言葉の正確さについて完璧主義的であるとどうなるのか(1)
タイトルについて、母親の視点から子供と接していて感じたことを書いてみたいと思う。
前回noteでは、オープンキャンパスに行って長男と大学院の研究室を見学して回った話を書いた。その際に気づいたのが、長男が言葉を正確に使いたがるということだった。
ある光の研究をしている研究室に行った際のこと、黒の油性ペンで色を付けた風船と、黒の水性ペンで色を付けた風船がある時、赤いレーザー光を当てて割れる(割れずに風船に穴が開いて空気が抜けるだけの場合もある)のはどちらでしょうかというクイズがあった。
私がそれを後で「油性と水性どっちが光を通すんだったっけ?」と訊いたら、長男は「光を通すんじゃなくて、光を吸収するんだよ」と訂正してきたのだった。
私は風船に穴が開いた瞬間を思い出し「通った(貫通した)」と表現してしまったわけだが、でも取り合えず何の話をしているかは伝わるはずと思って喋ったのだった。しかし、長男からすると違和感があったのだと思う。
他にも、この日に関しては私が再現して話そうとすると、言葉を直されることが多かった。そのため、そう言えば数年前に受けたWISCでも「言葉の正確さについて完璧主義的」と指摘されていたことを思い出し、さらには思えば事あるごとに、ぼんやりとではあるけれど、親の方もこの点が意識に上ることが増えていたことを自覚したのだった。
「言葉の正確さについて完璧主義的」であることは良いことである反面、大雑把に話の要点だけを伝えればよい場面で少し不利に働くのではないかということを親の方が見ていて実感する場面が出てきていた。
例えばオープンキャンパスの際に夫や私は素人丸出しで質問を平然とできた一方で、長男があまり喋らなかったのは、質問するなら正確な言葉でないといけないと感じて気負ってしまったからではないかと思っている。
このように考えるに至るまでには、あの時も、この時も、と思う場面に出くわすことがあったからで、少し前に皮膚科を受診した際にも同じようなことが起きていた。
長男は自分の手の甲にできたほくろが急に大きくなって形も変わってきているため皮膚科を受診したいと私に言ってきていた。本人としては悪性黒色腫を疑ったわけだ。
それでこれがどういう展開になったかというと、皮膚科を受診した日、診察室に入って自分で説明を始めるかと思いきや、先生から「ん?どうしたの?」と言われてもまだ喋らず、私が「自分で言いなよ」と促しても、しばし間があって、それでもまだ喋らず私の方をちらちらと見るような状態であったから、私が先生をあまり待たせては悪いと思って仕方なく、「このほくろが最近大きくなってきて気になるようで」と説明したのだった。
それで診察が終わった後に、一体どういう訳で自分で説明しなかったのかと訊いてみたら、「ほくろと言ってしまうと、それは良性であることになってしまい、現時点で良性か悪性か分からない時に、どう言えばよいか迷った」と言うのだ。
それは確かに言葉に詰まるだろうなと納得して、長男はそういう風に考えるのだなと私の方も新しい発見をしたのだった。しかし家では私に「ほくろみたいなのが・・」と説明していた訳で、先生にも手を見せて、「これが気になります」とでも言えば十分であったはずであり、ただそうはならなかったということを、長男のコミュニケーションの取り方として親は認識をした方が良いと思ったのだった。
直感的には、正確性が求められる状況であればあるほど長男は考え込んでしまうかも知れないと思う。これを長男の一つの特性として認識しているか否かは大きいと思っていて、過去を振り返った時に認識していなかったために、親としては大いに失敗したなと思うことがある。その事について次回以降書いていこうと思う。
なお、ほくろは切除の上、病理検査もして良性の結果が出ている。私が結果が出るまでの間心配しすぎたせいか、長男は逆に「これくらいの大きさならまだ転移もしてないだろうし、少し大きめに切除すれば大丈夫よ。お母さん心配しすぎ」と言っていた。結果が出た時は安堵したのだった。
(2)につづく