もしも6月の夕暮れが果てしなく続き、洗濯物が無限にあったなら
もしも6月の夕暮れが果てしなく続き、洗濯物が無限にあったなら、僕はその夕暮れの中に、二度と浮び上がらないほど、深い深い底へ沈み、その底で体を横にして目を閉じ、誰かがまだ眠るべきではないすぐに起きて活動せよ、と囁くまでそこにいるだろう。
もしも6月の夕暮れが果てしなく続き、洗濯物が無限にあったなら、僕はもう一度考える機会を与えられ、天から降ってきた水分、それは雨だと思うが、体に受け、もうすぐ雨が降るのかもしれないと考えた。
けれども、次の1粒が続かずに、その水分は一体何だったのか、あるいは水分など初めからなかったのではないか、という感覚に陥る。
夕暮れはまだ続いていて、僕を誘っていたが、それは意図的な長さではなく、季節そのものが夕暮れを作り出していることに間違いはなかった。
争うことなく、僕は夕暮れを夕暮れとして感じ、厳しみ、慈しみ、あるいは恫喝し、夕暮れの存在そのものを楽しんでいた。
さぁもうすぐ、夜が来る。夜は夜で楽しむべきである。
何をして楽しむべきかなんて僕には想像ができなかった。
けれども、世の中には情報が溢れていて、夜に楽しむべきいくつかのことが、ネットの中ではもてはやされ、それをしなければこの世の終わりという感覚にさえ陥ってしまった。
結果的に言えば、夜を楽しまなくとも、この世の終わりでも何でもない。