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喜連川逍遥

電車内の吊りポスターで温泉付別荘とかの広告で目にする喜連川。正直、足を運ぶまで、どういう場所か想像もしなかった。そこは、足利家ゆかりとは云うものの、どこか昭和の臭いも残る野州の城下町だった。
 
この地は平将門や奥州の乱にも関わる古い武士の歴史があり、南北朝動乱の足跡も刻まれている。戦国末期、豊臣秀吉の小田原征伐の頃。このとき喜連川の塩谷惟久が秀吉を恐れ、服さずに出奔した。喜連川町史によれば、重臣・岡本讃岐守が秀吉に謁見し塩谷領を得たので主を追ったという記述もある。どちらにせよ塩谷惟久は秀吉に申し開きもなく、家族を置き去りにして出奔した。
塩谷惟久の正室・嶋子は小弓公方家の足利頼淳の娘である。
小弓公方は当時、存在しない。第一次国府台合戦で討死にした小弓公方・足利義明の遺児を庇護したのは、安房の里見義堯である。遺児のひとり足利頼淳は、客分として里見家で成人し佐野晴綱娘と婚姻して、やがて次々と子を設けた。里見家は関東の秩序である足利家再興を望んでいたようである。
秀吉に応じて小田原へ向かった里見義康は、江戸湾より三浦半島に上陸した際、ひとつの禁制を出している。
 
   野日之村放火之跡、鎌倉御再興御為ニ候間、当手之軍勢濫妨
    狼藉、堅令停止畢、
   右之旨、至于違犯之輩者、可処罪科者也、仍如件、
                         (最宝寺文書)
 
これが惣無事令違反とされ、里見家は上総領を召し上げられた。
小田原開城は天正一八年(1590)七月五日。秀吉は七月二六日から八月四日まで宇都宮城に留まり、一〇日を要して会津黒川城を経由して一四日に宇都宮城に戻った。増田長盛宛山中長俊文書によれば《宇都宮に御座候姫君様は、御上洛候哉》とあり、時期は八月一四・一五日と推察される。このとき出奔した夫・塩谷惟久の弁明のため、嶋子は秀吉を訪れた。これにより喜連川三八〇〇石が嶋子に赦された。が、こんなに気前のいい話はあるだろうか。察するに、色好みの秀吉が、美貌で知られる嶋子の躰を所望したのだろう。いや、或いは逆かも知れない。歴史は〈閨から動く〉の例えは、飛躍した想像だろうか。事実、こののち嶋子は秀吉の側室に列することとなるのだから、あり得ない話ではない。嶋子は三八〇〇石の領地を辞退した。代わりに小弓公方家の再興を願い出たことは、間違い。
古河公方家は当時、男子がなく女性当主だった。後世〈氏姫〉とされる女性と足利頼淳の子・国朝を、秀吉は娶せることとし、喜連川で独立させた。名族の足利氏が滅亡することを惜しんだという美辞麗句は、秀吉にとっても都合がいい。肥前名護屋へ向かう国氏が道中で急死すると、安房国石堂寺に出家する足利頼淳の次男に白羽の矢が立った。還俗した彼は頼氏を名乗る。喜連川足利氏の初代だ。。喜連川足利氏は徳川の時代を生き、明治を迎えたときに、再び足利氏に復姓した。庇護に努めた里見氏は大坂冬の陣の年に安房を追われ、やがて伯耆国倉吉で宗家が滅んだ。二〇二二年はその四〇〇年目の節目である。
 
喜連川氏の黎明期は、歴史の変わり目だった。それはまさに、ドラマチックという一言に尽きる。その内なる激しさを象徴する長閑き城下町には、まだまだ静かな物語が眠っているように思えてならない。


この話題は「歴史研究」寄稿の一部であるが、採用されていないので、ここで拾い上げた。戎光祥社に変わってからは年に一度の掲載があるかないかになってしまったので、いよいよ未掲載文が溜まる一方。
勿体ないから、小出しでnoteに使おう。
暫くはネタに困らないな。
「歴史研究」は、もう別のものになってしまったから。