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頭から離れない「診断」(2)


「インペアメント」と「ディサビリティ」

ここで障害の議論をさらに深く理解するためには、インペアメントとディサビリティの違いについて知っておく必要があると思う。

(…)「足が動かない」など,主流派とは異なる心身の特徴のことをインペアメント(impairment)と呼ぶ.一方,エレベーターが設置されていない建物の側に障害が宿るであるとか,そうした建物と筆者の身体との<間>に障害が宿ると考えるならば,社会モデル的な障害の捉え方ということになる.この時,<間>に生じる不具合をディスアビリティ(disability)と呼ぶ. 医学モデルのみに基づいて障害をとらえれば,困難や不利益の原因はすべて本人の心身のコンディションに帰属されることになり,心身を改変することでしか困難を取り除くことはできないとみなされてしまう.(…)
コミュニケーション上の困難はコミュニケーションを取ろうとしている相手がどのような人物かという環境側の要因次第で,発生したり消失したりするものだ.一般に,環境の如何にかかわらず本人の心身の側に宿り続けているのがインペアメントで,環境の如何に応じて発生したり消失したりするのがディスアビリティなので,コミュニケーション上の困難はインペアメントではなくディスアビリティを記述したものだと考えられる.例えば,耳が聞こえないという身体的な特徴はインペアメントだが,耳の聞こえない人が,聞こえる人が主流派を占める社会で経験するコミュニケーション上の困難はディスアビリティであるという具合だ.なぜなら,情報保障を実現する社会環境が整えばコミュニ ケーション上の困難は改善するからである.他の障害には見られないASD特有の問題は,このコミュニケーション上の困難というディスアビリティが,他ならぬASDの診断基準の中に用いられているという点にある.医学的な診断基準は,ディスアビリティではなくインペアメントを記述することが期待されるものであり,実際,インペアメントを記述したものとして研究や臨床の現場で活用されている.つまりASDを個人に対する診断基準として用いた瞬間に,本来,他者との<間>に発生している ディスアビリティが,本人の<中>にあるインペアメントであるかのように誤認されてしまうというわけだ. オークス(Ochs)とソロモン(Solomon)は,ASD者はコミュニケーション障害をもっているわけではなく, 単に,定型発達者向けにデザインされたコミュニケーション様式になじめないだけであると主張している.
特集:地域の情報アクセシビリティ向上を目指して―「意思疎通が困難な人々」への支援―
※こちらで強調したい部分を太字にさせていただきました。

自閉スペクトラム症の社会モデル的な支援に向けた情報保障のデザイン :当事者研究の視点から(p.534)

同様の議論として『当事者研究の誕生』では診断書を次の様に述べて批判している。

実際は排除してくる社会に帰責すべき現象を、個人の特徴に帰責することを可能にする言説資源として機能し得るものになっていると考えられるのである。

『当事者研究の誕生』(p.204)

改めて診断の与える影響について考えさせられた。著者にとって、診断は救いであった半面、こういった問題意識も持たれた。そして興味深かったのは、著者は診断の基準には納得できなかったものの、周りからの同調圧力を交わす事が出来たという点において診断に一定の意義を見出したことだ。

綾屋には、「アスペルガー症候群」という診断を得ることで周囲に対して自らの「違い」を説得する必要があった。「なぜわざわざレッテルを取りに行くのか」という批判が想定されたが、綾屋のように「普通の人」との違いが見えにくい身体的特徴を持つ場合、周囲の人々からの同化的な圧力に屈しないためには、「私はマイノリティの体なのだ」と自分一人で思ったり言ったりするだけでは弱く、ましてや、すでに自分が「普通のフリ」をし続ける前提で回っている多くのヒトやモノの関連構造を転換させる効果もない。「医師」という既存の社会における権威ある他者によって、自分の感じている周囲との差異が「思い込みではなく確かにある」と承認されることで、ようやく、同化的圧力を押し付けてくる他者を遠ざけるように配置を転換することが可能になったと綾屋は感じている。

『当事者研究の誕生』(p.261)

診断を活用しつつも、その診断基準を覆さなければいけないとして、著者は診断が社会モデルを反映していないことについて次の様に述べている。

専門家によって記述される診断基準は外側からの見立てであるため、綾屋の内側で生じている経験とはズレが生じていることに不満を覚えることにもなった。また夫婦間のすれ違いの原因を「コミュニケーション障害のあるお前が悪い」と一方的に押しつけることを可能にする危険な診断ではなく、より適切に幼少期からの綾屋の感覚体験を表してくれる診断を探さなければという、切実な思いを抱いていた。とはいえ、自分の困難のすべてを一言で表す診断を追い求めるのは不毛であろうことも想像がつき、綾屋は行きづまっていた。

『当事者研究の誕生』(p.198)

長男を育てる中でも、社会モデルで捉えるべきと思う場面には何度か遭遇してきた。

また、診断書によって同調圧力をある程度回避できた経験もある。

しかし「感覚体験を表してくれる診断」や「障害は個人の身体に宿るのではなく、社会環境側を変化させることで障害は消えると捉える」で気になったのが、確かに先ほどの階段の例で見たように「階段」=「障害」であるならば階段をエレベーターに変えれば障害は消える。よってしっくりくるのだが、「相手がどのような人物かという環境側の要因次第」である場合に「他者」=「障害」では、障害が個人の身体に宿るという考えを正当化していないだろうかと思った。

自閉スペクトラム症の概念はインペアメントとディスアビリティの2段階に明確に区別して、再検討する必要があるだろう。ディスアビリティの段階では「社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的な欠損」として、身体と社会との間に生じている困難の有無、および、必要な支援を検討し(…)

『当事者研究の誕生』(p.219)

ASD者のインペアメントと関連のあるディザビリティは、日常で起きているコミュニケーションのすれ違いと何がどう違うかがポイントになりそうだ。

そして「コミュニケーション上の困難はコミュニケーションを取ろうとしている相手がどのような人物かという環境側の要因次第で,発生したり消失したりするもの」は、本当にその通りで、まさに双方が共に感じることではないだろうか。共にトラウマを抱え、共に不利益を被っている状況が目に浮かぶ。

やはり社会環境側の変化と言った時の具体例と、それによってどの様なゴールを描いていて、どういった点でユニバーサルデザインとなっているのかなどについてもっと知りたいと思った。特にASD者がバリアを感じている時というのは、コミュニケーションである以上、相手方も程度の差はあれバリアを感じている可能性が高い。噛み合わなさ、すれ違い、通じないもどかしさ。双方にとってのユニバーサルデザインとは何であろうか。

社会モデルによる障がい解消の個人的事例

個人的なエピソードを2つほど挙げてみたいと思う。ただし、いずれのエピソードについても、相手が診断を受けているかどうかなどは分からない。

ASD者はコミュニケーション障害をもっているわけではなく, 単に,定型発達者向けにデザインされたコミュニケーション様式になじめないだけ」「障害は個人の身体に宿るのではなく、社会環境側を変化させることで障害は消えると捉える

以下、個人的な経験である。


ある日、長女の手を引いて道を歩いていた際、男性の「こんにちは」という声がどこからともなく聞こえてきた。その辺りには知り合いもいなかったことから、その挨拶が自分に対して発せられたものとは思わなかった。

長女と二人で会話しながら歩いていると、また2回ほど「こんにちは」と聞こえてきた。少し気になって後ろを振り返ったのを覚えている。すると、高齢女性とその息子さんと思われる人が歩いているのが目に入った。知らない人である。後ろから何度も「こんにちは」と聞こえることが不思議で、誰に呼びかけているのだろうかと思っていた。すると、「ねぇ!こんにちはってば!」とその男性が怒ってこちらに走ってきたのである。

私よりも背丈も体格も良い男性が本当にすぐ真後ろまで迫っていた。とっさに「こんにちは」と会釈した所、男性は何事も無かったかのように我々に背をむけて去って行ったのだった。

男性の目的地は我々の向かう方向とは逆であったようだ。挨拶を完結させるためだけにこちらに来たようだった。


私が一回目の「こんにちは」で反応していれば、コミュケーション障害は免れていた可能性がある(社会環境側を変化させることで障害は消える)。一度で反応していれば、単に挨拶が交わされただけだった。よって、男性の中にインペアメントはあったかもしれないが、ディサビリティを発生させたのは私との解釈も成り立つ。

だからだろうか、男性は怒っていた。私としては、他責思考の強さを見たような気もしたのだった。

私が挨拶を返した一番の理由だが、それは何よりも付き添っていた親御さんのことを思ったからだった。私自身、長男が乳児期に屋外で泣き続けるのをどうしてもなだめることができず往生したことがあった。人の目を気にすれば気にするほど焦っていたと思う。しかし、そんな場面で通りかかった人が優しく長男に話しかけてくれたり、わざわざ家の中から飴を持って出てきてくれた人がいたりと、何度も救われてきた。冷たい目を向けられた経験はなく、子どももだが私も救われていた。

だから、私が素早く挨拶を返すことが親御さんの負担を減らせるだろうと考えた。しかし同時に、もしその男性のそういった行動を、その人のあり方として肯定的に捉えていらっしゃったとしたら、逆に私のような気の使い方というのは余計なお世話だったかもしれない。私としては振り返れば社会モデルに沿って行動したつもりであるが、そこはよく分からない。

障害当事者や支援者ではなくとも、公共の場でパニックを起こした人を見かけても、せめて怪訝な顔を向けないということだけでも、障害当事者、支援者にとっての少なからぬ安心感、やりやすさ、生きやすさに繋がるのではないであろうか。物理的配慮ではカバーできない側面も、意識という面でできることは大きいはずだ。
「障害の社会モデル」と内なる障壁 ―予測する不幸より振り返る幸福を―

p.111

もう一つは、私には2Eと映った人で、少しADHDが強めな方だったのではないかと思うエピソードだ。有名私立中高一貫校卒業後、日本のトップ3に入る大学を卒業した方で、とてもおちゃめで人懐こく、仕事も専門的になればなるほど力を発揮する方だった。また幅広い分野に関心を持たれている方だった。

一方で、ミスが絶えなかった。仕事に不随して発生する事務処理の方を苦手としており、ミスの後始末で周りが少し手を焼いていた。

メンバーの中には、別に全員が同じ仕事をする必要はなく、役割分担すれば全く問題ないと考える人もいた。私もこの頃には発達の知識が少なからずあったこともあり、どちらかというと誰しもが適性に合った仕事をやる方が良いだろうと思うようになっていた。

私を含めて一部のメンバーがこう考えた背景には、この方がミスを指摘されても怒ることなく、むしろ感謝と謝罪があり、〇〇さんのお陰で助かったよ!という感じの方だったからかもしれないと思う。

こういった対応は社会環境側が変化することで、お互いにメリットもあり、障害が取り除けた事例と考えて差し支えないのではないかと思う。ただ言うほど簡単ではなく、エクセル一つとっても構造や情報の入れ方にこだわりがあり、本人には快適でも周りには落とし穴になってしまうものも多く、確認する側の心理的負荷は低くはなかった。

その延長線上で、この方が良かれと思って様々工夫したことを、上席者に全破棄させられたことがあったと本人から聞いた。本人からしたら何のことはない自分の能力でできる最善を尽くしたまでで、チームにも貢献した気持ちだったと思う。しかし、チーム全体で見た時には後々困ることもあったのだった。

他に特徴的だったことを追記しておくと、その方はオフィスの中をよく走っていた。突如思い出したように立ち上がると、全速力で走って移動していた。ADHDの評価基準の中に、「エンジンがついたように動く」というのがあり、この表現を初めて見た時は一体どういう状況かと全くイメージが湧かなかったのだが、少し分かった気がしたのだった。

また、椅子に座って作業しているうちに、突然椅子から落ちることがあった。本当にドスンと垂直にお尻から落ちる。そのはずみでキャスター付きの椅子がすごい音を立てて跳ねるため、少し気を付けないと危なかった。椅子の先端に浅く腰掛ける方だったため、集中しているなと思った時はこちらが用心するようにしていた。それで大抵は問題にならなかったし、オフィスを走るのも特に気にならなかった。

小さい頃は急に飛んでみたくなって高いところから飛んだら頭を切って数十針縫ったとか、他にも衝動性、多動性、不注意が感じられるエピソードはあった。

気前が良く人懐こくて社交的、コミュニケーション面で困っている様子はなかったが、大人数でのミーティング中にボタンの掛け違いが起きることはあった。また、一度その方の顧客とのやり取りが、顧客の逆鱗に触れてしまい、そのクレームが上層部まで行ってしまった時は悲惨だった。聞かれたことに対して、淡々と事実を述べたに過ぎなかったと思われるが、顧客の心配事に寄り添うと言うよりは、他人事な態度と取られてしまったのではないかと思う。

私としては、様々な出来事があった中で、発達の知識がもしチームにあったらもう少し状況は違ったかもしれないと考えることもあった。ただそれ前提で物事を進めるのも勝手な思い込みかもしれないしと思うと難しくもあった。

社会モデルによる障がい解消の難しさーカサンドラ症候群をどう捉えたらよいのかー

カサンドラ症候群と思われる状態になっている人との関係性についても考えておきたい。仮に自身をカサンドラ症候群ではないだろうかと思っている人が、医学モデルに基づいてそれはあなたの中に問題があるからそのような状態になるのですと言われたら、それはその人の感覚体験とは合致しない可能性が高い。逆に社会モデルに基づいて問題はその人の中にないと考えると、では問題はどこにあるのかと堂々巡りになってしまう。

相手がASD者だと周囲がカサンドラ症候群になると言い切ることは避けたく、また私が読んだ本ではASD者がカサンドラ症候群になる場合も少なくないと書かれていた。これも双方の<間>に障害が発生したと捉えることが適切な例ではないかと思う。

ASD者はコミュニケーション障害をもっているわけではなく, 単に,定型発達者向けにデザインされたコミュニケーション様式になじめないだけ」とあるが、逆に定型発達者も単にASD者のコミュニケーション様式になじめないだけで、障害は双方の<間>で生じているはずである。

そしてカサンドラ症候群と一般的に呼ばれている状態は、相手を必死に理解しようとして、また同時にこちらの思いも理解してほしいと思いながら、しかし分かってもらえない排除されたような心理状態から起きているように思っている。自分こそがおかしいのだろうかという悩みを抱えることもあるだろう。

ASDの診断がインペアメントではなくディサビリティを加味していることは問題だとして、実際に双方の間でコミュニケーション障害が発生、共に不利益を被った時、解決策はあるのだろうか。ここで社会モデルに基づいて、社会側が解決の責任を負うとしたとして、どちらが社会の側なのだという問題に直面してしまう。

究極的には診断を持つ者同士でもコミュニケーションがうまくいかないことはあるのではないだろうか。

どのような状態を「目指すべきゴール」とみなすかについて,当事者の意見が反映されていないことがある.従来の支援法は,社会的認知,コミュニケーション, 社会的技能の向上を「目指すべきゴール」として設定してきたが,これは必ずしも当事者の意見を反映したものではない.例えばバガテル(Bagatell)は,ASDに対する考え方が,ASDコミュニティのメンバーと,ASD児の保護者,臨床家,科学者らとの間ですれ違いがちな傾向を指摘しており,後者がASDを生物医学的な病気とみなす一方で,前者はひとつの生き方としてみなすという差異があると述べている.ASD者の中には,行動や社会技能に対する介入は,ASD特有の経験の多様性を否定して自分たちを「神経定型者」に仕立て上げようとするものだとして批判しているものもいるほどである
特集:地域の情報アクセシビリティ向上を目指して―「意思疎通が困難な人々」への支援―

自閉スペクトラム症の社会モデル的な支援に向けた情報保障のデザイン :当事者研究の視点から(p.535)

主流派のコミュニケーションスタイルと異なり非定型であること自体は個人的にも障害とは思わない。

しかし、ASD者が「ひとつの生き方」を経験しているのと同じく、他の人達もひとつの生き方をしている。その<間>に生じた障害について、医学モデルでも社会モデルであっても完全には解決できないように思った。

(3)につづく