一休宗純モノを描いたのは、一休を描くためにあらず
難しい素材のひとつ、一休宗純。
トンチ小坊主の東映動画みたいなものなら気持も晴れるが、描く場合、どうしても大人の一休さんになってしまう。ETVのアニメみたいに、ぶっとんだことも出来ず、史実遵守で暗くて重くて説教臭い類いにもしたくない。
公案。
禅宗で修行僧が参究する課題について、問答、または問題を指す。
まるで、自分が突き付けられるような心地だった。
その取り組みは以前から行なった。賞に出してもみたが、一休を知らぬというくらいに酷評されて落ち込むこともあった。
それでも、手直ししているうちに、気がついた。
一休を描くつもりが、
「これは一休に救済される物語だ」
と。
作品は令和4年の槇で公開されました
この号については、小説思潮でも評価された。皆様の実力の賜物です。
読者は地獄太夫の目線であり、救済を求めているのも地獄大夫。
一休宗純はあくまでも理性と自我を導く柱のような存在に描いている。越えている、遠い存在。この時代の異端の象徴であり、救済されるのはあくまでも地獄太夫なのだ。
迷える、狂える、大人の一休像を描くには
掌編では不可能ですので
でも、一休宗純はどっぷりと描いてみたい魅力がある。
夢酔も狂っている。世の中も狂っているし、なにが狂っていないのか、誰にも分からないじゃない。だからこそ、一休のように狂いたい。
狂った先に、なにかしらの真理が見えたら幸せかもしれないし、
不幸かもしれないけど……。。。
聞きしより見て恐ろしき地獄かな
一休宗純
しにくる人の落ちざるはなし
地獄太夫
この掛け合いに導くためだけの掌編でした。
槇の会
興味のある方は、ちょっかいを出して下さい。
夢酔は故遠山あき先生が創設した場ということと、乾浩先生が会長という理由で、千葉県星人ではないけど末席に置いて頂いております。でも、常に尻に火がつく心地で、新しい作家の胎動にもドキドキさせられています。
至極ですよね。