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べらぼうに楽しい浅草寺

江戸の庶民にとってオアシスである浅草寺。その北には、2025年大河ドラマで画期的に描いた新吉原があった。

『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の創建の由来は以下の通りである。
推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網に、なんと仏像がかかった。これが、浅草寺本尊の聖観音像であるという。兄弟の主人である土師(はじの)中知は出家して自宅を寺に改め、この観音像を供養した。これが浅草寺の始まりとされる。
その後、大化元年(645)。勝海という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。現在、像は公開されることがない秘仏であるため、その実体は明らかでないと伝わる。
天安元年(857)。※天長5年(828)説もあり
比叡山延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」の観音像を造った。これは秘仏の代わりに、人々が拝むための像である。これをして浅草寺は勝海を開基、円仁を中興開山と称している。
天慶5年(942)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備した(伝承)。このときに雷門、仁王門(現・宝蔵門)などが創建されたといわれる。

文献上における浅草寺の初見は『吾妻鏡』。治承5年(1181)、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し浅草から宮大工を呼び寄せた記述がある。『吾妻鏡』は一次資料としての信憑性が強く、事実であると考えて間違いはないだろう。
正応3年(1290)、後深草院二条の『とはずがたり』には浅草寺に参詣した時の様子が描写されているので、これも楽しめると思う。

天正18年(1590)、徳川家康は江戸入府にあたり浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。貞享2年(1685)、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。
江戸時代中期になると、奥山と呼ばれる区域で大道芸などが行われるようになった。これにより境内は庶民の娯楽の場となった。
近代以降、浅草は庶民の娯楽場として発達した。明治6年(1873)、境内が「浅草公園」として公園地指定を受ける。明治18年(1885)、仲見世が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わり、明治23年(1890)には商業施設と展望塔を兼ねた通称「浅草十二階」。12階建てのビル「凌雲閣」が完成する。関東大震災では浅草区の大半が焼失する被害が出た。凌雲閣もぼっきりと折れてしまう。しかし浅草寺では、地元の鳶職の親方が境内の避難民を巧みに指揮し、バケツリレーによる防火作業を行ない一部建築物の延焼で被害を食い止めた。

秘仏本尊とされる聖観音像は、長期間にわたって実際に見る者がなかった。そのため明治2年(1869)、役人が来て調査を行ったとされる。罰が当たると畏れ多い江戸っ子とは異なり、薩長の成り上りは不遜なものだ。
このときは政府神祇官の役人10人が浅草寺へ乗り込み、勅命ということで改めの儀を強行した。これにより、たしかに秘仏本尊は存在していることが明らかになった。


境内には様々な人物の碑があるのも、散策として面白い視点。こちらは初代中村吉右衛門、決して鬼平を演じた方ではない。初代 中村吉右衛門は明治19年生まれで昭和29年に亡くなった。明治末から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者である。
初代の娘が、初代 松本白鸚の奥さんである。松本白鸚は七代目松本幸四郎の次男。二代目中村吉右衛門はこの松本白鸚の子。
ああ、松本幸四郎と中村吉右衛門の家縁はそういうことかと、納得頂けますでしょうか。

そんな歌舞伎界の足跡にも触れることができる、浅草寺です。