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子どもを私立中学に進学させる理由について考えた
以前、当ブログで、“子どもを私立中学に入れるのは、ただでさえ大人になるにつれて世界が狭くなっていく成長の過程で、人としての幅を更に狭めるだけ”、という、ある哲学者の意見を紹介しました。(先日の記事はこちら↓)
我が家では、今年息子が中学受験し、中高一貫校に通っています。
子どもを私立中に進学させる意味について改めて考えてみました。
私立中への進学は、成功でもなければ、将来を保証するものでもありません、…それは当たり前です。
社会に出れば、ナントカ中学出身、といっても飲み会の話題になるくらいで、「だから何?」という程度のものに過ぎません。
ビジネスでは、どこの大学を出ているかで仕事上のパフォーマンスが決まるわけでは全くありません。
高学歴でも仕事では全く使えない人を身近で何人も見てきました。
ある学校に入れば人生の「勝ち組」になるということは現実にはないと思います。
学校にそんな力はないはずですし、正直、そこまで期待していないです。
中学受験のときに塾に期待しないのと同じです。
難関校合格実績が豊富な塾に入れれば、難関校に合格できる、塾のカリキュラムや先生の力によって合格に近付ける、…わけではないと思います。
そうした塾には、もともと合格できる能力をもった子どもがより多く集まるようになっているだけのような気がします。
あくまで勉強するのは本人。
勉強が好きで少しでも高いレベルに到達したい、そのため私立中に行きたい、という子に対して、人としての幅を狭めるからやめたほうがいい、と言う必要はないかなと思います。
本人がやりたいことに自由に打ち込める環境かどうかが問題です。
中高一貫校に通う息子の話を聞くと、同じクラスに数学や科学などでずば抜けた能力をもつ生徒が一人や二人ではなくその辺にゴロゴロいる、という全く別次元の世界が広がっています。
中学受験で算数や理科に絶対的な自信をもっていた息子の目からみて「凄い」というレベルがどの程度なのか、想像つきません…。
「狭い」世界かもしれませんが、別次元の広がりをもつ世界があります。
そこには、その学校が努力して超優秀な生徒を「育てた」形跡はありません…。
子どもは「育てる」ものではなく、「育っていく」ものだと思います。
本人が何かに気付いて自分を高めようとする、本当にやりたいことを見つける。
学校は、そうしたことを模索する「場」や「きっかけ」にすぎず、学校の力で一定の方向に懸命に引っ張り上げるものではないと考えます。
私立だろうと公立だろうと、育つものは育つし、育たないものは育たない。
「私立中に行ったから」いいポジションにつける、…わけではないように思います。
中学受験生の親として、3年間、ハンズオンで子どもの勉強を見てきました。
今では介入し過ぎだったと反省しています。
親の役割は、子どもが「育っていく」のを邪魔しないことだと考えます。
そのための環境を整えるということはやるべきかなという気がします。以前ブログで、親の役割は志望校選びにあり、という話もありました。
https://note.com/gifted_mimosa213/n/n2966f9bb1fe6
本人が好きな事、やりたい事、向いていそうな事を自由に取り組める環境を考えると、ひとつの可能性として私立中がある、ということなのかなと思います。
私立中か公立中か、という問立て自体にはあまり意味がない気がしてきました…。
先月、「経営の神様」と言われる、稲盛和夫氏がお亡くなりになりました。
稲盛氏は数々の言葉を残されていますが、特に心に残る言葉を書き記しておきたいと思います。
不可能を可能に変えるには、まず「狂」がつくほど強く思い、実現を信じて前向きに努力を重ねていくこと