つわものどもが夢の跡①(五合庵)
【きっかけ】
同じ組織でサラリーマンを30年も続けてきた自分ですが、だんだん隠遁者とか隠者と呼ばれるひとに惹かれるようになりました。
国民、社会人、組織人、父親だの、いろんな役割だったり、責任を果たしてきた自分だったのですが、窮屈な状態から早く自由になり、遺された時間を好きなように使いたいと願うようになったのです。
いろんな性格の隠者がいるのですが、
自分を世間に合わせるのではなく、
世間から離れ、気の合う仲間とだけ、場合によっては自分独りで、決めた道を歩む人のことを云う気がします。
世間に合わせないので自由きままですが、世間から必要とされる辛抱が必要な多くの仕事を避けるので収入は少なく、簡素なイエに住み、簡素な暮らし、経済的、世間的にはとても不自由な思いを味わうことになるはず。
ただ、研鑽の結果、人の眼を超越し、貧困に耐え、経済的な問題をクリアできたとするのなら、
かれらは生まれつきのクリエーターなので、「作品」作りに没頭できるのです。
俳句、短歌、絵などをアート的に。
隠者が「作品」を生み出した住処や、「作品」の原点となる場所や風景を追体験すれば、自分を変えるきっかけになるかもしれないと、旅に出ました。
【夢の跡】
「夢の跡」とはよくいったもの。
芭蕉翁が生み出し、何百年も経ったいまでも多くの人々に使われる素敵なコトバ。
当時とすっかりかわってしまった現代の景色となってしまっていても、当時の景色をかなり残していたとしても、念願の地を訪れた旅人は、
「ここで彼は暮らしてたんだなあ」
「ここで闘いがあったんだなあ」
などと、初めて訪れた史跡で当時の人々の生きざまに思いを馳せ、深い感慨をもつ場合にこのコトバをつかうのでしょう。
今回は、当時と風景はおそらくあまりかわらないであろうが、世間とは距離を置き、自分の生き方を貫き、作品を遺せた偉人が暮らした「夢の跡」のお話です。
【良寛さんの家】
新潟県燕市に、国上寺というお寺があり、少し山を下った場所に、良寛さんが暮らしていた「五合庵」という小さな住処が復元されています。
国上寺にはとても立派な本堂があり、その本堂再建の寄付集めに功のあった万元上人という人に寺が与えた住まいが「五合庵」であったようです。
上人は、お寺への貢献から、毎日米を5合支給されていたので、「五合庵」と呼ばれたのだそう。
「一日玄米四合と、味噌と少しの野菜を食べ」といいますから、一日食べる以上の貴重な米を年金的にもらっていたのですね。
約百年が過ぎたころ、良寛さんが五合庵に住みつきます。38歳であったとのこと。壮年ですね。
住職ではない彼の立場はどんなものであったのか。
顧問?相談役?一兵卒?居候?
良寛さんは托鉢をしていたようですのでおそらく一兵卒として厳しい修行もしていたのかと。
近所の子供たちとかくれんぼなどして遊んでいたという逸話があるので、居候のイメージもありますがね。
【感慨】
裕福な商家で名主の家に生まれた良寛さんは実家の見習いとなりますが、自分に向いていないと、出家を選んだようです。
出家したあとは、真面目に修行しますが、住職にはなりませんでした(なれませんでした!?)。
住職は所長や支店長のようなもので、托鉢や作務や炊事をやることはないような気がしますが、寺の経営責任を負っています。
出雲崎の実家を継がなかった良寛さんですが、実家の経営は最後、競争に敗れ破綻してしまいます。
良寛さんの心情はいかに。
五合庵の近くに、句碑がありました。
焚くほどは
風がもてくる 落葉かな
モノに乏しくても満ち足りているという。今でいえば、おカネを稼ぐためにあくせくするのはかなわない。別に電気もガスもいらないよ。落ち葉で煮炊きができれば十分なのだみたいなことでしょうか。
職業というのか、生き方なのか、隠者の暮らしが自分には合っているということなのでしょう。
最近の自分の感覚にも合うような、良質な体験をすることができたような気がしました。
可能であれば、煮炊きをして1泊、この庵で過ごしたいなどと妄想も浮かびましたが、いかんせん虫除けをつけたにもかかわらず蚊の大群が迫りつつあり……。
参道をもどり、国上寺を散策することにいたしましょうか…… (つづく)