでもありたいし、好きなことを一生懸命やるひとでもありたい。そこが相反するときのことは想像してなかった。
何か悪意のない言動をしたとき、受け手がどう思うかは管轄外というか、読み手のリテラシー(と呼んでいいのかも分からない)にも責任は持てないのはわかっているつもりだけれど「あなたの発言で傷つきました」と好きなひとから言われたら「そうか、傷つけてしまうのは本意ではないな」と思ってしまう。
なるべく誰にも嫌われたくないけれど、できるだけ正直でいたい、というのはかなりのわがままなのかもしれない。「自分らしさ」を優先することが正しいわけではないことは分かっているつもりだし、その「自分らしさ」すら恩師の「自信」についての言葉を借りるなら蜃気楼のようなものだ。掴めたと思ったら離れていくのだから。
それがたまたまでも、わたしの人生に関わってきた時点でわたしは書く。書かなきゃ死んでしまう人種だから。わたしにとっては「書くこと=生きること」で、お腹が空いていて、目の前にごはんがあったら食べる、くらいのことだ。わたしは文章で食べていけてるわけではないし、笑われるかもしれないけれど、それくらい本気で書いているのだ。わたしの文章がかなりハイカロリーで、読むひとを選ぶことも分かっているつもりだ。
嫌なことも嬉しいことも心の中で消化したら文章にして発散したい。わたしの人生にたまたま関わってしまったひとがいて、わたしがわたしの人生のそのひとに関係ある部分を語ることはそのひとを「利用している」ことになるのだろうか?ごはんの例えなら、わたしはもしかして無銭飲食のようなことをしてしまっているのだろうか?
傷つくかどうか含めどう捉えるかは相手の自由だけれど本意じゃないし、難しすぎる。
表現の自由の範囲内で、誹謗中傷には当たらないと思ったから書いたし「傷つくから書かないでほしい」というなら具体的に問題点を挙げて欲しい、それをしてくれないなら、ちょっとわたしの人生に対してそこまでの権利を持つ他人がいるとは思えない。というのはわがままなのだろうか。わたしも大切なひとへの誹謗中傷で傷ついて救急車を呼ぶ事態になったことすらあるから、わたしのそれが誹謗中傷にあたると客観的に見て思うひとがいるのなら即刻消して然るべき対処をしたいとは思う。
以前Twitterで見かけた漫画で、"片思いのクラスメイトをモデルにイラストを描いていたらバズった男の子が、モデルの女の子にバレて炎上した結果アカ消しする"というのがあったのだけど(もちろんストーリーの軸はそこではない)
「見るひとが見たら分かるくらいの、特定されない範囲で勝手にモデルにしてイラストを描くことの何が悪いんだろう?卑猥なイラストでもないのに」
「雑誌で"街で見かけたおしゃれな人"みたいなイラストコラムとかよくあることじゃん」
「ヲタクくんキモ〜と思って告発する権利はあると思うけど炎上するほどのことかね?」
と思ってしまったので、わたしのネットリテラシーがめちゃくちゃ低い可能性も否めない。
けど、これは現状の考えであって、また考え方が変わるかもしれない。
とにかくわたしは、誰かを傷つけるために文章を書いているわけでは決してないので。
エッセイの趣旨としては
このツイートをもっと掘り下げたくなって
誰かにとっての欠点は他の誰かにとっての魅力だったりするから、他人にうまく合わせられない自分のことを責め過ぎたりすることもないし、自分に合わない誰かのことを嫌いになったりも、うまく合わせられる誰かのことを必要以上に羨ましく思ったり、ましてやコンプレックスに感じたりもしなくていい。
わたしはすきじゃないけど、こういうところをすてきだと思うひともいるよな〜って思えばいいだけの話だ。
その逆も然りで、こういうところがすてきだと思ってたけど、やっぱり合わないのかも〜って思ったら、それは合わないと思ったわたしのせいでも、相手の性格が悪いとかでもない。人間には相性ってものがあるのだ。
いつもみんなにやさしいな、と感じるひとはたくさんいるけれど、だからといって「誰からも好かれるひと」なんて幻想だと思う。
誰かにとっての「最高のひと」が全員にとっての「最高のひと」ではないし完璧な人間なんているわけないのだから、お互いにダメなところを許容しあって、すてきなところを認め合って、そうやって生きている。それでいいし、許容範囲を超えたら静かに離れていけばいい。そうやって人間関係を自分で選べるのが大人になるメリットだな。
という内容だったんですけど、まぁ、ここにそれを書いたとしても読んでもらえるかも、読んで趣旨を理解してもらえるかもわからない。読み手に理解してもらえるほどのちからがわたしの文章にはないのかもしれないし、読み手の理解するちからの問題なのかも、それはもう本当に分からない。書いたことで余計に傷つけてしまうのかもしれないし、じゃあ読み取れなかった自分が悪かったのかも、と思われるのも本意ではない。本当にどうするのが正解か全く分からない。難し過ぎる。「文責」の重さについてよく考えなくてはいけない。
これを読んで「結局それって全部言い訳じゃない?」とか「やっぱりギマさんって不誠実だな」「こういうことわざわざ書くのもめちゃくちゃ性格悪いよね」と思われても仕方ない。そう思われる可能性にも覚悟を決めて、なるべく正直に書いたつもりだ。
わたしは、まほうつかいになりたいんです。
誠実で真摯に生きる、とてもやさしいひと、ひとをよろこばせる行動を積極的にするひとを、あぁ、このひとはまほうつかいだな、と思うんです。
だからわたしの目標にしている大人はみんなまほうつかいだし、わたしの行動や文章で誰かが喜んでくれると、おっ、今日は魔法がうまく使えたかなって思えます。
だから、この一年はまほうつかいの修行をがんばる年にしたいです。
これだって本気で言ってる。嫌味ではなく本気で「表現についてもっと真剣に考える機会をいただいて感謝します」としか現状のわたしには言えない。重ねてになるが、本当に「文責」の重さについてよく考えなくてはいけない。
文責ギマユニコ
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