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ブッダ・心のことば ウダーナ第3章1~10 (完全版)
3 ナンダの章
3.1 行為の報いから生じるものの経(21)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園(祇園精舎)で、ある修行者が、お釈迦様から遠く離れていないところで瞑想姿を組んで身体を真っすぐに立てて前世の業から生じる強くて荒々しく辛い苦痛を耐え忍びながら、きづきと正しく知ることで、打ちのめされることなく坐っていたのです。
お釈迦様は、その修行者が遠く離れていないところで、瞑想姿で身体を真っすぐに立てて、前世の業から生じる、強くて荒々しく辛い苦痛を耐え忍びながら、きづきと正しく知ることで、打ちのめされることなく坐っているのを見ました。
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
すべての行為(業)を捨てたビクにとって
かつて作ったちりを払い落としている人にとって
私なく心が揺らがない人にとって
他人を呼び寄せる必要はない(25)
以上が第一の経となる。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Sabbakammajahassa bhikkhuno,
全ての業を捨てたビクにとって
Dhunamānassa pure kataṃ rajaṃ;
つくられた塵を払い落とし
Amamassa ṭhitassa tādino,
我執なく安立した人とって、
Attho natthi janaṃ lapetave”ti.
人と話す必要はない
解 説
Sabbakammajahassa bhikkhuno,
すべての行為(業)を捨てたビクにとって
*Sabbakammajahassa すべての業を捨てた
*bhikkhuno, ビクにとっては
Dhunamānassa pure kataṃ rajaṃ;
かつて作ったちりを払い落としている人にとって
*Dhunamānassa
*攻撃を受けている、揺れる、激震するという意味です。激しく揺れ
ている。
*pure kataṃ かつて、どこかで
*rajaṃ; 塵(ちり)・煩悩・悪行為の結果、
*今の肉体は過去世の業の果報です。覚りに達しても、現在の身体で涅槃
に入るまでなくてはならないのです。命をつかさどる業が身体の管理と
死を管理します。
Amamassa ṭhitassa tādino,
私なく心が揺らがない人にとって
*Amamassa
*私、私の、私になどの一人称の気持ちはなくなっているのです。
(mama 私の、私のもの、我所)
*覚者には「私」という錯覚がありません。常に「私」はいないのです
*ṭhitassa 止まっている。(ṭhita止住の、停住の)
*輪廻転生という激流を渡っている。こころは安穏に達している。(私た
ちは止まっていない。ずーっと流れて、走っている)
*tādino,
*揺らがないという意味です。
*世界は、損・得、名誉・不名誉、批難・褒め、苦・楽という八種類の
状況が回転するのです。俗人のこころはこれらに触れて激しく揺ら
ぐ、悩む。(私たちの心はいつでも荒波が揺らいでいる)
*「自分がいない」と発見している人には関係ないことです。
Attho natthi janaṃ lapetave
他人を呼び寄せる必要はない
*人と話す必要はない。⇒ 他人を呼び寄せる必要はない。
*業の果報で病気になったら、(それは)普通の治療では治らない。一般
人は(病気が)一番悩む問題です。
*業の働きを知っている覚者は、激しい痛みを落ち着いて耐えるのです。
*俗人は新たな業(善行為)でいくらか置き換えますが、聖者の行為は業
にならないのです。ですから、(聖者は)「治療を頼む」と他人に言う
必要はない(人を呼び寄せる意味がない)のです。
3.2 ナンダの経(22)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園で、お釈迦様とは兄弟(異母弟)であり叔母の子(従兄弟)でもある尊者ナンダが、大勢の修行者に、このように告げました。
「友よ、わたしは、清浄行を歩んでも楽しくなく、清浄行を修め続けることができないのです戒を捨てて還俗します」
ある修行者が、お釈迦様のところに行き、ご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐り、お釈迦さまに
「尊き方よ、世尊とは兄弟でもあり叔母の子でもある尊者ナンダが、大勢の修行者にこのように告げています。『友よ、わたしは、清浄行を歩んでも楽しくなく、清浄行を修め続けることができないのです、戒を捨てて還俗します』」
お釈迦様は、ある一人の修行者に語りかけました。
「ビクよ、わたしの言葉を、ナンダビクに伝えなさい
『友よ、ナンダよ、教師があなたを呼んでいます』」
「尊き方よ、わかりました」
その修行者は、尊者ナンダのいるところに行き尊者ナンダに、
「友よ、ナンダよ、教師があなたを呼んでいます」
「友よ、わかりました」と、尊者ナンダは、その修行者に答えて、お釈迦様のおられるところに行き、ご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐り、尊者ナンダにお釈迦様は、こう告げました。
「ナンダよ、あなたは大勢の修行者に、このように告げたのですか。『友よ、わたしは、、清浄行を歩んでも楽しくなく、清浄行を修め続けることができないのです、戒を捨てて還俗します』」
「尊き方よ、そのとおりです」
「ナンダよ、どうして、喜ぶことなく、清浄行を歩んでいるのですか。清浄行を修め続けることができないのですか、学びを拒んで、戒を捨てて還俗するのですか」
「尊き方よ、わたしが家を出るとき、サキャ族のジャナパダカルヤーニー(尊者ナンダの許嫁で釈迦族一の美人)が髪を梳(す)き、振り返って、わたしに、
『旦那さま、早く帰ってこられますように』と。尊き方よ、わたしはジャナパダカルヤーニーのことを思い浮かべながら清浄行を歩んでも楽しくなく、清浄行を修め続けることができないのです戒を捨てて還俗します」
お釈迦様は、尊者ナンダの腕をつかんで、それは力のある人が、曲げた腕を伸ばすかのように伸ばした腕を曲げるほどのわずかな間に、ジェータ林から姿を消し三十三天に出現しました。
その時、五百ほどのカクタパーダ(鳩の足)という名の仙女たちが、天の神々たちの王帝釈天(インドラ神)の奉仕にやってきたのです。
お釈迦様は、尊者ナンダに語りかけました。
「ナンダよ、これらの五百の仙女カクタパーダたちが見えないのですか」
「尊き方よ、見えます」
「ナンダよ、どう思いますか、どちらがうるわしく、美しく、清らかか、サキャ族のジャナパダカルヤーニーか、五百の仙女カクタパーダたちか」
「尊き方よ、耳鼻を切られ手足を損傷した雌(めす)猿のように、サキャ族のジャナパダカルヤーニーはこれらの五百の仙女たちと比べて、ものの数にもならず十六分の一にもならず、くらべものになりません。
これらの五百の仙女たちが、姿うるわしく、美しく、清らかでもあります」
「さあ、ナンダ。さあ、ナンダよ。五百の仙女カクダパーダたちがあなたのものになるのを約束しましょう」
「尊き方よ、わたしのために、世尊が五百の仙女カクダパーダたちがわたしにものになるのを約束して頂けるなら、尊き方よ、わたしは世尊のもとで修行に励みます」
お釈迦様は、尊者ナンダの腕をつかんで、それは力のある人が、曲げた腕を伸ばすかのように伸ばした腕を曲げるほどのわずかな間に、三十三天から姿を消しジェータ林に出現しました。
修行者たちは、「世尊とは兄弟でもあり叔母の子でもある尊者ナンダが、仙女たちのために、清浄行を歩むらしい。世尊が、五百の仙女カクダパーダがナンダのものになると約束をしたらしい」と耳にしました。
尊者ナンダの仲間の修行者は、尊者ナンダのことを、「雇われ人」とか「商売人」という言葉で呼び
「尊者ナンダは雇われ人らしい。尊者ナンダは商売人らしい。仙女たちのために清浄行を歩む。世尊はナンダのために、五百の仙女カクダパーダをえる約束をしたらしい」
尊者ナンダは、仲間の修行者の「雇われ人」やら「商売人」と言われ苦悩し、自己嫌悪になりながら、独り人々から離れ、きづきを怠らず、情熱をもち精励し、ほどなくして、その目的のために良家の子息たちが家から出家するその無上の、清浄行の終了を、現世を、自ら知って、悟ったのでした。
すなわち「まよいの生は滅し、清浄行は完成された。なすべきことはなされた。ここにあることのために他になすべきことはない」と知って、尊者ナンダはアラカンのひとりとなったのです。
ある天の神が、夜が更けると輝きとなりジェータ林を照らして、お釈迦様のおられるところに現れ、お釈迦様にご挨拶(あいさつ)して、かたわらに立ちました。
「尊き方よ、世尊とは兄弟であり叔母の子でもある尊者ナンダは、煩悩を滅し、煩悩なき境地を、心による解脱を、知慧による解脱を、現世にて、自ら、知り、悟り、なしています」
お釈迦様も次のように知った。
「ナンダは、煩悩を滅し、煩悩なき境地を、心による解脱を、知慧による解脱を、現世にて、自ら、知り、悟り、なしました」
尊者ナンダは夜が明けて、お釈迦様のおられるところに行き、ご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐りました。尊者ナンダは、お釈迦様に、
「尊き方よ、わたしのために、世尊は、五百の仙女カクダパーダたちを得る約束をしておられるのですが、尊き方よ、約束はなかったことにしてください」
「ナンダよ、わたしも心をとおして、あなたのことを知りましたよ。『ナンダは、煩悩は滅し煩悩なき境地を心による解脱を、知慧による解脱を、現世にて、自ら、知り、悟り、なした』
天の神もまた、わたしに、このことを告げました。『尊き方よ、世尊とは兄弟であり叔母の子でもある尊者ナンダは、煩悩を滅して、煩悩なき境地を、心による解脱を、知慧による解脱を、現世にて、自ら、知り、悟り、なした』と。ナンダよ、何ものをも執着せず、心は煩悩から解脱したのです、わたしは、この約束を取り消したのです」
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました。
汚泥を乗超えた
欲の荊(いばら)をこわし
愚痴をなくし
楽苦をなくした人がビクである(26)
以上が第二の経となる。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Yassa nittiṇṇo paṅko,
汚泥を超え出て
Maddito kāmakaṇḍako;
欲望の荊を砕いたら
Mohakkhayaṃ anuppatto,
無知の消滅を獲得した
Sukhadukkhesu na vedhatī sa bhikkhū”ti.
もろもろの楽苦に、動じないのがビクである
貪瞋痴を超えわたり、苦・楽に動じることがない、アラカンの境地の詩
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
伝 記
ナンダ
スッドーダナ(浄飯)王とマハーパジャーパティー妃との間の子。したがってゴータマーブッダの異母弟に当たる。プッダが故郷のカピラヴァットウに帰国した際、その第三日目のナンダの結婚式の直前に、ブッダは強いて出家させた。のちナンダがしばしば追憶して愛欲に苦しむのを見て、プッダは種々の方便でナンダを教化する。またナンダは容姿が美しく、ブッダと見まちがえられた。よく諸欲を自制し、さとりを得る。諸欲をよく押えて調伏諸根最第一とされる。
なお別説では、かれはすでにスンダリーと結婚してスマンダラナンダと呼ぱれており、ブッダによって出家させられたのは立太子式の日ともいう。
「テーラガーター」一五七・一五八を説く。
一五七 わたしは、正しく思惟しなかったので、装飾にふけり、うわついていて、ふらふらして、愛欲に悩まされていた。
一五八 〈太陽の裔であり、みちびく手だてに巧みなブッダ(の助け)によって、わたしは正しく実践して、迷いの生存に向う(わが)心を引き抜いた。
ナンダ長老
初期仏教最古の資料の「スッタニパータ」の第五章のうち、その一〇七七~一〇八三偏はかれの問いとブッダの答え。
3.3 ヤソージャの経(23)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園で、ヤソージャと五百ほどの修行者たちが、お釈迦様とお会いするためにサーヴァッティーに到着したのです。
それらの来客の修行者はここに住む修行者と共に今回の出会いを喜び合い、寝具や座具を用意しつつ鉢と衣料をととのえながら、むやみやたらと高い声をあげ大きな音をたてるのでした。 お釈迦様-は、尊者アーナンダに語りかけました。「アーナンダよ、漁師たちが魚を獲っているかと思うような、高い声をあげ大きな音をたてるこれらの者たちは誰なのですか」
「尊き方よ、これらの者はヤソージャと五百ほどのビクたちで、世尊とお会いするためにサーヴァッティーに到着したのです。
来客の修行者は、修行者と今回の出会いを喜び合い寝具や座具を用意し鉢と衣料をととのえながら、むやみやたらと高い声をあげ大きな音をたてるのです」
「アーナンダよ、わたしの言葉をビクたちに伝えなさい。『教師が、あなたたちを呼んでいます』」
尊き方よ、わかりました」と、尊者アーナンダは、修行者に伝えた。
「教師が、あなたたちを呼んでいます」
「友よ、わかりました」と、修行者は、尊者アーナンダに答えて、お釈迦様にご挨拶して、かたわらに坐った修行者に、
「ビクたちよ、あなたたちは漁師たちが魚を獲っているかと思うような、高い声をあげ大きな音をたてるのですか」
このように言われたとき、尊者ヤソージャは
「尊き方よ、五百ほどのビクたちは、世尊とお会いするために、サーヴァッティーに到着したのです、来客のビクたちは、在住のビクと共に今回の出会いを喜び合いつつ、寝具や座具を用意し鉢と衣料をととのえながら、むやみやたらと高い声をあげ大きな音をたてるのです」
「ビクたちよ、去りなさい。ここから出ていきなさい。あなたたちは、わたしの近くにいてはなりません」
「尊き方よ、わかりました」
それらの修行者は、お釈迦様に答えて立ち上がって、ご挨拶(あいさつ)して、寝具や座具をたたんで鉢と衣料を手にもってヴァッジー国へと遊行の旅に出ました。
ヴァッジー国では、遊行の旅をしながらヴァッグムダー川のあるところにやってきて、岸辺に草庵を作って雨期の修行に入りました。
そこで、雨期の修行に入った尊者ヤソージャは、修行者たちに語りかけました。
「友よ、世尊は、わたしたちのことを願って、わたしたちのことを考えて、思いやりもって、わたしたちを追い出したのです。友よ、わたしたちは、世尊が、わが想いが伝わったと思うように、わたしたちは雨期の生活をしよう」
「友よ、わかりました」と、修行者は、尊者ヤソージャに答えました。
修行者は、人里はなれ、きづきを怠らず、熱心に、精励し、雨期の間に、全ての修行者は、三つの明知(三明:宿命通・天眼通・漏尽通)を得た。
お釈迦様は、サーヴァッティーで心ゆくままに滞在し、ヴェーサーリー市に遊行の旅に出ました。
遊行の旅をしながら、ヴェーサーリー市に着きお釈迦様は、ヴェーサーリーハー林の二階建て堂舎(重閣講堂)で、ヴァッグムダー川の岸辺にいる修行者たちの心を察知して、おもいやり、尊者アーナンダに語りかけました。
「アーナンダよ、かなたから光明が見えます。アーナンダよ、かなたから光輝が見えます、ヴァッグムダー川の岸辺にいるビクが修行しているところです。そこは、かねてから心地よいところであった。
アーナンダよ、ヴァッグムダー川の岸辺にいるビクに使者を送るのです。『教師が、あなたたちを呼んでいます、教師が尊者たちと会いたいとお望みです』」
「尊き方よ、わかりました」と、尊者アーナンダは、お釈迦様に答えて修行者のいるところに行き、こう伝えました。
「友よ、ヴァッグムダー川の岸辺にいるビク衆のところに行き、ヴァッグムダー川の岸辺にいるビクに、このように言いなさい。『教師が、あなたたちを呼んでいます、教師が、尊者たちと会いたいとお望みです』」
「友よ、わかりました」
その修行者は、尊者アーナンダに答えて、ちからのある人が曲げた腕を伸ばす間に伸ばした腕を曲げる間に、マハー林の二階建て堂舎から姿を消し、ヴァッグムダー川の岸辺にいる修行者たちの前に現れました。
その修行者は、ヴァッグムダー川の岸辺にいる修行者に、「教師が、あなたたちを呼んでいます、教師が尊者たちと会いたいとお望みです」
「友よ、わかりました」
修行者たちは、寝具や座具をたたんで、鉢と衣料を手にもって、ちからのある人が曲げた腕を伸ばす間に伸ばした腕を曲げる間に、ヴァッグムダー川の岸辺から姿を消し、マハー林の二階建て堂舎におられる、お釈迦様の面前に姿を現した。
お釈迦様は、不動の心の統一によって坐っておられた。
修行者たちは、「世尊は、どのような状態になっているのだろう」
「世尊は、不動の心の統一によって坐っておられる」と考え、修行者も不動の心の統一によって坐りました。
尊者アーナンダは、夜が更け、宵の内を過ぎると坐から立ち上がって、肩に上衣を掛けて、お釈迦様のおられるところに合掌して、
「尊き方よ、夜が更け宵の内を過ぎました。来客のビクたちは、長らく坐っています。尊き方よ、世尊よ、来客のビクと今回の来訪を喜び合ってください」
お釈迦様は、沈黙したままでした。
再度また、尊者アーナンダは、夜が更け、真夜中を過ぎると坐から立ち上がって、肩に上衣を掛けて、お釈迦様のおられるところに合掌して、
「尊き方よ、夜が更け、真夜中を過ぎました。来客のビクは長らく坐っています。尊き方よ、世尊よ、来客のビクと今回の来訪を喜び合ってください」
再度また、お釈迦様は、沈黙したままでした。
三度また、尊者アーナンダは、夜が更け、明け方を過ぎると坐から立ち上がって、肩に上衣を掛けて、お釈迦様のおられるところに合掌して、
「尊き方よ、夜が更け、明け方を過ぎました。来客のビクは、長らく坐っています。尊き方よ、世尊よ、来客のビクと、今回の来訪を喜び合ってください」
お釈迦様は、その心の統一から立って、尊者アーナンダに語りかけました。
「アーナンダよ、もし解っていれば、答えなくてもいいのだが。アーナンダよ、わたしと、五百のビクすべてが一緒に、不動の心の統一によって坐っていたのですよ」
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
欲望の荊(いばら)にうちかち
悪口と迫害と拘束にうちかち
山のように動かない
楽苦に動じないこれがビクである(27)
以上が第三の経となる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
やたらに騒がしいビク達が訪ねてきたて、お釈迦様に追い出されが、近くの場所で修行することになった。
ビク達は追い出されながらもお釈迦様のお気持ちをよく考えて修行に励み、神通を得るまでに成長した、その姿をみたお釈迦様はビク達を呼び戻し瞑想により会話を楽しまれた。
完全な沈黙は聖者同士の究極の対話なので、ブッダがビクたちの前でāneñjā(アーネンジャー)というサマーディ(禅定)に入って、ビクたちも朝まで、釈尊と同じサマーディに入っていたのです。
師匠と弟子たちは同じ境地に達していることを示されたところで、お釈迦様は、そのときこのウダーナを唱えられた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Yassa jito kāmakaṇḍako,
欲望の荊に勝利する
Akkoso ca vadho ca bandhanañca;
悪口と迫害と拘束にも
Pabbatova so ṭhito anejo,
山のように立ち、動かず
Sukhadukkhesu na vedhatī sa bhikkhū”ti.
諸々の楽苦にも、動揺しないのがビク
どのようなことが起こっても、心が動じない瞑想の心を体得した人の詩。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
伝 記
百ほどの修行者を束ねたヤソージャは、森の中で蚊や虻に刺されながらの禅定修行は、容易ならぬものであった。今日から見れば、やはり苦行である。しかし、それは為さねばならぬことである、とヤソージャは考えていた。
経歴など伝わっていませんが、テーラガーターに、このようなことばが伝わっています。
二四三 手足はカーラー樹の結節のようであり、体は痩せて、脈管が現われているが、飲食物について適量を知っているから、この人は、心が貧しくない。
二四四 森や密林のなかにいて、蚊や虻に刺されながら、そこで正しく念を凝らして、じっと堪え忍ぶべきである。- 戦闘の先陣にいる象のように。
二四五 〔修行者が〕一人でおれば、梵天のごとくである。二人でおれば、二人の神のごとくである。三人でおれば、村のごとくである。それ以上おれば、雑踏のごとくである。
3.4 サーリプッタの経(24)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園にて、尊者サーリプッタが、お釈迦様から遠く離れていないところ、瞑想姿で身体を真っすぐに立てて、心の集中点を眼前にすえて坐っていたのです。
お釈迦様は、尊者サーリプッタが、遠く離れていないところに瞑想姿で、身体を真っすぐに立てて、心の集中点を眼前にすえて坐っているのをご覧になった。
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました。
あたかも岩の山が揺れ動かず
しっかりと安定しているように
迷妄を滅したビクは
山のように動じることがない(28)
以上が第四の経となる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語は、お釈迦様が尊者サーリプッタをご覧になって口にされた言葉です、これは、悟った方と、悟った方の対話です。
悟りの境地の会話ですので、一般人が理解するのは難しい詩です。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Yathāpi pabbato selo,
あたかも山の岩が
acalo suppatiṭṭhito;
動かず安定し
Evaṃ mohakkhayā bhikkhu,
迷妄が消滅するのが比丘であり
pabbatova na vedhatī”ti.
山のように、動じない
解 説
Yathāpi pabbato selo,
あたかも岩の山が揺れ動かず
*ちりの山や土と石か混ざった山ではなく、一枚の岩のような山、という
意味
acalo suppatiṭṭhito;
しっかりと安定しているように
*根がしっかり張っていて、風により動かない
Evaṃ mohakkhayā bhikkhu,
迷妄を滅したビクは
*mohakkhayā-迷妄の消滅(無明・愚痴の滅尽)
*こころの動揺というのは、無明があるから、生命は眼・耳・鼻・舌・
身・意に入り、色・声・香・味・触・法という情報を捏造して(認識対
象を、ものごとを)知り、それを貪・瞋・痴に合わせて認識します。こ
こで、こころが激しく動揺します。
生命は好みのものを認識したい、そして私一人の主観で知る、私一人の
ために知る情報は、世界の情報は変わりません、情報は人の好みに合わ
せない、ですから眼・耳・鼻・舌・身・意に入る情報で動揺せざるを得
ないのです。
アラカンに達した聖者は完全に無明を破っています、無明を破った聖者
は情報が触れてもこころの動揺が起こらなくなります。
pabbatova na vedhatī”ti.
山のように動じることがない
*pabbatova-山のように
*聖者と色・声・香・味・触・法(という情報と)の関係は、(聖者を)
山に例えています、山にも雨風が触れます。しかし、動揺しない、サー
リプッタ尊者がこころを止めていたので、身体と心(の機能)が完全に
停止状態であったので、一切の動きが止まっていたのです。
そこで、お釈迦様に岩山のイメージが浮かんだのです。
3.5 マハーモッガッラーナの経(25)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園にて、尊者マハーモッガッラーナが、お釈迦様から遠く離れていないところ、瞑想姿で身体を真っすぐに立てて、心の集中点を眼前にすえて坐っていたのです。
お釈迦様は、尊者マハーモッガッラーナが、遠く離れていないところに瞑想姿で身体を真っすぐに立てて、心の集中点を眼前にすえて坐っているのをご覧になった。
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナ唱えました
身体の動きにそっていま流れている
眼・耳・鼻・舌・身・意の情報を止めて
常にサマーディにあるビク
その人は解脱に達している(29)
以上が第五の経となる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語は、お釈迦様が尊者マハーモッガッラーナをご覧になって口にされた言葉です、これは、悟った方と、悟った方の対話です。
悟りの境地の会話ですので、一般人が理解するのは難しい詩です。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Sati kāyagatā upaṭṭhitā,
身体についてのきづきが現にあり
Chasu phassāyatanesu saṃvuto;
六つの接触の場所(眼・耳・鼻・舌・身・意)が制限されて
Satataṃ bhikkhu samāhito,
常に入定するビクは
Jaññā nibbānamattano”ti.
自己の涅槃を知るであろう
解 説
Sati kāyagatā upaṭṭhitā,
体が身体の動きにそっていま流れている
*呼吸などの身体の動きに集中することです。
*雑念がなくなると禅定が現れます。
Chasu phassāyatanesu saṃvuto;
眼・耳・鼻・舌・身・意の情報を止めて
*眼・耳・鼻・舌・身・意に情報が入ってもこころが揺らがない状態で
す。
*貪欲なども止めてます
*知の防御も示しています。
Satataṃ bhikkhu samāhito,
常にサマーディにあるビク
Jaññā nibbānamattano”ti.
自己の涅槃を知るであろう
*こころが解脱に達していることを知っているのです。
*禅定に達すると、それに強い執着が生まれます。
*覚者も禅定に入ってみますが、その状態に執着しないのです。
*それは、一般人には出来ない能力です。
3.6 ピリンダヴァッチャの経(26)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、ラージャガハ(王舎城)に住んでおられた。
ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパ(竹林精舎)で、尊者ピリンダヴァッチャが修行者たちのことを「下民」という言葉で呼びかけた、大勢の修行者はお釈迦様のおられるところに行きお釈迦様にご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐りました。
かたわらに坐った、修行者たちは、お釈迦様に、こう申し上げた。
「尊き方よ、尊者ピリンダヴァッチャがビクのことを、『下民』という言葉で呼びかけます」
お釈迦様は、修行者に語りかけました。
「ビクよ、ピリンダヴァッチャビクに、『友よ、ピリンダヴァッチャよ、教師があなたを呼んでいます』と伝えてください」
「尊き方よ、わかりました」
その修行者は、お釈迦様に従って、尊者ピリンダヴァッチャのいるところに、行き尊者ピリンダヴァッチャに、こう伝えたのです。
「友よ、ピリンダヴァッチャよ、教師があなたを呼んでいます」
「友よ、わかりました」
尊者ピリンダヴァッチャは、その修行者に答えて、お釈迦様のおられるところに行き、ご挨拶(あいさつ)して、かたわらに坐りました。
かたわらに坐った、尊者ピリンダヴァッチャに、お釈迦様は、こう語りかけました。
「ヴァッチャよ、あなたはビクのことを、「下民」という言葉で呼びかけたのですか」
「尊き方よ、そのとおりです」
お釈迦様は、尊者ピリンダヴァッチャの前世を観察し修行者たちに語りかけました。
「ビクちよ、ヴァッチャビクに腹を立ててはいけません、ビクたちよ、ヴァッチャは、怒りをもってビクたちのことを『下民』という言葉で呼びかけているのではありません。ビクたちよ、ヴァッチャビクの五百の生が、途切れることなくバラモンの家系に生まれたのです。「下民」という言葉は、長夜にわたり呼びかけたものです。それで、このヴァッチャはビクのことを「下民」という言葉で呼びかけたのです」
そのときお釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
偽り住みつかず、くらべる心なく
貪りなく、私のものなく、欲なく
怒りをこえて、解脱に達している
その形態なら、バラモンでありサマナでありビクである(30)
以上が第六の経となる。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Yamhi na māyā vasatī na māno,
偽り住みつかず、くらべる心なく
Yo vītalobho amamo nirāso;
貪りなく、私のものなく、欲なく
Paṇunnakodho abhinibbutatto,
怒りをこえて、解脱に達している
So brāhmaṇo so samaṇo sa bhikkhū”ti.
その形態なら、バラモンでありサマナでありビクである
解 説
Yamhi na māyā vasatī na māno,
偽り住みつかず、くらべる心なく
*Yamhī na māyā 偽(いつは)りある所なく、
*vasatī na māno 慢(くらべる感情)を着ない、
Yo vītalobho amamo nirāso;
貪りなく、私のものなく、欲なく
*vītalobho 貪りがない、
*amamo 「私、私のもの」という気持ちがない、
*nirāso 何にも執着しない、
Paṇunnakodho abhinibbutatto,
怒りをこえて、解脱に達している
*Panuṇṇakodho 怒りをこえている、
*abhinibbutatto 解脱に達している。
So brāhmaṇo so samaṇo sa bhikkhū
その形態なら、バラモンでありサマナでありビクである
*その状態だったら、その人こそ比丘であり、バラモンであり、聖者であ
る。
言葉と感情
事実を伝えるときでも、人の言葉に自我意識(私)が隠れていて、結局、感情を言葉にして表現することが多く、感想とは、自分の主観を述べることです。しかし、聖者の言葉には感情が入っていないので、世間が決めている感情を組み込んだ意味で理解することはできません。
知識を与える講義も、研究レポートの発表も、情報を伝える時も、話す自分(自我)がいるので、異論を立てられたら機嫌が悪くなります。ですから感想・意見を言う、噂をする、日常会話を行う時には、「私」が表に出ます。自分の存在をアピールするのです。
自我の言葉の衝動は、無明、怒り、慢、恨み、憎しみ、嫉妬、欲などなどです。話す度に自我の煩悩が掻き回され増えます。
聖者の心に煩悩がないから、聖者の言葉に在るのは本来の意味だけです。しかし、聖者が語る言葉に一般人が決めた共通的な意味もあります。(感情も含む)。従って、このストーリーの様に、聖者の言葉が誤解されることもあります。
言葉について
なぜ私は名づけるのでしょうか、ラベルを貼るのでしょうか。物に、感情にラベルを貼るのは、これは花、これは樹などと述べるため、感情を伝えるため、あるいは自分自身をその感情と同一化、(例えば「私は怒っている」と言う)するためです
例えば、私はバラと名をつけて「それはバラ」と言い、理解したと思い込み、分類して、その花の全体と内容と美しさを理解したと思い込むのです。
しかし私が名づけなければ、初めて触れるように注意深い意識で近づき、以前には全く見たことがなかったかのように見るのです。
ラベルを貼らなければ、物であれ。人であれ感情であれ出来事であれ、それぞれを見なければならないなら、私はそれとの関係を、それに引き続く行為との関係を考慮します
そこで私が名づけるときの中心はなんでしょうか、選択し、ラベルを貼り、用語化し、判断している中心は、明らかに記憶です、それは同一視され、囲まれた感情の連続で、それは現在に生きている過去です。その中心が名をつけ、ラベルを貼り、記憶することを通して、現代に生きています。
この中心である記憶は名前やラベル、同一化を与えられてきた様々な経験の記憶です、その中心から名づけられた、ラベルを貼られた経験とともに、経験した記憶の快楽や苦痛などの感情に従って、受容と拒絶、肯定や否定の判断があります。つまりこの中心とは言葉です。
この中心に名づけがないなら、中心があるでしょうか、すなわち言葉を使わないなら考えることはできるでしょうか、思考は言語化を通して生まれます、あるいは言語化が考えることに反応しはじめます、中心は言語化された快楽と苦痛の無数の経験の記憶です。
私にとっては、言葉や言葉が表す感情が重要になり、「怒り」という言葉を発するとき、私は感情を表す言葉そのものになり、その感情がなんであるかを知りません。その言葉がなにを意味するのか、その言葉の背後の意味は調べません。ラベルと同一化し、それを押し付けられているなら、前に進むことは出来ませんが。もしラベルが問題ではなく、問題がラベルの背後にあるものなら尋ねることができます
言葉やラベルがなければ中心はありません、私が感情や考えにラベルを与えるのを理解すれば、ラベルはなくなり、私はありません、なんでもないものとしての存在感があるだけです。
ラベルを貼らないなら、あらゆる感情が生じるとき注視しなければなりません、ラベルを貼るとき感情はラベルと異なるでしょうか、それともがラベルが感情を呼び起こすのでしょうか? ラベルを貼るとき多くは感情を強めます。感情と名づけは瞬間です、もしも感情と名づけの間に間隙があるなら、そのとき感情と名づけが異なっているか見出すことが出来ますし、そのときは名づけることなしに、感情を取り扱うことができます
私は「怒り」という言葉が感情そのものよりも、重要になっていることを見出さなければなりません、そのためには、感情と名づけの間に間隙がなければなりません。
私が感情に名づけないなら、心は静かではないでしょうか、心が静かなら生じる感情を即座に処理できます、感情が継続するのは、私が感情に名づけてそれによって強化するときのみです、それらは中心に蓄えられ、私はそこから、それらを強化したり伝えたりするためにラベルを貼ります。
心が、言葉や過去の経験で構成されていないとき静かです、この静かな状態に達するためには、いままで説明したすべてを経なければならないのです。それは膨大な仕事です。それはすべてを経験すること、心がどのように働くかをみること、それによって、名づけていないその点に到達すること、この全体の過程が本当の瞑想です。
心が本当に静かであるとき、測ることのできないものが生じることが可能です。どのような他の過程も、真の実在を求める探求も、単に自己投影で自家製に過ぎず、実態がありません。しかしこの過程は骨が折れ、心が内面で起こっている、あらゆるものに、絶えず気づいていなければならないことを意味しています、どのような判断や正当性もありえません。実験し、より深く、自分自身を詳しく調べる、その結果、中心の多くの層が解消されます。心がどのように言葉に依存するか、言葉がどのように記憶を刺激したり、過去の死んだ経験を生き返らせてそれに命を与えるのか見守ることができます。この見守る過程の中では、心は未来や過去の中に生きています、それゆえ心理学的にも神経学的にも、言葉が並外れた重要性をもちます。
このことは言葉からは学べません、他の人からも学べません、それは真実ではないからです、しかし、それを、自分自身で体験できます、行為の中の自分自身を見守ることや、自分自身が考えるのを見守ることや、どのように自分自身がかんがえるのか、感情が起きるたびにどのように素早く名づけているのか見ることができます、そして全体の過程を見守ることが、心をその中心から解放します。そのとき心は静かになり解放されます。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
伝 記
ピリンダヴァッチャ尊者は、テーラガーターにこのような言を残しています。仏の教え、尊い教示をただ「それ」とだけ呼んでいたことが伝えられています。
九 それは来たり、それは去らなかった。それはわたしにとっては悪しき忠告ではなかった。人々がわかち持っていることがらのうちで長上のものが、やってきた。
3.7 帝釈天の布施の経(27) このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、ラージャガハに住んでおられた。
ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパで、尊者マハーカッサパはピッパリ窟に住んでおられた。七日のあいだ、瞑想姿で坐っていたのです。その七日が過ぎ心の統一から覚めた尊者マハーカッサパは、こう思い立ったのです。
「ラージャガハに托鉢に入ろう」
その時、五百ほどの天の神々が、余計なことを思ったのです。尊者マハーカッサパは、それらの五百ほどの天の神々の施しをことわり、朝早くに衣を着て鉢と衣料をもって、ラージャガハに托鉢のために入りました。
その時、天の神々の王たる帝釈天(インドラ神)は、尊者マハーカッサパに托鉢の食を施すことをしたいと思い、布織職人に姿を変えて布を織り、アラカンの娘のスジャー(帝釈天の妻)は、梭(シャトル)を糸で満たしています。
尊者マハーカッサパは、ラージャガハを歩々淡々と托鉢のために歩みながら、天の神々の王、帝釈天の住居のあるところに行き、天の神々の王、帝釈天は尊者マハーカッサパが、はるか遠くからやってくるのを見ました。家から出て尊者を出迎えて手から鉢を受け取って、家に入って飯を取り出して鉢を満たして、尊者マハーカッサパに施しました。その托鉢の食は、とびきりの汁があり、とびきりの香味があり、とびきりの味と香味があったのです。そこで、尊者マハーカッサパは、こう思ったのです。
「このような食事を用意できる神通があるとは、この人は誰なのか」
尊者マハーカッサパは、こう思い。この者は、天の神々の王たる帝釈天である
それと解ると、天の神々の王、帝釈天にこう言ったのです。
「コーシヤ(帝釈天)さん、これは、あなたがしたことですね、二度とこのようなことをしてはいけません」
「尊き方よ、カッサパよ、わたしたちにとっても功徳を積むことが必要なのです、わたしたちにとってもまた、功徳を積むことがつとめなのです」
天の神々たちの王たる帝釈天は、尊者マハーカッサパにご挨拶(あいさつ)して、宙に舞い上がり空中で、三回、ウダーナを唱えました。
「ああ、布施が最高の布施が、カッサパにて見事になされた」「ああ、布施が最高の布施が、カッサパにて見事になされた」「ああ、布施が最高の布施が、カッサパにて見事になされた」
お釈迦様は、天界の声を聞く神通力で、天の神々の王帝釈天が、宙に舞い上がって、空中で、三回、ウダーナを唱えているのを聞いたのです。
「ああ、布施が最高の布施が、カッサパにて見事になされた」「ああ、布施が最高の布施が、カッサパにて見事になされた」「ああ、布施が最高の布施が、カッサパにて見事になされた」
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました。
托鉢のみで生活する
他人に頼らず生き、他を養う義理がない
神々もうらやむ
煩悩がない安穏の心で常にきづきある人を(31)
以上が第七の経となる。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Piṇḍapātikassa bhikkhuno,
托鉢行者として糧を得る
Attabharassa anaññaposino;
自己を扶養し、養育することのない
Devā pihayanti tādino,
神々もそのような者を羨む
Upasantassa sadā satīmato”ti.
常に静かで、きづきある者を
解 説
Piṇḍapātikassa bhikkhuno,
托鉢のみで生活する
Attabharassa anaññaposino;
他人に頼らず生き、他を養う義理がない
*Attabharassa 他人に頼らず生きる
*anaññaposino; 他を養う義理がない。
Devā pihayanti tādino,
神々もうらやむ
Upasantassa sadā satīmato”ti. (31)
煩悩がない安穏の心で常にきづきある人を
*Upasantassa 煩悩が無い安穏の心でいる
*sadā satīmato 常にSati・きづきがある。
3.8 托鉢の経(28)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられます。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園にて、食事のあと、托鉢からもどりカレーリの円形堂(迦梨羅講堂)に集まって坐っている、大勢の修行者に暇つぶしの合間の議論が起こった。
「友よ、托鉢に出たビクが歩んでいると、
眼に心地よいものを見ることがあります。耳に心地よい音を聞くことがあります。
鼻に心地よい臭いを嗅ぐことがあります。舌に心地よい味を味わうことがあります。
身に心地よい感触を感じたりすることがあります。
友よ、托鉢しているビクは、人々から尊敬され、重んじられ、慕われ、捧げられ、うやまわれ、托鉢します。
友よ、托鉢に出たビクは、歩んでいると、
眼に心地よいものを見ることがあります。耳に心地よい音を聞くことがあります。
鼻に心地よい臭いを嗅ぐことがあります。舌に心地よい味を味わうことがあります。
身に心地よい感触を感じたりすることがあります。
わたしたちもまた、人々から尊敬され、重んじられ、慕われ、捧げられ、うやまわれ、托鉢にするのです」
修行者たちの暇つぶしの合間の議論は終わることがなかったのです。
そこで、お釈迦様は夕刻時に坐禅から覚めて、カレーリの円形堂のあるところに近づいて、設けられた坐に坐られました。坐られてお釈迦様は、ビク衆に語りかけました。
「ビクたちよ、どのような話のために集まって坐っているのですか。終わることがなかった、暇つぶしの話とはどのようなものですか」
「尊き方よ、食事のあと托鉢から戻りカレーリの円形堂に集まって坐っているわたしたちに、暇つぶしの合間の議論が起こりました。
「友よ、托鉢に出たビクが歩んでいると、
眼に心地よいものを見ることがあります。耳に心地よい音を聞くことがあります。
鼻に心地よい臭いを嗅ぐことがあります。舌に心地よい味を味わうことがあります。
身に心地よい感触を感じたりすることがあります。
友よ、托鉢しているビクは、人々から尊敬され、重んじられ、慕われ、捧げられ、うやまわれ、托鉢に歩みます。
友よ、托鉢に出たビクが歩んでいると
眼に心地よいものを見ることがあります。耳に心地よい音を聞くことがあります。
鼻に心地よい臭いを嗅ぐことがあります。舌に心地よい味を味わうことがあります。
身に心地よいう感触を感じたりすることがあります。
わたしたちもまた、人々から尊敬され、重んじられ、慕われ、捧げられ、うやまわれ、托鉢して歩むのです」
尊き方よ、これが終わることがなかった、わたしたちの暇つぶし話です。そのとき世尊がおいでになったのです」
「ビクたちよ、良家の子息たちとして、信によって家を捨て出家したあなたたちにとって、ふさわしいことではありません。あなたたちが集まったときに、二つのなすべきことがあります。
法(教え)の話であるか、聖なる沈黙の状態であるかです」
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
ビクは托鉢のみで生活する
他人に頼らず生き、他を養う義理がない
神々もうらやむ
他人の誉め言葉、称賛に頼らないなら(32)
以上が第八の経となる。
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人々はいとも簡単に宗教を信じる。修行者を信じ、御利益を求めて布施・供養をするので、修行者たちが宗教は楽に生きる道であると勘違いして堕落します。
この時代インドの宗教家の殆どは宗教を収入資源として使っていて、宗教組織は人々に経済的な負担になっていたのです。
そこで釈尊は法をこの細菌に感染しないように詳しい規則を設定したのです。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Piṇḍapātikassa bhikkhuno,
托鉢行者として糧を得る
Attabharassa anaññaposino;
自己を扶養し、養育することのない
Devā pihayanti tādino,
神々もそのように羨む
No ce saddasilokanissito”ti.
名声と名誉に依存しないなら
解 説
Piṇḍapātikassa bhikkhuno,
ビクは托鉢のみで生活する
*比丘が托鉢で生活する。(托鉢とは経済的負担がないという意味です)
探し求めることはしない生き方です。鉢に落ちたものを肉体に欠けてい
るならば摂る。
Attabharassa anaññaposino;
他人に頼らず生き、他を養う義理がない
*Attabharassa 自己扶養(他に頼る必要はない)
*anaññaposino 他を扶養しない(他に対して借りがない)、
三つとも在家には難しい出家の生活です
Devā pihayanti tādino
神々もうらやむ
*安穏に達した人(アラカン)は神々に好かれる。
*人々(神々)は聖者に対して違和感を感じないという意味です
No ce saddasilokanissito
他人の誉め言葉、称賛に頼らないなら
*他人の誉め言葉、称賛に頼らない
*解脱に達した人には、他人の言葉の影響は成り立たないという意味です
「ビクたちよ、あなたたちが集まったときに、二つのなすべきことは、法(教え)の話であるか、聖なる沈黙の状態であるかです」
そういうことで、お釈迦様が解脱者は、自由(完全たる自由)を詠った。
3.9 技能の経(29)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、サーヴァッティーに住んでおられた。
ジェータ林のアナータピンディカ長者の聖園で、食事のあと托鉢から戻り、円形堂に集まって坐っている大勢の修行者に暇つぶしの合間の議論が起こりました。
「友よ、誰が技能を知っているのだろう。誰がどのような技能を学んでいるのだろう。技能のなかでは、どの技能が最高なのだろう」
そこで、
ある者たちは、「象の技能が最高である」 ある者たちは、「馬の技能が最高である」
ある者たちは、「車の技能が最高である」 ある者たちは、「弓の技能が最高である」
ある者たちは、「剣の技能が最高である」 ある者たちは、「暗算の技能が最高である」
ある者たちは、「計算の技能が最高である」 ある者たちは、「数学の技能が最高である」
ある者たちは、「書写の技能が最高である」 ある者たちは、「詩作の技能が最高である」
ある者たちは、「処世の技能が最高である」 ある者たちは、「政治学の技能が最高である」
それらの修行者の、暇つぶしの話は終わることがなかったのです。
お釈迦様は、夕刻時に坐禅から覚められ、円形堂のあるところに近づいて、設けられた坐に坐られました。お釈迦様は修行者に語りかけました。
「ビクたちよ、どのような話のために、集まって坐っているのですか。終わることがなかったあなたたちの暇つぶしの話とは、どのようなものですか」と。
「尊き方よ、ここで、食事のあと托鉢し、円形堂に集まって坐っている、わたしたちに、暇つぶしの話が起こりました。友よ、いったい誰が、技能を知っているのだろう。誰が、どのような技能を学んでいるのだろう。
技 能のなかでは、どの技能が最高なのだろう」と。
そこで、
ある者たちは、「象の技能が最高である」 ある者たちは、「馬の技能が最高である」
ある者たちは、「車の技能が最高である」 ある者たちは、「弓の技能が最高である」
ある者たちは、「剣の技能が最高である」 ある者たちは、「暗算の技能が最高である」
ある者たちは、「計算の技能が最高である」 ある者たちは、「数学の技能が最高である」
ある者たちは、「書写の技能が最高である」 ある者たちは、「詩作の技能が最高である」
ある者たちは、「処世の技能が最高である」 ある者たちは、「政治学の技能が最高である」
尊き方よ、これが終わることがなかった、わたしたちの暇つぶしの合間の議論です、
そのとき、世尊がおいでになったのです」
「ビクたちよ、良家の子息たちとして、信によって家を捨て出家したあなたたちにとって、ふさわしいことではありません。あなたたちが集まったときに、二つのなすべきことがあります。
法(教え)の話であるか、聖なる沈黙の状態であるかです」
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
技能に頼ることも、利益を考えることもない
色・声・香・味・触・法という対象に聖者は頼らず
五取蘊なく、私なく、期待なく
慢を捨て、孤独で生活する(33)
以上が第九の経となる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
よく似た物語が、2-2、3-8にもありますが、ウダーナという経典の目的が現れているように思えます。
おそらく、入門前のビクや入門して間もないビクに向けての実践的な教え、心構えを伝えるために選ばれて、三回にわたり、説かれているように思います。
ウダーナが編集された時代は、現在より数に対する関心が非常に強い時代です、この時代に大切なことは、三回繰り返すのが定型になっています、簡単に通り過ぎる教えには、思われません。
2-2、3-3と三セットで学ぶのもよい方法です。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
なにが書いてあるか
(直訳詩)
Asippajīvī lahu atthakāmo,
技能によって生きるのでなく、軽やかで道理を欲す
Yatindriyo sabbadhi vippamutto;
機能を制し、すべての処で解脱した
Anokasārī amamo nirāso,
家なく、我執なく、欲なく、
Hitvā mānaṃ ekacaro sa bhikkhū”ti.
慢心を捨て、独り歩む、それがビク
解 説
Asippajīvī lahu atthakāmo,
技能に頼ることも、利益を考えることもない
*技術に頼ることも、利益を考えることもない。
*生きることに興味がない
Yatindriyo sabbadhi vippamutto;
色・声・香・味・触・法という対象に聖者は頼らず
*六根に依存して知識を回転することが一般人です。色・声・香・味・
触・法という対象に聖者が頼らないのです。
Anokasārī amamo nirāso,
五取蘊なく、私なく、期待なく
*Anokasārī
*okaとは家という意味ですけど、仏教では五取蘊という意味です。家
を離れて再び生まれを作らない生き方です。(まず家を捨てる。それ
から自分自身の命を捨てる。五取蘊を捨てる。この世に残るのは色
蘊・物質だけです。)
*amamo
*私、私のという概念・考えがない。
*nirāso
*期待・希望などは一切ありません。
Hitvā mānaṃ ekacaro sa bhikkhū”ti.
慢を捨て、孤独で生活する
*Hitvā mānaṃ
*慢を捨ててということで、
*慢心:他人とくらべ、思い上がり、自分を劣っていると思う心
*ekacaro
*孤独で生活する。
3.10 世とともに経(30)
このように、わたしは聞きました。
あるとき、お釈迦様は、ウルヴェーラーに住んでおられた。
ネーランジャラー川の岸辺の菩提樹の根元で最初の悟りをひらき、七日のあいだ瞑想姿で坐って解脱の安楽に浸っておられた。
お釈迦様は、七日が過ぎて心の統一から覚めて、覚者の眼でもって世間を見渡された。
お釈迦様は、覚者の眼でもって世間を見渡しつつ生命が熱苦によって熱せられているのを、無数の苦悶によって身を焼かれているのを見ました。
貪り(貪)から生じるものによっても
怒り(瞋)から生じるものによっても
迷い(痴)から生じるものによっても
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました
世間の人々は、困っている
感覚のみなのに、自ら病気だと言う
思い描き、考えても
それとは、異なったものとなる(34)
世間の人々は、変化するのに
生存を望み、生存に負け、生存を期待する
大いに喜ぶ時でも、それは恐れです
恐れが生まれる、それは苦しみです
この、生存欲を捨てるのに
清らかになる修行を実践する(35)
修行者であろうと、バラモンであろうと、誰であれ生存(有)によって実体的に生存の解放を言ったなら、彼らは、その一切が常住論者であり、迷いの生存から解放していないとわたしは説く
修行者たちであろうと、バラモンたちであろうと、誰であれ、非生存(非有)によって虚無的に生存の離脱を言ったなら、彼らは、その一切が断滅論者であり、迷いの生存から離脱していないとわたしは説く
この苦しみは、心の依り所(依存の対象)を縁として生じる。
全ての執着を滅することで、苦しみは生まれない
世間の人々を見よ、無明に打ち負かされ生まれた生命であり、生命であることを喜ぶ者であり、迷いの生存から完全に解き放たれていない
迷いの生存は、どこであれ、どのような存在でも、それらの生存は、すべて無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするのである
このように、事実の通りに
正しい智慧により、観ていると
生存欲は、捨てられる
非生存を喜ばない
渇愛を全て滅すること
貪欲を残りなく離れ滅すれば、涅槃です(36)
このように涅槃に到達したビクは
執着がないので、さらなる生存はもうない
まよいに、打ち勝ち
無数の生存を、乗り越えた(37)
以上が第十の経となる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
3.10 世とともに経(30)についてはウダーナ副読本もご覧ください
とても範囲の広い教えです。
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なにが書いてあるか
(直訳詩)
Ayaṃ loko santāpajāto,
世間の人々は、熱苦に陥り
Phassapareto rogaṃ vadati attato;
接触に打ち負かされて、自己では病だと言う
Yena yena hi maññati,
それで、思い考える
Tato taṃ hoti aññathā.
それとは、異なったものとなる
解 説
Ayaṃ loko santāpajāto
世間の人々は、困っている
*santāpa 本当にどうしよう、困ったと泣いている状態です。
*Ayaṃ loko この世の中の生命はいつでもそんな状態でいるのです。安
らぎがないのです。
Phassapareto rogaṃ vadati attato;
感覚のみなのに、自ら病気だと言う
*Phassapareto 眼耳鼻舌身にいろんな物が触れるだけですけど、足が痛
い、腰が痛い、と言う
*rogaṃ vadati attato 病気だと言っても、呼吸困難になっているとか、
あれやこれや言っているのですが、それは感覚だけなのに、身体にいろ
んな感覚が起こると、そのままそれは観ないで、これは病気だと苦し
む。
Yena yena hi maññati
思い描き、考えても
*その法則は、人はこうなって欲しい、こうなって欲しいと思う妄想で期
待する。
Tato taṃ hoti aññathā
それとは、異なったものとなる
*しかし現実的には、それと違うことが起こる
*違うことが起きると皆、病気で倒れます。自分が思ったことが起こる
と、皆、舞い上がるけど、思った通りに世の中は変化しないのです。
(直訳詩)
Aññathābhāvī bhavasatto loko,
世間の人々は、異なる存在に変化し
Bhavapareto bhavamevābhinandati;
生存に打ち負け、生存を喜ぶ
Yadabhinandati taṃ bhayaṃ,
それを喜ぶ時なら、それは恐れであり
Yassa bhāyati taṃ dukkhaṃ;
それを恐れるなら、それは苦しみである
Bhavavippahānāya kho
生存を捨てるのに
panidaṃ brahmacariyaṃ vussati’’
また、この梵行を実践する
解 説
Aññathābhāvī bhavasatto loko,
世間の人々は、変化するのに
*bhavasatto loko lokoは人々、人々は存在に執着している。生きること
に。
*しかし、Aññathābhāvī それが変化する。あなたの期待どおりに
い。生きて行きたいと思っても死ぬのです。毎秒、毎秒、年を取ってい
る。身体が壊れて行く。
*だから、bhavasatto 存在欲がある、生きて行きたいということに執着
している生命は、現実的にはものごとは変化して行くということが分か
らない。そこで必死になるのです。
Bhavapareto bhavamevābhinandati;
生存を望み、生存に負け、生存を期待する
*Bhavapareto こんなことは嫌、生きて行きたい、生きて行きたいと、
そういう意味です。
*そこで人々はbhavamevābhinandati; 存在ばかりまた期待する。
Yadabhinandati taṃ bhayaṃ
大いに喜ぶ時でも、それは恐れです
*病気になれば怖い、何で怖いと思ったか、生きて行きたいからです、生
きて行きたいと、さらに強く生きる意欲を作る。そして、病気にならな
いように、長生きできるようにと考える。だから、恐怖を作ったのは存
在です。そこで存在を期待して、さらに恐怖を作る。
Yassa bhāyati taṃ dukkhaṃ
恐れが生まれる、それは苦しみです
*恐怖が生まれることは苦しみだと理解しましょう。
Bhavavippahānāya
この、生存欲を捨てるのに
*この存在自体を、存在欲を無くせばいいのです。
*身体はどうしても壊れる。それは法則であって、壊れて欲しくないとい
う気持ちを無くそう。
panidaṃ brahmacariyaṃ vussa
清らかになる修行を実践する
*そのためにbrahmacariyaṃは、仏道の修行はそのため実践するのだと。
ある存在に達して、存在の苦を無くすと説く、これは常住諭とよばれ、いまの存在が苦なのだから、別な存在になればよい、例えば天国へ行けばすべて幸せとか、ブラフマンと一体となれば悟りというような考え。もう一つは、非存在に達して、存在の苦が無くなると行者が説く、これは死ねば終わりというような考えです。
両者とも「執着」を捨てないので、解脱に達しないとお釈迦様は説く。
どのような存在であっても、全て無常・苦・無我ということです
(直訳詩)
Evametaṃ yathābhūtaṃ,
このように、このことを
sammappaññāya passato;
正しい智慧により、感じていると
Bhavataṇhā pahīyati,
生存欲は、捨てられる
vibhavaṃ nābhinandati.
非生存を喜ぶことはない
‘‘Sabbaso taṇhānaṃ khayā,
すべての渇愛を滅し
Asesavirāganirodho nibbānaṃ
残りなく離欲と滅尽があり、涅槃がある
解 説
Evametaṃ yathābhūtaṃ,
このように、事実の通りに
sammappaññāya passato;
正しい智慧により、観ていると
*苦・無常・無我であると、ありのままに知ること
Bhavataṇhā pahīyati,
生存欲は、捨てられる
vibhavaṃ nābhinandati
非生存を喜ばない
*存在欲を期待しないだけではなくて、非存在欲、いわゆる壊滅主義にも
執着しない。
存在も非存在も、どちらにも執着しない。
*これはとてもロジカルなポイントです、人間というのはイエス・ノーで
理解する。存在って大変だと言ったら、ならば、非存在しましょう。苦
味はちょっと苦手だといったら、砂糖を入れてくださいと。それだけで
解決だと思っているのです。
だから、人間の中で存在に対して概念が生まれると、この反対の言葉
が、非存在というものは当然、現れます。いつでもコインの裏と表で
す。
*善・悪は。同じことです。コインの裏と表です。善があると想うと悪も
ある。悪があると思うと善もある。
*捨てるなら、両方を捨てなくちゃいけないのです。どちらか一個(一
方)だけは取れません。だから存在欲を捨てるならば、非存在欲も捨て
なくちゃいけないのです。
Sabbaso taṇhānaṃ khayā
渇愛を全て滅すること
*完全に渇愛をなくす、渇愛というのは執着ことです。イエスにもノーに
も執着しない、善でも悪でも執着しない。
Asesavirāganirodho nibbānaṃ
貪欲を残りなく離れ滅すれば、涅槃です
*そこで渇愛がAsesavirāganirodha 渇愛は残りなく無くなったら、
*それをnibbānaṃ 涅槃と言うのです
(直訳詩)
Tassa nibbutassa bhikkhuno,
そのビクは涅槃に到達した
Anupādā punabbhavo na hoti;
さらなる生存はなく、存在しない
Abhibhūto māro vijitasaṅgāmo,
まよいは制圧され、戦は制圧され
Upaccagā sabbabhavāni tādī’’ti.
すべてと生存は、過ぎ去った
解 説
Tassa nibbutassa bhikkhuno,
このように涅槃に到達したビクは
Anupādā punabbhavo na hoti;
執着がないので、さらなる生存はもうない
*Anupādā 執着はない
*punabbhavo 再び生まれることは無い
Abhibhūto māro vijitasaṅgāmo,
まよいに、打ち勝ち
*māra この場合のマーラというのは、輪廻転生の流れです
*vijitasaṅgāmo 戦いに勝ちましたよ
Upaccagā sabbabhavāni tādī
無数の生存を、乗り越えた
*Upaccagā sabbabhavāni 全ての存在を乗り越えました
*tādī 安穏に達した
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ウダーナ副読本
ウダーナ(自説経)3・10 世とともに経の解説に代えて
この副読本は、お釈迦様の時代のバラモンに説いた教えを取り上げています、バラモンとは当時の知識階級であり、バラモンの経典とも言うべきヴェーダやウパニシャットを学んできた人々です、お釈迦様は、ヴェーダやウパニシャットにそれとなく触れながら、正面から否定することなく説法されます。最古の仏伝と言われる律蔵にある大品によると。この世とともに経に出てくる教えは、サーリプッタ尊者という智慧第一と伝えられ、お釈迦様に代わり説法も行い、その教えを詳細に他のお弟子さん達に説いた方が、お弟子さんになる前の説法です。お釈迦さまの説法の解説者がまだいない時期の説法で、しかも説法の相手は、お釈迦様の教えを詳しくは知らないバラモンで自分達が学んできたヴェーダやウパニシャットと照らし合わせながら理解しています。解説者つきで、教えの大切なことだけを話し、細かいことは解説者に聞くようにという説法とは違い、教えの中身は同じでも伝え方は、ことなります。解りやすく伝えるにはヴェーダやウパニシャットではこうだが、正しくはこうだという伝え方になります。しかし、お釈迦様は、正面から断罪したり否定するようなことはしません。このような、お釈迦様の説法を理解し、バラモンと同じ視点で、お釈迦様の説法が理解出来たらと思いこの副読本を作成しました。
世とともに経というのは、お釈迦様の第一の説法とされる転法輪転教、第二の説法とされる無我相経、第三の説法とされる燃焼経、十二縁起の教えをまとめたウダーナの第1~3経のエッセンスを取り出して一つの経典にしたような内容です。
最初に、世とともに経の原言であるパーリ語と日本語訳、その後に解説という構成です。
世とともに経の理解のために燃焼経、転法輪転教、無我相経を、それぞれに、原言であるパーリ語と日本語訳、その後に解説を記載して、さらにテーマを選んで解説して、世の教にも記載されている十二縁起を解説してウダーナ 1菩提の章 第一の菩提の経~第三の菩提の経のパーリ語と日本語訳を記載しました。
Lokasutta 世とともに経
Evaṃ me sutaṃ—
このように、わたしは聞きました。
ekaṃ samayaṃ bhagavā uruvelāyaṃ viharati najjā nerañjarāya tīre bodhirukkhamūle paṭhamābhisambuddho.
あるとき、お釈迦様は、ウルヴェーラーに住んでおられた。ネーランジャラー川の岸辺の菩提樹の根元で最初の悟りをひらき、
Tena kho pana samayena bhagavā sattāhaṃ ekapallaṅkena nisinno hoti vimuttisukhapaṭisaṃvedī.
七日のあいだ瞑想姿で坐って解脱の安楽に浸っておられた。
Atha kho bhagavā tassa sattāhassa accayena tamhā samādhimhā vuṭṭhahitvā buddhacakkhunā
お釈迦様は、七日が過ぎて心の統一から覚めて、覚者の眼でもって
lokaṃ volokesi.
世間を見渡された。
Addasā kho bhagavā buddhacakkhunā volokento satte anekehi santāpehi santappamāne, anekehi ca pariḷāhehi pariḍayhamāne—
お釈迦様は、覚者の眼でもって世間を見渡しつつ生命が熱苦によって熱せられているのを、無数の苦悶によって身を焼かれているのを見ました。
rāgajehipi, dosajehipi, mohajehipi.
貪り(貪)から生じるものによっても、怒り(瞋)から生じるものによっても
迷い(痴)から生じるものによっても
Atha kho bhagavā etamatthaṃ viditvā tāyaṃ velāyaṃ imaṃ udānaṃ udānesi—
お釈迦様は、このことを知って、ウダーナを唱えました。
Ayaṃ loko santāpajāto,/ Phassapareto rogaṃ vadati attato;
世間の人々は、いつでも困っている/ 感覚のみなのに、自分は病気だという
Yena yena hi maññati,/ Tato taṃ hoti aññathā.
思い描き、考えても/ 現実には思い通りとはならない
Aññathābhāvī bhavasatto loko,/ Bhavapareto bhavamevābhinandati;
世間の人々は、変化するのに,/ 生存を望み、生存に負け、生存を期待する
Yadabhinandati taṃ bhayaṃ,/ Yassa bhāyati taṃ dukkhaṃ;
大いに喜ぶ時でも、それは恐れである/ 恐れが生まれる、それは苦しみである
Bhavavippahānāya kho / panidaṃ brahmacariyaṃ vussati’’
この生存欲を捨てるのに /清らかになる修行を実践する
‘Ye hi keci samaṇā vā brāhmaṇā vā bhavena bhavassa vippamokkhamāhaṃsu,
修行者たちであろうと、バラモンたちであろうと、誰であれ生存(有:実体)によって実体的に生存の解放を言ったなら、
sabbe te avippamuttā bhavasmā’ti vadāmi.
『彼らは、その一切が常住論者であり、迷いの生存から解放していない』とわたしは説く
‘Ye vā pana keci samaṇā vā brāhmaṇā vā vibhavena bhavassa nissaraṇamāhaṃsu,
修行者たちであろうと、バラモンたちであろうと、誰であれ、非生存(非有:虚無)によって虚無的に生存の離脱を言ったなら、
sabbe te anissaṭā bhavasmā’ti vadāmi.
『彼らは、その一切が断滅論者であり、迷いの生存から離脱していない』とわたしは説く
Upadhiñhi paṭicca dukkhamidaṃ sambhoti,
この苦しみは、心の依り所を縁として生じる。
sabbupādānakkhayā natthi dukkhassa sambhavo.
全ての執着を滅することで、苦しみは生まれない
Lokamimaṃ passa; puthū avijjāya paretā bhūtā bhūtaratā aparimuttā; ye hi keci bhavā sabbadhi sabbatthatāya
世間の人々を見よ、無明に打ち負かされ生まれた生命であり、生命であることを喜ぶ者であり、迷いの生存から完全に解き放たれていない、迷いの生存は、どこであれ、どのような存在でも、
sabbe te bhavā aniccā dukkhā vipariṇāmadhammāti.
『それらの生存は、すべて無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするのである』
Evametaṃ yathābhūtaṃ, / sammappaññāya passato;
このように、事実の通りに/ 正しい知慧により、観ていると
Bhavataṇhā pahīyati, / vibhavaṃ nābhinandati.
生存欲は捨てられる / 非生存を喜ばない
‘‘Sabbaso taṇhānaṃ khayā,/ Asesavirāganirodho nibbānaṃ
渇愛を、全て滅すること/ 貪欲を残りなく離れ滅すれば、涅槃がある
Tassa nibbutassa bhikkhuno,/ Anupādā punabbhavo na hoti;
このように涅槃に到達したビクは、/執着がないので、さらな生存はもうない
Abhibhūto māro vijitasaṅgāmo,/ Upaccagā sabbabhavāni tādī’’ti.
まよいに、打ち勝ち / 無数の生存を、乗り越えた
世とともに教の説明
それぞれのパートごとの簡単な説明
初めにどこで、どのように説かれたかの文は省略して、最初のパートの説明
お釈迦様は、覚者の眼でもって世間を見渡しつつ生命が熱苦によって熱せられているのを、無数の苦悶によって身を焼かれているのを見ました。 貪り(貪)から生じるものによっても、怒り(瞋)から生じるものによっても 迷い(痴)から生じるものによっても
(ウダーナ 世とともに教)
熱せられている(santappamāne)とは、燃えている(ādittaṃ)と同義語です、そして、貪り(貪)、怒り(瞋)、迷い(痴)によってとあります、これは燃焼経(Ādittasuttaṃ)
の要約です。
燃焼経の「燃えている」というのはお釈迦様の教えで最も重要な喩(たとえ)で、「無常・苦・無我」「五取蘊・六処・十二処・十八界」の教えを、「すべては燃えている」と喩えて、十八界という、ものの見方で、観察するのが悟りへの道と説いています。
教えの内容については、燃焼経の説明をご覧ください
ここからは二つの詩の説明です、それぞれ世とともに経の詩、転法輪転教の四聖諦を語った部分、次にそれぞれの説明を記載しています、見比べてみれば、世とともに経の詩が言葉を変えて四聖諦を表しているのがお解りだと思います。
ウダーナ・世とともに経 一つ目の詩
世間の人々は、困っている / 接触(感覚)だけなのに、自ら病気だという
思い描き、考えても / 現実には思い通りとはならない
(転法輪転教)
ところで托鉢僧達よ、これが苦という真実(苦聖諦)である
生まれるも苦(生苦)。老いも苦(老苦)。病も苦(病苦)。死も苦(死苦)。
焼かれるような悲しみ、悲嘆、もろもろの苦しみ、憂惨、苛立ちも苦しい。
好まざるものとの出会いは苫しい(怨憎会苦)。好ましいものとの離別は苦しい(愛別離苦)。望んでも手に入らないことも苦しい(求不得苦)。要するに、五蘊に執着することも苦しい(五取蘊苦)
解りにくいのでウダーナ・世とともに経の順番を変えます
(ウダーナ・世とともに経の要約)
世間の人々は、困っていて、自ら病気だという
思い描き、考えても、接触(感覚)だけなのに、
現実には思い通りとはならのに
(転法輪転教の要約)
この世間では生きることは苦であり、病だという
体は変化して老いても・死なないと思うこと、
要するに、五蘊に執着することが苦
苦しみというのは、現実には思い通りとはならないということ
ウダーナ・世とともに経 二つ目の詩
世間の人々は、変化するのに, / 生存を望み、生存に負け、生存
を期待する
大いに喜ぶ時でも、それは恐れである / 恐れが生まれる、それは苦しみ
である
この生存欲を捨てるのに / 清らかになる修行を実践する
(転法輪転教)
ところでビク達よ、これが苦しみの出現という真実(集聖諦)である。
それは、渇愛と再生をもたらしあれこれの歓喜を求める渇望である。それはすなわち
欲望への渇愛・生存への渇愛・非存在への渇愛ある。
(ウダーナ・世とともに経と転法輪転教の要約)
苦しみが生じるのは、生存への欲望(生存への渇愛)(bhavasatto)が原因で
喜び(歓喜)を感じ求めているが、世の中は変化している
喜びは恐れである、それは変化せず永遠に生きていたいから
欲望への欲(kāmataṇhā)をつくる、そして恐れをつくるのは生存への欲(bhavataṇhā)で、恐れを捨てるには、この存在自体(vibhavataṇhā.)を捨てればいいとなる
しかし、本当の意味で捨てるには修行すること。
修行者たちであろうと、バラモンたちであろうと、誰であれ生存(有:実体)によって実体的に生存の解放を言ったなら、
『彼らは、その一切が常住論者であり、迷いの生存から放していない』とわたしは説く
修行者たちであろうと、バラモンたちであろうと、誰であれ、非生存(非有:虚無)によって虚無的に生存の離脱を言ったなら、
『彼らは、その一切が断滅論者であり、迷いの生存から離脱していない』とわたしは説く
(ウダーナ 世とともに教)
上記の文は、転法輪転教の中道の説明にあたり、同時に八聖道の説明にあたります、インドは論議好きのお国柄で、お釈迦様の時代のインドでは、魂は永久不滅である(常住諭)、死ねば全て無くなる(断滅諭)、という二つの極端な教えがあり、その両方も煩悩(迷いの生存から)から離れていない、つまり悟っていないと説いています、お釈迦様の教えは、どちらの極端でもなく中道です。
内容については無我の説明も参考にしてください。
この苦しみは、心の依り所(Upadhiñhi)を縁として生じる。
全ての執着を滅することで、苦しみは生まれない
(ウダーナ 世とともに教)
心の依り所(Upadhiñhi)は渇愛・執着と同義語です。
十二縁起とは生物が生きていく過程では無数の縁起がありますが、その生物(人)が生きていく過程(プロセス)を、お釈迦様がポイントになる十二支を選んで説明しています、その最大のポイントは、苦しみが生じるのは執着が原因、執着を滅すれば苦しみは生まれないです。つまり上記の文は十二縁起の核心部分を語っています。一行目は十二縁起の順観、二行目は逆観を語っています。
世間の人々を見よ、無明に打ち負かされ生まれた生命であり、生命であることを喜ぶ者であり、迷いの生存から完全に解き放たれていない、迷いの生存は、どこであれ、どのような存在でも、
(ウダーナ 世とともに教)
世間の人々は、無明に捉われいる。
執着の原因は十二縁起でたどっていけば、無明です。人は迷いの生存であり、とつづきます
sabbe te bhavā aniccā dukkhā vipariṇāmadhammāti.
『それらの生存は、すべて無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするのである』
上記の文は無我相経(Anattalakkhaṇasuttaṃ)からのものです。
変化を法とする(vipariṇāmadhammāt)とは無常と同義語であり、無我と同義語です。
この文は、「無常・苦・無我」という仏教の三法印と呼ばれる仏教の教えそのものです。
下記の文は転法輪転教でコンダンニヤ尊者が四聖諦を理解した時の言葉です
Yaṁ kiñci samudayadhammaṁ, sabban-taṁ nirodhadhamman-ti.
「生じる性質をもつものはいずれも皆、滅する性質をもつのだ」と。
二つの文は同じ意味です、無我相経は、転法輪転教を、お釈迦様がさらに詳しく五人のビクに説いた教えで、五人の比丘が理解した内容が上記の文です、つまり、お釈迦様の教えの核心部分です。コンダンニャ尊者が理解したのと同じ意味の言です。
ここから二つの詩により涅槃がかたられます
ウダーナ・世とともに経 三つ目の詩
このように、事実の通りに / 正しい知慧により、観ていると
生存欲は捨てられる / 非生存を喜ばない
渇愛を、全て滅すること / 貪欲を残りなく離れ滅すれば、涅槃がある
(転法輪転教)
ところでビク達よ、これが苦しみの滅という真実(滅聖諦)である。
それは渇愛を離れることによって、その渇望を完全に滅すること、捨てること、放棄すること、解き放たれること、依存しないことである。
(ウダーナ・世とともに経と転法輪転教の要約)
苦しみが滅するというのは、智慧により正しくものごとを見て
生存欲を捨て、非生存欲を喜ばない
全ての渇愛を滅すること
貪りを離れ、止滅することが涅槃である
ウダーナ・世とともに経 四つ目の詩
このように涅槃に到達したビクは、/ 執着がないので、さらな生存はもうな
い
まよいに、打ち勝ち / 無数の生存を、乗り越えた
(転法輪転教)
ところでビク達よ、これか苦しみの滅へと導く道という真実(道聖諦)である。
それは八つの支分からなる聖なる道である。それはすなわち、
正しい見解(正見)、正しい意図(正思)、正しい言葉(正語)、正しい行為(正業)、
正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい思念(正念)、正しい精神集中(正定)である
苦しみが滅した人とは、このような人であるとお釈迦様はかたっています、転法輪転教では道を歩んできた人に、具体的に正しい道をかたっていますが、これから歩みはじめる人に、歩み終えた人をかたることで、道を指し示しています。
ここでは内容の説明は他に譲り、どの経典の教えかの対応関係を記載しました。
五取蘊をキーワードとして学ぶ例
生命が熱苦によって熱せられている(satte anekehi santāpehi santappamāne, )
すべては燃えている(ādittaṃ. Kiñca)(燃焼経より)
この二つの文は同じことを指している。
五取蘊(S.pañcopādānaskaandha, P.pañcopādānakkhandha)とは五つの執着の蘊(kkhandha)集まり、という意味で、五蘊とは人を含む「生命」(名色)を指し、五つの枝という意味もあり、執着(upādāna)は燃料という意味もある、つまり、「五つの執着の集まり」と「五つの薪(燃料)の集まり」という二重の意味があり、同時に十二縁起では「苦の集まり」を、四聖諦では苦そのものを意味する「五つの執着の集まり」を指している(無我について参照)
燃焼経は、薪(燃料)が燃えている、という喩で生命が熱苦によって熱せられていること、これは、六処という場所で接触(触)して感覚(受)を生じて渇愛を生じて執着が生じる、この説明が十八界で、燃えているとは生きている生命であるということで、生命とは有(存在)である、この生命は、行(業)が形作り、識(心・意識)があり、名色(体と心)が生じ、存在し、生(生)まれる、そして熱苦(santāpehi)、これは苦、貪瞋痴と同義語で。苦によって熱せられているという意味となる。生きるとは苦であると言い換えても同じ意味です。
燃焼経の後に転法輪転経から四聖諦の苦諦と集諦のことがかたられます
つづいて、転法輪転経の中道の内容が、かたられます、この時期の世間の状態が反映され、極端に陥るな、悟りに関係のない議論はするなという、実践的な戒めも含まれています。
つづいて、縁起の教えが語られる、苦しみが生じるのは執着が原因(順観)、執着を滅すれば苦しみは生まれないという教え(逆観)で、苦しみとは五取蘊が執着(燃料)により生きる(燃える)ことで、苦しみを滅するとは五取蘊の執着(燃料)が滅すること、とかたりた
つづいて、無我相経から、五取蘊という、「生きている五つの執着の集まり」「五つの薪(燃料)の集まり」を観察すれば、絶えず変化して、それは無常であり、それは苦(永遠の神の世界でなく、人の生きる世だから不完全・不満足)つまり、無常・苦・無我だと悟る、これは四聖諦の悟りと同じことです。
最後に転法輪転経から四聖諦の滅諦と道諦のことが語られます、これは苦諦で語られた「五つの執着の集まり」が滅すことと、その道を語り終わります。
ウダーナ・世とともに経の順番通りに燃焼経から記載します、このお経は、お釈迦様三番目の説法とされていますが、最初と二番目の説法は見知り知った人たちに向かっての説法でしたので、この燃焼経は公のデビュー説法とも言える経典です、現在では残念なことに、一見繰り返しが多いので省略されてテキストに記載されることが殆どですが、けして省略する経典ではないです、詳しくは解説を読んで頂くとして、お釈迦様の最も重要な喩えである、燃えている、後の時代に十八界と言われる、お釈迦様が名立たるお弟子さん達に向けて説かれた最重要の教えが初めて公にされた、このお釈迦様の言葉をフルバージュンで味わってください。
dittasuttaṃ 燃焼経
Ekaṃ samayaṃ bhagavā gayāyaṃ gayāsīsesaddhiṃ bhikkhusahassena.
あるとき、幸あるお方は、ガヤーのガヤシーサ山(象頭山)の精舎に、千人のビクの大きな集まりと共に住んだ。
Tatra kho bhagavā bhikkhū āmantesi–
ときに、幸あるお方は、ビクたちに呼びかけられた。
“sabbaṃ, bhikkhave, ādittaṃ. Kiñca, bhikkhave, sabbaṃ ādittaṃ?
「ビク達よ、すべては燃えている。また、ビク達よ、すべては燃えているというのはどういうことか。
Cakkhu, bhikkhave, ādittaṃ, rūpā ādittā, cakkhuviññāṇaṃ ādittaṃ,
眼は, ビクたちよ、燃えている。色かたちは燃えている。眼による認識は燃えている。
cakkhusamphasso āditto.
眼の接触は燃えている。
Yampidaṃ cakkhusamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā tampi ādittaṃ.
眼の接触に縁って生ずるものは、楽であれ、苦であれ、楽でも苦でもないものであれ燃えている。
Kena ādittaṃ? ‘Rāgagginā, dosagginā, mohagginā ādittaṃ, jātiyā jarāya maraṇena sokehi paridevehi dukkhehi domanassehi upāyāsehi ādittan’ti vadāmi
何によって燃えているのであろうか。貪り(貪)の火によって、怒り(瞋)の火によって、迷い(痴)の火によって燃えている。誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えによって燃えているのだ、と私は説く。
Sotaṃ ādittaṃ, saddā ādittā, sotaviññāṇaṃ ādittaṃ,
耳は燃えている、音声は燃えている、耳による認識は燃えている。
sotasamphasso āditto,
耳の接触は燃えている。
Yampidaṃ sotasamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā tampi ādittaṃ.
耳の接触に縁って生ずるものは、楽であれ、苦であれ、楽でも苦でもないものであれ燃えている。
Kena ādittaṃ: ādittaṃ rāgagginā dosagginā mohagginā, ādittaṃ jātiyā jarāmaraṇena, sokehi paridevehi dukkhehi domanassehi upāyāsehi ādittanti vadāmi.
何によって燃えているのであろうか。貪り(貪)の火によって、怒り(瞋)の火によって、迷い(痴)の火によって燃えている。誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えによって燃えているのだ、と私は説く。
Ghānaṃ ādittaṃ, gandhā ādittā, ghānaviññāṇaṃ ādittaṃ,
鼻は燃えている、香りは燃えている、鼻による認識は燃えている。
ghānasamphasso āditto,
鼻の接触は燃えている。
Yampidaṃ ghānasamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ sukhaṃ vā dukkhaṃ vā
adukkhamasukhaṃ vā tampi ādittaṃ,
鼻の接触に縁って生ずるものは、楽であれ、苦であれ、楽でも苦でもないものであれ燃えている。
Kena ādittaṃ: ādittaṃ rāgagginā dosagginā mohagginā, ādittaṃ jātiyā jarāmaraṇena, sokehi paridevehi dukkhehi domanassehi upāyāsehi ādittanti vadāmi.
何によって燃えているのであろうか。貪り(貪)の火によって、怒り(瞋)の火によって、迷い(痴)の火によって燃えている。誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えによって燃えているのだ、と私は説く。
Jivhā ādittā, rasā ādittā, jivhāviññāṇaṃ ādittaṃ,
舌は燃えている、味は燃えている、舌による認識は燃えている。
jivhāsamphasso āditto,
舌の接触は燃えている。
Yampidaṃ jivhāsamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā tampi ādittaṃ,
舌の接触に縁って生ずるものは、楽であれ、苦であれ、楽でも苦でもないものであれ燃えている。
Kena ādittaṃ: ādittaṃ rāgagginā dosagginā mohagginā, ādittaṃ jātiyā jarāmaraṇena, sokehi paridevehi dukkhehi domanassehi upāyāsehi ādittanti vadāmi.
何によって燃えているのであろうか。貪り(貪)の火によって、怒り(瞋)の火によって、迷い(痴)の火によって燃えている。誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えによって燃えているのだ、と私は説く。
Kāyo āditto, phoṭṭhabbā ādittā, kāyaviññāṇaṃ ādittaṃ,
身体(皮膚)は燃えている、触れられるものは燃えている、身体(皮膚)による認識は燃えている。
kāyasamphasso āditto,
身体(皮膚)の接触は燃えている。
Yampidaṃ kāyasamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā tampi ādittaṃ,
身体(皮膚)の接触に縁って生ずるものは、楽であれ、苦であれ、楽でも苦でもないものであれ燃えている。
Kena ādittaṃ: ādittaṃ rāgagginā dosagginā mohagginā, ādittaṃ jātiyā jarāmaraṇena, sokehi paridevehi dukkhehi domanassehi upāyāsehi ādittanti vadāmi.
何によって燃えているのであろうか。貪り(貪)の火によって、怒り(瞋)の火によって、迷い(痴)の火によって燃えている。誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えによって燃えているのだ、と私は説く。
Mano āditto, dhammā ādittā, manoviññāṇaṃ ādittaṃ,
意(思考器官)は燃えている 法(思考の対象)は燃えている 意による認識は燃えている
manosamphasso āditto,
意(思考器官)の接触は燃えている。
Yampidaṃ manosamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā tampi ādittaṃ,
意の接触に縁って生ずるものは、楽であれ、苦であれ、楽でも苦でもないものであれ燃えている。
Kena ādittaṃ: ādittaṃ rāgagginā dosagginā mohagginā, ādittaṃ jātiyā jarāmaraṇena, sokehi paridevehi dukkhehi domanassehi upāyāsehi ādittanti vadāmi.
何によって燃えているのであろうか。貪り(貪)の火によって、怒り(瞋)の火によって、迷い(痴)の火によって燃えている。誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えによって燃えているのだ、と私は説く。
Evaṃ passaṃ, bhikkhave, sutavā ariyasāvako
ビク達よ、このように考察して、多くを聞いた聖なる弟子は、
Cakkhusmimpi nibbindati rūpesupi nibbindati cakkhuviññāṇepi nibbindati
眼をも厭い、 色かたちをも厭い、 眼による認識をも厭い、
cakkhusamphassepi nibbindat
眼の接触をも厭い
Yampidaṃ cakkhusamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ
眼の接触に縁って生じる感受、
– sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā– tasmimpi nibbindati
それが楽であれ、苦であれ、苦でもなく楽でもないものであれ、それをも厭う
Sotasmimpi nibbindati, rūpesupi nibbindati, sotaviññāṇepi nibbindati
耳をも厭い、 音声も厭い、 耳による認識をも厭い、
sotasamphassepi nibbindat
耳の接触をも厭い
Yampidaṃ sotasamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ
耳の接触に縁って生じる感受、
– sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā– tasmimpi nibbindati
それが楽であれ、苦であれ、苦でもなく楽でもないものであれ、それをも厭う、
Ghānasmimpi nibbindati gandhesupi nibbindati ghānaviññāṇepi nibbindati
鼻をも厭い、 香も厭い、 鼻による認識をも厭い
ghānasamphassepi nibbindat
鼻の接触をも厭い
Yampidaṃ ghānasamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ
耳の接触に縁って生じる感受、
– sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā– tasmimpi nibbindati
それが楽であれ、苦であれ、苦でもなく楽でもないものであれ、それをも厭う、
Jivhāyapi nibbindati rasesupi nibbindati jivhāviññāṇepi nibbindati
舌をも厭い、 味をも厭い、 舌による認識をも厭い
jivhāsamphassepi nibbindat
舌の接触をも厭い
Yampidaṃ jivhāsamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ
舌の接触に縁って生じる感受、
– sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā– tasmimpi nibbindati
それが楽であれ、苦であれ、苦でもなく楽でもないものであれ、それをも厭う、
Kāyasmimpi nibbindati phoṭṭhabbesupi nibbindati kāyaviññāṇepi nibbindati
身体(皮膚)をも厭い、 触れられるものも厭い、 身体(皮膚)による認識をも厭い
kāyasamphassepi nibbindat
身体(皮膚)の接触をも厭い
Yampidaṃ kāyasamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ
身体(皮膚)の接触に縁って生じる感受、
– sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā– tasmimpi nibbindati
それが楽であれ、苦であれ、苦でもなく楽でもないものであれ、それをも厭う、
Manasmimpi nibbindati dhammesupi nibbindati manoviññāṇepi nibbindati
意(思考器官)をも厭い 法(思考の対象 意(思考器官)による認識をも厭い
manosamphassepi nibbindat
意(思考器官)の接触をも厭い
Yampidaṃ manosamphassapaccayā uppajjati vedayitaṃ
意(思考器官)の接触に縁って生じる感受、
– sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā – tasmimpi nibbindati
それが楽であれ、苦であれ、苦でもなく楽でもないものであれ、それをも厭う、
Nibbindaṃ virajjati virāgā vimuccati
厭えば貪欲から離れる、貪欲から離れれば、
Vimuttasmiṃ vimuttamiti ñāṇaṃ hoti.
解脱すれば、解脱した、という智慧が生じる
‘Khīṇā jāti, vusitaṃ brahmacariyaṃ,
生まれることは滅尽した。修業は完成した。
kataṃ karaṇīyaṃ, nāparaṃ itthattāyā’
なすべきことはなした、もはや生まれることはない
ti pajānātī’’ti.
と知るのである」と。
Idamavoca bhagavā. Attamanā te bhikkhū bhagavato
幸あるお方がこれを説かれると、心に適った比丘たちは、
bhāsitaṃ abhinanduṃ.
幸ある方の教説を喜んで受け入れました。
Imasmiñca pana veyyākaraṇasmiṃ bhaññamāne
そして、この教説が説かれているうちに、
tassa bhikkhusahassassa anupādāya
千人の比丘たちは心に執着がなくなり
āsavehi cittāni vimucciṃsūti.
根源的な欲より解脱した。
燃焼経の解説
このお経は当時のバラモンという宗教的指導者の人々に向かって説かれた教えです、バラモンの家では、親元を離れ師匠のもとで宗教的な教えを学びます、その入門する時に薪を持参して弟子入りします、現代の密教での護摩炊きを思い浮かべてください、規模は色々ですが護摩炊きと似たような儀式を行うのがバラモンの日常でした。この人々が、お釈迦様が燃焼経を説く相手ですから、火と薪はセットというのは常識です。
燃えているというのは、熱がある、生きている存在していることの例えです。
薪は物質(身体・対象)、炎は心の例えです、体があり心がその体が燃える(熱がある)ように生きているという例えです
ビク達よ、すべては燃えている。また、ビク達よ、すべては燃えているというのはどういうことか。
心と身体で出来ている人間(生物)が熱を発している、つまり生きていることの例えです。すべてとは、眼・耳・鼻・舌・身・意と、色・声・香・味・触・法のことです。前の 6 つは感覚器官で、後半の 6 つは対象、感覚器官に入る対象です。 つまり、生きているということのすべてです。
火をよく観察してください、絶えず変化しています、一瞬たりとも同じ姿をしていません、薪も絶えず火がある時は同じように変化します、無常の例えです。
薪は燃えて小さくなります、焼かれています、火も薪が焼かれればその寿命は短くなりますが、これを止めることは出来ません、これが苦の例えです。永遠に燃え尽きない薪や火は、永遠の楽園や苦の反対です。
一つの薪に一つの火が燃えている、火は常に薪について条件によって因果律によって燃えています。バラモンの当時の常識(ヴェーダ文献)では、火(熱)は生命であり、生命は欲動的なきっかけで始まり意識が宿るとされている、意識とは善悪の行為の結果を経験し感覚をもつ輪廻する魂ないし本質であり身体から身体へ乗り移ることが出来る永久不滅の物のような存在(アートマン)に内在し究極的にはブラフマン(宇宙の原理)と同一であるとされていました。意識とは絶えず変化し、なにかについて燃える火のようなものだとするお釈迦様の教えとは、反対の教えです、これが無我の例えです。
眼は, ビクたちよ、燃えている。色かたちは燃えている。眼による認識は燃えている。
眼の接触は燃えている。
眼の接触に縁って生ずるものは、楽であれ、苦であれ、楽でも苦でもないものであれ燃えている。
眼と色かたちが接触して同時に認識が生じます。
この一連の流れを感じる(知覚)といいます、この感じるときに自己は感じられるでしょうか?お釈迦様の時代には私(アートマン)があるから感じることが出来ると説かれていたのをお釈迦様は下記ように説きます
眼の接触に縁って生ずるものは楽・苦・楽でも苦でもないものである
接触を原因として楽・苦・楽でも苦でもないもの(受)が生じる、これが縁起の教えです、生きているというのは、条件によって薪が燃えているようなものだという例えです。このようなことを、ありのまま理解すれば、不変の私(アートマン)は経験的に知りえないものであるという教えです。
何によって燃えているのか、貪りの火によって、怒りの火によって、迷いの火によって燃えている。
貪り・怒り・迷い(貪・瞋・痴)により心は燃えているという意味と、お釈迦様の時代のバラモンは三つ一組の火を日々灯し続けるのが務めでした、火は家庭人としての生活を象徴しています。東の火は両親、西の火は家族と使用人、南の火は供物を受け取るのに値する聖人を表します。お釈迦様は別の経典では、太ったバラモンに、家長は献火を守るべきだと語っています。全ての人々を養い生活するという意味です。
燃えているという例えは、バラモンの生活をすべて否定しているのではありません、時代が下ると、貪・瞋・痴は三毒とされて否定的な意味だけが伝わりますが、お釈迦様に出合う前にバラモンとして生活していた人々への説法です、冷たい理論理屈だけの説法ではないということは心にとめておくべきです。
誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えによって燃えている
一般的な苦しみと考えていいと思います
眼・耳・鼻・舌・身・意というそれぞれの場所で燃えている、生きているとはこういうことだという教えです
このように考察して、多くを聞いた聖なる弟子は、眼をも厭い、色かたちをも厭い、眼による認識をも厭い、眼の接触をも厭い、眼の接触に縁って生じる感受、それが楽であれ、苦であれ、苦でもなく楽でもないものであれ、それをも厭う
智慧が現れて解脱に達します 、ということです
厭えば貪欲から離れる、貪欲から離れれば、解脱する。解脱すれば、『私は解脱した』という智慧が生じ『生まれることは滅尽した、清浄な行いはすでに終了した、なすべきことはなし終えた、さらにこの輪廻の生存は受けることはない』と明らかに知るのです」
解脱したとき、『解脱した』という智慧が起こります。
解脱を表す涅槃という言葉は、火を吹き消すという意味です、薪を燃やしている火の原因である貪り・怒り・迷いを吹き消すのが悟りという喩です
燃料がなくなればやがて火は自然に消えます、この例えは貪・瞋・痴という燃料を投げ入れなければ火は自然に消えるという喩です、そして火が燃えるのは自然現象ですが燃料(執着)を加えるのは人間です、火をなくしてしまうのが悟りではなく、燃料を加えないで自然に消えるのが悟りだという教えです
もう少し詳しく解説します
このお経はカッサバ三兄弟と、その他お弟子さんというバラモンにむけて説かれた教えです、最初にも書いていますが、お釈迦様の時代のバラモンは、火を起こす儀式を行うのが日常であり努めでした、マッチなどない時代に火を起こすというのは(火の神をむかえる)のは大変な手間のかかることであり神聖な行為でした、火にバラモンの人々が深い意味を込めて考え語っていたのは容易に想像が出来ると思います、このバラモンの人々に向けての説法であり、お釈迦様はバラモンの教えを熟知した上での説法ということを前提に経典を読んでください
燃えているについて
当時のバラモンは意識とは、欲(kāma)から生じ、欲動的であるということでは火に似ていて、意識はアートマンやブラフマンの中に宿り永遠不滅であると考えていた。それに対してお釈迦様は燃えているという言で火を以下の形で用います。意識は欲動的であるということでは火に似ていて、意識は火と同じ様に火を消そうとする者がいなくても燃料が尽きれば自然に消える、そして火(意識)は薪つまり、燃えている物(燃料)と分離できないと喩えた。対象を持たない意識は存在しないということを説き、主体と客体は互いを前提条件として、すべての経験は双方が揃わらなければ成立しない、さらには主体と客体とは究極的には分離されない、このことは火と薪、心と身体、主体と客体は分離できないということです、世界(すべて)は一個人の身体に宿るということを表している、お釈迦様の教えは一人一人を言及対象としている、苦から救い出そうとしたのは一人一人の人間なのだから当然のことですが、実際にはこのことは世界にも等しく当てはまる、なぜなら世界は経験可能なもののみ記述されえるからです。
さらに重要なことは、バラモンの伝統ではアートマンやブラフマンに代表されるような永久不滅の変化しないものを求めていましたが、お釈迦様はバラモンの伝統にはないものを明らかにされました、それは。火は絶えず形を変えて、つまり変化しながら燃えているということです、心と身体の集合体である一個人も世界もすべて変化している、これは私たちの意識とその対象はすべて、変化をくりかえす過程(プロセス)であり、このやむことのない変化である点は火に似ている、それを超えたものは原理的にとらえられない(業について参照)それは純粋な思考においてのみとらえられえる。しかし私たちが経験を得るための装置(感覚器官)は仮にそれを超えたものが存在したとしても、経験の外側に存在するしかないと定めている。
もう一つ、私たちの経験を構成する過程(経験と記憶)は火と同じように、その燃え方は予め決まっているのでもなく、原因も条件もなく偶然に起こることではなく、薪(燃料)があって火がついて燃える、つまり原因と条件があって結果があるということの喩でもあります。
すべてについて
眼・耳・鼻・舌・身・意の六感覚器官と、色・声・香・味・触・法の六対象が触れて、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識が生じて認識が生じるということです、これは人が知るすべてです、最先端の宇宙物理学でも、宇宙についての情報は人間の知覚(認識)を通さなければ得られない、日常生活でも同じです、ここまではバラモンも大体同じですが、一点だけ異なるのは認識主体つまり自我(アートマン)がなければいけないということです、これは知覚という認識には認識主体である身体がなければならないからです。
お釈迦様がすべてに自我(アートマン)を入れないのは「アートマンは無い」からではなく「アートマンではない」つまりアートマンは経験的に知りえないからです、そしてお釈迦様のすべてとは、六つの認識器官の束であり、この束が「自己・私」という錯覚を作ると説いています、無我の教えです。
何によって燃えているのかについて
燃えているという喩えには五取蘊とう意味が含まれています、執着(取・upādāna)という言には燃料という意味があり、蘊(khandha)という言には、もともと木の枝という意味があり、五取蘊というのは、五本の薪を暗示する言です。
執着によって苦に至ることは、乾燥した草や牛糞や薪などの燃料を、薪を焼く火に投げ入れることに喩えられ、この執着に危険を見る者には苦の停止があると言うことは、薪を焼く火に燃料を投入しないことに喩えてお釈迦様はかたっています(相応部12・51執着経)
五取蘊についてでも説明しましたが四聖諦で説かれている苦(dukkha)と十二縁起で説かれている苦とは五取蘊のことです、何によって燃えているか、貪り・怒り・迷い・誕生・老い・死・憂い・悲しみ・苦・悩み・悶えとは五取蘊の別名であり苦の別名です、つまり苦によって燃えているということです、一人一人のすべては燃えている、という意味と、すべての生命は燃えているという二つの意味があります。
火を吹き消すという意味のある涅槃(S.nirvāna P.nibhāna)という言は、燃えるという原義の執着(S.P.upādāna)と対をなしている、同じ様に、いやになるという意味の厭う(S.nirvid P.nibbidā)は、取って、執着の(S.P.upāda)と対をなす言です。
お釈迦様はウぇーダの教えである業を意志と転換することで論理を業の中心にそえて、生きてきた経験の記憶である「すべて」は、論理の枠内で生起するとし(業について・十二縁起について参照)、私たちは心の一部である業が(五蘊について参照)・燃えている火が消えるよう状況を創り出すことは、論理的に知的なことで、それは燃えている火は、苦しみに関わり、同時に妄想や、しらないという無明に、つまり智にも関わることで、考察し、多くを聞くことは、転法輪転経の三転十二行相と同じことであり、四聖諦・十二縁起を学ぶことであり、八聖道の正見のことでもあります、そして、この火を維持する燃料(執着)が尽きれば火が消えるということです。
Dhammacakkappavattanasuttaṁ 転法輪転教
お釈迦様の最初の説法である経典です、余りに有名な経典ですから、ここでは余分な言及はさけます、言うまでもなく全ての仏教徒にとって特別な経典です。
Evaṁ me sutaṁ:
わたしはこのように聞いた。:
ekaṁ samayaṁ Bhagavā Bārāṇasiyaṁ viharati Isipatane Migadāye.
ある時、尊き師はバーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤ(鹿野苑)におられた。
Tatra kho Bhagavā pañcavaggiye bhikkhū āmantesi:
そこにおいて、尊き師は五人組のビク達に語りかけた。
“Dveme bhikkhave antā pabbajitena na sevitabbā,
「ビク達よ、出家した者はこれら二つの極端にかかずらうべきでない。
yo cāyaṁ: kāmesu kāmasukhallikānuyogo,
どのような二つとはなにか。もろもろの欲望の対象を楽しむことである。
hīno, gammo, pothujjaniko, anariyo, anatthasaṁhito;
このことは低俗であり、凡俗であり、平凡であり、聖者の行いではなく、利益を伴わない
yo cāyaṁ: attakilamathānuyogo,
そして、一方は白身を苦しめることである。
dukkho, anariyo, anatthasaṁhito.
このことは苦しく、立派でなく、利益を伴わない
Ete te bhikkhave ubho ante anupagamma,
ビクよ、これら二つの極端に近づかず、
majjhimā paṭipadā Tathāgatena abhisambuddhā,
中道は修行完成者によって完全に悟られた。
cakkhukaraṇī, ñāṇakaraṇī, upasamāya
眼を生じ、知識をつくり、静まりや
abhiññāya Sambodhāya Nibbānāya saṁvattati.
優れた理解や完全な目覚めや安らぎ(涅槃)に導く。
Katamā ca sā bhikkhave majjhimā paṭipadā, Tathāgatena
そしてビクよ、修行完成者が完全に目覚めたものであり、
abhisambuddhā, cakkhukaraṇī, ñāṇakaraṇī,
眼をそだて、智慧をつくり、静まりや
upasamāya abhiññāya Sambodhāya Nibbānāya saṁvattati?
優れた理解や完全な目覚めや安らぎへと導く中道とは。
Ayam-eva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathīdaṁ:
それは、この八つの支分からなる道(八聖道)である。それはすなわち
sammādiṭṭhi sammāsaṅkappo sammāvācā sammākammanto
正しい見解(正見)、正しい意図(正思)、正しい言葉(正語)、正しい行為(正業)、
sammā-ājīvo sammāvāyāmo sammāsati sammāsamādhi.
正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい思念(正念)、正しい精神集中(正定)である
Ayaṁ kho sā bhikkhave majjhimā paṭipadā, Tathāgatena
ビク達よ、これが修行完成者が完全に目覚めたものであり、
abhisambuddhā, cakkhukaraṇī, ñāṇakaraṇī,
眼をそだて、智慧をつくり、静まりや
upasamāya abhiññāya Sambodhāya Nibbānāya saṁvattati.
優れた理解や完全な目覚めや安らぎへと導く中道である。
Idaṁ kho pana bhikkhave dukkhaṁ ariyasaccaṁ:
ところでビク達よ、これが苦しみという真実(苦聖諦)である
jāti pi dukkhā jarā pi dukkhā vyādhi pi dukkho maraṇam-pi dukkhaṁ
生まれるも苦(生苦)。老いも苦(老苦)。病も苦(病苦)。死も苦(死苦)。
sokaparidevadukkadomamanassupāyāsāpi
焼かれるような悲しみ、悲嘆、もろもろの苦しみ、憂惨、苛立ちも苦しい。
appiyehi sampayogo dukkho
好まざるものとの出会いは苦しい(怨憎会苦)。
piyehi vippayogo dukkho
好ましいものとの離別は苦しい(愛別離苦)。
yam-picchaṁ na labhati tam-pi dukkhaṁ
望んでも手に入らないことも苦しい(求不得苦)。
saṅkhittena pañcupādānakkhandhā dukkhā.
要するに、五蘊に執着することも苦しい(五取蘊苦)
Idaṁ kho pana bhikkhave dukkhasamudayaṁ ariyasaccaṁ:
ところでビク達よ、これが苦しみの出現という真実(集聖諦)である。
yā yaṁ taṇhā ponobhavikā,
それは、渇愛と再生をもたらし
nandirāgasahagatā, tatratatrābhinandinī, seyyathīdaṁ:
あれこれの歓喜を求める渇望である。それはすなわち
kāmataṇhā bhavataṇhā vibhavataṇhā.
欲望への渇愛・生存への渇愛・非存在への渇愛である。
Idaṁ kho pana bhikkhave dukkhanirodhaṁ ariyasaccaṁ:
ところでビク達よ、これが苦しみの滅という真実(滅聖諦)である。
yo tassā yeva taṇhāya asesavirāganirodho - cāgo, paṭinissaggo, mutti, anālayo.
それは渇愛を離れることによって、完全に滅すること、捨てること、
放棄すること、解き放たれること、依存しないことである。
Idaṁ kho pana bhikkhave, dukkhanirodhagāminī paṭipadā ariyasaccaṁ:
ところでビク達よ、これか苦しみの滅へと導く道という真実(道聖諦)である。
Ayam-eva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathīdaṁ:
それは八つの支分からなる聖なる道である。それはすなわち、
sammādiṭṭhi sammāsaṅkappo sammāvācā sammākammanto
正しい見解(正見)、正しい意図(正思)、正しい言葉(正語)、正しい行為(正業)、
sammā-ājīvo sammāvāyāmo sammāsati sammāsamādhi.
正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい思念(正念)、正しい精神集中(正定)である
“Idaṁ dukkhaṁ ariyasaccan”-ti -
ビク達よ、「これが苦しみという真実である」という、-
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼が、わたしに生じた。智が生じた,
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhaṁ ariyasaccaṁ” pariññeyyan-ti -
またビク達よ、「この苦しみという真実は知り究めて捨て去られるべきである」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼が、わたしに生じた。智が生じた,
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhaṁ ariyasaccaṁ” pariññātan-ti -
またビク達よ、「この苦しみという真実は知りつくし、捨て去られている」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼が、わたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
“Idaṁ dukkhasamudayaṁ ariyasaccan”-ti -
ビク達よ、「これが苦しみの出現という真実である」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼が、わたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhasamudayaṁ ariyasaccaṁ” pahātabban-ti -
またビク達よ、「この苦しみの出現という真実は捨て放たれるべきである」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼がわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhasamudayaṁ ariyasaccaṁ” pahīnan-ti -
またビク達よ、「この苦しみの出現という真実は捨て放たれている」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼がわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
“Idaṁ dukkhanirodhaṁ ariyasaccan”-ti -
ビク達よ、「これが苦しみの滅という真実である」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼がわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhanirodhaṁ ariyasaccaṁ” sacchikātabban-ti -
またビク達よ、「この苦しみの滅という真実は目の当たりにされるべきである」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対するがわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhanirodhaṁ ariyasaccaṁ” sacchikatan-ti -
また達よ、「この苦しみの滅という真実は目の当たりにされている」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼がわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
“Idaṁ dukkhanirodhagāminī paṭipadā ariyasaccan”-ti -
ビク達よ、「これが苦しみの滅へと導く道という真実である」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼がわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhanirodhagāminī paṭipadā ariyasaccaṁ” bhāvetabban-ti -
またビク達よ、「これが苦しみの滅へと導く道という真実は養成すべきである」という、
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼がわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Taṁ kho pan' “idaṁ dukkhanirodhagāminī paṭipadā ariyasaccaṁ” bhāvitan-ti -
またビク達よ、「この苦しみの滅へと導く道という真実は養成されている」という-
me bhikkhave pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṁ udapādi, ñāṇaṁ udapādi,
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼がわたしに生じた。智が生じた
paññā udapādi, vijjā udapādi, āloko udapādi.
智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
Yāva kīvañ-ca me bhikkhave imesu catusu ariyasaccesu
そしてビク達よ、このように四つの真実を
evaṁ tiparivaṭṭaṁ dvādasākāraṁ
-三転十二行相で、-
yathābhūtaṁ ñāṇadassanaṁ na suvisuddhaṁ ahosi,
ありのままに知り見ることで清浄となったのであるから
neva tāvāhaṁ bhikkhave sadevake loke samārake sabrahmake,
ビク達よ、わたしは、神々や悪魔やブラフマー神を含めた世界で、
sassamaṇabrāhmaṇiyā pajāya sadevamanussāya,
サマナやバラモンや神々や人間といった生類のために
anuttaraṁ sammāsambodhiṁ abhisambuddho paccaññāsiṁ.
「わたしは、最高の完全な目覚めを得た」と自覚したのだ
Yato ca kho me bhikkhave imesu catusu ariyasaccesu。
そしてビク達よ、このように四つの真実をevaṁ tiparivaṭṭaṁ dvādasākāraṁ -
-三転十二行相で、
yathābhūtaṁ ñāṇadassanaṁ suvisuddhaṁ ahosi,
ありのままに知り見ることで清浄となったのであるから
athāhaṁ bhikkhave sadevake loke samārake sabrahmake
ビク達よ、わたしは、神々や悪魔やブラフマー神を含めた世界で
sassamaṇabrāhmaṇiyā pajāya sadevamanussāya,
サマナやバラモンや神々や人間といった生類のために
anuttaraṁ sammāsambodhiṁ abhisambuddho paccaññāsiṁ.
「わたしは最高の完全な目覚めを得た」と自覚したのだ。
Ñāṇañ-ca pana me dassanaṁ udapādi:
そしてまた見識と智慧とがわたしに生じた。:
“Akuppā me cetovimutti ayam-antimā jāti natthi dāni punabbhavo” ti.
「わたしの心の解放は揺るぎないものだ。これが最終の生であり、もはやさらなる再生は存在しない」と。
Idam-avoca Bhagavā,
尊き師はこのことをいった。
attamanā pañcavaggiyā bhikkhū Bhagavato bhāsitaṁ abhinandun-ti.
満足した五人組のビク達は、尊き師が語ったことに心より喜んで受け入れた。
Imasmiñ-ca pana veyyākaraṇasmiṁ bhaññamāne,
そしてまたこの教えが語られている最中に、
āyasmato Koṇḍaññassa virajaṁ, vītamalaṁ,
コンダンニャ尊者には、汚れなく塵のない
Dhammacakkhuṁ udapādi:
法を見るための眼が生じた。
Yaṁ kiñci samudayadhammaṁ, sabban-taṁ nirodhadhamman-ti.
「生じる性質をもつものはいずれも皆、滅する性質をもつのだ」と。
Pavattite ca pana Bhagavatā Dhammacakke
そして、このように尊き師が法を車輪のように転じ始めた時に、
Bhummā devā saddam-anussāvesuṁ:
地に属する神々(地居天)は声を伝え聞かせた。:
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて尊き師が
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
この教法を車輪のように転じ始めたぞ。
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、ブラフマー神、
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と
Bhummānaṁ devānaṁ saddaṁ sutvā
地に属する神々の声を聞いてから、
Cātummahārājikā devā saddam-anussāvesuṁ:
大王たる四柱の神々(四天王)は声を伝え聞かせた。:
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて尊き師が
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
この教法を車輪のように転じ始めたぞ。
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、ブラフマー神、
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と。
Cātummahārājikānaṁ devānaṁ saddaṁ sutvā
大王たる四柱の神々の声を聞いてから、
Tāvatiṁsā devā saddam-anussāvesuṁ:
三十二天は声を伝え聞かせた。
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて,
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
尊き師がこの教法を車輪のように転じ始めたぞ
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、プラフマ-神、
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と。
Tāvatiṁsānaṁ devānaṁ saddaṁ sutvā
三十三天の声を聞いてから、
Yāmā devā saddam-anussāvesuṁ:
ヤマ天(夜摩天)は声を伝え聞かせた。
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて,
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
尊き師がこの教法を車輪のように転じ始めたぞ。
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、プラフマ-神、
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と。
Yāmānaṁ devānaṁ saddaṁ sutvā
ヤマ天の声を聞いてから、
Tusitā devā saddam-anussāvesuṁ:
トゥシタ天(兜率天)は声を伝え聞かせた。
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
尊き師がこの教法を車輪のように転じ始めたぞ。
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、プラフマ-神、
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と。
Tusitānaṁ devānaṁ saddaṁ sutvā
トゥシタ天の声を聞いてから、
Nimmāṇaratī devā saddam-anussāvesuṁ:
ニンマーナラティ天(楽変化天)は声を伝え聞かせた。
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて,
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
尊き師がこの教法を車輪のように転じ始めたぞ。
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、プラフマ-神、
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と。
Nimmāṇaratīnaṁ devānaṁ saddaṁ sutvā
ニンマーナラティ天の声を聞いてから、
Paranimmitavasavattino devā saddam-anussāvesuṁ:
パラニンミタヴァサヴアツティー天(他化自在天)は声を伝え聞かせた。
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
尊き師がこの教法を車輪のように転じ始めたぞ。
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、プラフマ-神、
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と。
Paranimmitavasavattīnaṁ devānaṁ saddaṁ sutvā
パラアニンミタヴァサヴァツティー天の声を聞いてから、
Brahmapārisajjā devā saddam-anussāvesuṁ:
ブラフマー神の世界に属する神々(梵衆天)は声を伝え聞かせた
“Etaṁ Bhagavatā Bārāṇasiyaṁ Isipatane Migadāye,
「バーラーナシーのイシパタナにあるミガダーヤにて
anuttaraṁ Dhammacakkaṁ pavattitaṁ,
尊き師がこの教法を車輪のように転じ始めたぞ。
appativattiyaṁ samaṇena vā brāhmaṇena vā
サマナ、バラモン、神、悪魔、プラフマ-神
devena vā mārena vā brahmunā vā kenaci vā lokasmin”-ti.
世界の誰によっても反転させられないであろうものとして」と。
Iti ha tena khaṇena tena muhuttena,
以上のようにして、その瞬間、寸時、寸刻に、
yāva Brahmalokā saddo abbhuggañchi,
声はブラフマー神の世界まで昇りついた。
ayañ-ca dasasahassī lokadhātu saṅkampi, sampakampi, sampavedhi,
そしてこの一万世界は震え、震え出し、振動し出した。
appamāṇo ca uḷāro obhāso loke pātur-ahosi,
そして無限で神々しい光明が世界に現れた。
atikkamma devānaṁ devānubhāvan-ti.
神々の威光を超越した後に.
Atha kho Bhagavā udānaṁ udānesi:
さて尊き師は〔この〕詩句を詠いあげた。
“Aññāsi vata bho Koṇḍañño, aññāsi vata bho Koṇḍañño” ti.
「コンダンニャは理解したのだ。コンダンニャは理解したのだ」と。
Iti hidaṁ āyasmato Koṇḍaññassa
以上のような訳で、コンダンニャ尊者には、
Aññā Koṇḍañño tveva nāmaṁ ahosī ti.
アンニャータ(理解した)・コンダンニャというこの名前がついた。
転法輪転教の解説
「ビク達よ、出家した者はこれら二つの極端にかかずらうべきでない。
どのような二つとはなにか。もろもろの欲望の対象を楽しむことである。
そして、一方は白身を苦しめることである。
ビクよ、これら二つの極端に近づかず、中道は修行完成者によって完全に悟られた。
眼を生じ、知識をつくり、静まりや優れた理解や完全な目覚めや安らぎ(涅槃)と導く。
「中道」について、例えで説明します
最初に、絶えず動いている橋を、自分が綱渡りのように渡っている姿をイメージしてください
右を歩くと落ちます 左を歩くと落ちます 真ん中を歩くと落ちます
ではどこを歩くと渡れましたか? 言葉で表現してください
お釈迦様は
右でも左でもない と言っています これが中道です。
もう一つ例えで
ギターの弦を張るとき(チューニング)は
きつく張りすぎるとダメ 緩すぎてもダメ その中間でもダメ
きつすぎず緩すぎず が中道です
ギターは世界中で何万台使われているかわからないほど数多く使われています、それでも機械でチューニングできません、もし出来たら、その機械を作った人はお金持ちになれるでしょう、その場その時により微妙に、湿気や会場の音響など条件が変わるので人間がチューニングしないとならないのです、このように困難な狭い道です、ベストな答えを得る道と言い換えてもいいでしょう、八聖道とは中道です。
お釈迦様の時代のインドでは、欲望のままに快楽を楽しむのが人生という人々と、ジャイナ教や当時の修行者の人々の中には、極端な苦行をする人々がいて、そのどちらも悟りには役に立たないということです。
そしてビクよ、修行完成者が完全に目覚めたものであり、眼をそだて、智慧をつくり、静まりや、優れた理解や完全な目覚めや安らぎへと導く中道とは。
それは、この八つの支分からなる道(八聖道)である。
それはすなわち
正しい見解(正見)、正しい意図(正思)、正しい言葉(正語)、正しい行為(正業)、
正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい思念(正念)、正しい精神集中(正定)である
正しい見解 正しいもののみかた、すなわち智慧
正しい意図 正しい思考の選び方
正しい言葉 嘘をついたり粗暴な言葉をつかわない
正しい行為 正しい行い、生類を殺生しないこと
正しい生活 正しい生活規範、戒律のこと
正しい努力 修行に怠りがないこと
正しい思念 正しい記憶 教えをしっかり覚える
正しい精神集中 正しい瞑想
王が戒めるべき事柄をマヌ法典という古い文献から記載します
欲望から生じる悪徳十種
狩猟、賭博、昼寝、誹謗、女、飲酒、三種の歌舞演奏(歌・踊り・楽器演奏)、意味のない旅行
怒りから生じる悪徳八種
陰口、凶悪犯罪、裏切り、嫉妬、名誉棄損、財産を駄目にする、言葉の暴力、暴行
上記の様にインド古代の倫理・道徳を記載してみました、お釈迦様の時代の倫理的な常識と変わることはなく、真理を求めて修行する人にとっての具体的な道です。
八正道については仏教副読本の四聖諦で説明してありますので参照してください。ここでもお釈迦様は、この時代の人々にも常識的な言をつかって、解りやすく説いています、説法を聞くこの時代の、知識人、真理を求めて修行する人々であるバラモンが、自分の体験に照らし合わせて理解できるように説いています
ビク達よ、これが修行完成者が完全に目覚めたものであり、
眼をそだて、智慧をつくり、静まりや
優れた理解や完全な目覚めや安らぎへと導く中道である。
ところでビク達よ、これが苦という真実(苦聖諦)である
生まれるも苦(生苦)。老いも苦(老苦)。病も苦(病苦)。死も苦(死苦)。
焼かれるような悲しみ、悲嘆、もろもろの苦しみ、憂惨、苛立ちも苦しい。
好まざるものとの出会いは苫しい(怨憎会苦)。
好ましいものとの離別は苦しい(愛別離苦)。
望んでも手に入らないことも苦しい(求不得苦)。
要するに、五蘊に執着することも苦しい(五取蘊苦)
苦(dukkha)とは楽(sukha)の反対語で、ウパニシャットでは、楽とは永遠に変化しない至福の世界、苦とは常に変化する通常の世界、つまり人が住む世界です。
生苦 生きることに伴う苦、誕生に伴う苦
老苦 老いに伴う苦
病苦 病気に伴う苦
死苦 死に伴う苦
怨憎会苦 嫌いな人と人間関係を持つことに伴う苦
愛別離苦 愛する人と別れることに伴う苦
求不得苦 欲しいものが手に入らないことに伴う苦
五取蘊苦 前記の七つの苦を要約した苦、身体と心が働いていること、つまり生きていること自体が苦ということ
生苦は生きる苦しみで、五取蘊苦は執着の対象となる自分の心と身体(五蘊)そのものが苦ということで、この世に生きていること自体が苦という意味と思われます。生苦と五取蘊苦とは同様の意味と考えて、四つの苦として考えてもよいと思います。
「誕生」「老い」「病」「死」はアートマン(永久不滅な真の自我・主体)を形容する「不生」「不死」「不病」「不死」を反転させた言であると思われます、不生不死の主体であるアートマンを認めなければ「苦」は「誕生」「老い」「病」「死」として表れてきます。
「怨憎会苦」「愛別離苦」「求不得苦」は説法を聞いている人々が、日々直接体験していることを、具体的に言った生活に密着した苦のことです。
「五取蘊苦」は、苦(dukkha)とは結局は、これだよということです。五取蘊はこの時代の真理を求めるバラモンの人々には、この一言で多くのことがらが伝わる言です、詳しくは燃焼経の解説を参照してください。
ところでビク達よ、これが苦しみの出現という真実(集聖諦)である。
それは、渇愛と再生をもたらしあれこれの歓喜を求める渇望である。それはすなわち欲望への渇愛・生存への渇愛・非存在への渇愛ある。
苦の生じる原因は渇愛で、それは輪廻をもたらし歓喜(P.abhinandana S.ānanda)を求めるとあります。後の時代にはブラフマン(宇宙の根本原理)の本質は、存在(生存)・意識・歓喜(S.sac.cjd.ānanda)と規定されます。
歓喜は、至福という意味もあります、ある人にとっての最高の楽しみ、至福の時間という意味。目の前で溺れる人を死を賭して助ける気持ち。慈経に説かれる、母が一人子を命を賭けても護る気持ち、真実を求める気持ちも入ります。お釈迦様の時代のインドではブラフマン、現代では神という言葉で表現したものです。
欲望への渇愛 潜在的・衝動的な欲望、
生存への渇愛 生存欲、生きたいという欲望
非存在への渇愛 死によりすべて終わるということに対する渇望
上記の三つの渇愛は一連の現象を語っています。例えば、衣服を渇愛で選ぶ・買う。衣服を渇愛で着る・楽しむ。次の衣服を渇愛で買いたいと思い捨てる。衣服を身体として輪廻の中での一連の現象としてお釈迦様は説明なさっています。
この説法を聞いている五ビクには、ブラフマンやアートマンとは、無明が作り出した、誤った自己(アートマン)に起因する渇愛が苦(dukkha)を作り出すと、それとなく説いています。そしてお釈迦様は、潜在的欲・生存欲・再存在欲とは、生きる衝動、つまり、業・意志・行(saṅkhāra)であると、それは欲望(渇愛)であり、苦(dukkha)であると説いています。
苦の原因は渇愛であるという、十二縁起を順にみていくのと同じことです。
ところでビク達よ、これが苦しみの滅という真実(滅聖諦)である。
それは渇愛を離れることによって、その渇望を完全に滅すること、捨てること、放棄すること、解き放たれること、依存しないことである。
欲望をもたない者、欲望なく、欲望をはなれ、また欲望を満足させ、アートマンのみを欲する者の場合には、彼の機能は出て行かないのであります、彼はブラフマンそのもので あり、ブラフマンと合一しています。
(ブリハッドアーヌカヤ・ウパニシャット4・4・6)
お釈迦様の時代には、悟りとはアートマン(永久不滅の真の自我)がブラフマン(宇宙の原理)とが合一するという考えが主流です、この説法を聞いているお釈迦様と共に修行した五人のビクも同じ教えを受けた人達です、その人達に向けてアートマンとブラフマンの合一が悟りではなく、欲望(煩悩)を捨てるのが解脱だと、それとなく説いています。
苦を滅するには渇愛を滅するという、十二縁起を逆にみていくのと同じことです。
ところでビク達よ、これか苦しみの滅へと導く道という真実(道聖諦)である。
それは八つの支分からなる聖なる道である。それはすなわち、
正しい見解(正見)、正しい意図(正思)、正しい言葉(正語)、正しい行為(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい思念(正念)、正しい精神集中(正定)である
苦を滅する正しい道が八聖道ということです。
八聖道は言葉としては、くりかえしていますが、修行完成者(お釈迦様)が完全に目覚めた見地から説く八聖道と、苦しみの滅へと導く道つまり、これから悟りの道を歩む修行者からの見地では中身が異なります。詳しくはここでは記載しませんが、単なるくりかえしではないことは、こころに留めておいてください。
ビク達よ、「これが苦しみという真実である」という、
またビク達よ、「この苦しみという真実は知り究めて捨て去られるべきである」という、またビク達よ、「この苦しみという真実は知り究めて捨て去られている」という、
ビク達よ、「これが苦しみの出現という真実である」という、
またビク達よ、「この苦しみの出現という真実は捨て放たれるべきである」という、またビク達よ、「この苦しみの出現という真実は捨て放たれている」という、
ビク達よ、「これが苦しみの滅という真実である」という、
またビク達よ、「この苦しみの滅という真実は目の当たりにされるべきである」という-またビク達よ、「この苦しみの滅という真実は目の当たりにされている」という、
ビク達よ、「これが苦しみの滅へと導く道という真実である」という、
またビク達よ、「これが苦しみの滅へと導く道という真実は養成すべきである」という、
またビク達よ、「この苦しみの滅へと導く道という真実は養成されている」という-
かつて伝承されたことのないもろもろの法に対する眼が、わたしに生じた。智が生じた,智慧が生じた。明が生じた。明知が生じた。
そしてビク達よ、このように四つの真実を
三転十二行相で、
三転十二行相とは、三つの基準で見ることです。
①四聖諦の内容の確認・②どうすべきかの確認・③その結果を解り体と心で身に着けた
解りやすくすればこのようになります
1、①苦聖諦とはこのようなものである
②苦聖諦をよく知るべきである
③苦聖諦よく知り終えた
2、①苦集諦はこのようなものである
②苦集聖諦を捨てるべきである
③苦集聖諦を捨て去った
3、①苦滅聖諦はこのようなものである
②苦滅聖諦をはっきりと見るべきである
③苦滅聖諦をはっきりと見終わった
4、①苦滅道聖諦はこのようなものである
②苦滅道聖諦を繰り返し修行するべきである
③苦滅道聖諦を繰り返し修行し終えた
ありのままに知り見ることで清浄となったのである‥‥‥‥
ありのままに知り見ること(yathābhūtaṁ ñāṇadassanaṁ)古くから「如実知見」という言葉でしられています、ものごと、(自らの経験と生存と因果関係)を、ありのままに知り見ることを意味します。清浄は悟りと同じ意味です。
「わたしは最高の完全な目覚めを得た」と自覚したのだ。
そしてまた見識(dassana)と智慧(Ñāṇañ)とがわたしに生じた。:
悟りをお釈迦様がどの様に得たかを語っています、見識と智慧が生じたとは、誰かから教えてもらったものではなく自ら生じたということです、作ったとも言ってないです。
「わたしの心(me)の解放は揺るぎないものだ。これが最終の生であり、もはやさらなる再生は存在しない」と。
再生は存在しないと輪廻からの解脱を説いています。主語を我・自己(attā)としないで、わたしの心(me)とすることでアートマン(S. ātman P.attā)とブラフマンの合一
が解脱(解放)という意味が解脱から消えています。解脱という言はそれに代わって十二縁起で説いている、輪廻し無常である「心の連続体」が解脱(解放)するという意味になっています。
満足した五人組のビク達は、尊き師が語ったことに心より喜んで受け入れた。
そしてまたこの教えが語られている最中に、コンダンニャ尊者には、汚れなく塵のない法を見るための眼が生じた。
Yaṁ kiñci samudayadhammaṁ, sabban-taṁ nirodhadhamman-ti.
「生じる性質をもつものはいずれも皆、滅する性質をもつのだ」と。
中道・八聖道・四聖諦と開示され理解したコンダンニャ尊者が口にした言葉です、お釈迦様の教えの柱を見事に言葉にしたものです。
「すべてのものは変化する」これはアートマン・ブラフマンなど永久に変わらないものを求めてきたインドの考えとは異なるものです、まさにお釈迦様の教えを貫く一本の柱です。
この後神々がお釈迦様の悟りを祝うことが述べられます
Anattalakkhaṇasuttaṃ 無我相経
お釈迦様の二番目の説法である経典です、その内容は転法輪転教を別の角度から詳しく説いた内容で、五蘊と無我という仏教の最も重要な教えが開示されています、詳しい内容は解説をご覧ください、燃焼経同様にけして省略して読む経典ではないです。
Ekaṃ samayaṃ bhagavā bārāṇasiyaṃ viharati isipatane migadāye
あるとき幸あるお方はバーラーナシーのイシパタナ鹿野苑に住しておられた。
Tatra kho bhagavā pañcavaggiye bhikkhū āmantesi
ときに幸あるお方は五比丘衆に呼びかけられた
‘‘bhikkhavo’’ti. ‘‘Bhadante’’ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ.
「ビクたちよ」と。「尊き者よ」と彼ら比丘たちは幸あるお方へ応えた。
Bhagavā etadavoca
幸あるお方はこう言われた。
‘Rūpaṃ, bhikkhave, anattā. rūpañca hidaṃ, bhikkhave, attā abhavissa,
「ビクたちよ、色は無我である。ビクたちよ、もし色が我であるならば、
nayidaṃ rūpaṃ ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca rūpe –
色は病にかかることはないし、また色に対して
‘evaṃ me rūpaṃ hotu, evaṃ me rūpaṃ mā ahosī’ti.
『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。
Yasmā ca kho, bhikkhave, rūpaṃ anattā, tasmā rūpaṃ ābādhāya saṃvattati, na ca
しかしビクたちよ、実に色は無我であるから色は病にかかり、
labbhati rūpe – ‘evaṃ me rūpaṃ hotu, evaṃ me rūpaṃ mā ahosī’’’ti.
また色に対して『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることが出来ないのである」と
‘Vedanā, anattā. vedanā ca hidaṃ,bhikkhave, attā abhavissa,
「受は無我である。ビクたちよ、もし受が我であるならば、
nayidaṃ rūpaṃ ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca vedanāya –
受は病にかかることはないし、また受に対して
‘evaṃ me vedanā hotu, evaṃ me vedanā mā ahosī’ti.
『私の受はこのようになれ、私の受はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。
Yasmā ca kho, bhikkhave,vedanā anattā, tasmā vedanā ābādhāya saṃvattati,
しかしビクたちよ、実に受は無我であるから受は病にかかり、
na ca labbhati vedanāya – ‘evaṃ me vedan hotu, evaṃ me vedanā mā ahosī’’’ti.
また受に対して『私の受はこのようになれ、私の受はこのようになるな』と命じることが出来ないのである」と
‘Saññā, anattā. saññā ca hidaṃ,bhikkhave, attā abhavissa,
「想は無我である。ビクたちよ、もし想が我であるならば、
nayidaṃ saññā ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca saññāya –
想は病にかかることはないし、また想に対して
‘evaṃ me saññā hotu, ev aṃ me saññā mā ahosī’ti.
『私の想はこのようになれ、私の想はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。
Yasmā ca kho, bhikkhave, saññā anattā, tasmā saññā ābādhāya saṃvattati,
しかしビクたちよ、実に想は無我であるから想は病にかかり、
na ca labbhati saññāya – ‘evaṃ me saññā hotu, evaṃ me saññā mā ahosī’’’ti.
また想に対して『私の想このようになれ、私の想はこのようになるな』と命じることが出来ないのである」と
‘Saṅkhārā, anattā. saṅkhārā ca hidaṃ,bhikkhave, attā abhavissa,
「行は無我である。ビクたちよ、もし行が我であるならば、
nayidaṃ saṅkhārā ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca saṅkhāresu –
行は病にかかることはないし、また行に対して
‘evaṃ me saṅkhārā hotu, evaṃ me saṅkhārā mā ahosī’ti.
『私の行はこのようになれ、私の行はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。
Yasmā ca kho, bhikkhave, saṅkhārā anattā, tasmā saṅkhārā ābādhāya saṃvattati,
しかしビクたちよ、実に行は無我であるから行は病にかかり、
na ca labbhati saṅkhāresu – ‘evaṃ me saṅkhārā hotu, evaṃ me saṅkhārā mā ahosī’’’ti.
また行に対して『私の行はこのようになれ、私の行はこのようになるな』と命じることが出来ないのである」と
‘Viññāṇaṃ, anattā. viññāṇñca hidaṃ,bhikkhave, attā abhavissa,
「識は無我である。ビクたちよ、もし識が我であるならば、
nayidaṃ viññāṇe ābādhāya saṃvatteyya, labbhetha ca viññāṇe –
識は病にかかることはないし、また識に対して
‘evaṃ me viññāṇaṃ hotu, evaṃ me viññāṇaṃ mā ahosī’ti.
『私の識はこのようになれ、私の識はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。
Yasmā ca kho, bhikkhave, viññāṇaṃ anattā, tasmā viññāṇaṃ ābādhāya saṃvattati,
しかしビクたちよ、実に識は無我であるから識は病にかかり、
na ca labbhati viññāṇe – ‘evaṃ me viññāṇaṃ hotu, evaṃ me viññāṇaṃ mā ahosī’’’ti.
また識に対して『私の識このようになれ、私の識はこのようになるな』と命じることが出来ないのである」と
‘Taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, rūpaṃ niccaṃ vā aniccaṃ vā’’ti?
「ビクたちよ、そなたらはどう思うか。色は常であるか、無常であるか」
‘‘Aniccaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、無常であります」、
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā’’ti?
「無常であるものは苦であるか、楽であるか」
‘‘Dukkhaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、苦であります」、
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ,
「無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするものを
kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ –
このように見るのは正しいか
‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’’ti?
『これは私のものである、これは私である、これは私の我である』」と
‘‘No hetaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、それは正しくありません」
‘Vedanā niccā vā aniccā vā’’ti?
「受は常であるか、無常であるか」
‘‘Aniccā, bhante’’.
「尊き師よ、無常であります」、
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā’’ti?
「無常であるものは苦であるか、楽であるか」
‘‘Dukkhaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、苦であります」
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ,
「無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするものを
kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ –
このように見るのは正しいか
‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’’ti?
『これは私のものである、これは私である、これは私の我である』」と
‘‘No hetaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、それは正しくありません」
‘Saññā niccā vā aniccā vā’’ti?
「想は常であるか、無常であるか」
‘‘Aniccā, bhante’’.
「尊き師よ、無常であります」、
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā’’ti?
「無常であるものは苦であるか、楽であるか」
‘‘Dukkhaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、苦であります」
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ,
「無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするものを
kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ –
このように見るのは正しいか
‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’’ti?
『これは私のものである、これは私である、これは私の我である』」と
‘‘No hetaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、それは正しくありません」
‘Saṅkhārā niccā vā aniccā vā’’ti?
「行は常であるか、無常であるか」
‘‘Aniccā, bhante’’.
「尊き師よ、無常であります」、
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā’’ti?
「無常であるものは苦であるか、楽であるか」
‘‘Dukkhaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、苦であります」
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ,
「無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするものを
kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ –
このように見るのは正しいか
‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’’ti?
『これは私のものである、これは私である、これは私の我である』」と
‘‘No hetaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、それは正しくありません」
‘Viññāṇaṃ niccaṃ vā aniccaṃ vā’’ti?
「識は常であるか、無常であるか」
‘‘Aniccaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、無常であります」、
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vā taṃ sukhaṃ vā’’ti?
「無常であるものは苦であるか、楽であるか」
‘‘Dukkhaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、苦であります」
‘‘Yaṃ panāniccaṃ dukkhaṃ vipariṇāmadhammaṃ,
「無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするものを
kallaṃ nu taṃ samanupassituṃ –
このように見るのは正しいか
‘etaṃ mama, esohamasmi, eso me attā’’’ti?
『これは私のものである、これは私である、これは私の我である』」と
‘‘No hetaṃ, bhante’’.
「尊き師よ、それは正しくありません」
‘‘Tasmātiha, bhikkhave, yaṃ kiñci rūpaṃ
「ビクたちよ、それゆえ、色であるものは何であれ、
atītānāgatapaccuppannaṃ
過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、
ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikaṃ vā sukhumaṃ
内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細かいものでも、
vā hīnaṃ vā paṇītaṃ vā yaṃ dūre santike vā,
劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、
sabbaṃ rūpaṃ –
そのすべての色を
‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’ti
『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と
evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ.
このようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである
yaṃ kāci vedanā
受であるものは何であれ、
Atītānāgatapaccuppannā
過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、
ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikā vā sukhumā
内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細かいものでも、
vā hīnā vā paṇītā yā dūre santike vā,
劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、
sabbā vedanā –
そのすべての受を
‘netaṃ mama, nesohamasmi, na me so attā’ti
『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と
evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ.
このようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである
yaṃ kāci saññā
想であるものは何であれ、
Atītānāgatapaccuppannā
過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、
ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikā vā sukhumā
内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細かいものでも、
vā hīnā vā paṇītā yā dūre santike vā,
劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、
sabbā saññā –
そのすべての想を
‘netaṃ mama, nesohamasmi, na me so attā’ti
『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と
evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ.
このようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである
aṃ kāci saṅkhārā
行であるものは何であれ、
Atītānāgatapaccuppannā
過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、
ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikā vā sukhumā
内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細かいものでも、
vā hīnā vā paṇītā yā dūre santike vā,
劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、
sabbā saṅkhārā –
そのすべての行を
‘netaṃ mama, nesohamasmi, na me so attā’ti
『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と
evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ.
このようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである
yaṃ kiñci viññāṇaṃ
識であるものは何であれ、
atītānāgatapaccuppannaṃ
過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、
ajjhattaṃ vā bahiddhā vā oḷārikaṃ vā sukhumaṃ
内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細かいものでも、
vā hīnaṃ vā paṇītaṃ vā yaṃ dūre santike vā,
劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、
sabbaṃ viññāṇaṃ –
そのすべての識を
‘netaṃ mama, nesohamasmi, na meso attā’ti
『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と
evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya daṭṭhabbaṃ.
このようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである
‘‘Evaṃ passaṃ, bhikkhave, sutavā ariyasāvako
ビクたちよ、このように見ると、多聞の聖なる弟子は、
rūpasmimpi nibbindati, vedanāyapi nibbindati, saññāyapi nibbindati,
色をも厭い、受をも厭い、想をも厭い、
saṅkhāresupi nibbindati, viññāṇasmimpi nibbindati.
行をも厭いか識をも厭う。
Nibbindaṃ virajjati; virāgā vimuccati.
厭うゆえに貪りを離れる。貪りを離れるゆえに解脱する。
Vimuttasmiṃ vimuttamiti ñāṇaṃ hoti.
解脱すれば、『解脱した』という智慧が生じる
‘Khīṇā jāti, vusitaṃ brahmacariyaṃ,
『生まれることは滅尽した。修業は完成した。
kataṃ karaṇīyaṃ, nāparaṃ itthattāyā’
なすべきことはなした、もはや生まれることはな』
ti pajānātī’’ti.
と知るのである」と。
Idamavoca bhagavā. Attamanā pañcavaggiyā bhikkhū
幸あるお方がこれを説かれると、五人のビクは
bhagavato bhāsitaṃ abhinanduṃ 2
幸ある方の教説を心から喜んで受け入れました。
Imasmiñca pana veyyākaraṇasmiṃ bhaññamāne
この教説が説かれているうちに、
pañcavaggiyānaṃ bhikkhūnaṃ anupādāya
五人のビクは心に執着がなくなり、
āsavehi cittāni vimucciṃsūti. Sattamaṃ.
根源的な欲より解脱したのでした。
無我相経の解説
色は無我である、
色が我なら、病にかからないし、色は無我であるから色は病にかかる
色に対して、我であるならば「私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな」と命じることが出来るか
色に対して、無我であるから「私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな」と命じることが出来ないのである。
真に見るもの(アートマン)は死をみず、病を見ず、また苦境もみることなし。
真に見るものは一切をみる。彼(アートマン)はあらゆる処において、一切をえる
(チャーンドーグヤ・ウパニシャット7・1・26)
実に、この不滅のもの(ブラフマン)の指示に従って、太陽と月は分かれて存在す
(ブリハットアーラスヤカ・ウパニシャット2・8・9)
アートマンは病にかからない、すべてを見る、すべてをえる、ブラフマンは命じることが出来るとかたっている。
上記はお釈迦様の時代より古くからあるウパニシャットという文献からの言です、お釈迦様はアートマン・ブラフマンとは病にかからない、命じることが出来る、という説明に対して色受想行識という五蘊(人間)は、病にかかる、命じることは出来ない、とかたり、なぜなら無我であるからとかたっています。
読み比べてみればお解りだと思いますが、現代的に言えばアートマンという小宇宙がブラフマンという大宇宙は同じだと覚ることこそ真理だという考えが常識の時代のバラモンが相手ですので、アートマン・ブラフマンがあるなら、この様でないと教えるのが最も伝わりやすい方法とお釈迦様が判断してかたったものです。
この説法はお釈迦と共に修行してきた五人のビクが相手です、何を学んできたかはお釈迦様も五人のビクもお互いに熟知している筈です、上記のウパニシャットのことを五人のビクなら頭に浮かべながら聞いているのをお釈迦様は感じていると思われます、そこで下記のような教えを言外に含ませて話しています。
永久不滅のアートマンは、死なない、つまり変化しない、という無常とは反対の教え
永久不滅のアートマン・ブラフマンは、苦境もなく、一切をえる、思い通りになる、という苦とは反対の教え
上記のウパニシャットの教えを直接否定するのではなく、それとなく否定しています。続いて無常・苦・無我について聞いている人が、自分で考え、納得できるように導く説法が続きます。
無常・苦・無我については燃焼経が参考になります、火の喩をもう一度参照して次のお釈迦様と五人のビクのやりとりを味わってください。
「色は常であるか、無常であるか」
『尊き師よ、無常であります』、
「無常であるものは苦であるか、楽であるか」
「尊き師よ、苦であります」
「無常であり、苦であり、変化を法(性質)とするものを、
このように見るのは正しいか
『これは私のものである、これは私である、これは私の我である』」と
「尊き師よ、それは正しくありません。」
無常とは、常ではないという意味で、永久不変(アートマン)ではないという意味です。楽とは永久不変・完全・満足な世界でブラフマンの世界です。人間の経験する世界は無常であり、楽の反対、すなわち苦です。苦(S.duḥkha P.dukkha)は苦しいではなく、絶えず変化する・不完全・不満足という意味で人が経験することのできる世界という意味です、意欲(kāma)・欲・煩悩の世界といってもいいです。
変化を法とする(性質)(vipariṇāmadhamma)とは、無常であるから苦であり無我である、それが理法(ことわり)であるという意味。
転法輪転経にあるコンダンニャ尊者が発した言です
Yaṁ kiñci samudayadhammaṁ, sabban-taṁ nirodhadhamman-ti.
「生じる性質をもつものはいずれも皆、滅する性質をもつのだ」
vipariṇāmadhamma
「変化を法(性質)とする」
上記二つの言は全く同じ意味で、無常を意味します
ブラフマンは後の時代には「存在・意識・至福」(S.sac‐cid‐ānanda)と定義されます。存在とは永久不滅であり、意識とは存在の中に宿るきづき、至福とは何も欠けることのないものです、これがブラフマンということです。
無我とは永久不滅の変化しないアートマンではない、という意味で実質的に無常と同じことで、苦とは永久不滅の変化しない世界は楽で、その反対という意味で、常に変化するを意味する、無常ゆえに無我であり苦であるということです。
これは私のもの、とは、永久不滅のものを私とみる
これは私である、とは、永久不滅のものは私であるとみて、至福をみる
これは私の我である、とは、永久不滅のものが私(アートマン)であるとみる
上記のことは、正しくないという意味です
要約すれば、色受想行識(五蘊)は無常であり、常に変化してやまない、ゆえに、満足をもたらすものでない、ゆえに、それらはアートマンではないということです。
「色であるものは何であれ、
過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、
内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細かいものでも、
劣ったものでも、優れたものでも、遠いものでも、近いものでも、
そのすべての色を
『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と
このようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである」
バラモン達が不滅のもの(ブラフマン)とよぶもの
「天より上に達し、大地より下に達し、この天地両界に達し、過去・現在・未来にわたると、とかれるもの」
「内もなければ、外もない、粗でなく、細かくなく、影(小さい・劣る)暗闇(大きい・
優れている)、短くも長くもなく」
(ブリハットアーラスヤカ・ウパニシャット2・8・7)
上記はお釈迦様の時代より古くからあるウパニシャットという文献からの言です、ブラフマンとは、すべての空間にあり、過去・現在・未来にあり、内部・外部もなく、粗く・細く・劣り・優れ・短く・長くもない、とかたっています。
お釈迦様は、色受想行識という五蘊(人間)は、過去・未来・現在のものでも、内部・外部のものでも、粗い、細かいものでも、劣った・優れた、遠い、近いものでもないと語る、これはブラフマンとは、すべての空間にあり、過去・現在・未来にあり、内部・外部もなく、粗く・細く・劣り・優れ・短く・長くもないとするウパニシャットに対するお釈迦様の答えです、つまり色受想行識という五蘊(人間)は永久不滅の変化しないブラフマンではないとかたり、
これは私のものではない
これは私ではない
これは私の我(アートマン)ではない
あるがままに正しい智慧によって見るべきである
要約すれば、色受想行識(五蘊)は無常であり、常に変化してやまない、ゆえに、満足をもたらすものでない、ゆえに、それらはブラフマンではないということです。
そして、あるがままに正しい智慧で見るべきであると続き、解脱をかたります。
「色をも厭離し、受をも厭離し、想をも厭離し、行をも厭離し、識をも厭離する。
厭離のゆえに貪りを離れる。貪りを離れるゆえに解脱する。
解脱すれば、「解脱した」という智慧が生じる
『生存は尽きた。修業は完成した。なすべきことはなした、もはや生まれることはない』と知るのである」と
幸あるお方がこれを説かれると、五人のビクは、幸ある方の教説を心から喜んで受け入れました。この教説が説かれてるうちに、五人のビクは心に執着がなくなり、
根源的な欲(āsavehi cittāni)より解脱したのでした。
「彼の心に拠る欲望がすべて除き去られたとき、死すべき人は不死となり、この世において人間はブラフマンに達する」
(ブリハット・アーラカニア・ウパニシャット4・4・5)
同じくウパニシャットからの引用で、この詩は執着がない人はブラフマンと一体となり永遠の命(不死)を得るいう詩
下記は解脱について、お釈迦様の解脱の経験を語っている経典です。
お釈迦様は、「三つの明知(P. tisso vijjā)」を得ることで解脱したという経典(テーラガーター他)の記載があり、菩提樹の下で、初夜に「第一の明知」を、中夜に「第二の明知」を、後夜に「第三の明知」を得た、と説かれる(中部36 マハーサッチャカ経)
この「三つの明知」という言は、お釈迦様以前のインドでは「三ヴェーダ」を意味し、それは当時の主要な宗教の聖典、リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジャル・ヴェーダを指していた。
仏教ではこの「三つの明知」を言い換えて、第一の明知を宿命知(過去世を見通す知)、第二の明知を死生知(来世を見極める知)、第三の明知を漏尽(āsava-kkhaya)知(煩悩を滅する知)であり「四聖諦」を悟ることと、されている。
「三つの明知」という言は、初夜(夜の初め)に第一の明知を現象は原因があると知る(縁起の順観を知る)、第二の明知を現象は消滅していくと知る(縁起の逆観を知る)、第三の明知を悪魔の軍勢を粉砕している、あたかも太陽が天空を輝かすように(縁起の順観・逆観を知り悟りをえる)ということでもある(ウダーナ1・1~3参照)つまり縁起を悟ることです。
城邑経(相応部12・65)というお経では、お釈迦様が十支縁起を悟ったことを回想し、森をさまよう人が古の人が歩んだ道を見つけ、その道を進んで古い街を見つけるように。過去仏たちが歩んだ古の道を自分も見つけ十支縁起を悟ったと説き、この古い道とは「八聖道」であると説く、さらに、それぞれの縁起支の原因(集)、停止(滅)、道を悟りと説き、縁起を四聖諦と組み合わせて説く。
正覚経(相応部35・13~14)では内六処・外六処の十二処から、味楽経(相応部35・13)では五蘊から、離れることを知って、苦が生じることを知り、悟ったとあります。
「四聖諦」の「苦しみの滅」は「涅槃」「解脱」「厭う」と同義語です。四聖諦が説かれている経典である転法輪転教を見てください
苦しみ(dukkhaṁ)というのは、それは、要するに五取蘊苦とかたり。
苦しみの出現(dukkhasamudayaṁ)というのは、渇愛(taṇhā)から起こるとかたる
苦しみの滅 (dukkhanirodhaṁ) というのは、渇愛(taṇhā)から離れることとかたり
ここで渇愛とは、欲望への渇愛・生存への渇愛・非存在への渇愛を意味している
苦しみの滅へと導く道 (dukkhanirodhagāminī)というのは、八聖道とかたる
ここで四聖諦の「苦しみの滅」は智慧により、実現されたということは見逃してはなりません、そして五人のお弟子さん達に四聖諦を説いた後に、お釈迦様ご自身が四聖諦を「三転十二行相」という具体的な方法で四聖諦を悟ることによって解脱に達したと語っています。
十二縁起の逆観
無明が滅するから行か滅する。行が滅するから識か滅する。識が滅するから名色か滅する。
名色が滅するから六処か滅する。六処が滅するから触か滅する。触が滅するから受か滅する。受が滅するから渇愛か滅する。渇愛が滅するから執着か滅する。執着が滅するから有か滅する。有が滅するから生か滅する。生が滅するから愁悲苦憂悩か滅する。
このように、一切の苦の集まりが、滅する
線を引いた所を見てください、渇愛(taṇhā)が滅するから、結果をたどると、一切の苦の集まりが(kevalassa dukkhakkhandhassa)が滅するとあり、渇愛の原因をたどっていくと無明があります、無明とは「知らない」つまり無知のことで、十二支縁起とは、「無知が滅する」から始まり「渇愛が滅する」を経て「苦しみの滅」に至る「道」を表し、その具体的な方法が此縁起と呼ばれる下記の教えです。
これがあるからあれがある、これが生ずるからあれが生ずる。
これがないからあれがない、これが滅するからあれが滅する。
四聖諦を悟ることで解脱をえるという構造は、無知を第一原因とする十二支縁起と同じ構造です、つまり、渇愛の滅は智慧により、悟りにより実現されるということです。
四聖諦を悟ることで解脱に達したお釈迦様は
「わたしの心の解放は揺るぎないものだ。これが最終の生であり、もはやさらなる再生は 存在しない」と。(転法輪転教)
このように宣言されます、お釈迦様の「生」とは「さらなる再生は存在しない生」です
「さらなる再生は存在しない生」とはなにか、四聖諦で「苦しみの滅」の同義語「解脱」(S.mokṣa,vimukti,P.mokkha,vimutti)は、とらわれから解放されるという意味で、仏典では「生存のとらわれから全て滅した」(P.parikkhiṇabhavasaṃyojana)という言がよく出てきます。
お釈迦様が「三つの明知」を得ることで解脱したとありますが、「第三の明知」では四聖諦を悟ることにより解放されると説く。
Tassa me evaṃ jānato evaṃ passato
私は、このように知り、このように見る
kāmāsavāpi cittaṃ vimuccittha, bhavāsavāpi cittaṃ vimuccittha, avijjāsavāpi cittaṃ vimuccittha.
快楽の影響からも心が解脱し、生存の影響からも心が解脱し、無知の影響からも心が解脱した。
Vimuttasmiṃ vimuttamiti ñāṇaṃ ahosi.
解脱すれば、「解脱した」という慧が生じる
‘Khīṇā jāti, vusitaṃ brahmacariyaṃ, kataṃ karaṇīyaṃ, nāparaṃ itthattāyā’ti abbhaññāsiṃ.
「生存は尽きた。修業は完成した。なすべきことはなした、もはや生まれることはない」と知った。
(中部36 マハーサッチャカ経)
上記の経典では、快楽、生存、無知から解脱したとあります、これは十二支縁起の無明、生存(有)、執着(快楽は執着の一つ)に含まれる、つまり解脱とは縁起を滅することです。
お釈迦様以前のインドの主流の考えでは不死となる、言い換えれば、輪廻から主体たるアートマン(真の自己)を解放してブラフマンと一体となることが解脱と説いていたが、仏教では快楽、生存、無知からの心の解放が解脱と説いている。
そして上記の経典では、「自己」ではなく、無常である「心」(citta)が解脱すると説くことで、真の自己が輪廻から解放されるという意味は消えて、自己が作られ続ける心というしくみからの解放という意味に解脱という言を、言い換えてヴェーダを学んだ人々に説いています。
ウダーナ副読本 テーマ別
3・10 世とともに経に関連して
漏(Āsava)ついて
漏とは、煩悩が「漏れ出す」という意味で、経典では「心はāsavaより解脱した」とあります、「根源的な欲」と訳しましたが、重要で微妙な言葉ですので解説しておきます。
お釈迦様はāsavaについては、kāma(意欲・欲望)・bhava(生存への欲・業)・avijjā(無明)時としてdiṭṭhi (ものの見方)だと述べ、khīṇāsava(無漏)という言は、あらゆる解脱者を表す枕詞となっている。サンスクリット語ではāsrava(アースラヴァ)というのが対応する言で流入という意味で、煩悩が「漏れ入る」という意味になります。
お釈迦様と同じ時代にジャイナ教と現代呼ばれる一団があり、この一団とお釈迦様とは直接交流があり、お釈迦様がジャイナ教の人々を改宗させたという経典も伝わっています。このジャイナ教の教えでは、カルマ(業)という物質的な汚れが、本来天に昇る性質のジーヴァ(生命・魂)にへばりつき輪廻に繋ぎとめるという教えを説いていた。同じころカルマは、湿ってへばりつく物にまとわりつく塵、という例えがインドでは用いられていた。いずれも「汚れが流入」するというのがアースラヴァの意味になります。そしてこの汚れとはカルマ(業)や苦悩ということを指しています。
お釈迦様はāsavaという言葉をジャイナ教やお釈迦様の教えを知らない人々にも伝えるのにつかいました。ご自分の教えをお弟子さんに詳しく伝えるときには、「汚れの作用がはたらいていて、それが現れて(漏れ出して)いる様子そのもの」を言い表しています、
汚れ(kāma・bhava・avijjā)そのものを言うのではなく、嫉妬などの具体的な感情を直接捉えた言でもありません。お釈迦様の教では、そもそも魂はありませんから、魂に汚れ(煩悩)が「漏れ入る」というのはありえないことがらです。しかし、ジャイナ教の人たちなどに「汚れ(煩悩)の作用がはたらいる」と説明するときに、お釈迦様は「魂に流入(āsrava)してくる汚れのようなものがはたらいている」と語っていたのを、そんままお弟子さんにもāsavaということばを、煩悩(汚れ)が「漏れ出す」という意味に、言い換えて使っていました。お釈迦様がジャイナ教の言に新たな意味を吹き込んだ例です。
お釈迦様の教えでは、kāmaとは根源的な生存欲・意欲・衝動、bhavaとは生存これは業と生きる欲、avijjāとは無明これは根源的な欲の原因を言います、いずれも直接知覚できないもので、そのはたらきを知ることが出来るだけのものです、この直接知る(知覚)することの出来ない汚れのはたらきをāsavaと言い換えています。
そして直接知覚することの出来ないものは悟りには役に立たないので捨て置けと説いて、そのはたらきを知ればよいと説きます。
私(attan・我・自己)サンスクリット語でアートマン(ātman)は、直接知覚できない、あるかないかわからないが、汚れと同じように、自分と実感があるというはたらきを知ればよい、この教えを無我(anattan)と言います。
お釈迦様はこのように説法の相手が理解出来るような言を使い、お釈迦様の教えを、お弟子さんに説くときには、言に新たな意味を吹き込んで語ります、これを対機説法といいます。時代が下りお釈迦様の説法を当時のバラモンがどの様に理解していたかは知る必要がなくなりこのような事情は忘れられて行きます。
āsavaは直接知覚できない「ことがら」をお釈迦様がどの様に語ったかを知る例です、お釈迦様がお弟子さんに向けた説法で根本的な欲(煩悩)を直接語る言葉はありません、
日本語の漏(煩悩が漏れ出す)という翻訳は、直接知る(知覚)することの出来ない汚れのはたらきを表す言としては適切と思いますが、漏という言から本意を汲み取るのは難しいと思われます。
業(S.karman P.kamman)について
「作る」、「する」を意味するkṛから作られた言で、パーリ語では「作用」「行為」「振る舞い」を意味する。
ウパニシャットという、お釈迦様以前の時代からインドに伝えられている古い文献に出てくるヤージュニャヴェルキヤが、人間の死後の運命について尋ねられたときに、「人は善業によって善い者となり、悪業によって悪い者となる」(ブリハット・アーラカニア・ウパニシャット3・2・13)という考えを秘密の教えとして示したと伝えられるのが業という言が出てくる最初です、輪廻という考えがどの様に出てきたのかは歴史的に不明確なのですが、ここで業は「死後にも残存する潜在的な力」と考えられていたことは明らかです。
別のところでヤージュニャヴェルキヤは続けます、人間の臨終のときの様子を語ります
「彼の心臓の先端は輝き、その輝きとともに、‥‥‥‥認識する能力と
業と、そして前世を洞察する理智とは、彼(アートマン)にしがみつい
て出ていきます」
(ブリハット・アーラカニア・ウパニシャット4・4・2)
「あたかも草の葉につく蛭が葉の先端に達し、他の草の葉にとりつい
て、その身を縮めてその葉にうつろうとするように、まさしくこのア
ートマンはこの肉身を捨て、認識する力のない状態を離れて、別のも
のにとりついて、その身を収縮して、それに乗り移るのであります」
(ブリハット・アーラカニア・ウパニシャット4・4・3)
このようにアートマンが臨終のときに魂のように身体から身体に移り生まれ変わるとあります
さらにヤージュニャヴェルキヤは続けます
「執着ある人は、業とともに、彼の性向と意とがしがみつく処に赴く、
この世において彼がいかなることを作しても、その業の極限に到達し
たとき、彼は再び、新たに業を積むために、かの世界よりこの世界に
帰りくる」
(ブリハット・アーラカニア・ウパニシャット4・4・5)
この詩は欲望がある人は業とともに、新たにこの世で業を積むために生まれ変るという詩
「彼の心に拠る欲望がすべて除き去られたとき、死すべき人は不死とな
り、この世において人間はブラフマンに達する」
(ブリハット・アーラカニア・ウパニシャット4・4・5)
この詩は欲望がない人はブラフマンと一体となり永遠の命(不死)を得るいう詩
お釈迦様以前の業について記載しました、このように、「善行為から善い結果、悪行為から悪結果が得られる」と「業は死後にも残存する潜在的な力」など業の本質的な要素はすでにそなえていると考えていいと思います
お釈迦様以前の時代には、祭式(密教の護摩を想像してください)により願いが叶えられ神々さえも動かせるというのが主要な考えで、この祭式を行うのが「行為」(業)であり、
善行為(善業)とは主に正しい祭式を行う(行為)ことであり、
悪行為(悪業)とは主に正しくない祭式を行う(行為)ことである
とされていた。
ここでお釈迦様の言葉である経典から
私は、意志を業と説く、意志してから、身体・言葉・思考によって業(行為)をなす
(増支部6.63 洞察経)
意志という行い(行為)が原動力となり、身体を動かし・言葉を動かし・思考を動かし業(行為)が起こるという意味です。
お釈迦様は、意志(S.P.cetanā)を業と説くと明確に述べています、これはウパニシャットなどのお釈迦様以前の時代の言に新しい意味を吹き込んで使用し、当時のインドの人々にも馴染みの言で語りかけた例です。
インドのウパニシャットなどからは、「善行為から善い結果、悪行為から悪結果が得られる」と「業は死後にも残存する潜在的な力」いうことは引き継ぎながら祭式ではなく、善い意志が善い結果を、悪い意志が悪い結果をもたらすとお釈迦様は言い換えることで、
善行為(善業)とは倫理的に正しい意志で行うことであり
悪行為(悪業)とは倫理的に正しくない意志で行うことである
この様に説き、祭式から業を切り離し倫理(道徳)を中心に据えた。
アージーヴァッカ教という一団がお釈迦様の時代にインドにいて、現在も未来も運命によってすべて決まっていると説いていたが、それに対してお釈迦様は未来は現在の行い(行為)によって変わると説く。
さらにジャイナ経では業とは外から流入してくる物質だと説き、真の自己であるジーヴァはこの業のせいで輪廻を繰り返すので苦行によって業を振り落とすと考えた。
お釈迦様は業とは意志にもとづく行い(行為)なのだから苦行は必要ないと説く。
この他にも全ては主宰神により創造を原因とする考えや、すべては原因もなく条件もな
く偶然に起こるという考えも認めていない
すべて運命として予め決まっている、すべて主宰神が決める、すべては偶然ということでは、行為の善悪は成り立たず、倫理も成り立たない、すべては一人一人の意志が行為(行ない)が決める、これは意志という行為の原動力が善行為をすれば善なる結果、悪行為をすれば悪い結果を生むということです。お釈迦様の教えは、意志を業とすることで自業自得を基礎づけて、一人一人の心を正しくすることで、論理的な向上を目指していく教えです。
何が善行為、悪行為については現代の基準と大きな差異はないと思いますのでここでは省略します。
今までの説明で業というのは祭式を行う(行為)ことで、これらは主に物質的な行いを指しているのを、お釈迦様は意志(cetanā)と主に精神的な行いを指すことばに言い換えているのがお解りと思います、この意志という言はウパニシャットなどお釈迦様の時代の文献には殆ど出てこない言で、お釈迦様は新しい考えということでウパニシャットなどとは関係のない意志という言を使用したと思われます、しかしお釈迦様と出会う前にウパニシャットなどを学んできた人々には、馴染みのある業と同じような意味を持つ、行(S. saṃkhārā P.saṅkhāra)という言で説法していますので行を説明していきます。
行(S. saṃskhārā P.saṃkhāra)について
saṃskhārāは、「行う」「作る」「する」を意味するkṛに由来し、samは「ともに」を意味する、もともとは「組み合わせる」「構築する」という意味だと思われる。一般的にはバラモン階級の社会的・宗教的な、日本で言えば七五三・結婚式・葬式などに当たる儀式を指している。この儀式・祭式の目的は天界への再生であるのはヴェーダ文献で明らかなことです、ヴェーダのブラーフマナ文献という古い文献に、天界への再生(生まれ変わり)は祭式をとおし、「天界に自己(ātman)を作り上げる」ことにより実現すると述べられています、「天界に自己を作り上げること」は、この世で「自己を作り上げること」を必要とします。この「自己を作り上げる」という意味の、作り上げる(S.saṃskṛti)は、行(S. saṃskhārā)と同じ sam とkṛから作られた言で、天界とこの世を行き来する自己の再生つまり輪廻を前提としていて、業(S.karman P.kamman)も同じくkṛから作られた言です、そして祭式を行う為には社会的、伝統的な責務を果たすこと、つまり倫理的に正しい行い(行為)をするという意味です。
諸々の行為の原動力である意志(S.P.cetanā)と、意志の発現である行為(業)(S.karman P.kamman)が、行(S. saṃskhārā P.saṃkhāra)です。
意志を原因・過程、行為(業)を結果という意味もありまが、実際にはある言葉が原因で、その原因は意志であり結果があるなど、複雑に重なり合ってものごとは起こります、
行は文脈により原因・過程と結果の両方を表していき、必ず複数形で使われます、お釈迦様は業のことは悟りの為には考えるなと戒めています。ほどほどに考える事柄です。
五蘊について
五蘊は生命を構成する五つの要素と通常説明されますが、あらゆる経験を構成する五つの要素でもあります。
1、色(S.P. rūpa)は、五感(眼・耳・鼻・舌・身)とその対象(色・音声・
香・味・触)を含む物理的な働き、身体と感覚の対象。
2、受(S.P. vedanā)は、「見る」「知る」を意味するvidから作られた言葉
で「感じる能力」を意味する、認識器官と認識対象が接触して生じる感
受であり、苦・楽・苦でも楽でもないなどの感覚。
3、想 (S. saṃjñā P. saññā) は、共存や完成を意味するsamと知るを意味する
jñāから作られた言葉で「表象」を意味する。もともとは名称を意味す
る。受け取った情報を分ける、例えば視覚なら受け取っただけでは同じ
に感じているものを、赤と青、〇と△の様に分けて情報を現象(概念)
に変えるシステム。識と対をなす語形でもある。
4、行(S. Saṃskhār P. Saṅkhāra)は、想と同じく共存や完成を意味するsam
と作る、行うを意味するkṛから作られた言葉で、「組み合わせること」
「構成すること」「作り上げること」を意味する。意志(S.P.cetanā)、
意欲、生きていきたい、考えたい、行動したいなどの感情(衝動)と、
意志を原動力として発現した行為(業)(S.karman P.kamman)です
5、識(S.Vijñāna P. Viññāna)は、分離を意味するviと知るを意味するjñāから作
られた言葉で、分けて知ることを原意とし、対象を識別すること、この
分節作用を「認識」と言います。意識、認識するシステムです。
五蘊とは一人の人間を解りやすく説明するために、機能別に分けて説明したものです、身体と心を二つに分けて、さらに心を四つに分けて、観察すれば解りやすいというお釈迦様の教え、つまり瞑想で心を観察するときこのように分ければ観察しやすいという教えです。心は六処(眼・耳・鼻・舌・身・意)という場所で、対象(色・声・香・味・触・法)が触れて、感じて、判断する、この機能が心だということです
例えで説明します、あなたが、ある人を採用する時、面接をします、その会場を思い浮かべてください、ある人がドアを開けて入ってきます、その時にその人を見たり、声を聞いたり、します(受)この時に第一印象で、好ましい・好ましくない・どちらでもないか感じる。年齢や名前などを確認して(想)。会話をして、その人がどんな人か確認して行く、(行)、そして次の面接に呼ぶかどうか判断(識)する。この人がどのような人で、採用するかどうかは、二次、三次と何度も面接を繰り返して決める。
もう少し細かく説明します、面接では四人の面接官がそれぞれ、ある人を確認します、第一印象を見る係は、ドアを開けて入ってきた(触)人が、
(受)好ましいか・好ましくないか・どちらでもないか漠然と受け止める。
(想)次の係は、日々の過去の記憶(年齢や名前)と照合して印象を鮮明にして確認する。(行)その次の係は印象だけではなく過去の深い記憶や行いなども参考に善い人か・悪い人かなどを判断して次の係に誘導する、
この深い記憶や行い(業)と誘導するエネルギー(意志・衝動)は人の深い心にあり、生きようとする根本的な生存欲(意志・衝動)と意志を原動力とした発現である業です。
五蘊の色・受・想・識はものごとの、倫理的な善い・悪いとは関係しないで中立的な働きです。
(識)その次の係は、次の面接に呼ぶかどうか判断する。
最終的に採用するかどうかは五人で判断します
五蘊という分け方は現代でいう潜在意識と表層意識という分け方ではないです、身体と心をもつ一つの有機体(人)の仕組みを説明するのに五つに分けて説明しているだけで、五人の面接官が面接を何度も繰り返し一人を採用するかどうか決めるように、入ってきた情報を何度も繰り返し一つの身体と心がそれぞれの機能で何度も繰り返し分析して、これは、男だ女だ、赤だ青だ、善いか悪いかなどを判断していく過程を説明しています、初めの方の面接が潜在意識で後からの方の過程が表層意識となります。
この対象を識別すること、分節作用つまり感じることが心です。
五取蘊(S.pañcopādānaskaandha, P.pañcopādānakkhandha)について
この五取蘊とは五蘊に執着が伴っていることに力点を置いた呼称です。
お釈迦様が悟りを開かれた直後に十二縁起という形で悟りを確かめられて、このように最後に確かめられたと伝わっている
Evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa samudayo hotī
このように 全ての 苦の集まり(蘊) が起こる
(ウダーナ1・1)
このようにとは、十二縁起を確かめたということで、そのあとに苦の集まり(蘊)が起こるとお釈迦様は確かめている。
saṅkhittena pañcupādānakkhandhā dukkhā.
要するに 五つの集まり(蘊)に執着することも 苦しい
(転法輪転教)
お釈迦様の最初の説法で、四聖諦の苦(dukkha)の説明で、要するに苦とは、五つの執着の集まり(五取蘊pañcopādānakkhandha)であると説く。
二つの経典を見比べてみれば、共通しているのが解ると思います、十二縁起で「苦の集まり(蘊)」の「集まり(khandha)」は、四聖諦で「五つの執着の集まり(五取蘊)」と同じ言で、四聖諦ではこの「五つの執着の集まり」が苦だと定義されている、したがって縁起の「苦の集まり(蘊)」は「五つの執着の集まり(五取蘊)」を指していると考えてよいと思います。
無我について
無我(P.anattā)とは、自己(S.ātman P.sttā)はないという意味で、私心がない、夢中になるということではないです。
魂は永久不変で死んでも身体から離れて、生まれ変わるというのが一般的な考えです、無我というのは、この魂がないという考えだと誤解されているので、順番に説明していきます。
お釈迦様の生まれ育ったインドには、リグ・ヴェーダというお釈迦様の時代より古くからあるヴェーダ文献があり、プルシャという記載があり、その意味は「人・人我・本体」という言で、プルシャの真の性質は意識を有することであるとされる。リグ・ヴェーダの後の時代のシャタハラ・ブラーフマナという文献では「死すべきものはアートマンをもたない」とあり、その本質は不死なる実在つまり永久不変の存在と発展し、ウパニシャットではプルシャとアートマン(真の自我)は同じとみなされていく。さらにリグ・ヴェーダにブラフマン(宇宙の根本原理)という言が頻繁に出で来る、その元々の意味や語源などは明確には解らないがウパニシャットの時代にはブラフマンが宇宙の根本原理であるのは自明のこととされ、やがてアートマンはブラフマンであるとなり、真の自我であるアートマンは人が死ねば身体から別の身体に移り生まれ変わると考えがお釈迦様の時代には主流となっていた、そして現代的に言えばアートマンという小宇宙がブラフマンという大宇宙は同じだと覚ることこそ真理だという考えが常識となっていました。
お釈迦様の時代の無我についてもう少し説明
ああ、実に妻への愛情があるために、妻が愛しいのではない。そうでは
なくて、アートマンを愛するが故に、妻が愛しいのである。
ああ、一切に対して愛情があるために、一切が愛しいのではない。そう
ではなくて、アートマンを愛するが故に、一切が愛しいのである。
アートマンに執着するから一切が愛しい、一切に執着するから一切が愛しいのではない。
これはアートマンでないものをアートマンだと執着するのが迷いであり、この迷い(執着・自我意識)を捨てるのが肝心なことだという意味。
ああ、アートマンは見られるべきであり、聞かれるべきであり、思われ
るべきであり、瞑想されるべきである。実に、ああ、アートマンが見ら
れ、聞かれ、思われ、瞑想されたとき、この一切は識られたのである。
(ブリハットアーラヌヤカ・ウパニシャット4・5・6)
アートマン(自我)は見られ。聞かれ、思われ、瞑展想されるべき存在である、なぜなら、この世の一切のものの本体であり根源であるから、簡単には理解できないという意味。
この偉大で不生のアートマンは、実に諸機能の中において識別から成る
ものであります。‥‥‥心臓中にある空処、そこに横たわっています。 アートマンは不生で、認識作用からなり、心臓中にある空処にある
彼はこれらの諸世界が分裂しないように、それらを繋ぐ橋であります。‥‥‥
認識対象である情報(諸世界)を統合(識別)する、それらを成り立たせる(繋ぐ)もの、つまりアートマン(彼は)は認識主体であるという意味。
これさえ知れば、彼は聖者となります。‥‥‥
このアートマンを知れば聖者になれる
このアートマンは、ただ「あらず、あらず」と説かれて理解されます。
すなわち、彼は実に捕捉されえないものです。何故ならば、彼は捕捉され
ないからです。
(ブリハットアーラヌヤカ・ウパニシャット4・4・22)
アートマンは「あらず、あらず」というように肯定的に表現できず、否定的に表現しなければ理解できない、そして、捕捉されえないものです。何故ならば、彼は捕捉されないからとは、「認識主体は認識対象でないので認識できない」という意味。
これは実に偉大で不生のアートマンで、不老・不滅・不死であり、恐れ
のないブラフマンである。ブラフマンは実に恐れがない。何故ならばこの
ように知る者は実に恐れのないブラフマンとなるからである。
(ブリハットアーラヌヤカ・ウパニシャット4・4・25)
アートマンはブラフマンであるという言明
「認識主体は認識対象でないので認識できない」とは後の時代には、「包丁は自らを切れない」という例えがあります、これはアートマン(自我)というのは認識対象つまり認識できる世界の外にあるものであり、アートマンを認識(知ったり・捉えたり)することは原理的にできないということで、このことを人類で初めて言ったのはウパニシャットにでてくるヤージャヴァルキヤです。
アートマン(我)は認識できる世界の外にある存在であり、認識対象にある世界のどれもアートマンでなく、身体も心もアートマンではない、そして世界のなにかをアートマンだと見るのは錯誤だということです。
お釈迦様はこの説を前提に五蘊一つ一つを観察するようにと無我相経で説いています、そして、この我(アートマン)は自分の身体でも心でもないのに、自分の本体であり愛しいものと錯覚する、この錯覚を執着と呼んでいます。そしてこの執着を離れるのが悟りと説いています、この教えが無我です。
お釈迦様は遍歴行者ヴァッチャコッタに「自己(sttā)は存在するのか」と問われて沈黙し「自己(sttā)は存在しないのか」と問われて沈黙しヴァッチャコッタが去った後、アーナンダ尊者がなぜ答えなかったのかと質問したときのお釈迦様の答えです。
アーナンダよ、私が遍歴行者ヴァッチャコッタに「自己(sttā)は存在するのか」と問われたときに、もし私が「自己は存在する」と答えたならば、アーナンダよ、これは、かの、永遠を説く行者・祭官らの側になってしまう。また、アーナンダよ遍歴行者ヴァッチャコッタに「自己(sttā)は存在しないのか」と問われたときに、もし私が「自己は存在しない」と答えたならば、アーナンダよ、これは、かの断滅を説く行者・祭官らの側になってしまう。
(相応部44・10 アーナンダ経)
「自己は存在する」と答えないのは、認識主体としての自己の存在を認めていないからであり「自己が存在しない」と答えないのは、死後はなにも無く自己もなくなるということを認めないということです。
十二縁起支は、存在すると存在しないの両方を認めない教えです、一切が存在する(常住諭)と一切が存在しない(断滅諭)の両方を斥けます。両方とも極端であり、その両方を斥けるのが中道であり、お釈迦様の教えであり、十二縁起です。
さらに、行為者(因)と行為の結果(果)の受け手が同一だという、ものの見方を永久不滅の自己があると考える誤り(常住諭)に陥るとして斥け、行為者(因)と行為の結果(果)の受け手が異なるという、ものの見方を行為者と行為の結果の相続を否定する誤り(断滅諭)に陥るとして斥ける、その両方を斥けるのが中道であり、お釈迦様の教えであり、十二縁起です。
(相応部12・17 裸形カッサバ経)より
十二縁起について
縁起とは「原因によって生じる」や「依存生起」という意味で、因果関係を示した教えで、十二縁起とは、なぜ苦しみが生じるかを示したおしえです。
この十二縁起は実際には無数にある因果関係を、お釈迦様が選んで十二にまとめて説いたもので、人が生きていく過程では無数の縁起が有り、傾向性(性格など)は生まれる前からすでにあり、生まれてから無数のことを経験し、死んで、また生まれる、この過程(プロセス)が十二縁起です。
一つの例を上げます
十二縁起に受から渇愛・渇愛から執着が生まれるとあります、ある人を見たり聞いたりして、ある人を欲しい(愛しい)と思うまでには多数の過程があります、まずある人を見た時に他の人とこの人を判別(認識)するのに多くの過程があります、(五蘊の説明を参考)そしてある人を欲しいと思うまでには恋愛ドラマのように、喜び・怒り・憎しみ・嫉妬・努力・動揺などの感情が無数に働き(原因となり結果となり)ある人を欲しいとなる、この無数の因果関係を、受から渇愛・渇愛から執着が生じるというように表現しています。このように人が生きていく(生存)過程を因果関係としてお釈迦様が選んで説いた教えです。
①無明avijjā→②行saṅkhāra→③識viññāṇa→④名色nāma-rūpa→⑤六処saḷāyatana→⑥触phassa→⑦受vedanā→⑧渇愛taṇhā→⑨執着upādāna→⑩有bhava→⑪生jāti→⑫老死愁悲苦憂悩jarā maraṇaṃ soka parideva dukkha domanassa upāyāsā
無明・行・識・名色はインドの最も古いウェーダ文献(世界最古の文献とも言われている)の創造神話に由来する。
最初にこのように始まります。そのとき、無もなく、有もない。これが「無明」です。
次に、意欲(kāma)があらわれます、この段階では混とんとした状態です、この意欲をお釈迦様は「行」(saṃkārā)と呼んでいます、この意欲とは、なにかを形作る力(形成力)です。
宇宙開闢の歌では順番は明確ではないのですが、思考(心・manasu)が生じます。これをお釈迦様は「識」(viññāṇa)と呼んでいます。
「名色」はお釈迦様の時代のバラモンにとってはお馴染みの言葉で創造神話に由来しています、この世界がまだ混とんとした状態の時に名(nmaā)と形(色・rūpa)というものによって、個別の生命(個人)というものが出来たという神話をお釈迦様が説明に使ったことばです、つまり名色とは個人(意識を宿す有機体)がここで形成(生じた)したということです。
眼・耳・鼻・舌・身・意という「六処」という場所が出来ます、これは認識をする場所が生じたということです。
六処という場所でそれぞれ、例えば耳と声が接触して認識が起こります、これが「触」
情報 を受け取り、反応し、記憶とつけ合わせます。これが「受」です。
感情などが作用して「渇愛」が生じます
渇愛を原因として「執着」が生じます、この執着が輪廻(生まれ変わり)の原因です
「有」は生存ということです、bhava(生存・有る)というのは、「行」が生じて「識」が生じて「名色」生じる、と同じ過程を意味しています。
「生」は生きる苦しみを意味しています。
生まれることを原因とした「老死愁悲苦憂悩」は死を含む苦しみです
もう少し詳しく説明します
お釈迦様の生まれ育ったインドには、リグ・ヴェーダというお釈迦様の時代より古くからある文献に記されている「宇宙開闢の歌」というのがあります、お釈迦様が悟りを開いて直後から一定の期間は、お釈迦様の教えに触れたことのないバラモンと呼ばれる修行者に向かって説法しています、このバラモンはヴェーダと呼ばれる教えを学んで修行している人々ですから、ヴェーダの言葉をつかい、ときにはヴェーダにあることの応答という形で説法をしています、十二縁起のはじめの四支(無明→行→識→名色)は「どのように存在するのか」(存在論)をお釈迦様がヴェーダへの応答として説いた教えに思われるので解説していきます。先ずはここから
そのとき無もなかった、有もなかった‥‥‥‥‥最初に意欲(カー
マ・欲)はかの唯一物に現じた。これは意(マナス・心)の第一の種子
(レータス)であった。
詩人ら(霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め、有の連絡(起源)を
無に発見した。
(リグ・ヴェーダ 宇宙開闢の歌 10・129)
順番は不明確ですが、無もなく、有もない(nāsad āstīi)状態から意欲(kāma)思考(心・manasu)熱(tapasu)が生じるとあります、これは混とんとした状態から、形作るちから・心・熱(生命)が生じたという物語りです。
この宇宙開闢の歌は現在でもインドの根源的な思想となっています
人の根源的な問いは「どのように存在するのか」(存在論)「どのように知るのか」(認識論)ですが、宇宙開闢の歌では、心や欲が生まれた順番も理由も(認識論)、存在(有)はどのように生まれた(存在論)かも明確でなく、二つの問は明確に区別されずに絡み合っていた。お釈迦様は「どのように存在するか」は悟りには役に立たないので捨て置いて「どのように経験するか」に置き換えて、通常の経験にアクセス可能なもので、原因抜きにして存在するものはないので、宇宙の起源、第一の原因、神といったものは存在しえないとした。
①無明とは、宇宙開闢の歌では、無もなく、有もないという表現になります、存在も非存在を確かめることもできない、これらを区別することもできないため、存在も意識もない、原始の段階が無明です。
お釈迦様の無明は
知らない、わからないという意味です。これは言葉にするときは、どこかから始めなければならないので、無明と表現しただけで、人間の経験では直接とらえられないものです。
「どのように知るのか」とは経験とはなにかと同じことで、意識(識・心)の起源を見出そうとすることです。お釈迦様は、識の原因は行つまり業と意志(衝動)と説くことで、それまで絡み合っていた識(意・心)と業(業と意志)を五蘊に見られるように説明上分離した。
同時に行(業と意志)を含む心は、ウパニシャットの時代と同様に生きている時は、善行為から善い結果、悪行為から悪い結果を生じさせ死後も残存する力(エネルギー)であるという教えは継承して、行が心の連続体を続けるエネルギーで、その行を含む心が変化を繰り返しながら続いていくと説いた、つまり心の連続体が変化を繰り返しながら続いていく、これが輪廻です。
②行とは、宇宙開闢の歌では、意欲(kāma・欲)にあたる、この意欲(kāma・欲)が創造を開始するとあり、この段階で、無意識の原基的な状態から発現するものを行(saṅkhāra)と言ってます。意欲(kāma)は渇愛(taṇhā)と同じ意味の言です。心の第一の種子(レータス)である、レータスとは精液も意味し、欲望の種子という意味もある。
お釈迦様の行は
組み合わせること、構成すること、作り上げること、を意味する言で。意志、意欲、生きていきたい、考えたい、行動したいなどの感情(衝動)と、意志を原動力として発現した行為(業)です
天土の初めはただ人間の形をしたアートマンだけがあった。彼が身の
回りを見渡した時、アートマン以外のなにものも見えなかった。彼は初
めて口を開いて、「これは我(アハム)である」といった。
(ブリハットアーラヌヤカ・ウパニシャット1・4・1)
真理(S.satya)は、同時に存在(S.sat)であり、存在することは本質に属し、その真理に、きづいていることも同じです。真に思考するなら、自らそう思うところのものとなる、つまり、主体と客体についてのきづきが展開し、今度はそれが個体化へ向かうということ、
ですから、存在とは、きづき(S.cit P.citta)であり意識(S.vijñāns P.viññāṇa)です
意識とはウパニシャットでは火に例えられる場合が多く、アートマンに内在し、同時にブラフマンとアートマンは同じものなのでブラフマンにも内在する、これは主体でもあり客体でもある。そして意識が存在する前提条件であり、永久不滅の物であり身体から身体に乗り移る物質的なものであると考えられていて、真の存在と意識は絡み合っているので、存在論と認識諭は一体となっている。
意識とはお釈迦様は燃焼経で説くように火を意識に例えて、燃料となる、薪により燃えて薪の火が生じる、草が燃えて草の火が生じる様に、燃料となる執着(貪・瞋・痴)により眼・色が触れて(燃えて)眼識が生じる、耳・声が触れて耳識が生じる様に、意識は何かについての意識でなければならないとし、主体と客体は互いに前提条件として、双方が揃わないと成立しない、意識は意識が存在する前提条件ではなく、永久不滅の物でなく、
身体から身体に乗り移る物質的なものでもなく、因果的に条件付けられ変化をしていくものです。識は五蘊の一つであり、行(業・意志)と一つの心として働き経験を生み出すが、分類的には分離していて存在論と認識諭は分離され、お釈迦様の教えでは真の存在たるアートマンとブラフマンと意識(S.vijñāns P.viññāṇa)は絡み合ってない。
③識とは、宇宙開闢の歌では、意考(心・manasu)にあたる、この段階では、自らを認識するに止まり、唯一の実態しか存在しないが、ここから主体と客体についてのきづきが展開していく。
お釈迦様の識は
分離と知る、を意味する言で、分けて知ることを原意とし、対象を識別すること、この分節作用を「認識」と言う。意識、認識するシステムです。
ここで、お釈迦様は五蘊でも同じですが、行と識を分離しています、これはヴェーダでは意欲(kāma)(行にあたる)、思考(心・manasu)(識にあたる)は、存在論と認識諭、つまり「何が存在するか」「何をいかに知りえるか」は互いに絡み合っているが倫理とは関係ない、しかしお釈迦様の教えでは、根本的な衝動(駆動力)は、行となり、これは生きることと経験を善悪という論理から眺めることであり、心(識)の一例としての、思考の善悪を決めるなにかがどこで働くかを見出すだけでよいということになります。
ここで論理とは根本的にはどこから来るのかわかりません、なにかとしか表現できないのですが、論理の中身は過去の記憶の蓄積で、社会的な生命としての人間の記憶やそれ以前の生命としての記憶の蓄積がことの善悪を論理として現出させます、お釈迦様はこの論理を業の中心にそえています。
お釈迦様の教えでは業のことは「善いことには善い結果、悪いことには悪い結果がある」このことを見出すこと、それ以上は捨て置けとなります。
ウパニシャットの名色に関する詩を引用
このとき、万物は未分化であった、ア-トマンは名と色の両者をもちい
て、「これはこのような名、このような色(形)である」というように万
物を個別化した、それで今でも、名と色を用いて「これはこのような名、
このような色(形)である」と限定される
アートマンは爪の尖まで満ちわたっているが、例えば刀が鞘に収まって
いるように‥‥‥何人も彼は見えない
アートマンは常に部分的である、息する時は気息(プラーナ)という名
になり、語っている時は語、聴いている時には耳、思考している時には意
という名になる。
(ブリハットアーラヌヤカ・ウパニシャット1・4・7)
この世界がまだ混とんとした状態の時に名(nmaā)と形(色・rūpa)というものによって、個別の生命(個人)というものが出来たというお話 つまり名色とは個人(意識を宿す有機体)がここで形成(生じた)したということで、これを個別化と呼ぶ、これはアートマンが形成されたことを示す。
同時にアートマンは身を潜めてしまう、これは複数の異なる名と色(形)に分割されて、一つの全体として見られる能力を失う、これはアートマンが名と色(形)を与えることは、認識を困難なものとすることを意味する。このことが、お釈迦様が意識を宿す有機体を表すために名色という言葉を選んだ理由に思われる。このお話からアートマンを斥ければ、意識を名と色に分離することは、認識を困難にするということになる。
なお名色とはインド最初の哲学者とされるウッダーラカ・アールニ(紀元前8世紀ころ)が、認識の対象となる事象も名と色(形)により捉えられるという意味で使った言葉で、お釈迦様の時代にはお馴染みの言葉でした。
④名色とは、意識を宿す有機体(個人)の出現ということ。
後の時代になる名色は五蘊として説明されます、個人の出現が五蘊で説明されるのは自然なことだと思いますが、お釈迦様が説法をしているのがヴェーダを学び修行していた人々で、ヴェーダの教えを当てはめながら理解していることを考えて、このように解釈してみました。
①~④が「どのように存在するのか」(存在論)で、ここまでは個人というものが生じるまでを語っています、ヴェーダの創造神話に対するお釈迦様の答えでもある
⑤から⑦は渇愛が生まれるまでの過程を具体的に語っている。
⑤六処とは、眼耳鼻舌身意という六つの認識の窓口のこと。認識が起こる場所です。
外の世界とかかわりをもつということです
⑥触とは、情報を感じる場所である眼耳鼻舌身意と個人の外の情報である色声香味触法が触れるということ。
⑦受とは、触れることにより起こった情報を受け取ること。
受から渇愛が生じるまでは無数の感情などが働き、想や行なども働き、つまり蓄積された過去の記憶とも付け合わせ、概念を作り、妄想も作ります。
⑧から⑫は渇愛から苦(dukkha)が生じるまでを語る
⑧渇愛とは、受け取った情報に対して、これ欲しいということです。
⑨執着とは、これ欲しいから、これは私のものとしてつかんで離さなくなり、囚われることです。
執着を原因にして意志や行為(業)つまり、行が生じます。
この執着が輪廻の原因とお釈迦様は教えています。
⑩有とは、元々は生まれるための条件、環境が揃っている次元ということ、お釈迦の時代は常識とされていたが時代と共に忘れられて行きます。現代語では、生命の存在する空間という意味で、生存という言葉を使います。行動すること、この世に生きること、生きることとは、見る聞く・嗅ぐ・味わう・触れる・考えることで、意志して行動すること(行為)と同じ、つまり行と同じですが行は個別化する前の段階の用語で有は個別化した後の用語です、個人の苦(dukkha)はどのように生まれるかの説明が十二縁起なので用語が変わります。
お釈迦の時代は、⑩有で生命の生まれる条件が揃って⑪生は生まれ
るという簡単な理解で伝わったと思われます。
⑪生とは、誕生のこと、この世に個人として生まれること。
⑫老死愁悲苦憂悩とは、死を含む苦(dukkha)です
宇宙開闢の歌
一 そのとき無もなかった、有もなかった、その上の天もなかった。なにものか活動したのか、誰かの庇護の下(もと)に。深くして測るべからざる水は存在したのか。
二 そのとき、死もなかった、不死もなかった。夜と昼との標識(日月・星座)もなかった。かの唯一物(中性の根本原理)は、自力により風なく呼吸した(生存の徴候)。これよりほかに何ものも存在しなかった。
三 太初において、暗黒は暗黒に蔽われていた。この一切は標識なき水波であった。空虚に蔽われ発現しつつあるもの、かの唯一物は、熱の力により出生した(生命の開始)。
四 最初に意欲はかの唯一物に現じた。これは意(思考力)の第一の種子であった。詩人ら(霊感ある聖仙たち)は熟慮して心に求め、有の連絡(起源)を無に発見した。
五 彼ら(詩人たち)の紐は横に張られた。下方はあったのか、上方はあったのか。はらませるもの(男的な力)はあった、能力(女性的な力)あった。自存力(本能、女性力)は下に、衝動力(男性力)は上に。
六 だれか正しく知る者であるか、だれかここに宣言しうる者であるか。この創造(現象界の出現)はどこから生じ、どこに来たのか。神々はこの世界の創造より後である。しからば誰が創造がどこから起こった、だれが知る者であろうか。
七 この創造はどこより起こったか、かれは創造したのか、あるいは創造しなかったのか、── 最高天にあってこの世界を監視する者のみが実にこれを知る。あるいはかれもまた知らずない。
要約すれば
一、太初はなにもない
二、かの唯一物以外はなにもない(ここでは男女は未分化)
三、太初では宇宙は水から始まり熱により出生
四、意欲(カーマ)・思考(マナス)・第一の種子(レータス)が起こっ
たことをかたる
カーマは愛欲・衝動 マナスは心・思考力 レータスは精液などを意
味します
水のようなかの唯一物からマナス・カーマとレータス(性的な衝
動)により熱(生命)が生まれたとよめます
五、唯一物が男女両性に分化して性交渉により、第二次的創造が始まった
ことを指す
六、だれが、どこかで、いつ、おこったかはわからないと終わる
日本の創造神
天と地が分かれ、日本の創世は始まる。
天上界である高天原にアメノミナカヌシノカミ、タカミムスビノカミ、カムビノカミ、といった三柱が現れては姿を消した。國推いころまだ水に浮く油のように、海月のように漂っている時に、葦の芽のようにすくすくと生まれたのがウマシアシカビヒコジノカミ(成長力の神)、天上をとこしえに支えるように生まれたのがアメノトコタニノカミら二柱の神が現れた。ここまでが男女に分かれる前の独神(ひとりがみ)で姿を現さず、コトアマツカミと呼ばれた。国土の根源神クニノトコタチノカミとトヨクモノノカミこの二神も独神(ひとりがみ)で姿を現さなかった。次に泥や砂の神ウヒジニノカミ、イモスジニノカミ、次に杙などの神ツノグヒノカミ、イモイクグヒノカミ、次に居場所の神オホトノジノカミ、イモオトノベノカミ、次に人体の完備と意識の神オモダルノカミ、イモアヤカコネノカミ、次にイザナキノカミとイモイザナミノカミという男女対に五組の神々が現れた。
この最後に現れた二柱は他の神々から国土を創るように命じられ。二柱は天地の間にかかる天浮橋の上に立ち、矛でおぼろな地をかき混ぜ、そして矛を引き上げた時、滴り落ちた雫が積み重なって、オノゴロ島ができ。二柱はこの島に降り立ち、社を建てる。
ここでイザナキがイザナミにどんな身体をしているか、尋ねます。イザナミは一箇所できていない所があると答えました。イザナキは「私は一箇所できすぎています。これであなたのできていない所をふさいで、国土を産みたい」と、持ちかけます。イザナミもそれを承諾します。
二柱は早速それぞれ反対側から柱を廻り、出会った所でイザナミが先に声をかけ、契りを結びます。そして生まれたのは骨のないヒルコ。先に女神であるイザナミが声をかけたのがまずかったみたいで、他の神の助言を得ながら二柱はやり直します。
そして無事に、日本列島にあたる八つの島々が生み出されました。
最初に生み出されたヒルコは流され、どこかに辿りついたそうです。
成長力は植物で表現されていますが、動物で表現すれば意欲です
一、要約すれば太初はなにもない、
二、独神(ひとりがみ)は、姿を現さず
三、國推(おさない)いころ地上は水で満たされていた
四、水から葦の芽のようにすくすくと生まれ(成長力・意欲)、国土の根源
神クニノトコタチノカミとトヨクモノノカミ(島の誕生を語る神話なの
で生命の元とよんでいいと思いま)、人体の完備と意識の神オモダルノ
カミ、イモアヤカコネノカミ、が生まれた
五、イザナキノカミとイモイザナミノカミが矛でおぼろな地をかき混ぜ(性
行為)、そして矛を引き上げた時、滴り落ちた雫が積み重なって、オノ
ゴロ島ができ。二柱はこの島に降り立ち、社を建てる。(第二次的創
造)
六、独神(ひとりがみ)は姿を現さないです。
宇宙開闢の歌と日本の創造神話は、概ねよく似た神話です、創造神話は世界各地でよく似た物語が数多くあります、地理的に離れた場所でも共通の物語があるのは人類に共通のイメージが反映されているという説が現在広く支持されています、そしてこのイメージは人類が、どこからきて、どこへいくのか、という哲学で言えば存在論になります、お釈迦様はこのことを無明→行→識→名色と表現したと思われます。
ウダーナ 1菩提の章
第一の菩提の経~第三の菩提の経
Evaṃ me sutaṃ—
このように、わたしは聞きました。
ekaṃ samayaṃ bhagavā uruvelāyaṃ viharati najjā nerañjarāya tīre bodhirukkhamūle
paṭhamābhisambuddho.
あるとき、お釈迦様はウルヴェーラーに住んでおられた。ネーランジャラー川の岸辺にある菩提樹の根元で悟りを、
Tena kho pana samayena bhagavā sattāhaṃ ekapallaṅkena nisinno hoti
得てすぐのころ、七日のあいだ瞑想姿で坐っておられた。
vimuttisukhapaṭisaṃvedī.
悟りの安楽を得た
Atha kho bhagavā tassa sattāhassa accayena tamhā samādhimhā vuṭṭhahitvā
お釈迦様は七日が過ぎ瞑想から覚められて、
rattiyā paṭhamaṃ yāmaṃ paṭiccasamuppādaṃ anulomaṃ sādhukaṃ manasākāsi—
夜の初めのあいだ物事が縁によって生起することわりを順に確かめられました。
“Iti imasmiṃ sati idaṃ hoti, imassuppādā idaṃ uppajjati,
これがあるからあれがある、これが生ずるからあれが生ずる。
yadidaṃ—
すなわち、
avijjāpaccayā saṅkhārā, saṅkhārapaccayā viññāṇaṃ, viññāṇapaccayā nāmarūpaṃ,
無明を縁として行が生ずる。行を縁として識が生ずる。識を縁として名色が生ずる。
nāmarūpapaccayā saḷāyatanaṃ, saḷāyatanapaccayā phasso, phassapaccayā vedanā,
名色を縁として六処が生ずる。六処を縁として触が生ずる。触を縁として受が生ずる。
vedanāpaccayā taṇhā, taṇhāpaccayā upādānaṃ, upādānapaccayā bhavo,
受を縁として渇愛が生ずる。渇愛を縁として執着が生ずる。執着を縁として有が生ずる。
bhavapaccayā jāti, jātipaccayā jarāmaraṇaṃ sokaparidevadukkhadomanassupāyāsā sambhavanti.
有を縁として生が生ずる。生を縁として愁悲苦憂悩が生ずる。
Evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa samudayo hotī”ti.
このように、一切の苦の集まりが、起こる
Atha kho bhagavā etamatthaṃ viditvā tāyaṃ velāyaṃ imaṃ udānaṃ udānesi—
お釈迦様は、このことわりを知って、ウダーナを唱えました
“Yadā have pātubhavanti dhammā, / Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa.
精進して修行(観察)するバラモンに/確かに、(理法)現象が現れて来る
Athassa kaṅkhā vapayanti sabbā, / Yato pajānāti sahetudhammaṃ.
そこで彼は、現象には原因があると知って / その時、知っているので一切の疑が消える
Evaṃ me sutaṃ—
このように、わたしは聞きました。
ekaṃ samayaṃ bhagavā uruvelāyaṃ viharati najjā nerañjarāya tīre bodhirukkhamūle
paṭhamābhisambuddho.
あるとき、お釈迦様はウルヴェーラーに住んでおられた。ネーランジャラー川の岸辺にある菩提樹の根元で悟りを、
Tena kho pana samayena bhagavā sattāhaṃ ekapallaṅkena nisinno hoti
得てすぐのころ、七日のあいだ瞑想姿で坐っておられた。
vimuttisukhapaṭisaṃvedī.
悟りの安楽を得た
Atha kho bhagavā tassa sattāhassa accayena tamhā samādhimhā vuṭṭhahitvā
お釈迦様は七日が過ぎ瞑想から覚められて、
rattiyā majjhimaṃ yāmaṃ paṭiccasamuppādaṃ paṭilomaṃ sādhukaṃ manasākāsi—
夜の中ごろのあいだ物事が縁によって生起することわりを逆順に確かめられました。
“Iti imasmiṃ asati idaṃ na hoti, imassa nirodhā idaṃ nirujjhati,
これがないからあれがない、これが滅するからあれが滅する。
yadidaṃ—
すなわち、
avijjānirodhā saṅkhāranirodho, saṅkhāranirodhā viññāṇanirodho, viññāṇanirodhā nāmarūpanirodho,
無明が滅するから行か滅する。行が滅するから識か滅する。識が滅するから名色か滅する。
nāmarūpanirodhā saḷāyatananirodho, saḷāyatananirodhā phassanirodho, phassanirodhā vedanānirodho,
名色が滅するから六処か滅する。六処が滅するから触か滅する。触が滅するから受か滅する。
vedanānirodhā taṇhānirodho, taṇhānirodhā upādānanirodho, upādānanirodhā bhavanirodho,
受が滅するから渇愛か滅する。渇愛が滅するから執着か滅する。執着が滅するから有か滅する。
bhavanirodhā jātinirodho, jātinirodhā jarāmaraṇaṃ sokaparidevadukkhadomanassupāyāsā nirujjhanti.
有が滅するから生か滅する。生が滅するから愁悲苦憂悩か滅する。
Evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa nirodho hotī”ti.
このように、一切の苦の集まりが、滅する
Atha kho bhagavā etamatthaṃ viditvā tāyaṃ velāyaṃ imaṃ udānaṃ udānesi—
お釈迦様は、このことわりを知って、ウダーナを唱えました
“Yadā have pātubhavanti dhammā, / Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa.
精進して修行(観察)するバラモン(聖者)に / 確かに、(理法)現象が現れて来る
Athassa kaṅkhā vapayanti sabbā, / Yato khayaṃ paccayānaṃ avedi”ti
そこで彼は因縁によって、現象が消滅と知って/その時、知っているので一切の疑が消える
Evaṃ me sutaṃ—
このように、わたしは聞きました。
ekaṃ samayaṃ bhagavā uruvelāyaṃ viharati najjā nerañjarāya tīre bodhirukkhamūle
paṭhamābhisambuddho.
あるとき、お釈迦様はウルヴェーラーに住んでおられた。ネーランジャラー川の岸辺にある菩提樹の根元で悟りを、
Tena kho pana samayena bhagavā sattāhaṃ ekapallaṅkena nisinno hoti
得てすぐのころ、七日のあいだ瞑想姿で坐っておられた。
vimuttisukhapaṭisaṃvedī.
悟りの安楽を得た
Atha kho bhagavā tassa sattāhassa accayena tamhā samādhimhā vuṭṭhahitvā
お釈迦様は七日が過ぎ瞑想から覚められて、
rattiyā pacchimaṃ yāmaṃpaṭiccasamuppādaṃ anulomaṃ sādhukaṃ manasākāsi—
明け方に物事が縁によって生起することわりを順に確かめられました。
“Iti imasmiṃ sati idaṃ hoti, imassuppādā idaṃ uppajjati,
これがあるからあれがある、これが生ずるからあれが生ずる。
yadidaṃ—
すなわち、
avijjāpaccayā saṅkhārā, saṅkhārapaccayā viññāṇaṃ, viññāṇapaccayā nāmarūpaṃ,
無明を縁として行が生ずる。行を縁として識が生ずる。識を縁として名色が生ずる。
nāmarūpapaccayā saḷāyatanaṃ, saḷāyatanapaccayā phasso, phassapaccayā vedanā,
名色を縁として六処が生ずる。六処を縁として触が生ずる。触を縁として受が生ずる。
vedanāpaccayā taṇhā, taṇhāpaccayā upādānaṃ, upādānapaccayā bhavo,
受を縁として渇愛が生ずる。渇愛を縁として執着が生ずる。執着を縁として有が生ずる。
bhavapaccayā jāti, jātipaccayā jarāmaraṇaṃ sokaparidevadukkhadomanassupāyāsā sambhavanti.
有を縁として生が生ずる。生を縁として愁悲苦憂悩が生ずる。
Evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa samudayo hotī”ti.
このように、一切の苦の集まりが、起こる
avijjānirodhā saṅkhāranirodho, saṅkhāranirodhā viññāṇanirodho, viññāṇanirodhā nāmarūpanirodho,
無明が滅するから行か滅する。行が滅するから識か滅する。識が滅するから名色か滅する。
nāmarūpanirodhā saḷāyatananirodho, saḷāyatananirodhā phassanirodho, phassanirodhā vedanānirodho,
名色が滅するから六処か滅する。六処が滅するから触か滅する。触が滅するから受か滅する。
vedanānirodhā taṇhānirodho, taṇhānirodhā upādānanirodho, upādānanirodhā bhavanirodho,
受が滅するから渇愛か滅する。渇愛が滅するから執着か滅する。執着が滅するから有か滅する。
bhavanirodhā jātinirodho, jātinirodhā jarāmaraṇaṃ sokaparidevadukkhadomanassupāyāsā nirujjhanti.
有が滅するから生か滅する。生が滅するから愁悲苦憂悩か滅する。
Evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa nirodho hotī”ti.
このように、一切の苦の集まりが、滅する
Atha kho bhagavā etamatthaṃ viditvā tāyaṃ velāyaṃ imaṃ udānaṃ udānesi—
お釈迦様は、このことわりを知って、ウダーナを唱えました
“Yadā have pātubhavanti dhammā, / Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa;
精進して修行(観察)するバラモン(聖者)に / 確かに、(理法)現象が現れて来る
Vidhūpayaṃ tiṭṭhati mārasenaṃ, / Sūriyova obhāsayamantalikkhaṃ.
かれは悪魔の軍勢を粉砕している / あたかも太陽が天空を輝かすように
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ナンダの章が、第三となる。
その章のための、摂頌となる。
詩偈に言う
「行為(行為の報いから生じるもの)、ナンダ、ヤソージャ、サーリプッタ、コーリタ(マハーモッガッラーナ)、ピリンダ(ピリンダヴァッチャ)、カッサパ(帝釈天の布施)、托鉢、技能があり、世とともに、それらの十がある」