映画『カラオケ行こ!』感想
※原作『カラオケ行こ!』とその続編『ファミレス行こ。』のネタバレを含む。
老若男女みんなで観られる安心ムービーに仕上がっていた!よかった!→いや、よくない!?
和山やまの漫画を映像化するなぞ無粋の極み…そう思っていた時期が私にもあった。現に今もちょっと思ってる。登場人物全てがなんか寝不足気味の顔をしていて、常に真顔でギャグを飛ばす。かと思いきやこれでもかというほどの激情を見せる時もある。緊張感のあるコマ割りと人物の芝居は常に計算され尽くしていて、見落とせる場面は一つもない。映像化なんてできるわけないだろ!!!!!…と、ハードルをわりかし低めに設定して観に行ってみたところ、あのオフビートで淡々とした笑いを維持しながらも映像作品としての盛り上がりをキッチリ提示してきたことに舌を巻いた。ナメててすみませんでした。
愛とは!?→与えることさ
各所に散りばめられた“愛”の符牒。原作既読勢からすると「何故そこで“愛”!?」となる場面が多数あった。ももちゃん先生の口癖然り、聡実くんの両親と傘の描写然り。
特に、聡実くんが「愛=与えること」に気づくきっかけが、お母さんからお父さんへの無言の鮭皮プレゼントであるのがよかった。無駄にスローモーションで「ココやで!」ってアピールも逆に笑えた。でも、ここでキッチリ“愛”を押し出していくことで、聡実くんから狂児への鎮魂歌が紛れもなく“愛”であると観客に確実に印象づけられる。うまい。
聡実くんは独りではなかった
当たり前のことなんだけど、そうだった。予告や主題歌でやたら合唱部の一員であることを押し出すよなあ〜と思っていたが、本編も合唱部をはじめとする学校生活パートがかなり原作から足されていた。ちょっと面食らったけど、これは必要な描写だったとは思う。変声期を迎える聡実くんのどうにもならない思春期特有の焦りや不安は、後の「紅」絶唱をより熱くするものだからだ。原作は聡実くんのモノローグで語られているので、聡実くんの不安は聡実くんの言葉によって語られる。それもいいのだが、これは映像作品で生きた人間が演じているのだから芝居で乗せられる情報の厚みというものもあるのだと思う。実際、聡実役の齋藤潤はその不安げな目線だけで語るものが本当に多かった。
合唱部の部員たちとの関係性や顧問の先生との絡みもよかった。臨時の顧問のももちゃん先生はちょっとデリカシーに欠ける部分はあるが、基本的には悩める聡実くんを心配して適切な距離を保っていたし、何より講師の男性の存在が聡実くんの悩みにきちんと気付いた上でももちゃん先生に教えてあげていたのがよかった。聡実くんが公然と部活をサボっても事情を理解して見逃していた(和田くんはブチギレていたが)。原作では最初から合唱祭をすっ飛ばす聡実くんだったが、映画ではギリギリになって合唱祭を抜け出していた。その方が走り出す聡実くんを撮れて画的に映えるからなのかもしれないが、聡実くんがちゃんと合唱部の一員として最後を終えようとしていたことがわかった。それに、中学校の卒業式ではちゃんと合唱部の輪に戻っていたところも、原作よりも丁寧な描写だった。
あとは、「映画をみる部」栗山くんの存在。原作厨からすると「狂児のことを他人に話すとかありえないんですけど!二人は孤独で秘密な関係性なんですけど!!!」と勢いづいたが、これも後から考えれば必要な描写だった。ひたすらに栗山くんとスクリーンに向かい、時折聡実くんは狂児のことを話す。栗山くんは基本的に映画しか観ていないので聞いているんだがいないんだかわからないというのも丁度よい距離感だ。「漫画原作の映画化」という点でもちょっとメタっぽい遊びだと思った。さらに、彼らが観る映画にに“愛”や“ヤクザ”といったモチーフを登場させることにより、その大袈裟な存在を身近に引き寄せて眺めることができる。彼らが観ていた作品は詳しい人間が観ればより深く意味を受け取ることができるだろう。
聡実くんが映画を観る→映画に出てきたモチーフについて聡実くんの実生活に引き寄せて考える
このパターンが恐らく3回ほど繰り返されていた。
私は知らない作品ばかりだったのでなんとなくの印象だけで分析すると……
①ギャングが出る映画→ヤクザという反社会勢力とはどういった存在なのか
②男女の恋愛映画→「愛=与えるもの」という認識を聡実くんが得る
③サンタクロースの話をする映画→栗山くんに「サンタなんていない」と言った聡実くんに芽生えた罪悪感。この後、喧嘩別れした狂児に「狂児さんだけだったら一緒に練習してもいい」と伝えた。
③は他二つと少し異なるが、映画を観て聡実くんが気づきを得るというパターンには変わりない。
画面外の我々が時折そうするように、聡実くんも映画というフィクションから学びを得る。これって漫画ではなかなか出来ない表現だなあ〜と思った。
濃密だが閉鎖的になりすぎない関係性
前項と繋がることだが、聡実くんが様々なつながりと大人の眼差しの中で生活していることがきちんと描かれることで、狂児との特異な関係性が強調されつつも「閉鎖的」になりすぎない絶妙な匙加減になっていた。これが重要だった。私はボーイズ・ラブを嗜む者なので、任意の二人の関係性が濃密で特殊であればあるほど嬉しい。BL趣味とはそういうものだ。原作漫画もそのような興味で読み始めたし、映画化に際しても狂児と聡実くんの関係性が薄められることを危惧していた。コレが甘かった。
実際に映像化されたものを観て最初に感じたのは「思ったよりキツいなコレ…」ということ。25歳離れた反社会的勢力の男が中学生を可愛がっている(あれは可愛がっていると言えるでしょう)様子が、想像以上に私の中のモラルに反したのだ。綾野剛の底抜けの爽やかさを以てしてもこればかりは厳しかった。これには少しばかり個人的な事情がある。詳細は割愛するが、私自身が父親ほど年の離れた男から性愛込みの接し方(要するにセクハラ)をされた経験があり、“年齢差”というものにかなり嫌悪感があったのだ。原作を読んだ時は何とも無かったのに、実在の人間が演じているのを観ると、ど〜〜〜してもそれが頭を過った。あとほんの少しでも“性”が見え隠れしていたら、私は「キッッッッショ」と思って目を背けていたことだろう。この感覚は何も私に限った話ではないと思う。その点で、俳優含めた制作陣は細心の注意を払って狂児と聡実くんの関係性を描いたとみえる。「萌えを得られればそれでよい!!!」という路線に安易に走らなかった制作陣は本当にスゴイ。BL趣味の私に、現実の私(?)が打ち勝った瞬間であった。
狂児の側からの執着というものをなるべく表に出さず、聡実くんが(狂児以外の)種々の青春の繋がりを得ていることを描くことで、彼らの関係性を皆が好意的に見守ることができる絶妙なバランスを維持していたと思う。さすが野木亜紀子氏。
綾野剛、ありがとう
狂児を演じてくれて本当にありがとう。「狂児はテッカテカのオールバックにクマが目立つ昭和の男なんだよ線の細い塩顔イケメンはお呼びじゃないんだよ」とか思っててごめんなさい。前述の理由の通り、狂児の立ち振舞はかなり抑制を求められるものだったと思う。それをサラリとこなしていた。お茶目さと反社仕草がブレンドされて成田狂児が出来上がっていた。それでいて、聡実くんへのあの目線…。挙げていくとキリがないので印象的な場面のみ振り返る。まず、聡実くんが狂児の為に選んできた曲を解説する場面。作中で初めて聡実くんの方から狂児に近づいた場面だ。聡実がぐっと狂児に身を寄せると、狂児は少し面食らったような表情をした後、聡実くんが手に持つメモではなく聡実くん自身をまさに”穴が開くほど”見つめていた。そして、なんといってもラストの『紅』絶唱。『紅』を歌う聡実くんを見つめる狂児は原作漫画では描かれていない。これは原作が狂児の一人称視点をほぼ完全に排している(一部の例外については再考の余地有)からなのだが、映画では歌に聞き入る狂児を映している。これは綾野剛演じる”狂児”が、原作とは異なる狂児であったからこそ、差し込むことができたシーンだろう。狂児のキャラクターが、「ミステリアスで軽薄で何を考えているのかわからない」という点は映画と漫画に共通しているが、映画の狂児は、まともな人間の真似をしている妖怪みたいな不安さがあった。最初のカラオケシーンでも聡実くんの前で声を荒げて大きな音も立てて聡実くんを怖がらせている。(原作でも聡実くんは怖がってはいるが、ヤクザという生き物を初めて見てそいつが慇懃な態度で近づいてくる不気味さに対してビビっていた。)そこから「おっとまともな人間はこんなことしないのか」とばかりに紳士的に振舞うようになる。中学校の門の真ん前に反社丸出しのセンチュリーを横づけしているのも、晴れた昼下がりに傘を差して聡実くんを待っているのも常識というものが欠落している証拠だ。そんな男から傘を差しかけられてうっかり入ってしまう聡実くん……妖怪に魅入られる才能が有りすぎる。このように、化物が一生懸命まともな人間のフリをしているかのような男がふと聡実くんに投げかける熱い視線が、映画版”成田狂児”の中核を成していたように思う。これは「なにか」が決定的に欠落していた成田狂児が、聡実くんの絶唱によってその「なにか」を得てしまう物語なのだろう。あの綾野剛が、映画のいちパーツとして、聡実くん(と演じる齋藤潤)を主役として立てる存在として、役に徹していたことに本当に驚いたのだ。
続編「ファミレス行こ。」はありえるのか
原作と違う描写は多くあったが、ラストシーンほど解釈が分かれるものもないだろう。映画版では、中学校の卒業式を終えた聡実くんが解体工事の進むミナミ銀座を訪れて、鞄からおもむろに狂児の名刺を取り出して「おったやん……」とつぶやく。狂児と過ごした幻のような短い日々を、確かな存在として聡実くんが胸にしまうという、爽やかさと切なさが同居する場面だ。その後エンドロールで『紅』が流れ、しみじみとした感慨に浸っていると、腕に「聡実」と彫ってある狂児が現れ聡実くんに電話をかける。…と、ラストは原作とだいぶ違う。(原作は……読んでください)しかし、原作の続編である「ファミレス行こ。」(以下、「行こ。」)が連載されている以上、続編も映像化してほしいと望むファンが多いことは必然だろう。それは制作陣も実感しているはず。どうするんだ制作陣。あれだけ最新の注意を払って聡実くんと狂児二人だけの世界に閉じこもらないようにストーリーを改変したのに、「行こ。」はその部分は絶対に避けられない。むしろ話の主要部分ですらある。(「行こ。」における”好き”の描き方については別記事で言及したいほど言いたいことはある)「行こ。」が完結していない以上は確実なことは何もわからないが、万一「続編も映像化決定!!」となった場合、映画で極力避けてきたことに向き合わざるを得ないことは確かだ。そうなったらどうするんだろうホントに。原作のファンとしては気になるが、映画のファンとしては「よせばいいのに……」と思わなくもない。
まとめ
原作ファンとしてはこれ以上ないくらいキレイに映画化してもらえて嬉しいが、原作ファンとして私が好きになった部分はキレイな映画化では明確に解釈を変えてきた(しかもそれでいて全体に破綻は無い)為、映画は映画として完結した物語として見えており、続編は正直観たいと思えない。
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