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失敗を宝物にするために

失敗を宝物にするために

 私の中の現時点での結論を先に伝えたい。
 どんなに想定外でも、失敗として認定せずに、『おもしろい‼︎ 不思議だ‼︎と言いながら、『どうだった? 今どんな感じ? どんな気持ち?』と聞いてみること。その後、本人の了解を得て、他の児童にもシェアして話題の中心として考えていくこと。これこそが『失敗を宝物にする』ということだと考える。

教室は失敗するところ←教師のきれいごと

 私は新学期のスタートの時に、『教室は失敗するところだよ。失敗は宝物にして欲しいよ。』という感じで児童に語りかけた。その一言で、児童の多くは、その言葉を拠り所とし、『大丈夫だよ。失敗は宝物だから。』という感じでお互いを支え合う様子があった。
 一方で、教師である以上、授業構想の際には、現状の児童の姿と授業のねらいとする変容ある児童の姿を頭に浮かべるものである。その変容ある姿は、教師の期待とも言える。ふとした時に気づいたのだが、頭に浮かんでくる変容ある姿とは、
①うまくいった。
②目に見える成長をした。
③指導内容を理解し、問題を解くことができた。
などといった『成功している姿』なのである。私は『失敗している姿』を浮かべて授業構想を立てていないということである。これは、まさに見出しのような『教師のきれいごと』のように教室を成功者になるためにデザインしていることそのものだと感じた。大きな反省をしなくてはならない。

『失敗している姿』をイメージする

 誰にも質問したことのないことだが、優秀な授業力を持つ全国の先生方は『失敗している姿』をイメージするのだろうか? つまずきポイントを明確にして、支援のための手立てを練っておくと話す人にはいくらか会ったことがある。というか影響を受けて指導案を作成する際に、このアドバイスを参考に支援の手立てを考えたこともある。でも、それは、『成功に導くための手立て』ではないか?

失敗かどうかは本人が決めること

 『失敗』というキーワードで児童に語るときに、私はよくエジソンの話を持ち出す。
『10000回失敗しても、10001回目に成功が来るかもしれない。もし10000回目で辞めていたら、その発明は生まれていなかった。だから失敗することは大切だよね。挑戦し続ける人にしか失敗はできないんだから。』
 自分で文字にしながら、良い言葉のテンプレートのようだと感じてしまった。よく思い出してみれば、指導者側の立場で、『失敗』という烙印を突きつけているのは、いつだって自分じゃないか? 本人はどう思っているんだ? そして、その状況は本当に失敗と言い切れるのか?
 最近、体育でハードル走をしている時に、児童に尋ねていた言葉がある。『今のはどう? 跳びにくさを感じなかった?』 私の目からすると、明らかに踏切がハードルに近く、窮屈に、そして高くハードルを跳び越えていたのである。しかし、本人は『跳びやすかったよ』と答えたのである。私の頭に浮かんできたのは、『その感覚本当か? よし‼︎ 跳び越しやすさを実感できる手立てを打とう』である。ハードルの前に跳び越しの目安となるマーキングをし、iPadで動画を撮りながら比較できるように準備した。本人の感覚を成功に導くために、証拠を揃えた。しかし、本人の口から出た言葉は、『あまりスムーズじゃなかった。』である。『その感覚は本当に正しいのか?』と声が出そうになったが、堪えた。その後も、本人はいたって楽しそうに、何度も何度もハードル走に向かっているのである。何の失敗もないかのように…

うちの子の色ぬりに感じたこと

 うちには4人の子どもがいるが、1番上の長男は6歳である。3歳ごろから1人でもよくお絵描きや色ぬりをするようになった。初めの頃は、あらかじめ描かれたキャラクターに色ぬりをする際に、線をはみ出したくない‼︎という強い思いから、ちょっとでもはみ出たら色ぬりをやめるということがあった。私は、『このくらい別にいいじゃん‼︎』と言いながら、『失敗しても最後までぬってみようよ』という声かけをしていた。
 ちょっと待て‼︎
 それって失敗なのか? 失敗と価値づけて、色ぬりをやめるように促していたのは、もしかして自分の声かけのせいじゃないのか? と今は思う。
 結果、うちの子は色ぬりが割と上手になっている。見た通りの色をぬれるようになってきている。極端にはみ出すこともなく、上手に色をぬれるのだ。

わたしが描いたイラストに、長男が色ぬりをした。

決めつけをなくしたい‼︎

ある日、うちの子どもたちに次のような問いかけをしてみた。
『空の色って何色?』

すると、「青」「ブルー」「水色」と返ってきた。確かに、その日の空は晴天だった。しかし、空といっても、時間帯や天気によって様々な色に変化する。そのことを子どもたちに話すと、
『わかる。この前、パパと夕方お散歩した時に見た空は、パーポー(purple・むらさきのこと)と、白っぽい色だった。あと、ピンクと赤とオレンジも‼︎』
空の色は青系だと決まってほしくないなぁと思って、問いかけたことが成功した‼︎
と思った。そのあと、次のように声かけた。
『よく見てみると、いろんな色が見えてくるよね。頭の中で何色か考えてみると、もっといろんな色が見えてくるよね。空には、虹だって見える時があるよ。だから、空は青色みたいに決めつけないで、いろんな感じ方をしていこうよ♪』

大胆な色ぬりもする

その日以降、色ぬりを楽しんでいる。というか、前よりも絵を描くことや色を塗ること、何か工作をすることなどをして遊ぶことが増えている。もちろん、きれいにぬることもあるが、大胆にぬることも増えてきた。自由な感性で、ガンガンクリエイトしているのである。時々、一緒に絵を描いたり、色をぬったりする。妹も一緒に色ぬりをすることも多い。その際にわたしが、『ここ、はみ出さないようにぬってみようよ。』といっている側で、長男は大胆な色ぬりをしている。

自分で描いたクワガタに色をつける。投げやりな色ぬりではない。
ちょっとニヤリとしながら楽しそうに色ぬりをしているのである。
クワガタやゴジラの色も、イメージ上の色を自由にぬる。
ゴジラのボディが緑とピンクだったら、多少可愛さが生まれてくる気がする。

色をぬると、決まって、ハサミでカットする。そのカットの際に、たまにイラストのパーツ部分を切ってしまうことがある。
長男がかたまっていると、『ちょっと失敗したの?』と声をかけてしまう。すると、『ううん。ちがうよ。切れちゃったけど、意外とこの方が強いかもしれない。これで
いいと思う。』

危ない、危ない。勝手に失敗と価値づけてしまっていた。

冒頭でも述べたように、失敗として認定せずに、『おもしろい‼︎ 不思議だ‼︎』と言いながら、『どうだった? 今どんな感じ? どんな気持ち?』と聞いてみることを、つい忘れてしまう。
家庭で練習して、それを学校で使ってみる。そうやって、『失敗』という言葉の捉え方を再び考え直していく。これこそが『失敗を宝物にする』ことができる教師への道だと考える。

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