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『資本論』序文など
『資本論』 第1巻 カール・マルクス著 1867年9月14日
第一版序文(抜粋)
『資本論』は、1859年『経済学批判』の続きとなるものである。しかし、『経済学批判』の内容は『資本論』第1巻第1章に要約された。
第一章、商品の分析を含む節は、読者にとって「最大の困難」となるだろう。
ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態が経済的細胞形態である。この経済的諸形態の分析のためには「抽象力」が必要となる。
※「ブルジョア的富が自己を示す最初の範疇は商品の範疇である」 マルクス 『経済学批判要綱』
物理学者は、自然過程を観察するにさいしては、それが最も内容の充実した形態で、しかも撹乱的な影響によって不純にされることが最も少ない状態で観察するか、または、もし可能ならば、過程の純粋な進行を保証する諸条件のもとで実験を行なう。
この著作で私が研究しなければならないのは、「資本主義的生産様式」であり、これに対応する生産関係と交易関係である。この典型としてイギリスをとり上げている。
資本主義的生産の自然法則から生ずる社会的な敵対関係の発展それ自体が問題になるのではない。この法則そのもの、「必然性をもって作用し自分をつらぬくこの傾向」、これが問題である。
あらゆる部面でわれわれは、資本主義的生産の発展だけによってではなく、またその発展の欠けていることによっても苦しめられている。この窮迫は、古風な時代おくれの生産様式が時世に合わない社会的な、また政治的な諸関係をともなって存続していることから生じている。
一国は他国から学ばなければならないし、また学ぶことができる。たとえ一社会がその運動の自然法則を探り出したとしても、その社会は自然的な社会発展の諸段階を跳び越えることも法令で取り除くこともできない。しかし、その社会は、分娩の苦痛を短くし、緩和することはできる。
ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりのことである。経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。
今日では、無神論でさえ、伝来の所有関係にたいする批判に比べれば、軽過失〔culpa levis〕なのである。
「奴隷制の廃止のつぎには資本関係と土地所有関係との変化が日程にのぼるだろう!」
※ベンジャミン・ウェイド:1800年10月27日 - 1878年3月2日)急進共和党
当時は最も急進的な政治家の一人であり、女性参政権、労働組合を結成する権利、およびアフリカ系アメリカ人の平等権を支持していた。ホームステッド法(1862年)やモリル土地払い下げ法(1862年)成立を推進
※ホームステッド法:自営農地法ともいう。公有地の払い下げ制度をさらに自由化する。アメリカの政治史ではヨーマン(独立自営農)という概念が伝統的に有力で、この法律でその数を増やそうという動きは1850年代から存在していた。
※モリル土地払い下げ法:農業大学設立のため各州に公有地を与えた法律。イリノイ大学、カリフォルニア大学、マサチューセッツ大学、アイオワ州立大学など69大学に上る。
これこそは時代の兆候であって、紫衣〔王権〕でも黒衣〔宗教〕でもおおいかくすことはできないのである。…それが示しているのは、現在の社会はけっして固定した結晶体ではなく、変化することの可能な、そしてつねに変化の過程にある有機体なのだという予感が支配階級のあいだにさえ起こりはじめている。
およそ科学的批判による判断ならば、すべて私は歓迎する。
汝の道をゆけ、そして人にはその言うにまかせよ!
〔Segui il tuo corso, e lascia dir le genti!〕
ダンテ 『神曲』 煉獄篇 第五歌より
※ドイツ社会の特有な歴史的発展は、そこでの『ブルジョア』経済学の独創的な育成をすべて排除したのであるが、しかしそれにたいする批判は排除しなかったのである。およそこのような批判が一つの階級を代表するかぎりでは、それは、ただ、資本主義的生産様式の変革と諸階級の最終的廃止とを自分の歴史的使命とする階級――プロレタリアート――だけを代表することができるのである。「第ニ版後記」
第二版後記(抜粋)
1848年以来資本主義的生産はドイツで急速に発展…(近代的経済関係にとらわれない研究は許されない事情のもと)…資本主義的秩序を社会的生産の歴史的に過ぎ去る発展段階としてではなく、反対に社会的生産の絶対的で最終的な姿として考えるかぎり、経済学が科学でありうるのは、ただ、階級闘争がまだ潜在的であるか、またはただ個別的現象としてしか現れていないあいだだけのことなのである。
(1830年になって)ブルジョアジーはフランスとイギリスではすでに政権を獲得していた。そのときから、階級闘争は、実際的にも、理論的にも、ますますあからさまな険悪な形をとってきた。それは科学的なブルジョア経済学の弔鐘を鳴らした。いまや問題は、これとあれとどちらの定理が正しいかではなく、それが資本にとって有益か有害か、好都合か不都合か、反警察的であるかそうでないか、だった。
1848年の大陸の革命は、イギリスにもはね返ってきた。当時なお科学的意義を主張し、支配階級のただの詭弁家や追従者以上のものであろうとした人々は、資本の経済学を、もはや無視することのできなくなったプロレタリアートの要求と調和させようとした。それだからこそ、ジョン・ステュアート・ミルによって最もよく代表されているような無気力な折衷主義が現われたのである。これこそは、「ブルジョア」経済学の破産宣告なのであって、それは、ロシアの偉大な学者で批評家であるN・チェルヌイシェフスキーがその著『ミルによる経済学概説』のなかですでにみごとに明らかにしているものである。
こうして、フランスやイギリスでは資本主義的生産様式の敵対的な性格がすでに歴史的な諸闘争によって騒々しく露呈されたのちに、ドイツではこの生産様式が成熟に達したのであるが、そのときすでにドイツのプロレタリアートはドイツのブルジョアジーよりもはるかに明確な理論的階級意識をもっていたのである。それだから、ブルジョア経済学がドイツで可能になるかに見えたとき、それはすでに再び不可能になってしまったのである。
こうして、ドイツ社会の特有な歴史的発展は、そこでの『ブルジョア』経済学の独創的な育成をすべて排除したのであるが、しかしそれにたいする批判は排除しなかったのである。およそこのような批判が一つの階級を代表するかぎりでは、それは、ただ、資本主義的生産様式の変革と諸階級の最終的廃止とを自分の歴史的使命とする階級――プロレタリアート――だけを代表することができるのである。
私が私の方法の唯物論的基礎を論じている『経済学批判』(ベルリン、1859年)Ⅳ-Ⅶページの私の序文からの一つの引用につづけて、この筆者(I・I・カウフマン)は次のように述べている。
「マルクスにとっては、ただ一つのことだけが重要である。彼がその研究に携わっている諸現象の法則を発見することがそれである。そして、彼にとって重要なのは、諸現象が一つの完成形態をもっているかぎりで、また、与えられた一期間のなかで考察される一つの関連のなかに諸現象があるかぎりで、諸現象を支配する法則、このような法則だけではない。彼にとっては、さらになによりもまず、諸現象の変化や発展の法則、すなわち、ある形態から他の形態への移行、関連の一つの秩序から他の秩序への移行が重要なのである。ひとたびこの法則を発見したとき、彼は、この法則が社会生活のなかで現われる諸結果を詳細に研究する。……マルクスは、社会の運動を一つの自然史的過程とみなしており、この過程を導く諸法則は、人間の意志や意識や意図から独立しているだけではなく、むしろ逆に人間の意欲や意識や意図を規定するものだと考えている。…………彼の見解によれば、それとは反対に、歴史上のそれぞれの時代がそれぞれの固有の諸法則をもっているのである。……生命は、与えられた一つの発展期間を過ぎてしまって、与えられた一段階から他の一段階に移れば、別の諸法則によって導かれるようになる。簡単に言えば、経済生活は、生物学の他の諸領域での発展史に似た現象を、われわれに示しているのである。……古い経済学者たちは、経済的諸法則の性質を誤解していたので、これを物理学や化学の諸法則になぞらえたのである。……マルクスは、たとえば、すべての時代、すべての所を通じて人口法則が同じだということを否定する。反対に、彼は、それぞれの発展段階にはそれぞれの固有の人口法則があるということを確言する。……生産力の発展が違うにしたがって、諸関係もそれを規制する諸法則も変わってくる。マルクスは、自分自身にたいして、この視点から資本主義経済秩序を探究し説明するという目標を立てることによって、ただ、経済生活の精確な研究がどれでももっていなければならない目標を、厳密に科学的に定式化しているだけなのである。……このような研究の化学的価値は、ある一つの与えられた社会的有機体の発生、存在、発展、死滅を規制し、また他のより高い有機体とそれとの交替を規制する特殊な諸法則を解明することにある。そして、このような価値をマルクスの著書は実際に持っているのである。」
この筆者は、彼が私(マルクス)の現実的方法と呼ぶものを、このように的確に、そして私個人によるこの方法の適用に関するかぎりでは、このように好意的に、述べているのであるが、これによって彼が述べたのは、弁証法的方法以外のなんであろうか?
もちろん、叙述の仕方は、形式上、研究の仕方とは区別されなければならない。研究は、素材を細部にわたってわがものとし、素材のいろいろな発展形態を分析し、これらの発展形態の内的な紐帯を探りださなければならない。この仕事をすっかりすませてから、はじめて現実の運動をそれに応じて叙述することができるのである。これがうまくいって、素材の生命が観念的に反映することになれば、まるで先験的な〔a priori〕構成がなされているかのように見えるかもしれないのである。
私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものとは違っているだけではなく、それとは正反対なものである。へーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程が現実的なものの創造者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけなのである。私にあっては、これとは反対に、観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換され翻訳されたものにほかならないのである。
弁証法がヘーゲルの手のなかで受けた神秘化は、彼が弁証法の一般的な諸運動形態をはじめて包括的で意識的な仕方で述べたということを、けっして妨げるものではない。弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならないのである。
その神秘化された形態では、弁証法はドイツのはやりものになった。というのは、それが現状を光明で満たすように見えたからである。その合理的な姿では、弁証法は、ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとって腹だたしいものであり、恐ろしいものである。なぜならば、それは、現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含み、いっさいの生成した形態を運動の流れのなかでとらえ、したがってまたその過ぎ去る面からとらえ、なにものにも動かされることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである。
フランス語版序文および後記 1872年 (抜粋)
…しかしここに裏の面があります。私が用いてきた、そして経済上の問題にはまだ適用されたことのない分析の方法は、はじめの諸章を読むことをかなり困難にしています。そして、心配になるのは、いつでも性急に結論に到達しようとし、一般的な原則と自分が熱中している直接の問題との関連を知りたがるフランスの読者が、どんどん先に進むことができないからといって、読み続けるのがいやになりはしないかということです。
学問には平坦な大道はありません。そして、学問の険しい坂道をよじのぼる労苦をいとわないものだけに、その明るい頂上にたどりつく見込みがあるのです。
英語版序文 F・エンゲルス 1886年 (抜粋)
われわれが読者のために取り除くことができなかった困難が一つある。というのは、いくつかの用語をそれらの日常生活での意味と違うだけではなく普通の経済学上の意味とも違った意味で使用しているということである。しかし、これは避けられないことだった。一つの科学の新しい局面は、すべて、その科学の術語の革命を含んでいる。このことを最もよく示しているのは、化学である。化学では術語全体が約20年ごとに根本的に変えられている。また、化学では、たくさんの違った名称の列を通ってこなかったような有機化合物は、おそらく一つも見いだせないであろう。経済学は、総じて、商業界や産業界の用語をそっくりそのまま取ってきて、それをあやつることで満足してきた。そうすることによって、そのような用語で表現される観念の狭い範囲内に自分自身を閉じ込めたことには、まるで気がつかなかったのである。
〔第2巻序文(F・エンゲルス)〕(抜粋)
人々の知るように、前世紀の末にはまだ燃素魂(ねんそこん、フロギストン)が一般に行なわれていたが、それによれば、すべての燃焼の本質は、燃焼体から他の仮説的物体、すなわち燃素という名で呼ばれた絶対的な可燃物質が分離するということにあった。この説は、ときにはこじつけもなくはなかったが、当時知られていたたいていの化学現象を説明することができた。ところが、1774年にプリーストリが一種の気体を析出して、
「それに比べれば普通の空気もすでに不純に見えたほどに、それが純粋であるのを、すなわち燃素を含んでいないのを、見いだした」。
彼はそれを脱燃素気体と名づけた。それからまもなくスウェーデンのシェーレも同じ気体を析出して、それが大気中に存在することを証明した。彼はまた、その気体のなかかまたは普通の空気のなかで物体を燃やせばその気体がなくなるということをも発見して、この理由からその気体を火気体と名づけた。
「そこでこれらの結果から彼が引き出した結論は、燃素が空気の成分の一つと結合するときに」{すなわち燃焼が行なわれるときに}「生ずる化合物は火または熱にほかならないのであって、それがガラスをとおして逃げるのだ、ということだった。」
プリーストリもシェーレも酸素を析出した。だが、彼らには自分たちの手にしたものがなんであるかはわからなかった。彼らは「彼らの眼前にあった」燃素説の「諸範疇に相変わらずとらわれていた」。燃素説的な全観念をくつがえして化学を変革するはずだった元素も、彼らの手のなかでは実を結ぶことなく終わった。しかし、プリーストリは自分の発見をその後すぐパリでラヴォアジエに伝え、そこでラヴォアジエはこの新しい事実を手がかりとして全燃素化学を研究し、そこではじめて、この新しい気体は新しい化学元素だったということ、燃焼では不可思議な燃素が燃焼体から逃げて行くのではなく、この新しい元素が燃焼体と化合するのだということを発見し、こうして、その燃素説形態では頭で立っていた全化学をはじめて脚で立つようにしたのである。そして、彼は、彼が後に主張しているように、他の二人と同時に、また彼らとは無関係に、酸素を析出したのではないにしても、しかもなお、彼は他の二人とは違って酸素のほんとうの発見者なのであって、他の二人はただ酸素を析出しただけで自分がなにを析出したかには感づきもしなかったのである。
ラヴォアジエのプリーストリとシェーレにたいする関係は、そのまま、剰余価値論でのマルクスとその先行者たちとの関係である。
こうして、古典派経済学でさえ、利潤も地代も生産物のうち労働者が彼の企業家に提供しなければならない不払部分の細分であり断片であるにすぎない(企業家はこの不払部分の最後の唯一の所有者ではないが、その最初の取得者である)ということには十分に感づいていながら、しかも利潤や地代の通例の観念を越えて進んだことがなく、生産物のこの不払部分(マルクスが剰余生産物と呼ぶ部分)をその完全性において一つの全体として吟味したことがなく、したがってまた、その源泉と性質とについても、その価値のその後の分配を規制する諸法則についても、明瞭な理解に到達したことがなかったのである。同様に、農業または手工業でないかぎりすべての産業が区別なしにマニュファクチュアという語で一括され、そのために、経済史上の二つの大きな本質的に違う時代、すなわち手工業労働の分割を基礎とする本来のマニュファクチュアの時代と機械を基礎とする近代工業の時代との区別が消し去られている。しかしながら、近代的資本主義的生産を人類の経済史上の単なる一通過段階と見る理論が、この生産形態を不滅な最終的なものとみなす著述家たちの使い慣れた用語とは違った用語を使わなければならないということは、言うまでもなく明らかである。
……冬がくるたびに、「失業者をどうするか」という問題が新しく起きてくる。ところが、失業者の数は年々膨張をつづけているのに、この問題に答えるものはだれもいない。そして、失業者たちがしびれをきらして、彼ら自身の運命を彼ら自身の手に握るであろう瞬間がくるのを、われわれは予想することさえできるのである。まさに、そのような瞬間にこそ、かの人の声は聴かれなければならない。その人の全理論は、イギリスの経済史と経済状態との終生の研究の成果であり、またその人はこの研究によって、少なくともヨーロッパでは、イギリスは、不可避な社会革命が平和的で合法的な手段によって完全に遂行されるかもしれない唯一の国である、という結論に達したのである。もちろん、彼はこの平和的合法的革命にたいしてイギリスの支配階級が『奴隷擁護反乱』〔"Proslavery rebellion"〕なしに屈服することはほとんど期待していない。とつけ加えることを忘れはしなかったのであるが。
『経済学批判』 カール・マルクス 1859年
序言
…私にとって明らかとなった、そしてひとたび自分のものになってからは私の研究にとって導きの糸として役だった一般的結論は、簡単にいえば次のように定式化することができる。人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造がそびえ立ち、そしてそれに一定の社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、あるいは徐々に、あるいは急激にくつがえる。このような諸変革の考察にあたっては、経済的生産諸条件における物質的な、自然科学的に正確に確認できる変革と、それで人間がこの衝突を意識するようになり、これとたたかって決着をつけるところの法律的な、政治的な、宗教的な、芸術的または哲学的な諸形態、簡単にいえばイデオロギー諸形態とをつねに区別しなければならない。ある個人がなんであるかをその個人が自分自身をなんと考えているかによって判断しないのと同様に、このような変革の時期をその時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない。一つの社会構成は、それが生産諸力にとって十分の余地をもち、この生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、新しい、さらに高度の生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会自体の胎内で孵化されてしまうまでは、けっして古いものにとって代わることはない。それだから、人間はつねに、自分が解決しうる課題だけを自分に提起する。なぜならば、もっと詳しく考察してみると、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、またはすくなくとも生まれつつある場合にだけ発生することが、つねに見られるであろうからだ。大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式が経済的社会構成のあいつぐ諸時期として表示されうる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。敵対的というのは、個人的敵対という意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味である。しかしブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。したがってこの社会構成でもって人間社会の前史は終わる。
経済学の分野における私の研究の道すじについての以上の略述は、ただ私の見解が、これを人がどのように論評しようとも、またそれが支配階級の利己的な偏見とどれほど一致しないとしても、良心的な、長年にわたる研究の成果であることを示そうとするものにすぎない。しかし科学の入口には、地獄の入口と同じように、次の要求がかかげられなければならない。
ここにいっさいの疑を捨てなければならぬ
いっさいの怯懦はここに死ぬがよい。
〔 Qui si convien lasciare ogni sospetto
Ogni viltà convien che qui sia morta.〕
* ダンテ『神曲』、地獄篇、第三歌、14-15行。
ロンドン、1859年1月 カール・マルクス
『フランス語版資本論の研究』 林直道 著
Ⅱ 理論的叙述の変更と補足 第一版序文 より
1 社会発展を自然史的過程とみる立場
「経済的社会構成体の発展を一つの自然史的過程として把握する私の立場」――これはマルクスが『資本論』の第一版序文において明示した、『資本論』の前提となる重要な方法論的見地であるから、ここでまず簡単にその意味を説明しておきたい。
社会というものは、自然現象と異なって、さまざまの主観的な意志や動機をもった人間の行為から成り立っている。そこで、自然現象については、法則的認識が成り立つけれども、社会についてはそれは成り立たないのであり、社会の発展は、人々の主観的意志、理想、観念が実現される過程、いわば目的論的過程として描かねばならない、という考え方が出てくる。これが観念論の社会観である。これにたいしてマルクス主義は、社会が人々の意志や動機をもった行為から成るにもかかわらず。やはり社会の発展は自然界と同じように一定の法則にしたがって、いわば合法則的にすすむのだと主張するのである。それは次のような理由からである。人間の抱く動機、掲げる理想、それらは千差万別であり、そのすべてが現実に社会の変化、発展をもたらすとはかぎらない。あるものは社会の多数の人々にほとんど、ないしまったく影響をもたず、あるものは多数の人々に影響を与えはするけれどもそこから出る行動はべつに社会の構造に重大な変化を生じる性質のものではない、等々。これにたいし、実際に社会の多数の人間集団に影響を与え、かれらを行動へ組織し、社会の基本構造、人間と人間との社会関係・階級関係に重大な変化をひきおこすような意志、動機、理想というものが存在する。ではそれらはいかにして生じるのか、なぜそれは、うたかたのように消え去る無数の意志、動機、理想と異なって現に巨大な影響を社会の歩みの上に残すことができるのか? それは、まさにそれらがその時代の多数の人間の死活的な利害関係にかかわっているからにほかならない。そしてこの多数の人間の利害関係というものは、人間存在の第一前提である物質的生活資料の生産過程の内部において、人間と人間との一定の社会関係、生産手段所有者と直接的生産者との関係、すなわち生産関係、階級関係が形成されるということによってのみ説明される。社会的生産関係――ここにこそ、社会をうごかす動機、意志、理想の真の根源がある。そして生産関係は、物質的生産力の一定の発達水準に照応してかならず一定の方向に形成され、内容変化をとげるものであり、その意味で人々の意志と意識から独立した(=物質的な)発展法則にしたがう。あらゆる民族が、その地理的、風土的、人種的、宗教的多様性をもつにもかかわらす、結局、基本的には同一の、原始共同体――奴隷制――農奴制――資本主義――社会主義の段階をへてすすんできたのはそのためである。だから、われわれは社会の発展を目的論的過程としてでなく、合法則的な過程として把握することができるし、またそうするのが正しいのである。
*この問題を解明した古典的著作はエンゲルスの『フォイェルバッハ論』(1886年)である。
社会発展を「自然史的過程として」とらえるという『資本論』第一版序文中の一句は、まさに右に述べた唯物論的社会把握の基本を要約したものにほかならない。この一句を含む前後の文章は、この基本的観点とのつながりにおいて『資本論』の究極目的をも述べた重要なものである。その箇所はフランス語版では、現行版にくらべて、内容にはとくに変化はないが、若干の説明的語句が補足され、表現が平易化されている。重要な命題であるから、最初にそれを掲げておこう。――
《たとえ一社会がその運動を支配する自然法則の足跡を探りだすにいたったとしても――そしてこの著作の最終目的は近代社会の経済的運動法則をあばきだすことにある――、社会はその自然的発展の諸段階を、ひととびで越えることも、法令によって廃止することもできない。しかし社会は、懐妊の期間をちぢめたり、その分娩の苦痛をやわらげたりすることはできる。
起きるかもしれない誤解をさけるために、なお一言しておこう。私は、資本家や土地所有者をけっしてバラ色に描いてはいない。しかし、ここで人間〔personnes〕が問題にされるのは、ただ人間が経済的カテゴリーの人格化であり、特定の諸階級の利害や諸関係の担い手であるかぎりのことである。経済的社会構成体の発展は自然の歩みとその歴史に類似しているとみる私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない、というのは、個人はたとえその諸関係からのがれるために何をすることができるにしても、個人は社会的にはやはりその諸関係の所産だからである。》
ここでは、社会の発展を「一つの自然史的過程として把握する」という、むずかしい表現が、社会の発展は〈自然の歩みとその歴史に類似しているとみる〉という、まったく平易な言葉にいいなおされている点が注目される。
『マルクスの経済学説』 カール・カウツキー 1887年
初版序文
クロプシュトックのような人を褒めない者などいるだろうか。
されど、だれも彼を読むことがない。反対に、
われわれは褒められることよりも
より多く読まれることを望む。
近代の著述家の中でマルクスほどこのレッシングの言葉が妥当する者はいない。実際、本書の著者はその仕事の都合上最近のドイツの経済学文献の検討を余儀なくされた際に、こうした経済学文献の中でマルクスの名前ほど頻繁に言及されているものは他にないという事実ばかりでなしに、マルクスの学説が最近におけるほとんどの経済学上の論争の中心点をなしているという事実をも見いだした。この事実をマルクス『学派』の人々に語るならば、彼らはこれに満足するかもしれない。だが、本書の著者はけっしてこの事実に満足しない。なぜなら、遺憾ながら本書の著者は、マルクスについて書く当の人々がマルクスの著書をまったく読んでいないか、あるいはきわめて表面的にしか読んでいないという事実を確認する機会にも多々遭遇したからである。このことに加え、マルクスを論じているほとんどの文筆家や学者が客観的な科学的認識を目的とせずに、当面する特定の利害の検討を目的としているということを考慮するならば、むしろ今日マルクス学説にかんするきわめて馬鹿げた見解が全般的に流布しているという事態を見ても、それほど不思議ではないのである。
しかしながら、このような誤った見解にひとつひとつ反論することなどマルクスの課題たりえない。なぜなら、彼の個々の理論は強固に組み合わされた全体系の一部をなすものであり、その全体的関連の中でだけ理解できるにすぎないからである。したがって、この全体的関連を理解しない者は、その個々の文章を理解しようとする場合、常に表面的な理解にとどまってしまうことになる。かくして、個々の誤った見解を数語でもって一掃することなど不可能なのである。むしろこのような個々の誤った見解を一掃するには、マルクスの著作の詳細な研究を必要とするか、またはマルクスとエンゲルスの特有な科学的観点を包括的に説明する以外にはない。そのような試みのひとつとしてわれわれは、デューリングに対するエンゲルスの古典的論争書『反デューリング論』を有しているのである。実際、この書はマルクス自身がこれらの諸問題について自己の立場を語ったどんな短い文章よりも、マルクス学説の理解を促進するのに有効なものとなる。
けれども、ドイツ語文献にはなおマルクス経済学説を簡潔に概括し、平易に解説している著作が欠如している。これまでそのような著作を作ろうとする試みは様々な方面からなされたけれども、いずれも断片的なものにとどまっている。
本書は、こうしたマルクス経済学説の平易な概説書の欠如という現在の空白を埋めようとするもの、あるいは少なくともその一助たろうとするものにほかならない。
(略)
ところで、『資本論』の叙述は無味乾燥な上に難解であるといわれる。だが、それは誤りである。実際に、本書の著者は叙述の明晰さと活気の点で、またその文章の型の古典的な美しさの点で『資本論』に比肩しうるほどの経済学的著作を他に知らないのである。
それでも、『資本論』は難解であるといわれてしまう。
確かに、難解な箇所があることは事実である。だが、そのことはその叙述内容のせいではない。
国民経済学は、僅かな予備知識ももたずにだれもが理解できる科学であると通常考えられている。だが、それは科学であり、しかも科学の中でもっとも難解なもののひとつである。なぜなら、社会ほど複雑な組織体は他にないからである。確かに、マルクスが俗流経済学と名づけるあの決まり文句の集合体を理解するには、日常業務を行っていれば自ずと習得される知識以上のものを必要としない。それに対し、経済学批判という形態で新しい歴史学的かつ経済学的体系を確立したマルクスの『資本論』を理解するには、一定の歴史的知識ばかりでなしに、大工業の発展によって与えられる諸事実についての認識をも必要とするのである。
それゆえに、マルクスが経済法則を演繹する際にその基礎とした諸事実を部分的にすら知っていない者は、この法則の意味を理解できず、この法則は神秘主義とヘーゲル主義でしかないという非難を投げかけるだろう。つまり、きわめて明晰な説明であっても、歴史的知識のない者にとっては役に立たないということなのである。
われわれの考えによれば、以上の事実は『資本論』を普及させようとするあらゆる試みに際しての危険な障害物となる。マルクス自身は可能なかぎり読みやすく書いた。それにもかかわらず、もし彼の文章に難解なところがあるとすれば、それは言葉遣いにその原因があるのではなく、研究対象と読み手にその原因があるといわざるをえない。たとえば、きわめて難解な言葉を無造作さに平易な言葉に翻訳しても、そのことは厳密さを犠牲にすることでしか可能とならないだろう。したがって、この場合の普及化ということは、浅薄化ということにならざるをえない。
(略)
むしろ本書において著者が課題のひとつとしたのは、理論的叙述の基礎となっている諸事実に読者の注意を向けさせることであった。このことは、とりわけ第一篇には必要なことだった。なぜなら、マルクスは、これらの諸事実に多くの場合自ら言及しているけれども、そのような言及はしばしば通例見逃してしまうような示唆にとどまっていることが多いからである。また他の箇所では、本書の著者は自らの責任でこのような諸事実に注意を促した。このことは、とりわけ第一篇第1章の最初のパラグラフに当てはまる。だが、それでも本書で行っているのは、指示程度のことでしかない。『資本論』の基礎となっている諸事実を詳細に説明するには、もっと多くの紙数を必要とするだけではなく、本書の著者の力量以上のものを必要とする。なぜなら、そうした説明を行うということは、結局のところ太古からの人類の発展史を書くことを意味しているからである。その点で、『資本論』は本質上歴史的著作にほかならないのである。
『資本論』のこうした歴史的性格は、近代工業を取り扱った各章の中に明白に見てとることができる。これらの各章は理論的部分を含むばかりでなしに、これまで不完全にしか取り扱われなかったか、あるいはまったく取り扱われなかった研究対象についての広範な歴史的な検討をも含んでいる。そこでは、理論的部分を基礎づけている諸事実が十分に与えられているために、賢明な読者は、広い予備知識をもたずにこれらの理論的部分を理解することができるのである。したがって、これらの各章を検討している場合には、本書の著者の課題は、別のものになった。そのため、ここでは紙数の制約もあり、もっとも重要な事実の指摘にとどめざるをえなかった。だがそれにもかかわらず、ここでは理論的部分の歴史的性格を維持することも必要となった。というのも、このような理論的部分は、事実と論理を媒介する中間項を省略した場合には、時にはまったく別の性格のものになり、一定の歴史的前提条件のもとでのみ通用する主張が無条件に通用する主張であるかのように思われてしまうからなのである。
(略)
本書は、偉大な独創的大作に対する平易な解説書にすぎない。だが、この場合にも、レッシングが自らの作品の中で絵描きについてコンテ公に言わしめた次の言葉が妥当する。
「ああ、直接目にして書くことのできない悔しさよ。目より腕を経て絵筆にいたる長旅の間に、いかに多くのものが失われてしまうことか。」
二人の画家が同一の対象を正確に描いても、そのそれぞれの作品には差異が生じるだろう。一方が見るものを、他方は見逃すこともあるだろう。また一方が重要と考えるものを、他方は付随的なものとして取り扱うこともあるだろう。そして両者が異なったものとして見たものは、またもや異なったものとして再現されることだろう。したがって原作を忠実に理解することは困難なことであるが、それ以上に困難なことは原作を忠実に再現することなのである。
本書の著者がここで行っているのは、『資本論』の模写、すなわち原著の縮小版として全面的に忠実に、しかも無色に再現した模写ではなく、主観的配色と主観的描写をもったひとつの作品の創造なのである。
その際、鈍重さを避けようとする余り著者の説明がしばしば断定的な調子に陥っているとすれば、本書において読者に語っている者、すなわちマルクスの経済学説について読者に報告している者はマルクスではないということを、読者は念頭に置いていただきたい。このことは控え目な課題と見なされるかもしれない。けれども、本書が幸いにも成功し、根気強い研究者、良心的な学者そして偉大な思想家としてのマルクスが自己のライフワークの成果として明らかにした真理の普及に少しでも貢献できたならば、本書の著者にとってこれ以上の喜びはない。
ロンドン、1886年10月
カール・カウツキー
※クロプシュトック(1724―1803)
ドイツの詩人。プロイセンのクベドリンブルクに生まれ、イエナとライプツィヒの両大学で神学を学んだ。文学雑誌『ブレーメン寄稿』に参加して、1748年宗教的な大叙事詩『救世主(メシーアス)』の第3歌までを発表し、世の熱狂的な賞賛を博した。それは当時のドイツ文学において支配的だった啓蒙思想やフランス風の詩法に対する、音楽的、感傷主義的、敬虔主義的な感情の高揚であり、革新であった。彼は古代ギリシアの詩形をドイツ語の抑揚のなかへ移し変え、語法を大胆に改革して数々のオーデ(頌歌)をつくり、さらに進んで『春の祝い』(1759)を頂点とする自由律の頌歌の創造に成功し、ドイツ近代文学における最初の国民詩人の地位を占めた。