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房総の震災模様を……延宝地震編

これまで震災の大きさを、登場人物目線で描ける小説は、幕末以前では天正伏見地震や元禄大地震くらいだろうか。
房州日日新聞連載作品「真潮の河」、第二部締め括りの第14話から、史実に寄り添ったカラーが濃厚になっていく。そのひとつが、14話のクライマックスで展開していく〈延宝地震〉。

作中へこの内容を盛り込むために読み込んだ文献や資料は次の通り。
多分、興味のある人は一瞥した覚えがあるだろう。

◇「平成25年3月 内閣府(防災担当)1703元禄地震報告書」
                内閣府政策統括官(防災担当)・編
◇「防災誌元禄地震 ―語り継ごう 津波被災と防災―」
                千葉県総務部消防地震防災課・企画発行◇「東京大学地震研究所彙報
  元禄・大正関東地震津波の各地の石碑・言い伝え」
                  地震研究所 羽鳥徳太郎・著
◇「延宝5年(1577)房総沖地震津波の経験は
  元禄16年(1703)関東地震の津波死者を減らすのに
  役立ったか?」 津波工学研究報告第32号(2015)
                         郡司嘉宣・著

正式名称は「延宝房総沖地震」という。
ウェキペディアに簡潔な説明があるので参照されたし。

延宝房総沖地震は強い揺れを伴わず、大きな津波が押し寄せる「津波地震」とみられている。しかし、詳しい地震像は解明されていない。
東北沖~房総沖の太平洋に延びる「日本海溝」沿いで延宝5年(1677)10月9日(新暦に換算して現在の11月4日)午後8時ごろに起きた地震。それが延宝房総沖地震である。
死者は500人余り。津波の来襲状況を書き留めた史料は残るが揺れはあまり大きくなく、震度4程度だったとみられている。このため、陸地に近い海域で起きたマグニチュード6程度の地震という見方もされる。政府・地震調査委員会は、海溝寄りの三陸沖~房総沖の範囲内で過去400年に4回起きたM8級の津波地震のひとつだと位置付けている。(神奈川新聞参照)

作中の状況。
安房勝山藩(現:千葉県鋸南町)は外海ではなく江戸湾に面した港町。この震災による被災状況は、具体的なものが見出せない。2018年11月14日付産經新聞の記述によれば、最大津波水位(9.1m)の到達時間が最も早い3分到達とされるのが鋸南町。すなわち作品舞台である。
被災時間は現代と異なり無灯火の闇。
着のみ着のまま、先ずは高いところへと登る。迅速に、一刻も早く、手を取り合って生き延びることを優先された。港町の知恵は、こういう原点を怠らぬ。
前回までで浪井源治は紀州沖台風に巻き込まれ頭部強打で記憶喪失。醍醐新兵衛宅内の旧石井道場で寝かされていた。そこに被災、酒壺で頭を強打して朧げに記憶が戻る渦中。誰もが高台へと避難を開始していた。
という処。

このときの避難できる高い場所は、撮影箇所の大黒山をはじめとしたもの。勝山藩は向かいの旧勝山城址である八幡山と考えられる。出刃組や岩井の衆はその奥の山だろう。

津波が押し寄せる様が眼下の景色に重なるときの衝撃は、東日本大震災の報道映像で察するに余るのではないか。
そして、これは江戸時代に実際起きた天災の、ごく一つの事例に過ぎず、こののちも勝山は、捕鯨の富と天災の厄のふたつを海から得ていく。
そして、このことは昔話ではなく、未来予想図にもつながる。
喉元過ぎて熱さを忘れること。
日本人の得意技だ。

https://www.town.kyonan.chiba.jp/uploaded/attachment/4972.pdf

「真潮の河」は第三部に入ると、グッと史実の事象や事件が物語に絡みついて、壮大な群像劇へと広がっていく予定です。

こうご期待。