魔斬
第8話 安政奇譚⑧
安政五年もそろそろ暮れる。
南北奉行所の御用納めは師走の三十日であるが、罪人の仕置の仕事は二十日までとされていた。
ただ、世が世である。
盗人や人殺し等は御牢に留め置かれたが、攘夷思想の者たちは、寸刻置かずに処刑されていった。これらの仕置は、正式な手続きを踏まず、山田浅右衛門の手を患わせるものではなかった。
よって、山田浅右衛門のこの年の御用納めは、例年通り、南北奉行所務めの者たちに先んじたものになった。これより三十日までの数日間、山田浅右衛門は家伝の秘薬を調合して売りに出す。
これがまた、実によく売れるのだ。特に皸の薬はよく売れた。
薬の成分は、〈人の脂〉である。
これを気味悪がる者も多い。が、その効能はずば抜けてよかった。じっくりと時間を掛けて擦り込んで、三月もしないで皸が治った者さえいた。次に売れたのは、やはり〈人の肝〉から精製した万病薬であろう。どれも高価な品物だ。が、金に糸目をつけず、買い占めていく大名家も少なくない。
仕置を済ませたのち、浅右衛門は死体を貰い受けて蔵に保管していた。御公儀公認の役得である。だから山田家の蔵には、相当な数の首なし死体が貯蔵されていた。
ちなみに死体の使途は、薬の精製だけではない。諸藩で試斬りをするときなどは、ここの死体が用いられるのである。
刀の切れ味を試すのは、人に限る。実際に人を斬らねば、その切れ味は判らない。諸藩でそれをしたくとも、死体を所有することは出来ぬ。御定法で許されないことになっているのだ。かといって、生きた人間を斬るのは辻斬りになる。わざわざ罪を犯すわけにもいかず、そこで、浅右衛門に商談が持ち掛けられるのだ。
この躯の胴を、隠語で〈わら〉という。これもまた、高額で取引された。この穢れから得る所得が、山田家を支えていた。
こういう金の出入が激しい家には、それを取り纏める内儀が必要である。山田浅右衛門にも妻女がいる。普通の家の奥を守るように、その妻女が台所をしっかりと仕切っていた。ともすれば散財しがちな浅右衛門に、目配り気配りをさりげなくこなす、実に過ぎた奥方様であった。
それにしても
「よくも首斬り屋敷に嫁入る者がいる」
と、余人は散々陰口を囁く。
が、この家は裕福なのだ。
過去、山田浅右衛門は縁談に困る事はなかった。いずれも欲の皮の突っ張った貧乏旗本の家からの申入れである。が、そんな邪な婚儀が、長持ちする筈がない。そういう経緯で嫁入りした女は、なぜか一ヵ月も経たずに死んでしまうのだ。
山田家は代々人の死で支えられた御家。それを弁えぬ者に、天は自ずと罰を下すのかも知れない。
これは、山田家の不思議である。
そんな婚儀ばかりを繰り返せば、どんな欲張りでも怖気付く。浅右衛門だって、そうだ。もう、何人の嫁を野辺送りにしたことか。誰だって、婚儀は御免だという心境になる。当然だ。
「でもな、女房は必要なんだよ」
それも真実だ。だから器量よしや、業突く張りは結構だ。浅右衛門は腹いせのように、不器量で嫁にも行きそびれたような、器量なしの醜女を、わざわざ望んで妻とした。
それがいまの妻・貞である。
元々行く宛てもない貞だ。
「こんなところでもお役に立てるのなら」
と、不貞腐れたように渋々と山田家に嫁いできた。
しかし世の中は奇妙なものだ。あれだけ因果の巡る山田家のお内儀の座、渋々と輿入した彼女は、十年以上経っても未だ元気で、何事もなく生きているのである。
「悪い夢とか、見ねえか?」
「いえ、ぐっすりと」
これまでのことが嘘のようだ。しっかり子も産み育てているのだから、まことに以て、不思議だった。
今年も年越しの支度に追われて、山田家の台所は戦場だ。が、彼女は泣き言ひとつ云わず、いつものように黙々と働いていた。そんな寡黙な妻だから、使用人たちも無口な者が多い。黙々と働くその姿が却って不気味で、やはり口さがない噂が世間を駆け巡った。
「使用人は、皆死体」
「首がないから声もなし」
首斬り屋敷と囁かれる家には、何やらしっくりくる噂ではあった。冗談ではあったが、冗談と笑えぬ重さが付きまとう。
これが、山田家の年の瀬だった。
大晦日になると、浅右衛門は家伝の薬売りの看板も下ろして、禊となる個人的な行事を行なった。
刑場巡り、である。
そんなこと、所詮は自己満足でしかない。しかし、これをやっておかないと、一年の穢れが払えない。そんな気がするのである。
欠かさぬ日課の素振り千回ののち、冷たい井戸水を頭から被り身を清めると、山田浅右衛門は近所の酒屋へ赴き、角樽を購入して大通りに立つ。そこで駕籠を拾うのだ。
駕籠舁の間では、これを〈大晦日の首斬り浅〉と呼ぶ。
頂ける駕籠賃は破格であったが、如何せん刑場巡りである。多くの辻駕籠は浅右衛門との関わりを断るため、その日は山田家に寄りつこうとはしない。しかし、宵越しの金を持たぬ江戸っ子でも、先立つものがない不安は否めなく、わざわざやってくる酔狂な駕籠舁もいるのだ。
今年も、そんな若い駕籠舁が、浅右衛門の呼び掛けに応じた。
「小塚原へ」
浅右衛門の乾いた声に、駕籠舁は威勢のいい声で応じた。彼らの空威勢は、しかし千住の宿場から逸れて鬱蒼とした森のなかへ入ると、次第に失せていった。
焼香と烏の鳴声に包まれた空間が、竹垣で囲われ広がっている。三尺高い台のうえには、五日も前に仕置された攘夷派武士の御級が晒されていた。駕籠舁は蒼白い顔をしながら、ゆっくりと駕籠を下ろした。
「暫しこのままで、直ぐに戻る」
浅右衛門は角樽を片手に、ゆっくりとした足取りで、斬首場へと歩いていった。この土壇場の白洲は、今年もたっぷりと罪人の血を吸ってきた。誤った御裁きで罪もない生命を奪ったかも知れない。そんな人々の想いが、この一年、白洲にはたっぷりと染み込んでいる。
(酒でも呑んで、成仏せえ)
そう呟いて、浅右衛門は角樽を傾け半分だけ酒を捲いた。こうして暫しの間、浅右衛門は首斬り稼業の懺悔をするのである。
その待たされている時間、駕籠舁たちは生きた心地もなく、ただ金のためだと、己に云い聞かせていた。目の前の獄門首が
(いつ睨んで笑うだろうか……!)
そんな事ばかりを考えて、早く浅右衛門が切り上げないものかと、ガタガタと震えながら、ただそれだけを待つのである。
「待たせたな」
浅右衛門が再び駕籠に乗った。
「今度は、鈴ヶ森へ」
駕籠はそのまま品川へ向かった。江戸府内の往来を行く間は、駕籠舁たちも威勢がいい。
潮の香が漂ってくると、間もなく海蔵寺の門前である。半里も下れば、そこが鈴ヶ森だ。ここは、小塚原の鬱蒼とした様相とは異なり、海に面しているため明るい。浅右衛門は残りの酒を首斬場に注いで、合掌した。ここには曝し首こそなかったが、お世辞にも気分のいい場所ではない。
「恐ぇなあ」
「もうちょっとの辛抱だ」
駕籠舁はガタガタと震えながら、早く用件が済むのを待った。
そして、ようやく
「待たせたな」
山田浅右衛門が戻ってきた。
「もう、しめえですよな」
「ああ、次は……」
「ええ!」
「冗談だよ。これですべてが済んだ。さてと……帰るとするか」
浅右衛門は笑みを浮かべた。