感謝の気持ちがあったなら(と母は思った)(5)
結局は親などの周囲の都合を押しつけているのか
今回は運動会というテーマを通して、感謝についてしつこいくらいに書いた。その背景には、お前は一人で生きていけるのか?なら好きにすれば良い、でも今だって沢山の人がお前のために心を砕いてくれている、それをお前は分かっているのか?という思いがあった。
また、自分の考えや思いを大切にするのと同じくらい、人の思いや考えにも思いをはせられるようになってほしいという思いがあった。
白黒つける話とは違って、誰かが喜んでくれるなら、それは自分も嬉しいと思えるような経験、また助け合うにはどうしたらよいかを柔軟に考えられるようになってほしいと思っていた。それが日ごろの周囲からの配慮等々に思いをはせたなら自然とできるはず、というのが親としての思いであった。
そして今回はこういったやり取りの過程で、親子関係が上手くいっていないことが浮き彫りになったように思う。
愛あるエピソード
運動会が終わって間もない頃のこと、クラスメートのお母さんから「担任の先生に誕生日メッセージを一人一筆書く案」で相談を受けていた。何でもクラスの男子が数人嫌がっているらしかった。そこで我が家の長男が書けば後ろに続く男子が出るだろうとのことで白羽の矢が立ってしまった。
このタイミングで難題が降ってきてしまったと思った。率直に現在の親子関係を伝えて、親が介入すると上手く行くものも上手く行かなくなりそうで、直接子供同士でやりとりした方がうまくいく可能性が高いと思っていることを伝えた。
同時に、想像しただけで憂鬱になるものを、それが現実となったらもっとうんざりするような気がして、でもその時に長男が非協力的であるかのような解釈はこの時もうしたくないと思っていた。こういったきっかけがある故に親子間で揉めることも少なくない。だから、きっかけそのものを減らしたいとも思っていた。それでも頃合いを見て訊けたら訊いてみるということにしていた。
そのタイミングは割とすぐにやってきた。
私 :担任の先生の誕生日の話、なんか知ってる?
長男:いや知らない
私 :なんか皆で一言書くみたいな話出てない?
長男:そうなん?
私 :うん、なんだけどさ、男子が何人か嫌がって書かないって言ってるんだって
長男:ま、そりゃ男子は嫌がるでしょうね
私 :そうだよね。お母さんも男子はそれが健全な反応でもあると思ったんだけど。それでさ、あんた書いてって言われたらどう?
長男:俺は別にいいよ。先生のこと嫌いじゃないし
私 :あそう?実はさ、Sちゃんちのママからちょっと相談受けてて、Sちゃんが困ってて、あんたが書いてくれないかなって思ってるみたいなのよ。
長男:俺は別にいいけど。俺が書けば嫌がってる男子も書くだろうってそんな感じでしょ?全員が見てる前で書くとかだとちょとあれだけど、こそっと書けばいいなら。しかしなんで先生の誕生日なんて知ってんの?
運動会に比べたら誕生日メッセージのほうがよっぽど気恥ずかしくて嫌がるかと思ったら全然だった。
そしてこの話には続きがあり、Sちゃんがメッセージボードを先生に渡したところ、先生が「あっ!ドラ(長男)も書いてる!」と言ったそうなのだ。
これを聞いたのがつい一昨日のことだった。
Sちゃんママ:Sが『〇〇先生って凄いドラの事好きだよね』って言うから、え、なんで?って聞いたのよ。そしたら〇〇先生が寄せ書き見て『ドラも書いてくれたんだ…この〇の中に*っていうのが(*=苗字の初めの1文字)なんかドラらしくて愛を感じるよね』って言ってたんだよって!やっぱり○○先生もドラちゃんの事を凄く可愛く思ってくれてるんだよ。
と教えてもらったのだった。なんとも言えずほっとした。先生もそういったことを感じ取るのが上手な先生なのだと思う。
わが家としては嬉しかったが、ふと、先生が他の生徒の前で長男に関するコメントをするというのが意外に思えたのだった(他の生徒に関するコメントももちろんあったかもしれない)。
Sちゃんによると、この日先生も嬉しくて少し饒舌になっていたらしい。またSちゃんママの言うところでは、「〇〇先生が唯一自分の感情を曝け出して向き合ってるのがドラちゃんなんじゃないかな。それこそ教師として体当たりでぶつかって行ってるつもりっていうか。それをドラちゃんはひょいひょいかわす時があるから、先生としてはあまり手ごたえを感じていなかったのかも。でも色紙に寄せ書きなんて面倒がりそうなドラちゃんが、たった一言でも書いてくれたっていうその事実が、本当に嬉しかったんじゃないかと思うよ。」
そうだと良いなと思った。
運動会については、どの辺で長男が気持ちが切り替えられ、どうして本番でしっかりできたのか、本人もわからないし、思い出せないと言う。
運動会終了後、教室に行った際、黒板に先生から生徒へのメッセージが大きく書かれていた。心にうったえるものがあり、もしかしてこれかなと思ったりした。
このnoteを書くにあたり日体大の”集団行動”の動画を見た。歩く芸術に見入ってしまったが、同時にこの演技は長男にとってはとてつもなくハードルが高かったかもしれないと思った。一糸乱れぬ動きとなるように繰り返し練習するはずだ。これぞまさに普段の長男が最も嫌がることである。
もし動画を先に観ていたら、親としても長男がこの中にいる状態はあまり想像ができず、もう少し理解も示しながら寄り添った対応ができていたかもしれないと思う。
今回は、最終的に長男が話してくれたおかげで、長男が教室に本を取りに戻った理由が親への反抗であることがわかった。このことが分かったことは私にとっては次の第一歩を間違わずに済む気がして安堵感につながった。
また親の方が問題を感謝に結びつけて考え過ぎていたから、その可能性すら気づけなかったのかもしれないと思った。長男が最終的に話してくれたことに感謝したいと思う。