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困っていた子は、もう困っていない

長男が中学生になって早8か月、これほどまでに困り感がなくなるとは、別世界すぎて気持ちがふわふわしてしまう。

中学になって迎えた運動会の日、いつも通り「行ってらっしゃい」と送り出してはっとした。運動会なのに親は何の心配もしていない。小学生の時は当日脱走するんじゃないか、何かしでかすんじゃないかと気が気ではなかったのに。

中学では合宿等も当たり前のように参加した。学友との旅行まで自分で計画して2泊3日で行ってしまった。もちろん毎日の授業は教室内で受けるし、テストも一度も欠かさず受けている。信じられないことに家庭科や音楽も受けている。また、遅刻もしないように自分で毎朝時間を考えて行動している。

この様子を見たら、小学生で暗黒時代を経験したなんて誰も想像しないだろう。

小学校時代は、運動会、合宿、学芸会など、集団での行事はことごとく参加を渋ったし、合宿も行くには行ったが後で写真を見れば随所で自由気ままに行動している事が明らかだった。

低学年の時は授業に積極的な様子もあったが、中学年以降は教室にいても授業とは他のことをするようになった。高学年になってからは、教室ではなく図書室や図工室に居着くようになった。

中学年を境に反りの合わない担任に遭遇して以降、学校生活は崩壊し、管理職を筆頭に先生という立場の人から社会的制裁を受けに受けている。それでも長男は屈することなく我が道を行き続けた。

高学年以降は、学校内に味方が増えた。担任の先生や管理職ががらりと入れ替わり、校長・副校長先生が長男が一定のルールを守る限りは温かく見守るという姿勢でいてくださったため、長男の別室登校は暗黙の了解を得ていたようだ。そこに至るまでの過程では担任の先生が奔走してくださったに違いない。

だからなのか図書室や図工室が閉まっている日は、長男は教室には入らなかったものの、外の廊下に椅子を持ち出して読書やPC、好きなことをやっていた。教室には入らないが廊下にいるというのは長男なりの気遣いであったらしい。担任の先生が自分の居場所が把握できないと困るだろうからとの計らいで視界に入る位置にいたようだ。

学校に行っても授業に出ていないしテストもやらなかったため通知表は最終的に斜線であった。こういう子の場合は内申が使えないため、早くから内申のいらない学校を探し始めるなど、対策は必要だと思った。

そもそも長男を中学受験させた理由は苦痛からの解放だった。何なら親も解放されたかった。小学校では最後は何人かの先生に大変お世話になったと感じるが、小学校生活の延長のような中学校生活だと、親子関係ももう持たなかったかもしれない。

書けばきりがないが親子関係も破綻ギリギリ。私も夫も長男に対して、そうは言っても周りを困らせないように努めなさい、誤解をされないように行動しなさいと言うタイプであったから、何度言っても効果のない長男と対立しがちだった。

小学生でこれだけ他の子との行動面の違いがあると、学校からは発達の検査も勧められたわけだが、これは今振り返っても転機だったように思う。発達という分野があることすら知らなかった親にとっては視界が開けた瞬間だった。

そして発達特性の話に行き着く時、たいていは「困っている」からではないだろうか。困らなくなると、本当に必要なくなってしまって、浦島太郎のような気分でどっちが現実かわからない気分になっている。

実は志望校に入れば過去の困り感からは解放されるのではないかとの思いはあった。ついては入学時の個人票には何ら特性のことは書いていない。

そして実際に必要性を感じなくなると、そのカテゴリーに一度は救われたにも関わらず、卒業しても良いかもしれないという気持ちになりはじめている。

別れを告げる時かもしれない

そう思うようになったきっかけは、発達特性で長男を語るより、「〇中生らしい」という今の中学校の名前を借りた表現が一番しっくりきたからなのである。

発達特性となると、細かく分類わけしたり、解釈に違いが生じたり、困っているのに話題にしづらかったりと、若干の煩わしさがあった。これが「〇中生」と言えば事足りてしまうのである。それくらい長男と校風は合っていた。

それに長男自身がこれまで発達特性が話題になってもほとんど気にしていなかった。以下の本をはじめ、長男自身も読んでいるが、親が感銘を受けて意識の中に持ち続けたのとは違っていた。

それが今、私が何か言うと、「○中生がそんなことするわけないでしょ〜」と返しが来たりする。なるほどそんな風に認識しているのだなと思う。

私自身は発達特性の分野は引き続き関心があるため、これからも最新の研究は読みたいと思うし、以下、改めて読めば脳機能面の話など興味深かった。普段は行動結果しか観察できないからだ。

これからのギフティッド研究と実践の発展のために

また以下も見つけた。長男が感じてきた「不協和感」は、以下のような形でも表現できるだろう。

p185, 令和5年度「特定分野に特異な才能のある児童生徒 への支援の推進事業」

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しかし、ここだけだと学力に焦点が当たっていて、なおかつ続きの部分に苦労があっても支援なしでうまく対処できているケースが多いと書かれていた。そうなると、ほぼ社会的制裁とは無縁の優等生をイメージしてしまう。だとすれば、長男とは決定的に異なる。

その差異を説明する手間も、「○中生らしい」と言えば済んでしまう。

頭脳よりも、生き方が根本的に違う様に感じてしまう点について、長男の特性を持ち出すまでもなく校風で十分なのだ。紛れもなく○中生であり、○中生らしい。それを誇りに生活できることがとても有難いと感じている。