大っ嫌いな洋画
映画にまつわる思い出といえば、
当時小学校4年生。
漢字もそこそこ、なお年齢。
離婚した父との面会は決まって映画かバイク。
映画は必ず洋画もので
中身も必ず当時の自分には理解し難いものばかり
そして決まって言われる事がある。
「洋画は必ず字幕で。」
当時は父と会うために嫌々付き合った映画、
中身もほぼわからずにとりあえず
文字を追うことに必死になった過去。
「これが見たい!」とたまに要望を出し、
許可をもらうと喜び、跳ねると
その後の一言に失望させれた。
「ただし、字幕。」
映画に関しては自分の要望をあまり聞いてくれない父が
自分の要望をきいてくれるとひどく喜んだことを覚えている。
とても鮮明に。
でも、必ずその後の字幕宣言にわたしは失望したものだ。
何故なら、字幕だと文字を追うのに必死で
中身を考えるのに必死で
ストーリーも映画の画面も見れず
ただひたすらに文字を追うことになるだけだからだ。
映画を見る、というよりは
文字を追う、作業になってしまうことが当時の自分にはとても辛かった。
大人になった今、思わぬ恩恵を頂いている。
元々好きだと感じていた英語、
息子の海外留学のための英語、
全てすらすらと聞き取れ、
だいたいの意味を汲み取れる自分に驚いた。
改めて英語の勉強をし直そうと思った時に感じた違和感は長年会っていなかった父を思い出させた。
あれ、なんか思ったより抵抗がない。
聞き覚えのある言葉たちばかりで
苦にならずに身になっていく。
どうしてだろう、と考えた時
徹底した字幕宣言のおかげで
気がつけば自然と映画を好むようになり
気がつけば自然と字幕で見るようになり
わたしは知らぬ間に英語の勉強を積み重ねていたのだ、と。
そしてそれはあれほど忌み嫌った字幕宣言のおかげだったんだ、と
父に深く感謝した。
今では自分が子どもに字幕宣言をするようになり、
なんていったって親子なんだなぁ
共に過ごした時間に偽りはないんだなぁと
映画を見るたびに思い出す。
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