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26歳までの自分史~他人の目線を意識して生きる~
26歳からの私の婚活ストーリー”すっとこどっこい婚活史”がそろそろ終盤差し掛かったのもあり、26歳以前の私がどんな人生を歩んでいたのか、どんな事を感じていたのかのか、どうして26歳で人を見下すような捻くれ者になったのか、自分自身を振り返ってみました。
10000文字あります(笑)
文章になっていないところもあるかと思いますが、
私の自分のとの対話にお付き合いできそうであればお付き合いください(笑)
26歳までの人生の大まかな纏め
自らの意思で達成してきたことはあまりないように思う。すべてが周りの人の後押しがあったり、運が良くてなんとなく成果に繋がったことが多かったから。どちらかというと苦難から学んだことが大半だったかな。
以下、私の生きてきた道のりです。
【たぶん3歳か4歳:保育園の頃の記憶】
給食に出てきた、すき焼きに入っていた三つ葉が食べれなくて、先生に怒られて、食べるまで居残りさせられたから今でも三つ葉が食べられなくなってしまった。
園のクレヨンが曲がっていたから、まっすぐに直そうとしたら、先生から折れちゃうと言われたけど、無理やりにクレヨンをまっすぐにしようとしたら先生の言うように本当に折れてしまった。ほらねと先生から言われてなんだか悲しくなった記憶がある。
みんなができるから、あなたもやりなさいと強要されることが苦手になった。誰かの言うことを聞かないと悪い事が思うようになったのもこの頃からかもしれない。
【5歳、6歳:幼稚園の頃の記憶】
園の砂場に大きな穴が掘ってあって、その穴の中に白い貝殻が落ちていた。その貝殻は誰かのかもしれないけど、ほしくて仕方なかったから誰もいない時に貝殻を取って逃げた。友達が貝殻なくなってたと言っていて自分が持っているなんて言えず、内心バクバクになりながら秘密をひた隠しにした。
ピカピカの泥団子を作って大事においておいたのに、友達に壊されて大泣きしていた。先生が泥団子を壊した友達を叱っているのを見て、ざまーみろと思った気がする。
大好きな男の子に初めてバレンタインデーにチョコをあげようと、男の子の家まで母と車で行ったけど、恥ずかしくて車から出れなくて、母が男の子の家に一人で行き、渡してくれた。
この頃から、何か困難があると、母親や誰かがやってくれるのを待っているようになった気がする。
【7~12歳:小学生の頃の記憶】
強がりなリーダー気質だったような。人より目立ちたい気持ちが一番強かった時期。誰から認めてほしかった。
困っている子、一人でいる子をほっておけなかった。一年生の頃、同じクラスの女の子が髪の毛を切りすぎたのか、それをみんなに見せたくなくて、ずっと安全帽子をかぶっていた。体育の授業で帽子を赤白帽子に変えないといけなかったけど、みんなの前ではできなくてどうしようか困っていた。彼女が可哀そうだったから、みんながいなくなった後に、その子の赤白帽子を自分にも見えないようにスルリと安全帽子と入れ替えてあげた。
この子に限らず、誰か困っている子がいたら、何も考えずに力になろうとしていた姉御的存在だったのかもしれない。
小学4年生の頃、自分でキャラクターを考えて描こうという授業で、自分ではクラスメイトをあっと言わせるアイデアが出ないと思ったので、自宅にある保育園の頃の古い本に出てくるキャラクターをそのまま描いて提出したら、友達にこのキャラクター見たことあると友達に指摘され、それを聞いてた先生に怒られると思ってとても焦った。私は先生の前でこのキャラクターは想像して描いたけど?みたいな無理な演技をしたような記憶がある。
文化祭に学校の花を水彩画で描いて提出する課題がでた。学校では仕上げられなかったので、家に持ち帰って完成させて家のテーブルに置いておいたら、母親が夜中に色を塗りなおしてしまい、自分の描いた絵ではなくなってとても泣いていた。
その絵はどうしても提出しないといけなかったので、学校に仕方なく持っていった。いつもだったら絵のコンクールで賞をもらえるのに、今回は賞をもらえなかった。先生になんでもらえなかったのか聞いたら、自分で書いていないでしょと言われて、自分が母親に頼んだ訳ではないのにと言えず、悲しかった。
夏休みの宿題は毎年、登校の日の前日にすべて夜な夜なやっていた。
その中の一つに、家庭の日のポスターの課題があった。自分では、何を描いたらいいのか分からなかったので、母親にやってもらい提出したら、県知事賞を取ってしまい、先生にどうやってこのアイデアでたの?と言われたときに、とっさになんとなくと焦って答えた記憶がある。
自分の考えるアイデアは人から認められないような気がこのころからしていた。賞を取る為に母親にやってもらったり、自分では手を出さないようにしていたと思う。
妹が人前で全く話せないので、周りの友達や妹の同級生から、なんで話さないのとずっと聞かれるので、妹を守るように私が話すようにしていた。
妹を守ろうと頑張っているのが、周りから強がっているように見えたのか、嫌なことを言われたり、妹のものがなくなったり、いやがらせにたくさんあった。
妹をかばって一生懸命考えたり行動したりしたけど、意地悪されるのが本当に分からなかった。そのうち、妹をかばう意味が分からなくなっていき、妹と距離を置くようになった。
小学5年の頃、好きな男の子にバレンタインチョコをあげたかったけど、直接渡す勇気がなかったので、その子の学校の引き出しにいれた。すぐにクラス中にそのことが知れ渡り、お前なんかがそんなことをするんだとみんなに笑われた。ただ、喜んでもらおうと思っただけなのに、クラスの笑いものにされた。自分から人を好きになると、ろくでもないことが起きると思った。勝手に自分のことを可愛いと思い込んでいたけど、それは間違いだったと思った。可愛くもない自分は、二度と自分から告白することはやめようと思った。
この頃から自分の意見を言うことや、自分の考えることが正しくないと思うようになった。
小学生の頃は特に母親の言いなりだったような気がする。将来の為にと習い事を母親に進められて友達と遊ぶ時間が無くなるほどやっていた。スイミング、学習塾、ピアノ、バイオリン、習字、英会話、個別の算数、何のためにやっているのか分からないものが多く、何も身についてない。友達とのテレビなど流行の話についていくことができず、高学年の頃から友達と疎遠になり、孤立していったように思う。
【13歳~15歳:中学生の頃の記憶】
人から怒られたり、恥ずかしい思いをするのがとても嫌になった時期。周りとの意見が合わず、一人だけ浮く感じ。
小学生までは、成績がよく、勉強ができた方なので、中学に入ってから勉強というものをしなかった。初めての中1のテストの時に勉強せずに臨んだら、平均点以下の点数を取ってしまい、その点を見た周りの男子にその点はやばいねと言われたのがとても恥ずかしかった。次のテストからは、勉強というよりは、先生がこの辺をテストに出しますと言っているところの答えを丸暗記して、高得点をとるようになった。授業のテストの点はいい方だけど、模試とかの点は全然取れず、自分は応用が利かないことを知った。
中一の水泳の県大会で、2種目で1位を取った。
同じ水泳部の同級生の男子も同じく2種目で1位を取ったので、1年生が3人しかいない部員数の少ない中学校なのに、1年生の部で強豪校に続いて、県総合得点で2位になった。個人種目で県1位になるってすごいと思われるかもしれないけど、自分が1位になったことはあまり喜べなかった。というのも、本当に強い子がたまたま同じ日に別の大会に出ていると知っていた。これは自分の実力ではなく、たまたま運が良かっただけと思った。周りの人がすごい!と褒めてくれたけど、素直に喜べなかった。
クラスに友達っぽい子はいたけど、本当に友達と呼べる子はいなかった。基本的にグループには所属せず、単独で行動をしていたように思う。中2の頃からグループの所属の色が強くなるようになり、自分もグループに所属しないといけないのかと思って、とりあえず話の合いそうな子たちと一緒にいたけど、会話の輪に入れず、ただ見ているだけで、とても孤立しているように思った。
学校には友達はいなかったけど、所属しているスイミングのクラブチームの仲間たちと仲が良かったのでそれでいいと思っていた。
中2の頃、クラスの担任から生徒会に立候補するように強く言われた。まだ2年生なのに立候補する子なんていなくて、やりたくないとずっと逃げ回っていたけど、おだてられたのもあって立候補の期日前日に、渋々了承して生徒会に立候補した。公約は他の候補者はみっちり枠内を文字で埋めている感じなのに。締め切りギリギリに書いた私の公約は一文しかなく、そのまま選挙となった。
選挙演説で全校生徒の前で自身の公約を話すことになった。一人で話すのではなく、推薦人と一緒に壇上に上がった。一応2人で打合せをして話す練習をしたのだけど、公約なんて薄っぺらい内容しか考えておらず、その後の質疑応答で上級生の3年生から質問攻めにあい、壇上であたふたとなり、質問に回答できないのを全校の前で失態をおかした。
自分の余りにも不甲斐なさに愕然としたのと、全校の前で馬鹿にされた感じがして、家に帰って号泣したのを覚えている。
その日から、人の前に出ること、人に自分の意見を言うことがとても怖くなった。
生徒会選挙の何か月か後、私に生徒会に立候補するように言ったクラス担任がクラスの生徒からのいじめにあっているようだと学年主任を交えクラス会議が開かれた。何がどうなったのかよく分からないけど、学年主任と担任の先生の勝手な思い込みで、先生へのいじめは私のせいにされたけど、何も反論しなかった。
街の企画で、カナダへの留学体験が毎年あるので、応募した。街の中でスポーツや勉強などで好成績を収めていれば合格になるのは知っていたので、案の定、私は合格した。
英語はずっと好きで勉強をしてきたけど、自分よりも英語ができる人達がいて自分のレベルが恥ずかしかった。
カナダ留学は、ホームスティ先の家族の優しさを感じたのと、自分のありのままをすごいと言ってくれる人が海外にはいてとても居心地が良かった。
中3になって、先生から、カナダ留学経験者は学校に貢献するようにと言われていたのもあって、クラス委員に頑張って立候補したけど、クラスで一番可愛い女の子との多数決となって負けた。私はやっぱり可愛くもないし、人気もないと感じた。
どこかの委員会の委員長になるのも嫌になってしまい、でも何か役割をやらないといけないと思い、委員会の副委員をやった。
この頃から、自分よりも頭のいい子たちがいるし、自分は可愛くもないし、自分なんてなんの役にも立たないと感じるようになった。
高校への進学は受験勉強を頑張らないと希望校には入れなさそうだなと分かっていたけど、受験勉強を本気でやれなかった。
受験シーズンになる前に、母が一人で私立の高校の説明会に行った学校が絶対いいからと母から言われて、学校見学に行った。この学校なら、塾に入らずにいい大学に行けそうな気がして、家からだいぶ遠かったけど、母親もいいって言うし、制服が可愛いのもあって、その私立の高校へ進学することに決めた。受験もせず、偏差値で言うと良い方の高校に推薦という形での進学となり、受験勉強という事をせずさらっと進学してしまった。
【16歳~18歳:高校生の頃の記憶】
自分の周りにいる人さえも信用することができなくなっていった。どうせ自分は嫌われる存在なんだと思った。
華やかな学園生活を思い描いていたけど、全く違った。
遠方から通う学校には知り合いはほんの一握りしかおらず、クラスの女の子とは、かろうじて話せるけど、男子とはほとんど話さない異様な感じだった。女の子がクラスに8人しかいないクラスだったので、必死にその子たちと話すようにしたけど、可愛い子たちのグループには話しかけることができなかった。そのうち、男子からはキモイと言われるようになり、男子がこそこそ話しているのを見るとまた私の悪口を言っていると思った。
電車に乗ると、他校の女子からもキモイと言われ続け、その女子たちの車両には乗らないようにしたり、電車ではなくバスに乗って帰ることもあった。
学校だけではなく、学校以外の場所でも自分のことを悪くいってくる人たちがいてどこもかしこも居心地が悪かった。
毎日キモイと言われる自分の存在を消し去りたい気持ちもあった。
ちょうど同じころ、妹が学校でいじめにあい、高校1年の2カ月で中退した。自分もいじめられているなんて言えず、ただひたすらに耐えて3年間を終わらせる事を決めた。
遠方の高校にも関わらず、小中高ずっと同じ男子が一人いた。その子は、小学校の頃から何も変わらずに私に話かけてくれたのが、唯一の救いだった。
周りの女の子たちは、日々の学園生活を楽しんでいるのがとてもうらやましかった。私は一日をどう過ごしていたか思い出せないような辛い日々を過ごしていたように思う。
高校2年の夏休み、読書感想文を毎度のごとく夏休みが終わるギリギリに何とかやろうとしていた。でも本を読んでいる時間がないので、本の前書きと後書きだけ読んで、あとは、ネットで「車輪の下」の読書感想文を探して、使えそうな文章をもらって、あとは想像で本の内容をまとめて提出したら、学園法人内のコンクールで金賞をとってしまった。そのせいで、自分の学生証の写真と読書感想文が学園通信に載ってしまい、全校生徒に配布された。いつもキモイと言われる顔が学園に配布されたのと、自分で書いたとは言えない読書感想文が出回ってしまって、とてもショックだった。担任からはすごいと言われたけど、後ろめたさがあり喜べなかったし、なんてことをしてくれたんだと恨んだ。自分がもらった学園通信は、学生証の写真が載ったところに穴を開けて破って捨てた。
大学には進学したかったけど、この自分の周りにいる低レベルないじめをしてくる人達と同じ大学になんて行きたくなかった。このままお先真っ暗な人生を送りたくなかったから、アメリカの大学に進学するという普通じゃない道を選んだ。
アメリカの大学進学の決断に至るきっかけは、たまたま自宅にアメリカの大学に進学するチラシが来ていた。食い入るようにそれを見て、そこに書いてある人の人生がどう変わっていって今どれくらい充実した日々を過ごしているかを何回も読んでいた。母にこれに行きたいと伝え、説明会を聞きに行き、アメリカの大学に進学することを父親には何も相談せず決めた。
父親には、社会人になってからくらいに、アメリカ留学はしてほしくなかった、どんだけお金がかかったと思っているんだと言われた。
誰も知らない異国の地で、新しい人生が切り開けると思ったけど、同級生の別のクラスの女の子が同じアメリカの大学に進学するということを聞いて愕然とした。
高校3年の時の担任の先生に、私がアメリカの大学に進学することは伝えたはずだったけど、みんなが受験を控えたある日、クラスの前で担任が、クラスみんなに受験を諦めるなという話をしていた。そこで諦める奴が留学とかいって海外留学して、受験から逃げるんだと言っていた。まるで自分のことをクラスの前で言われていると感じた。
確かに、受験から私は逃げたんだと思う。高校受験も大学受験もみんなが頑張るところを私は逃げてきた。大きな壁があると逃げ癖がある。みんなより私は劣っているから何も自信と言えるものがなかった。
【19~22歳:大学生の頃の記憶】
新しい世界が切り開けて、自分が自分のままでいいと思えるようになった。
日本から同じ大学に進学する20人と一緒に渡米した。20人の中には、私が苦手とする可愛い子たちもいて、その子たちが最初は怖かったけど、話してみるとみんな優しくてびっくりした。アメリカ留学時代は、すごい自分が苦手そうだなと思う人が、中身がめちゃくちゃいい人で驚くことが多かった。
同じ高校から進学した女の子とは、最初めちゃくちゃ嫌厭した。その子とは、距離をおきたかったけど、たまたまホームスティ先が同じだったり、同じアパートで暮らしたりすることになった。彼女と話す中で、彼女は、私が高校時代に知っている性格の悪い可愛い人では全くなく、むしろ面倒見のいいお姉さんキャラだと気付いた。彼女もそうだけど、一緒に渡米したメンバーみんな誰に対しても平等に接してくれ、辛いときは助けてくれる心優しい人たちだった。世の中にこんな世界があったなんてと思ったくらい、とても居心地の良い日々だった。
英語が好きで留学したのはあったけど、語学がとびぬけてできる訳でもなかったので、勉強には苦労した。でも助けてくれる仲間がいたからなんとか単位を落とさず進学できた。
クリスチャンの大学であるのもあってか、人種差別は少なく、ウソでしょというくらい優しい人たちに恵まれた。
アメリカ生活で大変なのは、語学だけではなくて食事も大変だった。大学の寮のご飯は、ハンバーガーやピザが毎日出てくる感じで、食欲をなくした。せめて白いご飯が食べたいとご飯をレンジで炊いたり、即席のお味噌汁を飲んだりしていた。寮で暮らしていると料理ができないので、大学内のアパートに引越して、自炊するようになった。この頃から、アジアンスーパーに食材を買いに行ったりするのが大好きになった。時間があれば、クックパッドをみて料理していた。いつの間にか自分で食べたい味を作れるようになった。そして気づいた。母親は料理が下手だったんだと。子供の頃よくお弁当屋さんの弁当やスーパーのお惣菜を食べていた。自分でもその味が作れてしまうことがわかったとき、まだこの世には食べたことのない料理がたくさんあるんじゃないかと探究心に火がついた。料理熱が加熱したのは、日本のパンを食べたいと思ったときから。日本のフワフワもちもちのパンが食べたかったので、レシピを探し、材料を集めて作ってみたら、焼きたてのパンのおいしさに感動した。そこからメキメキとパンの腕をあげ、他校の日本人からもパンを焼いてほしいと依頼が来るようになった。みんなが私が作ったパンをおいしいと言って食べてくれるのがとても嬉しかった。
大学時代、一番やらかしたのは、自動車を大破させたこと。車の免許をアメリカでとっている友達が多かったので、自分も車の免許を取りたいと、香港人の友達の車を大学キャンパス内で運転の練習をさせてもらった。初めての運転で左ハンドルがなれず、右折にどれくらいハンドルを回していいか分からず、ハンドルを切りすぎて、5mくらいの段差から車を墜落させた。街頭をなぎ倒し、フロントガラスから地面が見えた時には、車に乗っていた3人がシートベルトで宙刷りになっていた。
周りにいた人たちが慌てて、車内から救出してくれて病院に送られた。車を大破させたことや友達を巻き込んだことにショックで何も話せない状態が続いたけど、周りの友達や先生、近所の見知らぬ人達がずっと心配してくれて、私を助けてくれようとしてくれたのもあって、何とか大学に復帰して普通の生活を送ることができた。あの時、たくさんの人たちが私を助けてくれた恩をいつか私は返したいと思った。
高校時代までに自己肯定感をかなりなくしたけど、この大学時代の優しい友達のおかげで、自分のことを少し好きになることができた。
【23~26歳:初めての社会人】
誰も信用しない、ちょっと人を馬鹿にしている強気な時期。
リーマンショック直後の就活は、求人が半分くらいになっていて、なかなか就職先が決まらなかった。
同じ大学の友達は、みんな超大手への入社が早々に決まっていて、自分も絶対大手がいいと思ってた。食品メーカーに行きたかったけど、悉く不合格。地元の中小の食品メーカーに内定をもらったけど、なんかダサいなと感じていて、就活を続けた。その時に見つけたのがマクドナルド。飲食には興味はなかったけど、飲食の商品開発なら興味があると応募したら合格した。商品開発になるには、まずは店舗での店長になることがスタートラインだと人事から言われ、それを信じて店舗スタッフとして入社した。
入社したけど、アルバイトの仕事さえもわからない状態だったので、入社後しばらくは、アルバイトと同じユニフォームを着て、アルバイトに仕事を教えてもらう日々だった。お局的なパートのおばちゃんの言いなりになるしかない自分がとても嫌だった。
しばらくの辛抱と、必死に仕事を覚え、お局さんたちを取りまとめるマネージャーとして立場を逆転させた。マネージャーなりたての頃、お局さんは私の言うことを聞いてくれなかったけど、お局さんが黙るくらい店舗コントロールができるようになってしまうと、誰も何も歯向かわなくなった。
ある程度マネージャーの仕事ができるようになった頃、疑問が生まれた。すべてはマニュアルに書いてある。マニュアルさえ理解すれば、誰にでもできる仕事。なんで誰にでもできるような仕事を私がやらないといけないのか?
そう思っていた時に店舗異動となり、郊外の大型店舗のグランドオープンを副店長という責任の重い立場で任されることになった。前任の上司には、退職したいということを伝えていたのに、新店舗を任されることになったのが全く理解できなかった。
全くモチベーションのない状態でグランドオープンの準備は精神的に私を追い詰めていった。オープン初日のお昼のピークは、私が店舗全体をみることを任されていたけど、お店の中がぐちゃぐちゃになり、もうどうしようもなくなって、もう私にはできませんと店長と店長の上司に涙ながらに言った。でも、その言葉は軽く流された。
過酷な環境で頭がどんどんおかしくなり、ベッドで寝ようとすると明日が来るのが怖くなり、ついにはベッドで寝れなくなった。食べることさえも面倒になり、とてもやつれた。もう限界だと、退職を申し出たら店長に店舗異動する前に言ってほしかったと嫌味を言われて傷ついたけど、こんなやつ、すぐに会わなくてよくなると耐えた。退職までの1か月が苦痛でたまらなかったけど、何とかやり過ごし、出勤最終日に脱いだ靴を店舗のゴミ箱に投げ捨てた。退職翌日には、ユニフォームをすべて燃えるゴミで捨てた。
退職後しばらくは開放感に喜びを感じていた。一人暮らしだったけど、実家には帰りたくなかった。自分の決め事ではあるけど、留学費用1000万円を貯めて、その通帳と印鑑を両親に投げつけてやろうと思っていたけど実現しなかったから。
実家に帰らない理由として、結婚すればいいと考え、大学時代からずっと片想いをしていた人と勝手に結婚しようと思った。その人に会いに静岡に行き、告白をしたけど、妹のようにしか見えないと言われ夢は玉砕した。
ずっと好きだった人に振られ、多少ショックではあったけど、なんかスッキリした。
結婚するために、婚活を始めたのもこの頃。
この頃から私の婚活史に綴ってある。
26歳までの纏めから自分に伝えたいこと
26歳までの人生は、他人からどう見られるか?にフォーカスすることが多かったように思う。何となく周りの人、こうしなければいけないというルールに従って、自分ではやりたい事ではなくても、歩む道を選んできたように思う。高校までは、自分で決断するということが極端に少なく、自分での決断に対して失敗したらどうしようと恐怖が先立つ感じだったように思う。大学時代からようやく、自分の選択は多少間違いはあるけど、何となくいい方を選べるようになってきたようの思う。特に、大学時代から、私の周りにいる人達は、みんな超いい人という思い込みができたように感じる。ここには書ききれなかったけど、本当にいい人がいい言葉を私に教えてくれたこともあって、結婚相談所を始めた今、その言葉をよく思い出す。
話しがそれちゃったけど、他人と比較して自分がどうとか、他人と自分を比較する意味はないとようやく気が付いた。私は私であって誰でもない。
人生がうまくいかない時、その選択は自分の意思で決めているのか?自分の望んでいる事が今できているのか?よく心に聞いてみるといい。
長年、自分の心の声を押し殺してきた私みたいになると、他人を見下したり、原因は自分にあるのに、他人に矢印を向けて攻撃しがちなんじゃないかな。矢印が他人になっていると自分の歩みたい人生を歩めていない時だから、心から楽しいと思えなかった。矢印を自分に変えた時、見ていた世界が変わるくらい衝撃がある。自分で自分の心の声を聴くことから始めるといい。あなたは何を望んで何をしたいの?心のままに生きようよ。
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