ちょろちょろ読んでいる
自分の考えを整理するために、ひとから教えてもらうことが多い。
たとえばこういうもの。
なににでもお手軽な近道があると思ってはいけない。それを確認した気がする。文章を読んでいくこと。読むことで自分のなかに起こる変化に耳を澄ませること。そういう姿勢をもちなさい、と教えられる気がする。
なににせよ、自分が感じたことのメモは大事な素材になる。わたしはいつも具体的なプロット(小説などでいうそれとは違う)をいくつか打って、それを遠くから眺める、というステップをふむ。そうすることで価値の遠近感を意識しながらものごとに接するように心がけてはいる。それが立派にできているかどうか、という話はあるのだが、そこへはあまり突っ込まないでください。
一見なんの関係もないように思えるものであっても、それを紐付けたくなったりする。自分の経験と知識のなかから出てきたものなのだから、そのうち結びつける理由が見つかることもあるだろう。そういう気づきはおもしろい。
ちょっと目先を変えて、責任の生じるメカニズムについて深く考察した本。いくつも示唆に富む文章が散りばめられている。引用が多く、全てをたどることはできないけれども、自分の中で物事を整理して考えたい時に眺めることがある。責任について、判断について、意志について、自由について。そうであるかもしれない可能性を丁寧につぶしていくことによって結論を導くスタイルは、相手にする対象を捉えづらいときに試したくなる。物事をかんがえるときに、なにをどこまでみて、どういう道筋で考え、ロジックを立てていくのか、気分転換したいとき、目線を変えたいときにこの本を手に取る。
むかしテレビで若年性痴呆症の男性を扱ったドキュメンタリー番組をみて以来、自分の使いこなせる言葉の限界が、自分の実感をもって把握できる世界の限界になる、と理解した。自分の感じていること、思っていることをできるだけ自分の言葉でつかまえられるように、とその番組をみたあとから意識し始めたように記憶している。
まだリモート会議が主流になる前、電話会議において正確に意思疎通するため誤解のないよう言葉を選ぶ苦労があった。それが楽しさに変わった時、日本語が少し身についたのではないか、と感じた。ただ感情を表現するものではなく、思い描いている対象を捕まえてそれをそのまま伝達する道具としての言葉の在り方に気づいた。
その経験から、場面によって情緒を乗せるための言葉の選び方と道具として物事を単純に伝達する言葉の選び方とを使い分けようと、はっきり意識するようになった。他人からみてそれがきちんとできているかどうかは、また別の話ではあるけれど。
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