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四聖諦について
以前にブッダ・心のことば ウダーナ第1章1~10 (完全版)の仏教副読本としてNOTEにも書きましたが、ウダーナ3.10 世とともに経はあまりにも広い内容のお経ですので事前に必要な内容をあげておきます。
四聖諦
第一聖諦ドゥッカの本質
ブッダがヴァーラーナシーの近くのイシパタナで、かつての修行仲間に対して行なった最初の説法〔初転法輪〕で説いた四つの公理〔四聖諦〕です
四つの真理とは、
Iドゥッカの本質
2ドゥッカの生起
Sドゥッカの消滅
4ドゥッカの消滅に至る道です
第一の真理 ドゥッカの本質
最初の公理は「ドゥッカの本賢」です、仏教では「生はドゥッカ(苦しみ)、痛みに他ならないと解釈されている、そしてこの解釈も、不十分で、誤解を招くものです 事実、この「ドゥッカ」の意味を部分的にしか伝えない、その表面的解釈が、仏教は厭世的だという誤ったイメージをもたせることになったようです。
仏教は現実主義
仏教は悲観主義でも楽観主義でもなく、生命を、世界をあるがままに提える現実主義です、仏教はものごとを客観的に眺め、分析し、理解する 仏教は誤って人びとに人生は楽園であると思い込ませたり、恐がらせたり苦悶させたりしない、仏教は人間と世界のあるがままを正確に、客観的に説き、平安、静寂、幸福への道を示すものです。
ドゥッカについて
バーリ語(サンスクリット語)のドゥッカは、一般的には苦しみ、痛み、悲しみ、惨めさを意味し、幸福、快適、安楽を意味するスッカの反対語です。しかし、四つの公理のうちの第一の真理の場合のドゥッカは、ブッダの人生観、世界観を表わしており、深い哲学的な意味があり、はるかに広い意味で用いられている。普通の意味の苦しみも含まれてはいるが、不完全さ、無常、実質のなさといったさらに深い意味があり、第一の真理に用いられているドゥッカが含むすべての概念を.一語で表わすのは難しい ドゥッカを悲しみ、痛み、苦と訳すのは、便利ですが、不十分なのでドゥッカと表記していきます。
お釈迦様は 幸せを否定はしていません、幸せがあることを認めている。しかしそれらはすべてドゥッカに含まれる、瞑想の境地も、幸せとされる次元も、心地よさあるいは不快さといった感覚を超越し、沈静した意識の次元も、すべてはドゥッカに含まれる。そして、それらは無常で、ドゥッカで、流れるものであると述べている ここで注意しなければならないのは、ことさらドゥッカという用語が使われていることです 普通の意味での苦しみがあるからドゥッカなのではなく、「無常なるものはすべてドゥッカである」からドゥッカなのです。
ところでビク達よ、これが苦しみという真実(苦聖諦)である
生まれるも苦(生苦)。老いも苦(老苦)。病も苦(病苦)。死も苦(死苦)。
焼かれるような悲しみ、悲嘆、もろもろの苦しみ、憂惨、苛立ちも苦しい。
好まざるものとの出会いは苫しい(怨憎会苦)。
好ましいものとの離別は苦しい(愛別離苦)。
望んでも手に入らないことも苦しい(求不得苦)。
要するに、五蘊に執着することも苦しい(五取蘊苦)
(初転法輪経)
苦聖諦というのは、この世は苦(ドゥッカ)に満ちみちていることは真実で、具体的には四苦八苦であるというのが日本での伝統的な解釈で、それは、生苦、老苦、病苦、死苦の四苦、それに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五取蘊苦の四苦を加えて八苦、という数え方をする。
生苦は、「この世に生きていることが苦である」というようなことであるというのが一般的な考えで、誕生時の苦のこと、つまり、赤子の産声は、そうした激痛に堪えかねて泣いている声だという、この生苦とはそうしたことであるともいわれる、生苦の「生」の原語である「ジャソマ」は、「生きていること」ではなく、「生まれること」を意味し、「輪廻」の別名は、「生死」(ジャンマ・マラナ)で、生きていることと死ぬこと」ではなく、「生まれることと死ぬこと」を意味するという解釈もある。
老苦は、老いに伴う苦(ドゥッカ)。
病苦は、まさに文字どおり、病気に伴う苦(ドゥッカ)。
死苦も、まさに文字どおり、死に伴う苦(ドゥッカ)。
愛別離苦とは、愛する人と別れることに伴う苦(ドゥッカ)。
怨憎会苦とは、煩わしい嫌な人と人間関係を持つことに伴う苦(ドゥッカ)。
求不得苦とは、欲しいものが手に入らないことに伴う苦(ドゥッカ)。
五取蘊苦は、以上の七苦を要約したもので、心身が活動していることそのもの、つまり、この世に生きていること自体が苦(ドゥッカ)だということ。
ドゥッカと五集合要素は二つの異なるものではなく、五集合要素そのものがドゥッカです。いわゆる「存在」を構成する五蘊(五集合要素)を少し角度を変えて記載します。
(1)色 (物質・ルーパ)
この物質という集合要素のこと、眼、耳、鼻、舌、身体と、それらが感知する対象、色かたち、音、香、昧、触と、心の感知対象(意)となる思い、考え、概念などが含まれる。内的、外的物質の領域は、物質という集合要素に含まれる。
身体の細胞システムと理解すればいいと思います。
(2)受 (感覚・ヴェーダナー)
人間が外の世界との肉体的、心的接触によって体験する快適な、不快な、どちらでもない感覚のすべてが含まれる。それは以下の六種類に分類される。
①眼が色かたちと接触することによって経験される感党
②耳が音と接触して経験される感覚
③鼻が匂いと接触して経験される感覚
④舌が昧と接触して経験される感覚
⑤身体が物と接触して経験される感覚
⑥心が感知対象、思いや考えと接触して経験される感覚
体中に機能する感覚のことで、感じる能力です。身体事態が外の世界を、自分がいることを、感じることです。触れたものを感じ、自分に体があることを感じます。私達の感受性自体が、受です。これは心のはたらきです。肉体的、心的なすべての感覚は、この中に含まれる。
仏教では、心は、機能、あるいは眼や耳といった器官という一機能で、他の機能と同様に、制御し発達させることができると、お釈迦様は頻繁にこの六機能を制御し、訓練することの大切さを述べている。
眼は色かたちを感知し、心はアイデアや考え、心的なことがらを感知する。私たちは色を聞くことはできないが、見ることはできる。同様に、音を見ることはできないが、聞くことはできる。こうして、私たちは肉体的器官-眼、耳、鼻、舌、身体-でもって、色かたち、音、香、味、そして接触できる物だけを体験する。これらは、ほんの一部にしか過ぎず、世界のすべてではない。アイデアや考えも同じく世界の一部であが、感覚的に捉えることができない。眼、耳、鼻、舌、身体では認識できない。それは心という、もう一つ別な器官、機能で感知される。アイデアや考えは、これら五つの肉体的器官で体験されるものから独立してはいない。実際には、それらは肉体的な体験に依存し、条件付けられている(影響される)。ですから、生まれつき眼の見えない人は、眼以外の機能によって体験できるものを通じてさまざまなものを知ることはできるが、色の概念をもつことはできない。アイデアや考えは、世界の一部ではあるが肉体的な体験によって生じ、条件付けられており、心によって感知される。ということで、心は、眼や耳と同じように、感覚機能、器官とみなされる。
(3)想 (識別・サンニャー)
眼耳鼻舌身意に入る情報を現象(概念)に変えるシステムです。感覚と同じく、識別も、六種類の内的機能とそれらに対応する外的対象に分類される。感覚と同じく、識別も六機能が外的世界と接触することにより生起する。肉体的なものであれ、心的なものであれ、ものごとを感知するのは想になります。
(4)行 (意志・サンカーラ)
善悪にかかわらず、すべての意図的行為が含まれる。生きていきた、行動したいなどの気持ち(行為)です、感情(衝動)です。
お釈迦様は業(カルマ)をこう語っています。私は、意志(チェータナー)を業(カルマ)と説く、意志してから、身体・言葉・思考によって業(行為)をなす
意志とは、「心的構築、心的行為」で、その役割は、善悪、そのどちらでもない行為の領域で、心に指示を与えることです。感覚・識別と同じく、意志にも受と同じく、六種類ある。受と想は、意志的行為(意志がはたらいているの)ではない。だから、受と想は、カルマの結果を生じない。注意力、意志、信念、自信、集中力、叡智、エネルギー、欲望、嫌悪や憎しみ、無知、うぬぼれ、自我意識といった意図的行為だけが、カルマの結果を生みます。
(5)識 (意識ヴィンニャーナ)
認識するシステムのことです。意識は、六つの機能(眼、耳、鼻、舌、身体、心)のうち、どれか一つを基礎とし、それらに対応する六つの外的対象(色かたち、音、匂い、味、接触できる物、心的対象すなわちアイデアや考え)のどれか一つに対する反応か返答です。
視覚意識は眼を基礎とし、見える色かたちを対象としている。心的意識は、心を基礎とし、心的対象、アイデアや考えなどを対象としている。ですから意識は他の機能と関連している。こうして意識も、感覚、識別、意志と同じく、内的機能、とそれに対応する外的対象の六種類に分けられる。
意識は対象を認知しないです。それは、対象が存在するということに気付く、感知の一種で、眼が色-たとえば青-と接触すると、視覚意識が生じるが、それは単に色がそこに存在するということに気付くだけで、青であるとは認知しない。それが青であると認知するのは、想なのです。「視覚意識」は、一般にいう「見る」ということを意味する哲学用語である。「見る」ことは、識別することではない。他(聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の意識に 関しても同様です
ここで意識とは、一般的にいう魂のようなものだという誤解が多いので、このことについて記載していきます。
サーティという、お釈迦様の弟子の一人が、「お釈迦様は『同じ意識が輪廻しさまよう』と、お教えになられました」と述べた。
そこでお釈迦様は、サーティが「意識」をどう理解しているのかを問うた。サーティは「意識とは、善悪の行ないの結果を表現し、感じ、体験するものである」と答えたが、これは当時のインドの主流な、いわば古典的な考えです。
師はそれを戒めて。
「私がそんな教えを説いたのを耳にしたという愚かな弟子がいるか? 私は「意識は条件から生起し、条件のないところに意識は生起しない」と繰り返し、さまざまな方法で説かなかったか?」
師は続けた。
「意識は、生起する条件によって、名付けられる。眼と色かたちによって生起する意識は、視覚意識と名付けられる。耳と音によって生起する意識は、聴覚意識と名付けられる。鼻と匂いによって生起する意識は、嗅覚意識と名付けられる。舌と昧によって生起する意識は、味覚意識と名付けられる。身体と接触感知対象によって生起する
意識は、触覚意識と名付けられる。心と(心的)感知対象によって生起する意識は、心的意識と名付けられる」
火の喩え(燃焼経)
お釈迦様は、さらに喩えによって説明した。火は、燃える材料によって命名される。薪が燃えて生まれる火は、薪火と命名される。藁が燃えて生まれる火は、藁火と命名される。それと同じく、意識もその由来となる条件によって命名される。
この点に関して、注釈者ブッダゴーサは、こう説明している。
「薪が燃えて生じる薪火は、薪がある限り燃えるが、薪がなくなった瞬問に消える。なぜなら条件がなくなったからである。薪火は、破片などに燃え移り、薪火として燃え続けることはない。それと同じく、眼と色かたちによって生起する意識は、眼、色かたち、光、注意などの条件が揃って初めて生起するのであって、条件が揃わず、なくなれば、消える」
お釈迦様は、意識は色、受、想、行に依存しているのであって、それらから独立しては存在しえない、と明白に述べている。
「意識は、物質を手段とし、物質を対象とし、物質に依拠して生起し、喜びを求めて成長し、増大し、発展する。色の代わりに、受、想、行に関しても同じです。」
だれかが、『色(物質)、受、想、行と無関係に、意識が生起し、去来し、成長し、増大し、発展するのをお見せしよう』と言ったとしたら、彼は何か実在しないもののことを語っているのである」
すべては流れる
要するに、存在するのは五つの集合要素である。私たちが存在、個人あるいは「私」と呼んでいるのは、この五つの集合要素の結合に対する名称に過ぎない。それらはすべて無常であり、絶えず流れるものである。「無常なものはすべてドゥッカである」というのが、「要するに、執着の五集合要素はドゥッカである」というお釈迦様のことばの真意です。二つの連続する瞬間を通じて、同一。であり続けるものは何一つとしてない。すべては、一瞬ごとに生起し。一瞬ごとに消滅し、流れていく。お釈迦様はラッタパーラにこういっている。
「バラモンよ、それはあたかも、すべてを流し去り、遠くまで流れゆく山間の急流のようなものである。流れが止むことは、一瞬、一時、一秒たりともない、流れ続けるだけである。バラモンよ、人の命はこの山問の流れのようなものである、世界は絶えず流動し、無常である」因果律に従って、一つのものが消滅し、それが次のものの生起を条件付ける。その過程で、変わらないものは何一つとしてない.そのなかで、持続的「自己」、「個人」、「私」と呼べるようなものは存在しない 色、受、想、行、識の中で、一つとして本当に「私」と呼びうるものがないということです。相互に依作し合うこれら五つの肉体的、心的集合要素が、肉体的・心的機械として結合して機能するとき、「私」という概念が生まれる。しかし、それは間違った考えです。
苦しみは存在するが、苦しむ主体は存在しない
一般に「存在」と呼ばれる、この五つの集合要素の全体はドゥッカそのものです。五集合要素の背後には、「存在」も「私」もない。ブッダゴーサはこう述べている。
「苦しみは存在するが、苦しむ主体は存在しない。行為は存在するが、行為主体は存在しない」
流れの背後に、自らは流れることがない流れの主体はいない。ただ単に流れがあるだけである。人生は流れというのは間違っていて、人生は流れそのものである。人生と流れは二つの異なったものではない。言い換えれば、思考の背後に思考者はいない。思考そのものが思考者である。仮に思考を取り除いてみても、その背後に思考者は見出せない。
生命には始まりも終わりもない
生命には始まりがあるか、お釈迦様の教えによれば、生きものの生命の始まりは考えられないということです。生命の創造を信じる人に、神の始まりは何か?と尋ねたら、神に始まりはないと答えるでしょう。ビックバンの起こる前はどこかと問えば、考えられないという答えになるでしょう。お釈迦様はこう言っている。
「弟子たちよ、この輪廻の周期には目に見える終わりがない。そして、この無知に包まれ、渇望の足かせに束縛された彷徨も、いつから始まったのかわからない」
輪廻の最大の原因である無明に関して、お釈迦様はさらにこう述べている。
「無明は、この時点で最初に起きた。それ以前に無明はなかったと定めることは不能だ」
そうしてみると、この時点以前には生命はなかったということは不可能である。突き詰めると、これがドゥッカの真理の意味です。この第一の真理を明確に理解することは、非常に大切です。なぜなら、お釈迦様が言っているように。
「ドゥッカを見るものは、ドゥッカの生起を見、ドゥッカの消滅を見、ドゥッカの消滅に至る道を見る」からです。
第二聖諦ドゥッカの生起
ところでビク達よ、これが苦しみの出現という真実(集聖諦)である。
それは、渇愛と再生をもたらし
あれこれの歓喜を求める渇望である。それはすなわち
(1)欲望への渇愛・(2)生存への渇愛・(3)非存在への渇愛である。
四聖諦の第二「ドゥッカの生起」は経典ではこのように記載されています
(1)感覚的喜びに対する渇望、(2)生存に対する渇望、(3)非生存に対する渇望
(1)~(3)の意味
(1)~(3)が再生存、再生成を生み、貪欲と結びついて次から次へと新たな喜びを見出す、さまざまなかたちをとって現われるこの、渇望、欲求、貪欲、飢えが、すべての苦しみと存在の継続を生起する.しかし、これが絶対的主囚ではないです、この渇望は、ドゥッカの原因、起源と見えるが、他の何かに依存して生起する それは受であり、受はまた接触によって生起する.さらに接触はまた……と続き、この輪が、縁起です.ですから、渇望はドゥッカの生起の第一の、あるいは唯一の原囚ではないが、直接的原囚であり、主囚ではあります。ですから、いくつかのパーリ語原典におけるドゥッカの生起の定義には、渇望が第一に挙げられているが、それ以外の汚れたもの、不浄なものも記されている。この渇望は、主として無知から来る誤った自己の考えに起囚していると述べるだけで十分です。
ここでいう渇望は、単に感覚的喜び、富、権力に対する欲望、あるいは執着を指すだけではなく、アイデア、考え、意見、理論、概念、欲望、あるいは執着を意味する。お釈迦様の分析によれば、この世の問題や争いは、すべては利己的な渇望から生じる。お釈迦様はラッタパーラにこう説いている。
「世界は物資に欠乏し、物資を欲しがり、渇望の奴隷と化している」
世界の諸悪の根源は利己的な欲望ですが、この渇望が、再生存と再生成を生み出すかを把握するのは容易ではない。ここで第二聖諦のより深い哲学的側面を掘りさげる、それにはカルマと再生の理論を理解しておかねばならない
生存および生存の継続
生存および生存の継続には、原囚あるいは条件という意味で四つの「栄養素(エネルギー)」がある
1普通の物質的食べ物
2感覚器官(心を含めた)と外的世界との接触
3意識
4心的意志
である。
このうちの最後の心的意志が、生き、存在し、再存在し、継続し、増大しようとする意志です.それが、善悪の行為を行なうことにより、存在、継続の根源を生み出す。それが意志(行・業)です。お釈迦様は「意志はカルマである」としている.心的意志とは、生存に対する渇望のことであり、非生存(再存在)に対する渇望、つまりは、輪廻(生存)する栄養素のことであり、感覚的喜びに対する渇望とは、意志(行)から生じる、輪廻(生存)する栄養素である執着のことです。
こうして、渇望、意志、心的意志、カルマは同一のものを指していると言える.それは、欲望であり、生存し、存在し、再存在し、増大し、一層蓄積しようという意志である これが、ドゥッカの生起の原囚であり、存在を構成する五蘊(五集合要素)の一つである意志のうちに含まれる。
ドゥッカの原因はドゥッカの中にある
今述べたことがブッダの教えの中で、もっとも重要な点です。ですから、ドゥッカの原因、芽は、ドゥッカ自身の中にあり、外にあるのではないということを、理解し、認識し、ドゥッカの消滅、破壊の原囚、芽も同じくドゥッカのうちにあり、外にあるのではない、ということをよく認識する必要がある これが「生ずるものは、一切が滅するものである」という、有名なパーリ語定言の意味です、存在、ものごと、システムは、うちに生起の性質をもっていれば、同様にそのうちに消滅、破壊の原因、芽ももっている。ドゥッカは.五取蘊(五集合要素)は、自らのうちに生起の性質をもっており、同じく自らのうちに消滅の性質をもっている。この点は、第三聖諦の章で再度取り上げます。
カルマは意図的行為
カルマ(サンスクリット語 パーリ謡ではカンマ)は、行為、行ないを意味する 仏教では、すべての行為を指すものではなく、意図的行為のみを指す。意図は、欲望と同じく、善い場合も、悪い場合もある。カルマも善い場合も、悪い場合もある。善いカルマは善い結果を生み、悪いカルマは悪い結果を生む。渇望、意図、カルマは、善いものも悪いものも、結実として一つの力をもつ。善い方向でも、悪い方向でも、継続する力です。善悪というのは相対的なものであり、輪廻の中で言われることです。
アラカンは行為をなすが、カルマを集積しない。なぜなら、自己という誤った概念、継続、生成への渇望、他の汚れがなく。再び生を受けることはない。
カルマの理論は、原因と影響、行為と反応の理論です。それは自然法則であり、正義、賞罰という考えとは関係ない。すべての意図的行為は、その結果、結実を生み出す。善い行為が善い結果を、悪い行為が悪い結果を生み出すとしても、それは行為自体の性質、道理のせいであり、意図的行為の結果が死後の生においても現れ続けるという点である。ここで、仏教における死を説明します。
生と死
存在(生命)とは、肉体的、心的なさまざまな力あるいはエネルギーのコンビネーションに過ぎないです。死とは、肉体的身体の機能停止であり。身体が機能停止すると、これらの力やエネルギーは完全に停まってしまうとは、仏教では考えない。意志、意図、欲望は、存在し、継続し、増大しようという渇望は、すべての命、すべての存在を動かす途方もない力である、これは、世界でもっとも大きな力であり、もっとも大きなエネルギーです。仏教は、この力が身体の機能停止、死によって停まるとはない、それは、別のかたちで現われ続け、存在、再生を生み出すと考えます。現代物理学のエネルギー保存の性質を思い浮かべればいいとおもいます、自己、一般に魂といった永続的、不変的実体あるいは実質がないとすれば、死後に何が再び存在し、再び生まれるのか、私たちが生と呼ぶものは、肉体的、心的エネルギーのコンビネーション、五取蘊(五集合要素)のコンビネーションです、これらは絶えず変化しており、連続する一つの瞬間に同一のままであることはない.毎瞬間、生まれ、死ぬ。「ビクたちよ、集合要素が生起し、朽ち、死ぬとき、あなたがたは生まれ、朽ち、死ぬ」
こうして、この今の生においても、瞬間瞬間ごとに私たちは生まれて死んでいるが、それでも私たちは継続する 自分とか魂といった永続的、不変的実体なしで、私たちが今この生を継続しているということが理解できたなら、こうした力が、身体の機能が停止したあとも、あとに残された自己や魂なしで継続できる、ということが理解できるでしょう。
死後のエネルギーの継続
肉体的身体が機能しなくなっても、それとともにエネルギーは死なない。それは別なかたち、姿をとって継続し、それが再生と呼ばれる。子供の肉体的、心的、知的能力は、成人となる可能性を秘めている.存在を継続する肉体的、心的エネルギーは、自らのうちに新たなかたちをとり、次第に成長する力を内在している。
永続的、不変的実体が存在しない以上、ある瞬間から次の瞬間に継続するものは何もない.だから、ある生から次の生へと生まれかわる永続的、不変的なものは何もないことは明らかです。途切れなく継続するのは連鎖であるが、それは.瞬間瞬間、変化する.連鎖とは、実際のところ運動エネルギーです.燃え続ける炎のようなものです.同じものでもなく、また別なものでもない、大人は、60年前の子供と同じではないが、かといって別人でもない 同様に、ここで死に、別なところに生まれかわった人の場合、同一人でもなければ、別人でもない。同じ連鎖の継続、流れです。死と生の区別は、思考瞬間の違いだけです。この生の最後の思考瞬問が、いわゆる次の生の最初の思考瞬間の原因となる。この生でも、ある思考瞬間が次の思考瞬間の原因となる。この存在しよう、生成しようという渇望がある限り、継続の輪(輪廻)は続く。それが止むのは、現実、真理、ニルヴァーナを見る智慧によって、その原動力である渇望(煩悩)が断たれるときです。
第三の聖諦ドゥッカ(苦)の消滅
第三の聖諦は、ドゥッカ(苦)の消滅です、これは悟り(ニルヴァーナ)の真理と言い換えてもよいです。
ところでビク達よ、これが苦しみの滅という真実(滅聖諦)である。
それは渇愛を離れることによって、完全に滅すること、捨てること、放棄すること、解き放たれること、依存しないことである。
ドゥッカを完全に滅するには、その主な根源である渇愛を離れること、これが聖諦です、悟りとは、渇愛の消滅、とも呼ばれるので、ここでは、悟りについて記載していきます。
陸地を歩いてきた亀が、池に戻って魚にそのことを話した。魚は「陸ではもちろん、泳いできたのでしょう?」と言った。そこで亀は、陸地は固く、その上では泳げないので歩く、ということを説明しようとした。しかし魚は、そんなことはありえない、自分のすむ池と同じく陸地も液体で、波があり、潜ったり、泳いだりできるに違いないと言い張った。
このお話のように、私達は悟りのような未知のことがらは言葉では表現できませんが、陸地とは池ではないとまでは、表現できます。そこでお釈迦様は、~でない、というような否定的なことばで、悟りを表現してきています、一言では、停止、燃焼、吹き消す、などです。
お釈迦様がどのように、悟りを表現したか記載していきます。
ビクたちよ、その場所(処)は存在する
そこには、地なく、水なく、火なく、風なく、
この世なく、あの世なく、月と日もない。
ビクたちよ、そこにおいて、わたしは、
来る所(現世)を説かず、行く所(来世)を説かず、
在る所を説かず、死を説かず、生まれるを説かず、
涅槃は、なにによっているのでなく、なにから生み出されたのでもなく、
なにに支えられているのでもない
これこそは、苦の終極である
〈ウダーナ8-1より抜粋〉)
ビクたちよ、
『生じたもの』ではなく『存在するもの』ではなく『形成されたもの』ではなく
『条件づけられた』ではないもの(涅槃)は存在する
ビクたちよ、
『生じたもの』ではなく『存在するもの』ではなく『形成されたもの』ではなく
『条件付けられたもの』ではないもの(涅槃)がないとしたら
『生じたもの』『存在するもの』『作られたのもの』『条件付けられたもの』からの出離は覚知されない
ビクたちよ
『生じたもの』ではなく『存在するもの』ではなく『形成されたもの』ではなく
『条件付けられたもの』ではないもの(涅槃)が存在することから
『生じたもの』『存在するもの』『形成されたもの』『条件づけられた』からの出離が覚知される
(ウダーナ8-3より)
涅槃とは、地水火風なく、この世(loka)でも他の世界でもないような領域(āyataana)が存在し、そこには死の再生も存在しない、それこそが苦の終わり(anto dukkhassa)である。つまり苦の終焉である涅槃とは、生ぜず(Ajāta)、存在せず(abhūta)、形成されず(akata)、条件付けられていない(asaṅkhata・無為の)ものであり、そこでは縁生の現象が生成消滅しないから、死も再生も存在しないということ。
このような涅槃が存在するから、条件付けられた現象(この世・世間)を出離することが可能で、有為の現象を超えた所に、無為の領域が存在するから、覚知(目覚め・悟り)により、世間からの出離、すなわち渇愛を離れること、これが苦しみの滅、つまり悟り(涅槃)です。
悟りについては、経典(テーラガーター他)に「三つの明知(P. tisso vijjā)」を得ることで解脱したという記載が多数出てきます。「三つの明知」とは、第一の明知を宿命知(過去世を見通す知)、第二の明知を死生知(来世を見極める知)、第三の明知を漏尽(āsava-kkhaya)知(煩悩を滅する知)であり「四聖諦」を悟ることと、されている。
菩提樹の下で、初夜に「第一の明知」を、中夜に「第二の明知」を、後夜に「第三の明知」を得た、と説かれる
(中部36 マハーサッチャカ経)
「三つの明知」という言は、初夜(夜の初め)に第一の明知を、現象は原因があると知る(縁起の順観を知る)、第二の明知を、現象は消滅していくと知る(縁起の逆観を知る)、第三の明知を、悪魔の軍勢を粉砕している、あたかも太陽が天空を輝かすように(縁起の順観・逆観を知り悟りをえる)ということでもある(ウダーナ1・1~3)つまり縁起を悟ることです。
正覚経(相応部35・13~14)では内六処・外六処の十二処から、味楽経(相応部35・13)では五取蘊から、離れることを知って、苦が生じることを知り、悟ったとあります。
城邑経(相応部12・65)という経典では、お釈迦様が十支縁起を悟ったことを回想し、森をさまよい古の人が歩んだ道を見つけ、その道を進んで古い街を見つけるように。過去仏たちが歩んだ古の道を自分も見つけ十支縁起を悟ったと説き、この古の道とは「八聖道」であると説く、さらに、それぞれの縁起支の原因(集)、停止(滅)、道を悟りと説き、縁起を四聖諦と組み合わせて説く。
「わたしの心の解放は揺るぎないものだ。これが最終の生であり、もはやさらなる再生は存在しない」と。(転法輪転教)
このように宣言されます、お釈迦様の「生」とは「さらなる再生は存在しない生」です
「さらなる再生は存在しない生」とはなにか、四聖諦で「苦しみの滅」の同義語「解脱」(S.mokṣa,vimukti,P.mokkha,vimutti)は、とらわれから解放されるという意味で、仏典では「生存のとらわれから全て滅した」(P.parikkhiṇabhavasaṃyojana)という言がよく出てきます。
お釈迦様が「三つの明知」を得ることで解脱したとありますが、「第三の明知」では四聖諦を悟ることにより解放されると説きます。
私は、このように知り、このように見る。快楽の影響からも心が解脱し、生存の影響からも心が解脱し、無知の影響からも心が解脱した。
解脱すれば、「解脱した」という慧が生じる
「生存は尽きた。修業は完成した。なすべきことはなした、もはや生まれることはない」と知った。
(中部36 マハーサッチャカ経)
上記の経典のように、快楽の影響・生存の影響・無知の影響(厭離と離貪)からも心が解脱した者には、必ず「解脱した」との慧が生じる、というのは、経典において何度も繰り返されている仏説の基本です。いわゆる「解脱知見」を得た修行者は、「生存は尽きた」とか、「修行は完成した」とか、「なすべきことはなした」とか、「もはや生まれることはない」とか、そのような自覚を明白にもつ。つまり、涅槃を証得した者は、その時点で決定的に転換するということであり、それは以後も変わることのない、修行の完成でもあるということです。
このように解脱・涅槃は本来、曖昧なものではなく、決定的で明らかな転換であったということは、経典で明示されていることで、少なくともお釈迦様の教について考える上では外すことのできない特徴です。それでは修行の完成とは、解脱知見とはなにか。実際に、きづきの実践を行って、内面に生じる煩悩を自覚し、現象を観察し続けていても、たしかに執著は薄くはなるが、根絶されるということはない。仏教では煩悩は、数多くの輪廻による長い間がある過去の業の結果として生起しているものである以上、百年程度の一生のあいだ、それを「堰き止め」続けたところで、「煩悩の流れ」が尽きてしまうことはないからである。なすべきことはなしたと、言い切るためには、流れを根絶させる(塞ぐ)ための決定的な別の経験が、必要とされるということです。
師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、
きづきである。(きをつけることが)
煩悩の流れを防ぎまもるものである、とわたしは説く。
その流れは智慧によって塞がれるであろう。」
(スッタニパータ 1035)
経典では、煩悩の流れをせき止めるのが「きづき(Sati)であり、智慧(Paññā)によって塞がれるとあります。煩悩は流れていくが、先ず止めるのは、きづきであり、流れを塞ぐ(根絶する)のが智慧であるということです。
きづき(Sati)は、日本では伝統的に、念、と訳されていて、近年ではマインドフルネスと訳され広まっています、基本的には、現状にきづいている、自覚的である、と考えていいと思います。きづきの実践に関しては、長部経典・22、大念処教(Mahāsatipaṭṭhāna-sutta)に詳細にあります。
智慧とは、考えること、つまり哲学談義や本を読むことではなく、過去の知識を学び、その結果として徐々に到達するものでないです。ここで経典に出てくる例を取り上げてみます。
お釈迦様の侍者として有名なアーナンダ尊者は、お釈迦様に二十五年間仕え、その教法を最も近くで聴き続けた有名な仏弟子で、経典への登場回数も非常に多く、多くの説法を聴いて記憶していても、お釈迦様の生きているときには、悟れなかった人でもあった。そのアーナンダ尊者が修行を完成したのはいつであったかというと、それはお釈迦様の死後、第一結集か開催される直前のことであった。
律蔵「小品」の記述によれば、マハー・カッサパの主唱で開催されることになった結集の前夜、きづきの実践を行って過ごした。しかし、それでも解脱には至らず、明け方に、「横になろう」と身体を傾けたその瞬間、「頭が枕に達せず、足が地を離れない」あいだに、アーナンダ尊者の心は煩悩を離れて解脱したのである。と伝えられています。
このお話は、「悟り」が、推論や思考の進行の結果として徐々に到達される概念的分別知ではなくて、瞬時に起こる決定的な転換、いわゆる直覚知であるということを、教えています。智慧をえる、というのは直覚知をえること、それは悟りをえるのと同じ意味ということです。
悟りの経験、それ自体についても、表現したいのですが、悟りとは、生ぜず、存在せず、形成されず、条件付けられていない(無為の)ものであるということで、言語の領域(虚構の名称papañcasaṅkhā)を超えているので表現不可能なことです。
ここまでの記載で、言語の領域、虚構の名称の世界、から眺めた限りの、悟りの性質や、悟りを経験した結果について表現してきましたが、悟りそれ自体の表現は言語表現の限界です。ただ言えるのは、悟りが起こった時には、煩悩の炎が実際に消えてしまうということだけです。
お釈迦様の教である四聖諦はここで終わりではありません、ここは非常に大切なところで、この点に関する無理解から、現代日本に見られる仏教に対する誤解の多くも起こっているように思われます。渇愛は凡夫に対しては、「事実」として作用しており、それが凡夫にとっては「現実」そのものである、つまり、凡夫は虚構の名称の世界に住んでいます。
お釈迦様が、「世界=苦」の原囚を渇愛であると特定し、それを自分は滅尽したと宣言した上で人々にもその方法を教え、そしてお弟子さんたちがそれを自ら実践してみると、本当に「世界」が終わって苦が滅尽した、少なくとも、そのように確信することができたからこそ、当時の真摯な修行者もお釈迦様に従ったのでしょうし、現代日本にもその教えが伝わっているように思われます。
第四の聖諦ドゥッカ(苦)の消滅に至る道
まずは経典を見ていきます。
「ビク達よ、出家した者はこれら二つの極端にかかずらうべきでない。
どのような二つとはなにか。もろもろの欲望の対象を楽しむことである。
このことは低俗であり、凡俗であり、平凡であり、聖者の行いではなく、利益を伴わない
そして、一方は白身を苦しめることである。
このことは苦しく、立派でなく 利益を伴わない
ビクよ、これら二つの極端に近づかず、
中道は修行完成者によって完全に悟られた。
目覚めや安らぎへと導く中道とは。
それは、この八つの支分からなる道(八聖道)である。それはすなわち
正見(正しい見解)、正思惟(正しい思考)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい思念)、正定(正しい精神集中)
である
(初転法輪経)
上記の様に第四の聖諦は、出家の道は中道である、その内容は八正道であると経典に説かれています、それでは、中道の説明から。
喩で説明します
ギターの弦を張るとき(チューニング)は
きつく張りすぎるとダメ 緩すぎてもダメ その中間でもダメ
きつすぎず緩すぎず
これが中道です
ギターは世界中で何万台使われているかわからないほど数多く使われています、それでも機械でチューニングできません、もし出来たら、その機会を作った人はお金持ちになれるでしょう、その場その時により微妙に、湿気や会場の音響など条件が変わるので人間がチューニングしないとならないのです、このように困難な狭い道です、ベストな答えを得る道と言い換えてもいいでしょう、これが中道です。
お釈迦様の時代のインドでは、欲望のままに快楽を楽しむのが人生という人々と、ジャイナ教や当時の修行者の人々の中には、極端な苦行をする人々がいて、そのどちらも悟りには役に立たないということです。かといって快楽と苦行を足して二で割るような中間でも悟りには役に立たない。だから中道を歩め、それは八正道のことだよというのがお釈迦様の教です。
八正道とは、お釈迦様が四十五年間にわたって説いた教えで、実質的にその教えは、八正道に凝縮されます。お釈迦様は、弟子の発展段階、理解能力、実践能力に応じて、さまざまな場所で、さまざまなかたちでこれを説明した、お釈迦様の何千という教えのエッセンスは、この八正道に集約されています。
この八項目(正道)は、ひとつずつ実践していくものではありません、それらは、各人の能力に応じて、すべてを同時に実践するプログラムで、八つは各々繋がっており、ひとつの実践が他の実践に役立つようになっています。
お釈迦様は、お弟子さん一人一人の修行の進み具合や性格など、いまどの教えを説くか、その場その場で見極め説いています。時として多くのお弟子さんに総合的に詳細に八正道を説いたことがあり、その時の経典が伝わっていますので、経典、つまりお釈迦様ご自身のお言葉で、第四の聖諦の説明といたします。
けして簡単な教えではありませんが、くり返し繰り返し読んでください
八正道
Mahācattārīsakasutta
この経典はお釈迦様ご自身が八正道を解説された、詳細で最も重要な経典と思いここに記載しました。
聖なる八正道
聖なる八正道
Evaṃ me sutaṃ – ekaṃ samayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati jetavane anāthapiṇḍikassa ārāme. Tatra kho bhagavā bhikkhū āmantesi – ‘‘bhikkhavo’’ti. ‘‘Bhadante’’ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ. Bhagavā etadavoca – ‘‘①ariyaṃ vo, bhikkhave, ②sammāsamādhiṃ desessāmi ③saupanisaṃ ④saparikkhāraṃ.
Taṃ suṇātha, sādhukaṃ manasi karotha; bhāsissāmī’’ti. ‘‘Evaṃ, bhante’’ti kho te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ.
わたしはこのように聞いた。あるとき、世尊はサーヴァッティーのジェータ林にあるアナータピンディカの僧園におられた。そのとき世尊は比丘たちに話しかけられた。
「比丘たちよ」
「師よ」と比丘たちは世尊に答えた。世尊は次のようにいわれた。
「比丘たちよ、『③因縁をそなえ、④資助をそなえた①聖なる②正定を』について説くとしよう。では聞きなさい。よく耳を傾けなさい。よいか」
この説法のテーマ②sammāsamādhiṃ(サンマーサマーディ)正定、サマーディ(定)とは、心の統一状態、正定とは、正しいサマーディです。正しいサマーディにも二つあります、①ariyaṃ聖なるという形容詞をつけて、聖正定と正定という二種です。聖という言葉がつくと仏教の目的である、解脱・悟りに関わるサマーディになります。俗世界の次元を超えて、出世間(悟りの世界)を語っている言葉になります。
③saupanisaṃ 因縁をそなえ
upanisaṃとは、サマーディを支えてくれる原因・条件のこと。
④saparikkhāraṃ. 資助をそなえた
聖正定に必ず付いているいくつかのもので、正定を作るためにも必要です。
これからお釈迦様は、正定というサマーディのことを、それに必要なものを全部そろえて説明します。
聖なる正定
Bhagavā etadavoca –
‘‘Katamo ca, bhikkhave, ariyo sammāsamādhi saupaniso saparikkhāro? Seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi, sammāsaṅkappo, sammāvācā, sammākammanto, sammāājīvo, sammāvāyāmo, sammāsati; yā kho, bhikkhave, imehi sattahaṅgehi cittassa ekaggatā parikkhatā – ayaṃ vuccati, bhikkhave, ariyo sammāsamādhi saupaniso itipi, saparikkhāro itipi.
「はい、師よ」
と比丘たちは答えた。世尊は次のようにいわれた。
「比丘たちよ、『因縁をそなえ、資助をそなえた聖正定』とはなにか。すなわち、比丘たちよ、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、というこの七つの項目を備えた心の統一が、比丘たちよ、『因縁をそなえ、資助をそなえた聖正定』といわれる」
お釈迦様は「条件と、それに備わっている他のものをまとめて聖道定とは何か、それは正しい見解・正しく考えること・正しい言葉・正しい行為・正しい生き方・正しい精進・正しいきづき、という七つです」このように説明されました。
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、この七についてこころが統一すると、これが「聖道定」となる、ですから「聖正定」は単なるこころの統一ではなく、八正道がワンセットで揃っているということです。
「聖道定」とは七つの項目を均等に育て、まとめて一つにしないと作れません、バラバラの八種類の道ではないのです。
この経典は、八聖道を完成する実践の仕方です、そして一つを完成させようとすれば、残りの七つも付いてくる方法を、お釈迦様が直接語られた経典です。
2 聖なる正定
正定を心理学的に説明する
Tattha Katamo bhikkhave, sammāsamādhi Vivicceva kāmehi vivicca akusalehi dhammehi ①savitakkaṃ savicāraṃ ②vivekajaṃ ③pītisukhaṃ paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Vitakkavicārānaṃ vūpasamā ajjhattaṃ sampasādanaṃ cetaso ekodibhāvaṃ avitakkaṃ avicāraṃ samādhijaṃ pītisukhaṃ dutiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Pītiyā ca virāgā upekkhako ca viharati sato ca sampajāno, sukhañca kāyena paṭisaṃvedeti, yaṃ taṃ ariyā ācikkhanti – ‘upekkhako satimā sukhavihārī’ti tatiyaṃ jhānaṃ upasampajja viharati. Sukhassa ca pahānā dukkhassa ca pahānā pubbeva somanassadomanassānaṃ atthaṅgamā adukkhamasukhaṃ upekkhāsatipārisuddhiṃ catutthaṃ jhānaṃ upasampajja viharati – ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammāsamādhī’’ti. Aṭṭhamaṃ.
では比丘たちよ、正定とはなにか、もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、①大まかな考察のある、細かな考察のある、②遠離から生じる③喜びと楽のある、第一禅に達して住する。大まかな考察、細かな考察が消え、内心が清浄の心の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定より生じた喜びある、第二の禅に達して住する。喜びを離れ、心は内心平等で執着もなく、ただ念があり、慧があり、楽のある、聖者たちは捨があり、念があり、楽がある、第三禅に達して住する。さらに、楽も苦もなく、すでに喜びも憂いも滅し、不苦不楽でただ捨があり、念があり、清らかな境地にある、第四禅に住するという。比丘たちよこれが正定である。
正定(正しいサマーディ)とはなにか、四段階(禅定)に分けて説明しています
第一禅定の特徴
①savitakkaṃ savicāraṃ 大まかな考察のある、細かな考察のある
頭の中の思考は、残っている
②vivekajaṃ 遠離から生じる
③pītisukhaṃ 喜びと楽のある
サマーディ状態になると、世俗的な楽しみに興味がなくなってきて、こころの中で喜びと楽が溢れてくる、このような世俗の喜びから離れているのをvivekajaṃ 遠離という。
俗世間の楽しみとは五感から得る刺激と頭で考えた刺激をうけて、ものを見る、いい音を聞く、よい香りを嗅ぐ、美味しいものを食べる、などをして人は生きています。ですから生きるためには、刺激に執着し頭とこころが刺激でいっぱいになる、これを五欲とも言います、悩み苦しみも五欲から生じ、刺激の対象が変わったり無くなったりすると悲しむ。
こころを集中するには、この五欲から離れること、もちろん簡単なことではありませんし、形として世間から離れて一人になっても、刺激を切望し、集中力もなくなります。
しかし、煩わしい五欲から離れると、高度な楽しみと安らぎが生まれると理解すれば、五欲から離れる気持ちになる。それで瞑想修行して第一禅定に達すると五欲から離れた状態になります。
第二~第四禅定の特徴
第一禅定では思考があり、喜びにその波が入る
第二禅定では思考も止められ、喜びは波があるとすると、楽は波がなく、心はより安定します。
第三禅定では喜びが消えて楽だけ残る、安らぎのレベルは高度になり、楽も、波打ってはいるが、振動は感じないレベルになる。
第四禅定では楽の波も止めていて、苦も喜も楽もない、upekkhā 捨という状態になります。
聖正定の条件
ここまでが正定の説明です、ここまでのサマーディ(禅定)では聖正定ではありません、その区別は、聖正定では、サマーディが解脱に達するための踏み台でなくてはなりません、解脱に達する道は、八正道という名で明かされています。サマーディ瞑想と、八正道が、ワンセットになっているならば、そのサマーディが聖正定です。つまり、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念の七つが揃って統一していなければいけません。
八正道のひとつ、正語を守っても、それだけでは「聖」という言葉は付きません、「聖」という言葉をつけるためには、その行為によって悟りに達しなければいけないのです。
「ariya聖」という言葉は、お釈迦様が解脱の境地を示すために、使ったことばです。
その行為によって悟りに達するとはどうゆうことか、正語を例にして説明します。言葉をしゃべるときには、しゃべる前にしゃべりたいという衝動があります。それ自体は世間的な衝動で、このポテンシャルエネルギーを「saṅkhāra サンカーラ・行」と言います。このエネルギーでしゃべることによって、頭の中にある思考や妄想に刺激を与えて輪廻転生します。立派な仏教のことをしゃべっても、それが刺激となり輪廻転生します、しゃべっていることは正しい仏教でも「正語」ではあるが「聖正語」ではないです。「聖正語」とはこころの中でしゃべりたがるポテンシャルエネルギーがなく、こころが統一する。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念など七つまとめたところで「正聖定」となり、それが悟りの境地、サンカーラが消えていることです。
例えば「正見」では、間違った見方を、正見にしようと思うことも、頑張ることもサンカーラです。
見解なしには、人は生きていられません、なにか見方がないと、これは食べ物か食べられないものかの、区別判断もできませんから、それは生き続けるためのサンカーラ(衝動・行)というポテンシャルエネルギーです。
お釈迦様が「正見」で言われるのは「ポテンシャルエネルギーで悪いことはやめて、善い方向に転換しよう。偏見で生きると、不幸になる、輪廻転生で苦しむ。だから偏見はやめて正見にしましょう」ということです。ただし正見でも生きるために必要なサンカーラには変わりありません。
そこで「聖正見」では、「見解を築こう」というポテンシャルエネルギーがなくなり、こころは落ち着いて、安穏状態になり、いわゆるサンカーラがないということです。
ですから、この七つについてサンカーラが消えたところで聖正定ということです。呼吸瞑想などで統一するのとは違います、呼吸瞑想などで得るサマーディは、非常に強くてポテンシャルは最大で、純粋で綺麗なサンカーラですが、それ自体は解脱の境地にはならないです、サンカーラは輪廻転生を作りますから。
3 十の邪見
全てに先行する正見
Tatra, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti.
「比丘たちよ、このなかで正見が最初にくる。
pubbaṅgamāは先に行く人、先頭をとるということで、すべての善いことの先頭にたつのは正見ということ、瞑想しても正しく先が見えていないと、闇雲に瞑想しても覚らないのは、正見がはっきりしないからです。では正見とはなにか「四聖諦」を理解することです。疑いなく納得することですが簡単なことではありません、ですから正見に達したら覚りの境地ということです。正見がすべての先頭にあります。
先ず邪見を知る
Kathañca, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti? Micchādiṭṭhiṃ ‘micchādiṭṭhī’ti pajānāti, sammādiṭṭhiṃ ‘sammādiṭṭhī’ti pajānāti – sāssa hoti sammādiṭṭhi.
‘‘Katamā ca, bhikkhave, micchādiṭṭhi?
では、比丘たちよ、どうして正見が最初にくるのか。邪見を邪見と知り、正見を正見と知っているとき、その人は正見をしている。
では、比丘たちよ、邪見とはなにか。
どのように正見が先頭になるのか?それは正見が邪見という見解を抑えること、邪見は間違いだとはっきりと解った上で捨てることです。そして正見も知っているということです。
そこで邪見を調べもしないで捨てるわけにはいかないので、次に邪見を具体的に見ていきます。
十種類の邪見
‘①Natthi dinnaṃ, ②natthi yiṭṭhaṃ, ③natthi hutaṃ, ④natthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, ⑤natthi ayaṃ loko, ⑥natthi paro loko, ⑦natthi mātā, ⑧natthi pitā, ⑨natthi sattā opapātikā, ⑩natthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca lokaṃ parañca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedentī’ti – ayaṃ, bhikkhave, micchādiṭṭhi.
『①布施は存在しない、②供え物は存在しない、③供養されるものは存在しない、④善行・悪行の業の果報は存在しない、⑤この世は存在しない、⑥あの世はない、⑦母は存在しない、⑧父は存在しない、⑨化生のいきものたちは存在しない、⑩この世やあの世のことをみずからはっきりと知り、じかに見て開示できるような、正しく道を行ない、正しく道を修めた沙門やバラモンは世間に存在しない』というのが、比丘たちよ、邪見である。
‘①Natthi dinnaṃ, 布施は存在しない
dinnaṃ(布施)は寄付、あげること、Natthiは、ない、という意味で、寄付は無意味、物体が移動しただけなので意味はないという、ものの見方ということです。
②natthi yiṭṭhaṃ 供え物は存在しない
yiṭṭhaṃ(供え物)は、バラモン教・ヒンドゥー経でヴェーダ聖典を唱てあげること、お経をあげてもらって、なにかを差し上げる布施のことです。
③natthi hutaṃ, 供養されるものは存在しない
hutaṃ(供養されるもの)は、バラモン教・ヒンドゥー経で法要(儀式)を行うこと、
法要(儀式)もらって、なにかを差し上げる布施のことです。
①~③は寄付には、心は関係ないということです
④natthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, 善行・悪行の業の果報は存在しない
善い行い、悪い行いには結果はないという意味で、因果法則・業の働きを認めないということ、これは、石を投げたという悪戯(悪行)で他人の家のガラスを割ったときに、ガラスが割れたのは行為の結果だが、ガラスを割った人は悪行をしたから悪果(悪い結果)がもたらされるということは認めない、石を投げたという行為の結果はガラスが割れただけで、それ以外は何もないということ。
⑤natthi ayaṃ loko, ⑥natthi paro loko この世は存在しない、あの世はない、
生命とは物質の塊でというような、ものの見方という意味で、生命とは心と物質(身体)で出来ているという、生命の存在を否定すること。
⑦natthi mātā, ⑧natthi pitā, 母は存在しない、父は存在しない
尊い存在はないという意味で、自分を生んだ親はいないとは因果法則は認めないという、ものの見方という意味です、因果法則・業を認めない、ものの見方は道徳を崩す結果になり邪見であり、幸福にはつながらないというのが仏教の立場です。
⑨natthi sattā opapātikā 化生のいきものたちは存在しない
生命が自動的に誕生するという意味、アメーバーなどの生命形態や、天界の生き物などはなんらかの原因があって存在しているのを否定するのは、因果法則・業を認めないことになる、それは邪見だということ。
⑩natthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca lokaṃ parañca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedentī’ti この世やあの世のことをみずからはっきりと知り、じかに見て開示できるような、正しく道を行ない、正しく道を修めた沙門やバラモンは世間に存在しない
正しく修行する沙門やバラモンはいないという意味で、修行を否定する、ものの見方で、結局は生命とは物質だけで心は認めないという邪見です。
ものごとは原因によって現れ、原因がなくなると消える、これが因果法則です。いま現在の現象は原因と条件によって現れる、ですから人は原因と条件を変えることによって結果をかえることができる。
邪見とは、このように因果法則と業を否定することをいいます。
4 煩悩が残る正見・聖なる正見
二種の章見
‘‘Katamā ca, bhikkhave, sammādiṭṭhi? Sammādiṭṭhiṃpahaṃ [sammādiṭṭhimahaṃ (ka.) evaṃ sammāsaṅkappaṃpahaṃkyādīsupi], bhikkhave, dvāyaṃ [dvayaṃ (sī. syā. kaṃ. pī.) ṭīkā oloketabbā] vadāmi – atthi, bhikkhave, sammādiṭṭhi ①sāsavā ②puññabhāgiyā ③upadhivepakkā; atthi, bhikkhave, sammādiṭṭhi ④ariyā ⑤anāsavā ⑥lokuttarā ⑦maggaṅgā.
では、比丘たちよ、正見とはなにか。比丘たちよ、正見をわたしは二つ説く。比丘たちよ、『①有漏の、②功徳の部分であり、③素因の果となる正見』があり、比丘たちよ、『④聖なる、⑤無漏の、⑥出世間の、⑦道の部分である正見』がある。
正見とは二種類である、「煩悩が残っている正見」と「聖なる正見」の二種です。
最初の「煩悩が残っている正見」は①~③
①sāsavā 有漏の
煩悩が入っているという意味、煩悩でもこの場合は潜在力・衝動・意志(サンカーラ・行)をもっている正見で、善悪の善に入る。
②puññabhāgiyā 功徳の部分
Puññāは功徳、世間的な善い行為、bhāgiyāは部分、功徳に属するという意味で、功徳になる正見です。
③upadhivepakkā; 素因の果となる正見
Upadhiは生存の素質、煩悩の執着のこと、vepakkā;は結果のこと、執着に関わる結果、つまり転生する正見ということ、八正道は輪廻転生を断つための教えです、この正見は功徳を積むことになるので悪い結果ではないのですが、輪廻転生に関わる、執着に関わる結果です。
二番目の「聖なる正見」は④~⑦
④ariyā 聖なる
解脱・悟りに達するという意味、悟りに至る正見ということ。
⑤anāsavā 無漏の
煩悩もなく、潜在力・衝動・意志(サンカーラ・行)もない。
⑥lokuttarā 出世間の
世間(世の中)を出ているという意味 輪廻を脱出している。
⑦maggaṅgā. 道の部分
Maggaとは道ということ、悟りに必ず達する道という意味。
煩悩が残っている正見
⑦Katamā ca, bhikkhave, sammādiṭṭhi sāsavā puññabhāgiyā upadhivepakkā ? ‘①Atthi dinnaṃ, ②atthi yiṭṭhaṃ, ③atthi hutaṃ,④ atthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko, ⑤atthi ayaṃ loko, ⑥atthi paro loko, ⑦atthi mātā, ⑧atthi pitā, ⑨atthi sattā opapātikā, ⑩atthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca lokaṃ parañca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedentī’ti – ayaṃ, bhikkhave, sammādiṭṭhi sāsavā puññabhāgiyā upadhivepakkā.
比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正見』とはなにか。『①布施は存在する、②供え物は存在する、③供養されるものは存在する、④善行・悪行の業の果報は存在する、⑤この世は存在する、⑥あの世は存在する、⑦母は存在する、⑧父は存在する、⑨化生のいきものたちは存在する、⑩この世やあの世のことをみずからはっきりと知り、じかに見て開示できるような、正しく道を行ない、正しく道を修めた沙門やバラモンは世間に存在する』というのが、比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正見』である。
煩悩が残っている正見とはなにか、邪見の反対です、ここではポイントだけ記載します
①Atthi dinnaṃ, 布施は存在する
寄付することは、私のものという執着を切って与えることで、心に喜びが起き、一方で困っている人は苦しみを軽減して、そのことを寄付した人が知れば、心に喜びが生まれるという連鎖反応が起きる、これらは善行為になり、善的なポテンシャル(潜在力・衝動・意志・サンカーラ・行)です、善い結果をだす行為です、ですから、寄付することは意味があります。
因果法則と業を認めるのが、煩悩が残っている正見です、しかし聖なる正見ではありません、なぜなら善行為をして徳を積んでいくと幸福になりますが、輪廻転生はします、正見でも煩悩はなくなっていません解脱には至りません。
ここで、功徳というのは、こころの働きのことです、例えば布施なら金額が高い方が、功徳が増えるという物理学の話ではなく、布施することで煩悩が減り、善い方向に気持ちが動けば功徳は増大して、布施したことを後悔して煩悩が増えて、暗い気持ちになれば功徳は減少するという、こころの法則の話です。
⑧‘‘Katamā ca, bhikkhave, sammādiṭṭhi ariyā anāsavā lokuttarā maggaṅgā? Yā kho, bhikkhave, ①ariyacittassa ②anāsavacittassa ③ariyamaggasamaṅgino ④ariyamaggaṃ bhāvayato paññā ⑤paññindriyaṃ ⑥paññābalaṃ ⑦dhammavicayasambojjhaṅgo sammādiṭṭhi maggaṅgaṃ [maggaṅgā (sī. pī.)] – ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammādiṭṭhi ariyā anāsavā lokuttarā maggaṅgā.
では、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正見』とはなにか。比丘たちよ、①心が聖なる者、②無漏の心の者、③聖道をそなえている者、④聖道を修めている者には慧、⑤智根、⑥智力、⑦択法覚支、道の部分である正見があります、比丘たちよ、これが『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である、正見』である。
①ariyacittassa 心が聖なる者
修行者のこころが聖なるこころになっていて
②anāsavacittassa 無漏の心の者
煩悩がないこころになっている。いわゆる、衝動がゼロになっている状態。見解も起こらず、苦・無常・無我しか認識しない状態で、瞬間に解脱の境地を体験する状態でいる。その状態に導くから聖なる正見という。悟りに達する一歩手前の状態といってもよい。そのときは、
③ariyamaggasamaṅgino 聖道をそなえている者
聖なる道にやっと入った者、というのです
④ariyamaggaṃ bhāvayato paññā 聖道を修めている者
修行が真理を発見できるところまで進んだ者のこと。その修行者のこころに起こる智慧(paññā)が聖正見です。
悟りに達する最終段階のことが語られています。智慧が現れてくると、生きることは苦である、自分が煩悩に支配されていること、嫌だと分かっていても妄想が勝手に出てこころを汚すこと、妄想が出ない瞬間に喜悦感や安らぎを感じるなどが、経験で分かっていき、仏道は結果の出る修行法だという確信も現れる、このような発見が、智慧です、しかし無明の壁を破り解脱の境地までは、その智慧では飛び込むまでにはいきません、集中力が上がって、妄想が得なくなると、現象はめまぐるしい速さで生まれては消えていくことを経験します。生滅変化を発見できるように智慧が上がったら。後戻りはない。そこで覚りに達し、修行は終了します。後戻りできない状態に智慧が発展した、その智慧が聖正見です。智慧にはその働きによっていくつかの用語があります。
⑤paññindriyaṃ 智根
五根(悟りに達するための五つの作用)の一つで、後戻りしないところまで進んだ修行者の智慧を、慧根という、それが聖正見でもある。
⑥paññābalaṃ 智力
五力(五根が安定して力強くなった作用)の一つで、智慧が力としてのはたらきをする場合に、智力という、それが聖正見でもある。
強い力とは、世間の次元を破って、出世間に達するために必要な力のことです。地球の引力を破って宇宙にいくためのロケットエンジンの役割です。サンカーラ(行)という強烈にこころを世間に縛り付けている衝動(引力)を、瞑想実践(正定)によって、智慧という力を加えて、サンカーラという引力から抜け出るためのロケットの推進力が、智慧のエネルギーが十分なら、世間の次元を乗り越えて、出世間に達します。
⑦dhammavicayasambojjhaṅgo 択法覚支
七覚支(五根がさらに安定して力強く作用する七つの支)の二番目の支で、ものが区別・分別できる能力、いわゆる智慧です、それが聖正見でもある。
認識するのは、瞬間瞬間、生滅変化していく現象の流れです。現象を破って真理を見抜く分別です
5 「正見・正精進・正念」の三法が正見を追いかける
正精進
yo micchādiṭṭhiyā pahānāya vāyamati, sammādiṭṭhiyā, upasampadāya, svāssa [svāyaṃ (ka.)] hoti sammāvāyāmo.
邪見を捨てよう、正見を備えようと努力するとき、その人は正精進をしている。
邪見を無くそう、正見を得ようと努力する、その努力を正精進という。
正念
yo sato micchādiṭṭhiṃ pajahati, sato sammādiṭṭhiṃ upasampajja viharati, sāssa [sāyaṃ (ka.)] hoti sammāsati.
注意して邪見を捨て、注意して正見を備えているとき、その人は正念をしている。
では、どのように精進は進めばよいのか、「sati.きづき」の実践で邪見だと気づけば、邪見がなくなる、正見だと気づけば、正見に達する。正念とは、正しいきづきのことです。
三セットのからくり
Itiyime [itime dhammā sammādiṭṭhiṃ anuparidhāvanti anuparivattanti, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi, sammāvāyāmo, sammāsati.
こうしてこの三つのもの、すなわち、正見、正精進、正念につきしたがい、ついてまわる
正念を実践することが正精進であり、結果として正見が現れる、ということです。
正見を得れば得るほど、さらに上の正見に達し、聖正見に達するまで、正見が正見を探して進む。その努力は正精進と言う。正精進で正見を探し求めて進む、その方法が正念という、きづきの実践です。このように聖正見に達するまで、一つになって働く。
ただ正念を正精進するためには、なにかを理解しておかないとできません、その理解を正見と名づけています。お釈迦様の教えを聞いて感動したところで、納得したところも、正見です。なぜなら、いままでの自分の思考が変わったからです。しかしその程度では聖正見、いわゆる解脱には、ほど遠いです。そこで、正精進する気持ちになって、正念を実践する。そこで徐々に、正見が深まっていく。最終的には、一切の思考・概念にとらわれないところまで進んでいきます。ですから、正見・正精進・正念は悟りの過程でも、悟りを得る時もセットで、その中身とレベルに応じて働いていきます。
6 邪思惟・正思惟
正見が最初にくる
Tatra, bhikkhave, ①sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti. Kathañca, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti? ②Micchāsaṅkappaṃ ‘micchāsaṅkappo’ti pajānāti, ③sammāsaṅkappaṃ ‘sammāsaṅkappo’ti pajānāti, sāssa hoti sammādiṭṭhi .
「比丘たちよ、このなかで①正見が最初にくる。では、比丘たちよ、どうして正見が最初にくるのか。②邪思惟を邪思惟と知り、③正思惟を正思惟と知っているとき、その人は正見をしている。
①sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti 正見が最初にくる
すべてのよいことの先頭という意味
②Micchāsaṅkappaṃ ‘micchāsaṅkappo’ti pajānāti, 邪思惟を邪思惟と知る
saṅkappaは思惟・思考・概念。‘micchāは邪の・邪悪、間違っている思考のこと。「正邪思惟である」と「知ること」これが正見です。
③sammāsaṅkappaṃ ‘sammāsaṅkappo’ti pajānāti 正思惟を正思惟と知る
正しい考え方、という意味です。
邪見は邪見だと明確に知る、正見は正見だと明確に知る。そのことを正思惟という、ということです。明確に知るとは、信じる、ではなく、実証という意味です。
ここで思考とは、考えることですが科学を例にして説明します、ある説はデータを基に正しいか、間違いか決めますが、新しいデータ(新説)が入れば変わります、つまり思考は正しいか、間違いかはわからないのです、しかし、これを直す方法はありません、ですからお釈迦様は、邪思惟・正思惟に分けて、正しい思考をしなさいではなくて、してはいけない思考とするべき思考という二つに分けて、人は思考を戒めるべきだということです。そして解決策のない問題に無難なのは、思考に執着しないことです。
邪思惟とはなにか
Katamo ca, bhikkhave, micchāsaṅkappo? ①Kāmasaṅkappo, ②byāpādasaṅkappo, ③vihiṃsāsaṅkappo – ayaṃ, bhikkhave, micchāsaṅkappo.
では、比丘たちよ、邪思惟とはなにか。①欲をともなった思考、②瞋恚の思考、③害意をともなった思考――比丘たちよ、これが邪思惟である。
一般・世俗間の人が解脱にいたるまで、成長の道は正見に導かれるというポイントを、さらに説明なさっているところです。正見が邪思惟をなくして、正思惟にしてくれるととかれています。
①Kāmasaṅkappo 欲をともなった思考
欲に関わる思考、欲とは眼耳鼻舌身意を楽しませる、つまり六根に刺激を与えることです。身体にどうやって刺激を与えようか、そればかり考える、俗世間では刺激や快楽がなければ研究も学問もやらない、刺激を与えるということです、邪思惟です。
②byāpādasaṅkappo 瞋恚の思考
怒り・憎しみに関わる思考のこと、あれも悪いこれも気に入らないという暗い思考をつづけるのも、邪思惟です。
③vihiṃsāsaṅkappo 害意をともなった思考
いやなものは壊したい、害を与えたいという瞋恚が強くなる思考と、怒りがなくても自然破壊のように、「欲」で害を与えるのも、文化財への落書きなども、刺激を求めて破壊するのですから、邪思惟です。
一般的な人間の思考は、かなりの時間、というより、ほとんど全てが邪思考です、「欲」「瞋恚」「害意」の三つが抜けて、考えることはなくなってしまうかもしれません。ですから思考というのは執着してはいけないものなのです。
二つの正思惟
Katamo ca, bhikkhave, sammāsaṅkappo? Sammāsaṅkappaṃpahaṃ, bhikkhave, dvāyaṃ vadāmi – atthi, bhikkhave, sammāsaṅkappo sāsavo puññabhāgiyo upadhivepakko; atthi, bhikkhave, sammāsaṅkappo ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo.
では、比丘たちよ、正思惟とはなにか。比丘たちよ、正思惟もわたしは二つ説く。比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正思惟』があり、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正思惟』がある。
邪思惟以外の思考が邪思惟の反対の「正思惟」です
正思惟は二種、俗世間で煩悩に関係するが善いこと、出世間的で解脱の原因になる解脱を司る正思惟がある。一番目はupadhivepakko素因の果となる、これは善行為をすれば善結果が出てくる正思惟です。二番目は後で記載します。
正思惟(1)利欲の思惟
Nekkhammasaṅkappo, abyāpādasaṅkappo, avihiṃsāsaṅkappo
欲を離れた思考、敵意のない思考、害意のない思考
邪思惟の反対です。
Nekkhammasaṅkappo 欲を離れた思考
Nekkhammaは、離れる、出ていく、退去する、あきらめる、厭うという意味。欲をともなった思考は、刺激を自分に引き寄せる思考で、お金が欲しいというような思考のこと。瞋恚の思考は対象が自分に流れて欲しくない思考で、対象に対して嫌なものと判断する、怒る、害意をともなった思考は、怒りが発展して対象を潰そうとする思考です、
欲と怒りではこのように反対の方向がありますが、Nekkhammasaṅkappo欲を離れた思考はまったく違う方向です、自分の方向に流れて欲しいというものを、流れない方がいいと思うこれは、煩わしいことから離れようと、落ち着きを楽しもうという思考です。ものを与える思考、例えば、与えることができた、持っていたものから、はなれて心が楽になった、これは、あたえる行為をするときの思考です。瞑想を娯楽として楽しむ思考も、欲を離れた思考です。これは、欲を離れた、つまり、aloba無貪に導く思考です。
abyāpādasaṅkappo 敵意のない思考
mettā 慈に導く思考です。競争ではなく、共存する思考。自分がどのように他人を助けられるか考え、調和を保ち、平和に関わる思考です。慈しみの実践が、この項目を実践することになります。
avihiṃsāsaṅkappo 害意のない思考
karuṇā 悲に導く思考です。思考の行為です。それに行動プランを取り入れれば害意のない思考です。調和について思考するだけでなく、実行することも考えることです。
正思惟(2)解脱を司る思惟
Yo kho, bhikkhave, ariyacittassa anāsavacittassa ariyamaggasamaṅgino ariyamaggaṃ bhāvayato ①takko vitakko ②saṅkappo ③appanā vyappanā ④cetaso abhiniropanā ⑤vacīsaṅkhāro – ayaṃ, bhikkhave, sammāsaṅkappo ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo.
では、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正思惟の者』とはなにか。比丘たちよ、心が聖なる、無漏の心の者、聖道に達し、聖道を修めている人の①考察、大まかな考察、②思惟、③専注、細専注、④心を上がらせること、⑤語行
―比丘たちよ、これが『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正思惟』である。
聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正思惟の者とは、かなり高い瞑想の境地に入っている修行者のことで、その修行者のこころの状態を説明しています。
①takko vitakko 考察、大まかな考察
禅定に入っているときの思考、尋
②saṅkappo 思惟
そのときのこころの中に機能する概念。
③appanā vyappanā 専注、細専注
Appanāはサマーディ状態という、集中力で五感の情報に頼る普通の認識状態を超えた状 態をいう。vyappanā(vicāra・伺)も同じ意味で、さらに細かいサマーディ状態という意味です。専注、細専注とは、心がサマーディ状態に達した状態で、ヴィパッサナー瞑想の確認作業を続けている状態のことです。
④cetaso abhiniropanā 心を上がらせること
ふだんは気づかないこころの働きで、なにかを考えるために、こころにデータを乗せる機能のこと。
⑤vacīsaṅkhārā 語行
思考を言葉に変換するエネルギーのこと。ここでは修行の進んだサマーディ状態の行者の心境で、確認作業を続けるための言葉の機能で、思考を引き起こすエネルギー(語行)を観察しているだけです。同時にmanosaṅkhārā意業、kāyasaṅkhārā身行、も結果として制御されています。
正思考は、悪思考を止めて善い思考をする、聖正思惟は、なにかを考えるという意味ではなく、思考を引き起こすエネルギー(語行)を観察しているだけという状態です。
正思惟と三つのもの(法)
So micchāsaṅkappassa pahānāya vāyamati, sammāsaṅkappassa upasampadāya, svāssa hoti sammāvāyāmo. So sato micchāsaṅkappaṃ pajahati, sato sammāsaṅkappaṃ upasampajja viharati; sāssa hoti sammāsati. Itiyime tayo dhammā sammāsaṅkappaṃ anuparidhāvanti anuparivattanti, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi, sammāvāyāmo, sammāsati.
邪思惟を捨てよう、正思惟を備えようと努力するとき、その人は正精進をしている。注意して邪思惟を捨て、注意して正思惟を備えているとき、その人は正念をしている。こうしてこの三つのもの、すなわち、正見、正精進、正念が正思惟につきしたがい、ついてまわる」
邪思惟をなくそうと精進する、そこでサティ(念)でもって邪思惟を壊して正思惟に達する、これは因果法則があるということです、邪思惟をやめようという努力が正精進です。サティできづかないと、智・知る世界は成り立たない、きづかないと、明確に知ったことにはならない、ですから正念も入ってくる。正見が先頭になり正思惟・正精進・正念の3セットが回転する。正思惟は正精進で成り立つと同時に、正念で成り立つ。きづきで知るのですから、正念は欠かせません。しかし努力(精進)はしないと得られない。そこで正見をもとにして正思惟・正精進・正念がセットとなります。
7 邪語と正語
正見が最初にくる
Tatra, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti. Kathañca, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti? Micchāvācaṃ ‘micchāvācā’ti pajānāti, sammāvācaṃ ‘sammāvācā’ti pajānāti; sāssa hoti sammādiṭṭhi.
「比丘たちよ、このなかで正見が最初にくる。では、比丘たちよ、どうして正見が最初にくるのか。邪語を邪語と知り、正語を正語と知っているとき、その人は正見をしている。
お釈迦様は正見が先頭に立ってなにをするのか?問いかける。そしてご自分でお答えになります。正見が先頭に立つと邪語・正語がありのままに分かるということです。と
四つの邪語
⑲Katamā ca, bhikkhave, micchāvācā? ①Musāvādo, ②pisuṇā vācā, ③pharusā vācā, ④samphappalāpo – ayaṃ, bhikkhave, micchāvācā.
では、比丘たちよ、邪語とはなにか。①嘘、②中傷、②暴言、④戯れ言――比丘たちよ、これが邪語である。
正見は、邪語と正語をはっきりと区別することができる、それでは邪語とは、
①Musāvādo 嘘
嘘をつくこと
②pisuṇā vācā 中傷
二枚舌、仲間割れさせる言葉、噂話
③pharusā vācā, 暴言
荒々しい言葉、他人を苦しめ不機嫌にさせる言葉
④samphappalāpo 戯れ言
無駄話
俗世間の正語
Katamā ca, bhikkhave, sammāvācā? Sammāvācaṃpahaṃ, bhikkhave, dvāyaṃ vadāmi – atthi, bhikkhave, sammāvācā sāsavā puññabhāgiyā upadhivepakkā; atthi, bhikkhave , sammāvācā ariyā anāsavā lokuttarā maggaṅgā. Katamā ca, bhikkhave, sammāvācā sāsavā puññabhāgiyā upadhivepakkā? ①Musāvādā veramaṇī, ②pisuṇāya vācāya veramaṇī, ③pharusāya vācāya veramaṇī, ④samphappalāpā veramaṇī – ayaṃ, bhikkhave, sammāvācā sāsavā puññabhāgiyā upadhivepakkā. Katamā ca, bhikkhave, sammāvācā ariyā anāsavā lokuttarā maggaṅgā?
では、比丘たちよ、正語とはなにか。比丘たちよ、正語もわたしは二つ説く。比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正語』があり、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正語』がある。
比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正語』とはなにか。①嘘をやめること、②中傷をやめること、③暴言をやめること、④戯れ言をやめること――比丘たちよ、これが『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正語』である。
正語は2種類、徳を積んで幸福になるという結果を出す、世俗の正語。解脱をもたらす出世間的な正語がある。
①Musāvādā veramaṇī 嘘をやめること
嘘をつかないこと
②pisuṇāya vācāya veramaṇī 中傷をやめること
噂することをやめる
③pharusāya vācāya veramaṇī 暴言をやめること
粗悪語をやめる
④samphappalāpā veramaṇī 戯れ言をやめること
無駄話をやめる
四つとも、自己を律することなので、大変なエネルギーです、徳行・善行・善行為になり、善い業になります。
出世間の正語
Yā kho, bhikkhave, ariyacittassa anāsavacittassa ariyamaggasamaṅgino ariyamaggaṃ bhāvayato catūhi vacīduccaritehi ārati virati paṭivirati veramaṇī – ayaṃ, bhikkhave, sammāvācā ariyā anāsavā lokuttarā maggaṅgā.
では、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正語』とはなにか。比丘たちよ、心が聖なる、無漏の心の者、聖道に達し、聖道を修めている人が、ことばによる四種の悪行を中止すること、終えること、絶つこと、やめること――比丘たちよ、これが『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正語』である。
出世間的な正語とは、解脱に達する過程で、こころの中に起こる状態のことです。こころが沈黙状態に達するということです。俗世間に対する執着から心が離れた状態(中止すること、終えること、絶つこと、やめること)になったことでもあります。瞑想が上達して、思考・妄想する余裕がなくなると、衝動は潜在的にありますが、喜悦を感じて何かを語って楽しみたいという世俗的な意欲がなくなっていき、語りたいと言う衝動・意欲がなくなっていきます。なにもしゃべらない完全沈黙ではなく、語りたいという衝動を鎮めているので適度を知ってかたります。このような行者のこころの状態を語っています。
正語と三の法
So micchāvācāya pahānāya vāyamati, sammāvācāya upasampadāya; svāssa hoti sammāvāyāmo. So sato micchāvācaṃ pajahati, sato sammāvācaṃ upasampajja viharati; sāssa hoti sammāsati. Itiyime tayo dhammā sammāvācaṃ anuparidhāvanti anuparivattanti, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi, sammāvāyāmo, sammāsati.
邪語を捨てよう、正語を備えようと努力するとき、その人は正精進をしている。注意して邪語を捨て、注意して正語を備えているとき、その人は正念をしている。こうしてこの三つのもの、すなわち、正見、正精進、正念が正語につきしたがい、ついてまわる」
正見がある人は正語と邪語が分かり、精進して邪語をやめて正語に達する、しかし精進しただけでは、正語に達しない、きづきが必要、正語と邪語の区別がしっかりきづいたら、努力して正語に達する。正語・正精進・正念セットです、不可分です。ここでも正見が先頭です。正見が中心にあって、正語・正精進・正念がセットになり修行が進み、正見が強くなれば3セットも強くなり、正語が聖なる正語になります。
8 邪業と正業
正業と邪業
Tatra, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti. Kathañca, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti? Micchākammantaṃ ‘micchākammanto’ti pajānāti, sammākammantaṃ ‘sammākammanto’ti pajānāti ; sāssa hoti sammādiṭṭhi. Katamo ca, bhikkhave, micchākammanto? Pāṇātipāto, adinnādānaṃ, kāmesumicchācāro – ayaṃ, bhikkhave, micchākammanto.
「比丘たちよ、このなかで正見が最初にくる。では、比丘たちよ、どうして正見が最初にくるのか。邪業を邪業と知り、正業を正業と知っているとき、その人は正見をしている。
では、比丘たちよ、邪業とはなにか。生きものを殺すこと、与えられていないものを取ること、邪な行為――比丘たちよ、これが邪業である。
正見が先頭にきて判断するのは邪業(間違っている行為)と正業(正しい行為)です。生きものを殺すこと、与えられていないものを取ること、邪な行為の三つで、説明の必要はないと思います。ここで業を見るときは、ひとつひとつの単位で見ます、盗んだ食べ物で、飢え死にしそうな人を助けた場合、トータルで灰色とは見ないで、盗んだことは邪業、人を助けたのは善業です。
俗世間の正業
Katamo ca, bhikkhave, sammākammanto? Sammākammantaṃpahaṃ, bhikkhave , dvāyaṃ vadāmi – atthi, bhikkhave, sammākammanto sāsavo puññabhāgiyo upadhivepakko; atthi, bhikkhave, sammākammanto ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo. Katamo ca, bhikkhave, sammākammanto sāsavo puññabhāgiyo upadhivepakko? Pāṇātipātā veramaṇī, adinnādānā veramaṇī, kāmesumicchācārā veramaṇī – ayaṃ, bhikkhave, sammākammanto sāsavo puññabhāgiyo upadhivepakko. Katamo ca, bhikkhave, sammākammanto ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo?
では、比丘たちよ、正業とはなにか。比丘たちよ、正業もわたしは二つ説く。比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正業』があり、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正業』がある。
比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正業』とはなにか。生きものを殺すのをやめること、与えられていないものを取るのをやめること、不貞行為をはたらくのをやめること――比丘たちよ、これが『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正業』である。
正業も2種類、徳を積んで幸福になるという結果を出す、世俗の正業。解脱をもたらす出世間的な正業がある。
世俗の正業はこの三つで、生きものを殺すのをやめること、与えられていないものを取るのをやめること、不貞行為をはたらくのをやめること。
いずれも邪行の衝動を抑えるのは正業を守ることになります。自分の不善の衝動を抑えることが善行為となり、結果として幸福になります。
出世間の正業
Yā kho, bhikkhave, ariyacittassa anāsavacittassa ariyamaggasamaṅgino ariyamaggaṃ bhāvayato tīhi kāyaduccaritehi ārati virati paṭivirati veramaṇī – ayaṃ, bhikkhave, sammākammanto ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo.
では、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正業』とはなにか。比丘たちよ、心が聖なる、無漏の心の者、聖道に達し、聖道を修めている人が三種の身体による悪行を中止すること、終えること、絶つこと、やめること――比丘たちよ、これが聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正業』である。
解脱をもたらす出世間の正業のことです。修行が進むと、俗世間に対する執着から心が離れた状態(中止すること、終えること、絶つこと、やめること)になり、身体で刺激を受けて楽しみたい、なにかをしたいという衝動が消えていきます。正業を守る人には、行為をする意欲・衝動はあるので、気をつけないと、不注意で悪行為をする可能性はありますが、行為をしたい意欲・衝動がなくなれば完全安全です。ただ身動きしないということではないです、体は維持管理しなければなりませんし、慈しみに、基づいていて行為はします。
正業と三のもの(法)
So micchākammantassa pahānāya vāyamati, sammākammantassa upasampadāya; svāssa hoti sammāvāyāmo. So sato micchākammantaṃ pajahati, sato sammākammantaṃ upasampajja viharati; sāssa hoti sammāsati. Itiyime tayo dhammā sammākammantaṃ anuparidhāvanti anuparivattanti, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi, sammāvāyāmo, sammāsati.
邪業を捨てよう、正業を備えようと努力するとき、その人は正精進をしている。注意して邪業を捨て、注意して正業を備えているとき、その人は正念をしている。こうしてこの三つのもの、すなわち、正見、正精進、正念が正業につきしたがい、ついてまわる」
正業と正精進と正念の三セットで修行が進み、まず正見で正業と邪業を区別し、精進ときづきで正業に達する。正見が先にあり正業を正精進と正念が支え、出世間の正業に達する。ここでも正業・正精進・正念はセットです。
9 邪命と正命
五つの邪命
Tatra, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti. Kathañca, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti? Micchāājīvaṃ ‘micchāājīvo’ti pajānāti, sammāājīvaṃ ‘sammāājīvo’ti pajānāti; sāssa hoti sammādiṭṭhi. Katamo ca, bhikkhave, micchāājīvo? ①Kuhanā, ②lapanā, ③nemittikatā, ④nippesikatā, ⑤lābhena lābhaṃ nijigīsanatā [nijigiṃ sanatā (sī. syā. kaṃ. pī.)] – ayaṃ, bhikkhave, micchāājīvo.
Katamo ca, bhikkhave, sammāājīvo? Sammāājīvaṃpahaṃ, bhikkhave , dvāyaṃ vadāmi – atthi, bhikkhave, sammāājīvo sāsavo puññabhāgiyo upadhivepakko; atthi, bhikkhave, sammāājīvo ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo.
「比丘たちよ、このなかで正見が最初にくる。では、比丘たちよ、どうして正見が最初にくるのか。邪命を邪命と知り、正命を正命と知っているとき、その人は正見をしている。
では、比丘たちよ、邪命とはなにか。①詐欺、②甘言、③仄めかし、④人を貶めたり、⑤利益の貪りを追求すること――比丘たちよ、これが邪命である。
では、比丘たちよ、正命とはないか。比丘たちよ、正命もわたしは二つ説く。比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正命』があり、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正命』がある。
Ājīvaha(命)は生活・設計という意味ですから、職業・仕事のことになります、
正見は邪命と正命を区別して、その結果として五つの邪命を上げています。
①Kuhanā 詐欺
パーリ語の意味は、微妙にからくりして生活すること。仕事などはやる気がないのに、やる気があるように見せかけるなど、微妙な日常のウソのことです。
②lapanā 甘言
言葉巧みに騙す、相手が気に入るような甘い言葉を操ること。
③nemittikatā 仄めかし
暗示などで人を操る
④nippesikatā 人を貶める
ある種の詐欺、人の弱みや恐れに溶け込む詐欺のこと。
⑤lābhena lābhaṃ nijigīsanatā 利益の貪りを追求すること
自分は高い利得を貪り求め、相手を少量の利得で騙して自分が利得を得ること。あなたは儲かりますよと言いながら、結局は自分が儲けていること。
世俗間の邪命
Katamo ca, bhikkhave, sammāājīvo sāsavo puññabhāgiyo upadhivepakko? Idha, bhikkhave, ariyasāvako micchāājīvaṃ pahāya sammāājīvena jīvikaṃ kappeti – ayaṃ, bhikkhave, sammāājīvo sāsavo puññabhāgiyo upadhivepakko.
比丘たちよ、『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正命』とはなにか。比丘たちよ、いま聖なる弟子が邪命を捨てて正命によって生活を営むとする。比丘たちよ、これが『有漏の、功徳の部分であり、素因の果となる正命』である。
正命も二種あります、善行為で善いカルマを積んで、輪廻が続いても幸福になる俗世間の正命と、出世間の正命です。
俗世間の正命とは、悪い仕事をしないで善い仕事をして生活する。これは常識の範囲でいいです。つまり俗世間の命とは仕事のことです。
出世間の邪命
Katamo ca, bhikkhave, sammāājīvo ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo? Yā kho, bhikkhave, ariyacittassa anāsavacittassa ariyamaggasamaṅgino ariyamaggaṃ bhāvayato micchāājīvā ārati virati paṭivirati veramaṇī – ayaṃ, bhikkhave, sammāājīvo ariyo anāsavo lokuttaro maggaṅgo.
では、比丘たちよ、『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正命』とはなにか。比丘たちよ、心が聖なる、無漏の心の者、聖道に達し、聖道を修めている人が、邪命を中止すること、終えること、絶つこと、やめること――比丘たちよ、これが『聖なる、無漏の、出世間の、道の部分である正命』である。
出世間の正命は命の意味が「仕事」ではなく「生きる」に変わります、私達はなぜ生き続けるのか、生きる衝動「サンカーラ」があるからです、この衝動が正命となります、すでに生きることは苦であると分かり、輪廻に対する愛着を捨てて、解脱を目指し活発に修行を続ける、生き続けたいというエネルギーはエネルギーとしてあるのですが、生き続けたいという気持ちは無色透明になる。この段階で出てくるのがmicchāājīvā ārati virati paṭivirati veramaṇī邪命を中止すること、終えること、絶つこと、やめること、間違っている者から離れるということです。
正命と三のもの(法)
So micchāājīvassa pahānāya vāyamati, sammāājīvassa upasampadāya ; svāssa hoti sammāvāyāmo. So sato micchāājīvaṃ pajahati, sato sammāājīvaṃ upasampajja viharati; sāssa hoti sammāsati. Itiyime tayo dhammā sammāājīvaṃ anuparidhāvanti anuparivattanti, seyyathidaṃ – sammādiṭṭhi, sammāvāyāmo, sammāsati.
邪命を捨てよう、正命を備えようと努力するとき、その人は正精進をしている。注意して邪命を捨て、注意して正命を備えているとき、その人は正念をしている。こうしてこの三つのもの、すなわち、正見、正精進、正念が正命につきしたがい、ついてまわる。
超越したレベルで正命と正精進と正念がセットで回転する。正見は邪命と正命を区別する。そこで邪命が正命を完成させようと精進する、それとともに、きづきで邪命をやめて正命に達する。この3セットは回転する。3セットは正命・正精進・正念で、その3つが正命を回転させる。
10 有学と無学
正見が最初にくる・今までのまとめ
Tatra, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti. Kathañca, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti? Sammādiṭṭhissa , bhikkhave, sammāsaṅkappo pahoti, sammāsaṅkappassa sammāvācā pahoti, sammāvācassa sammākammanto pahoti, sammākammantassa sammāājīvo pahoti, sammāājīvassa sammāvāyāmo pahoti, sammāvāyāmassa sammāsati pahoti, sammāsatissa ①sammāsamādhi pahoti, sammāsamādhissa ②sammāñāṇaṃ pahoti, sammāñāṇassa ③sammāvimutti pahoti.
「比丘たちよ、このなかで正見が最初にくる。では、比丘たちよ、どうして正見が最初にくるのか。比丘たちよ、
正見をしている人から正思惟が生じる。正思惟をしている人から正語が生じる。
正語をしている人から正業が生じる。正業をしている人から正命が生じる。
正命をしている人から正精進が生じる。正精進をしている人から正念が生じる。
正念をしている人から①正定が生じる。正定をしている人から②正智が生じる。
正智をもっている人から③正解脱が生じる。
一応のまとめです。
正見がある人には、正思惟はできる。正思惟がある人には、正語ができる。正語がある人には、正業ができる、正業がある人には、正命ができる、正命がある人には、正精進ができる、正精進がある人には、かならず正念がある、正念があれば、
①sammāsamādhi 正定
正しいこころの統一。正定がある場合は、
②sammāñāṇaṃ 正智・正智
正しい智慧がおきます。正慧がある人には、
③sammāvimutti 正解脱
正しい解脱が成り立ちます。
有学と無学
Iti kho, bhikkhave, aṭṭhaṅgasamannāgato ④sekkho [aṭṭhaṅgasamannāgatā sekhā paṭipadā (sī.), aṭṭhaṅgasamannāgato sekho pāṭipado (pī. ka.) ( ) natthi sī. syā. kaṃ. pī. potthakesu], dasaṅgasamannāgato arahā hoti. (Tatrapi sammāñāṇena aneke pāpakā akusalā dhammā vigatā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti).
比丘たちよ、このように、④有学の修行中の者は[正見から正定までの]八つの項目を備えており、阿羅漢は[正見から正解脱までの]十の項目を備えている」
④sekkho 有学は、まだ学ぶものが残っているという意味。八つの項目で成り立ちます。無学は、学ぶものは無いという意味で、阿羅漢(悟った人)のことです、sammāñāṇaṃ正智・正智とsammāvimutti 正解脱を加えて、十の項目なります。
不善法の破壊と善法の成就
Tatra, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti. Kathañca, bhikkhave, sammādiṭṭhi pubbaṅgamā hoti?
Sammādiṭṭhissa, bhikkhave, micchādiṭṭhi①nijjiṇṇā hoti. Ye ca ②micchādiṭṭhipaccayā ③aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. Sammādiṭṭhipaccayā aneke kusalā dhammā ④bhāvanāpāripūriṃ gacchanti.
「比丘たちよ、このなかで正見が最初にくる。では、比丘たちよ、どうして正見が最初にくるのか。
比丘たちよ、正見をしている人には邪見が①破壊している。②邪見を縁として③多くの悪い不善法が生じるが、それらもかれには破壊している。正見を縁として生じる多くの善法が④修習の成就に至る。
正見が先頭になり、正見により、邪見が腐敗して壊れていきます。
①nijjiṇṇā hoti 破壊している
衰えてしまう、腐敗する
②micchādiṭṭhipaccayā 邪見を縁として
邪見によって現れる。
③aneke pāpakā akusalā dhammā 多くの悪い不善法
あらゆる不善のこと、悪いこと。
邪見によってあらゆる不幸、悪いことが生じる、その邪見も正見により、壊れ、錆びて、腐敗していく、それから正見によって、あらゆる善が完成します。
④bhāvanāpāripūriṃ 修習の成就に至る。
人格が向上し完成します。
Bhāvanāは瞑想と一般的に訳して、日本語の訳では伝統的に修習と訳していますが、パーリ語の語義は、向上の実践、人格の完成という意味になります、本来は成長するという意味ですから、向上が明確な日本語に思います。
不善法の破壊と善法の成就
Sammāsaṅkappassa, bhikkhave, micchāsaṅkappo nijjiṇṇo hoti
Ye ca micchāsaṅkappapaccyā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. Sammāsaṅkappapaccyā ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti
比丘たちよ、正思惟をしている人には邪思惟が破壊している。邪思惟を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正思惟を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
正思惟があれば、邪思惟が腐敗していく。そして邪思惟によって現れる一切の悪行(不善法)が腐敗してしまう。それから、あらゆる善行為が完成して、人格向上も完成する。
不善法の破壊と善法の成就
sammāvācassa, bhikkhave, micchāvācā nijjiṇṇā hoti
Ye ca micchāvācapaccyā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. Sammāvācapaccyā ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti
sammākammantassa, bhikkhave, micchākammanto nijjiṇṇo hoti
Ye ca micchāājīvapaccyā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. sammākammantapaccyā, ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti
sammāājīvassa, bhikkhave, micchāājīvo nijjiṇṇo hoti
Ye ca micchāājīvapaccyā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. sammāājīvapaccyā, ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti
sammāvāyāmassa , bhikkhave , micchāvāyāmo nijjiṇṇo hoti
Ye ca micchāvāyāmapaccyā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti sammāvāyāmapaccyā ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti
比丘たちよ、正語をしている人には邪語が破壊している。邪語を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正語を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
比丘たちよ、正業をしている人には邪業が破壊している。邪業を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正業を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
比丘たちよ、正命をしている人には邪命が破壊している。邪命を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正命を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
比丘たちよ、正精進をしている人には邪精進が破壊している。邪精進を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正精進を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
次に正語によって邪語が腐敗し、邪語が原因で生まれるすべての悪も腐敗する。そして正語から生まれる善を満たして人格向上も完成する。その次に正業によって邪業が腐敗し、邪業から生まれる悪もなくなり、善も完成して人格が向上する。また正命によって、邪命が腐敗し、邪命によって生まれる不善もなくなり、善が完成して人格も向上する。さらに正精進によって、間違っている精進が腐敗する。間違っている精進によって生まれるあらゆる不幸が、悪が腐敗する。その代わりに、正精進によって、あらゆる善が満たされた人格向上も完成する。
11 邪念と正念
邪念と正念
sammāsatissa, bhikkhave, micchāsati nijjiṇṇā hoti
Ye ca micchāsatipaccyā aneke pāpakā akusalā dhammā sambhavanti te cassa nijjiṇṇā honti. Sammāsatipaccyā ca aneke kusalā dhammā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti
比丘たちよ、正念をしている人には邪念が破壊している。邪念を縁として、多くの不善法が生じるが。それらもかれには破壊している。正念を縁として生じる多くの善法が。修習の成就に至る。
次に正念によって邪念が腐敗する。正念と邪念の区別は科学で新発見があると以前の科学的な真実が間違いになるようなことが起こります、これはデータが不十分な為に起こることです。科学者は感情的でいい加減な結論を出しているわけではないですが、これは避けられないことです、このようにデータが不十分なのに結論に達することも仏教では邪念とします。
瞑想では眠気や集中していない状態を、こころが穏やかになっている、禅定に入っていると勘違いし。瞑想が進んで世間に対して興味がなくなってくると、私には煩悩がない、悟っているのでないかと、きづく、これが邪念です。
きづきを間違えて、悟ったと勘違いすれば、精進しなくなり成長は止まります、お釈迦様はそれで、正見・正精進・正念の3セットをとても気をつけて語っています。
手に入る不十分なデータで結論に達する科学者のように、自分で考えた結論は間違いとおもうのが無難です、真理を発見したと思ったら、新発見で以前の真理は書き換えられます。しかし、仏教の悟りは、完全なデータが揃う必要があります、正念によって、現象のありのままの姿を完全に発見すると、正慧と正解脱がおのずと起こります。