小説感想「52ヘルツのクジラたち」

お世話になっています。元サー長です。

文庫になっていたから読もうということで、「52ヘルツのクジラたち」を読みました。

あと、「流浪の月」も読みました。どちらかというと「流浪の月」の方が私の好みでした。

でも、感想を書きたいのは「52ヘルツのクジラたち」だったので、こっちの感想を書こうと思います。半分批評かも。



ネタバレあるのでスクロールしてください。





ネタバレありますよ






もう未読の人いない?(映画化したけどそっち見てないので語れません)






テイラースウィフトを、テイスイと略しているおばさん?





はい、始めましょう。

綺麗な小説でした。田舎に越してきたミステリアスな女の人が、同じく不思議で、虐待を受けている少年と出会うことで、彼女自身の過去を清算しながら、少年を助けようとした物語で、途中、彼女の壮絶な過去が告げられ、元々の家族、そして元恋人から受けてきた仕打ちの描写は、小説なのにその壮絶さに息が詰まるような思いをさせられて、描写の力が高いなあ。と感じました。

そして、最後にクジラが現れて、私たちは52ヘルツのクジラだったけど、聞こえない声も聞こうとしてくれる人がいるし、それによって救われることができるし、聞こえないなりに救おうとしたことを誓ったというところで物語は終わりました。

本当に綺麗で、それでいてしっかりと物語として描かれているように感じました。

主人公は、母と、義理の父とから壮絶な家庭内暴力、ネグレクトを受けていて、主人公は「悪」に屈する中で、彼女を助けるアンさんによって救われたわけです。後々主人公と母親があった場面では、かつて悪だった母は小さい存在として描かれています。

そして、その人生が終わったのも束の間、今度は彼氏(愛人関係のようなものでしたが)である主税(ちから)(調べたら結構人名に使われてるんだね)との関係が始まり、その中で主税が悪として描かれ、その洗脳はアンさんの死を通して解かれます。

そして最後は、少年と一緒に、「悪」である少年の母親、そして少年の祖父である品城さんに対して、意見をしっかりと言った結果、少年を守ることができ、母親は蒸発し、品城さんは認知症が進み地域からも疎まれ、完全勝利したわけでした。

息が詰まるような内容だった分、読み終わった後も、しばらく何もせずゆっくりしてしいました。それくらい、迫力のある作品でした。


ここから書くことは、批評的になってしまうため、この作品に対して変な色眼鏡が付いてしまう恐れはあると思います。
確固たる想いを持ってこの作品が好きな人はここからを読んでも気にしないでしょうし、この作品を読んで否定的な意見を持った方も意見が変わることはないとは思いますが、なんとなく読んで、なんとなくこの作品を肯定した方にとっては、その思い出の方向を歪めてしまうかもしれません。
これを了承してくれる方は、これ以降を読んでください。


この作品を読んで、私が引っ掛かりとして感じた点が2つあります。それは、「あまりに運命的な上でその説明が少ない」ところと、「主人公が最終的に52ヘルツのクジラたちの声を聞こうと感じた理由が理解できない」という点でした。

1つ目の理由である「あまりに運命的な上でその説明が少ない」という点について、この作品は、サクサク進むんですよね、先が読みやすいというか。その弊害なのかもしれないんですけど、全てが奇跡的に見えて、リアルさをあまり感じませんでした。アンさんの家に行った時にそのお母さんが来たところ(描写がないだけど数時間単位で待っていた可能性は否定できませんが)や、少年の祖母(品城さんと離婚した)とその再婚相手が里親制度に詳しかったこと、そして、クジラの姿が見えたこと。

これら以外にも、偶然の結果そうなっているものが多くあり、よく言えば運命的、奇跡的なのですが、私は読んでいて、作品の進み方に対してあまりにうまくいきすぎていて現実感を持てなかったというところがありました。御伽話のように感じるというか、そこに説明がないせいで、「昔虐待を受けていた女性がたまたまあった虐待を受けている話せない少年に会ってお互いに救われた話」という根幹の部分も、リアルさを強く感じることはできませんでした。

そもそもリアルを求めていないなら良いのですが、それにしては家庭内暴力やジェンダーの話を取り扱っていて、現代の問題と絡めているように感じたため、そうなるともう少しそれを悪として捉えるのではなく別の視点から捉える過程がない点、「虐げられる弱者」の視点のみで物語が進んでいくことに、少し怖さを感じました。これは2つ目の理由にも少し関わってきます。

これらから、リアルさをあまり感じず、御伽話のような、ジェットコースターのような、レタッチした風景の写真のような、そんなイメージを持ってしまいました。これはあくまで個人が感想として思ったことです。そして、ここで挙げているものはすべて、悪いものではない、むしろリアリティがありすぎて救われない物語よりこの作品を好む人がいて、ただ私はそうでなかったというだけであることをご容赦ください。


2つ目の理由である、「52ヘルツのクジラたちの声を聞こうとした理由が理解できない」という部分なのですが、これは小説の最後の部分、主人公が少年と泣いたあと、2人で話をして主人公が誓った「声をあげられない人も声をあげて、それは誰かに届くし、私でいいならそれを受け止める」と言っていたんですよね。

これを見て、ちゃんと考えた上で、やっぱり私はこれを綺麗事というか、「作者が言いたがってる」ように感じてしまいました。

主人公にとって声をあげられない人が誰なのかは、なんとなく、主人公や少年のような、虐待を受けてきた人、暴力に屈してきた人のような感じがありますが、うーん。

主人公は受け止めるって言っているんですよね。でも、本当にそうなのか?と思ってしまいました。彼女は、少年を救って、彼女が救われただけで、これから誰かを救おうなんて思っているようには感じませんでした。

この作品で「悪」として書かれた人たちも見方を変えれば弱者の面があります。特に主人公と関わったその後に。義理の父は死に、母は弱々しくなりました。元彼の主税は、周りから蔑まれながらも主人公を求めていました。品城さんは、認知症で老人ホーム?に入れようと思っていると言われています。

彼らは悪として、言うなれば悲惨な最後を迎える描写がなされました。これは、読者としてはスカッとするのですが、よく最後まで読んで「あげられない声を聞く」というテーマの元考えると、彼らも弱者の面を持っているように感じるのです。

そして彼らを、主人公は救うのでしょうか。そもそも彼らは声の大きい存在でしたし、52ヘルツの声を出さないのでしょうか、もっと低い周波数の声を出すのでしょうか。そんな彼らが彼女に助けを求めたら、彼女はそれに応えるのでしょうか。

自分には、主人公が彼らを救うと到底思えないのです。聖母的な考え方をすると思えないのです。私は、主人公の52ヘルツの声を聞こうとするという表現を信じられません。彼女が少年を救った時に、自分からアプローチをしたように、彼女の救う。は極めて限定的で能動的なものにまだ限定されているようにどうしても感じるのです。

そのせいで、最後の52ヘルツの声を聞く。というのが「弱者とされている人たちの声を聞こうよ」という作者の想いとして受け取ってしまいました。これが、私がこの作品に対して感じた点です。重ねてになりますが、これはあくまで私の受け取った考え方です。


面白い作品でした。改めて社会問題に対してどうするかを考えるいい機会になりましたし、何より一気に読んでしまいました。私は積読するタイプなので、一気に読んでしまう時点で私にとって相当面白い作品でした。

とはいえ、私は上記のように感じました。これを読んだ方が何を感じるかは分かりませんが、あなたにとってこの文章が新たな発見につながり、できればこの作品をより考えるための一助になることを願います。

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