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悲しい出来事の「主人公」は?
今日、久しぶりに考えるOLさんの「がんばらないことをがんばるって決めた。」を読んで、その中の文の一節にとても心を打たれたので、紹介しようと思う。
人に裏切られて悲しいのは、他人を信じられる自分がいたからで、失敗して恥ずかしいのは挑戦した自分がいたからで、夢が叶わなくて悔しいのは夢を持って努力した自分がいたからだ。
自分の話になるが、私は数か月前夢をあきらめた。
厳密に言うと、本当にやりたいことをより叶えられる場所を見つけたのだけど、それでも十年近くその夢をかなえるために行動してきていたから、夢をあきらめた直後は本当に悔しかったし、つらかったし、これから自分はどう人生を歩んでいけばいいのか分からなくなった。
そのうつうつとした気持ちは、時間がたった今でも心にこびりついていて、さらに、「自分が頑張れていなかったからこうなったんだ。自分がちゃんと夢を追いかけられていなかったんだ」と、どこかでずっと自分を責めていた。
でも、この一節を読んで、今までの、特に大学に入ってからの4年間は、「頑張れていなかった私」ではなく、「もがきながらも前に進んでいた私」がいたと気づいてハッとした。
そしてこの文章には続きがある。
「悲しい物語の中には必ず、あの人に大切にされたかった、あの人のことが大好きだった『私』という主人公が確かにいた」
物語がバットエンドに終わっても、そのエンドに向かって必死に戦ってきた登場人物は消えずに、その姿に読者が感動できるのと同じように、
悲しくて辛くてやりきれない自分の失敗にも、夢破れたという出来事にも、確かに、挑戦し続けた「自分」という主人公は確かにいて。
それを、今の自分が忘れずに称えてもいいのではないかと思えた。
考え方の転換として、「過去に対する解釈を変える」というやり方があって、でもそれを実践して効果を感じたことはあまりなかったのだけど、出来事を物語として捉えて、苦い感情と共に「私」という主人公が奮闘していたことにも目を向けてみると、自然と過去の解釈も変わって、引きずっていた気持ちも薄れていくのかなと感じた。
そして今も、「私」という主人公が奮闘していることを忘れないようにしたいし、どこかで名も知らぬ主人公たちが人知れず戦っていることも忘れないようにしたい。