桜庭一樹「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」と大森靖子《死神》

浄土と地獄を同時に見る

この言葉は、「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」の解説から引用したものである。
私が、この本と大森靖子《死神》に出会ったのは三か月以内である。
考察も知識も不足しているとは思うが、どうしてもこの、
「浄土と地獄」という共通点を感じざるを得なかった。

目の前には地獄が広がっている。
でも、どこか透き通ったような、きれいな何かがみえる。

「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」
砂糖菓子の弾丸は空想の弾丸。実弾ではない。撃ちぬくことができない。
海野藻屑は虚構の人魚である。そのまま泡となって、消えてしまた。
繊細な言葉づかいで運ばれていく悲劇。
印象に残ったのは、教師の「おまえには生き抜く気、あったのかよ……?」という言葉である。
今の世の中は、非常に便利で、セーフティーネットもある。しかし目には見えない個々の苦しさが存在する。ひとりよがりの生き抜く気力を持ち続けるとは難しい。
藻屑が父のことを好きだったように、父からどのようなひどい扱いをされてもそれでも好きだったように、自分は人魚だと言い、そうあるようにふるまうように、
生き抜くという感覚を忘れ、現実から逃れようと、いや現実を地獄を見て、こころが遠いどこかへと言ってしまう。
子どもは目の前の地獄から逃げる気力も体力も知恵も持ち合わせていない。ただ、ただ、順応する、砂糖菓子の弾丸を持ちながら。砂糖菓子の弾丸を持ちながら大人になったものだけが、実弾を装備できる。
地獄の中に、生き残ろうぜ、というような気迫と、子供の間に抱いた思いの大切さ美しさを感じた文章であった。

《死神》
とてもきれいな旋律から始まる。浄土を感じる。
歌詞にひっぱられているかもしれないが、とどまることなく川が流れていく、そんな心地よさがある。

ー死んだように生きてこそ 生きられるこの星が弱った時に
反旗を翻せ 世界を殺める 僕は死神さー

冒頭とは一変してロック調に切り替わる。

反旗を翻す覚悟、気力を持ち続けることは、
砂糖菓子の弾丸を持ちながら大人になることでもあると感じた。

死ぬことで際立つ生きること。
流動的なもので際立つ唯一性。

ー履歴書は全部嘘でした 美容室でも嘘を名乗りましたー

嘘を重ねて、本当の僕ではない僕で生きることで際立つ、本当の自分。
「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」で海野藻屑が、虚構の人魚であったのは、そうすることで彼女の”生”を際立てていたのかもしれない。

ー川は海へとひろがる  人は死へと溢れる
やり尽くしたかって西陽が責めてくる
かなしみを金にして  怒りで花を咲かせて
その全てが愛に基づいて蠢いているー

人は死ぬ。
死ぬから、生きることが尊い。
目の前は地獄が広がっているかもしれない。それでも日常を生きるしかない。
自分が死神だとか、天使だとか、正しいだとか、正しくないだとかは意味がないのだ。誰にもわからない。
ただ自分が死神だとしたら、死神だとしても、
地続きの今を明日を見て、愛を持って、生き抜こう
そんな感じがした。

立て続けに触れたから、たまたま感じたことだとは思うけれど、言葉にしたかった。
解釈違い起こしてても許してくれ。

私はこの本とこの曲が大好きだ。
大好きだと思える人であれてうれしい。
私は、今日も残り数時間、生き抜く。

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